
池水は濁り太宰の忌の来れば
私淑したりし兄を想ふも・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
今日6月13日は小説家・太宰治の忌日である。
昭和23年6月13日、彼は山崎富栄と三鷹上水に入水、同月19日に遺体が発見されたので忌日は今日だが、毎年墓のある禅林寺で行われる「桜桃忌」は19日になっている。
この歌は私の長兄・庄助が私淑していた太宰に、昭和18年に死んだ時に「療養日誌」を送り、それを元に太宰の『パンドラの匣』が書かれたことを意味している。
歌の冒頭の「池水は濁り」のフレーズは、太宰が入水に際して、仕事場の机の上に書き残して置いた、伊藤左千夫の歌
池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨ふりしきる
に由来している。
この年は雨の多い梅雨で、太宰が、この伊藤左千夫の歌を引用した心情が、よく理解できるのである。

↑ 太宰治
太宰治のことについては、ここでは特別に触れることはしないが、『パンドラの匣』のモデルが兄であることは作品の「あとがき」にも明記されているし、
全集の「書簡集」にも兄と太宰との交信の手紙や兄の死に際しての太宰の父あての悔み状などが掲載されている。
写真①は2005年末に次兄・重信の手で上梓された、亡兄・庄助の『日誌』である。
この本については私の2009/04/17付けの記事に詳しい。
太宰治研究家で私宅とも親交のある浅田高明氏が「解説」を書いていただいた。
太宰研究者は、この本に書かれているようにたくさん居るが、兄の「療養日記」と「パンドラの匣」の、モデルと小説との異同や比較研究は浅田氏の独壇場であり、太宰研究者の中では知らぬ人はいない。
これらに関する浅田氏の著書は4冊にも上る。詳しくはネット上で検索してもらいたい。
「木村庄助」については ← のWikipediaの記事に詳しい。写真も見られる。
兄は昭和十八年に亡くなっているので、太宰治の晩年の「無頼」な生活は知らないのは良かったと思う。
兄・庄助は、そんな無頼に憧れていたのではないからである。
太宰治については、このBLOGでも何度か書いたので詳しくは書かない。
この歌の前後に載っている私の歌を引いておく。
宿痾なる六年(むとせ)の病みの折々に小説の習作なして兄逝く
私淑せる太宰治の後年のデカダンス見ず死せり我が兄
座右に置く言の葉ひとつ「会者定離」沙羅の花みれば美青年顕(た)つ
立行司と同じ名なりし我が祖父は角力好めり「鯱ノ里」贔屓(ひいき)
我が名をば与へし祖父は男(を)の孫の夭死みとりて師走に死せり
「桜桃忌」という季語も存在しているので、それを詠んだ句を引いて終わりたい。
太宰忌の蛍行きちがひゆきちがひ・・・・・・・・石川桂郎
太宰忌やたちまち湿る貰ひ菓子・・・・・・・・目迫秩父
太宰忌や青梅の下暗ければ・・・・・・・・小林康治
太宰忌や夜雨に暗き高瀬川・・・・・・・・成瀬桜桃子
眼鏡すぐ曇る太宰の忌なりけり・・・・・・・・中尾寿美子
太宰忌の桜桃食みて一つ酸き・・・・・・・・井沢正江
濁り江に亀の首浮く太宰の忌・・・・・・・・辻田克己
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画像にして掲出した本『木村庄助日誌─太宰治「パント゛ラの匣」の底本』を編集・出版した兄・木村重信も今年の1月30日に死んでしまった。
うたた感慨ふかいものがある。
かねて私は重信の「影」を自認してきたので、未だに、その死のショックから立ち直れずに居る。 そんな昨今である。
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