
白炎天鉾の切尖深く許し・・・・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子
京都の「祇園祭」は7月17日の今日、三十数基の山鉾が巡幸する。
数年前からは旧例に戻して今日の「前祭」23基と、7月24日の「後祭」10基に分けて巡行されることになった。
この頃は梅雨末期で激しい雨が降ることもあり蒸し暑いが、京都では祇園祭が過ぎると梅雨が明けると言われているが、今年はどうだろうか。
「貞観大地震・大津波」についての朝廷による公式記録『日本三代実録』のことは歌集『昭和』にも載せたが、
町衆の祭である「祇園祭」も、同年は御霊鎮(みたましずめ)として催行されたと言われている。
掲出の橋本多佳子の句は、スケールの大きい祇園祭を、思念ふかく描いて秀逸である。
丁度そのときは雨が上って夏の太陽が──つまり「白炎天」が照り付けていたのだろう。
だから炎帝が高い長刀鉾の切っ先が空に突き刺さるのを許している、と並の詠み方ではなく、描いているのである。
写真①は鉾の行列の先頭を切る長刀鉾である。

祇園祭も国際化して、写真②の「くじ改め」の塗り箱を指し出すのは外人である。
外人は、こういうイベントに参加できるのが大好きなので、選ばれたことに大感激である。
裃(かみしも)姿で正装して張り切っている。
お断りしておくが、写真は、いずれもネット上から拝借した過年度のものである。
ここで「祇園祭」のことを少し振り返ってみよう。

写真③は巡幸にあたり道路に張られた注連縄を太刀で切る「稚児」である。
この稚児の役は資産家の子供が選ばれ、約1ケ月間、家族と離れて精進潔斎して奉仕するが、家からの持ち出しは大変な金額にのぼるので、誰でもがなれるものではない。
祇園祭は「町衆」の祭と言われる。
この祭は八坂神社の祭礼の一環だが、貞観11年、陸奥では大地震・大津波が襲来し、各地で疫病が流行し都も荒れ果てていた時に町衆が中心になって催行したという。
詳しいことはネット上で検索してみてもらいたい。

写真④は鉾や山の胴体を飾る「胴掛け」と呼ばれるタペストリーなどである。掲出した胴掛けは尾形光琳の有名な「かきつばた」図を忠実に織物にしたもので、これは最近の新作である。古いものではヨーロッパから渡来したタペストリーなども幾つかある。この辺にも当時の町衆の財力のすごさを示している。

写真⑤は四つ角に差し掛かった時に鉾の方向転換の引き綱の様子を上から見たものである。「辻まわし」という。
昔と比べると、巡幸のルートも大きく変わった。昔は四条通よりも南の松原通などを通っていたが、道が狭いので、道路の広い御池通(戦争末期に防火帯として道路を使用する目的で沿道の建物を強制的に引き倒した、いわゆる疎開道路で拡幅されたもの)を通るように、当時の高山義三市長が強引に替えたものだが、今では、これが正解だったと判るのである。
ここで「宵山」と当日の大きな写真を載せておく。


終りに歳時記に載る句を少し引く。
月鉾や児(ちご)の額の薄粧(けはひ)・・・・・・・・曾良
祇園会や二階に顔のうづ高き・・・・・・・・正岡子規
人形に倣ふといへど鉾の稚児・・・・・・・・後藤夜半
鉾の灯のつくより囃子競ひぬる・・・・・・・・岸風三楼
神妙に汗も拭はず鉾の児(ちご)・・・・・・・・・伊藤松宇
大車輪ぎくりととまり鉾とまる・・・・・・・・山口波津女
水打つてまだ日の高き鉾の街・・・・・・・・飯尾雅昭
鉾の上の空も祭の星飾る・・・・・・・・樋口久兵
鉾を見る肌美しき人と坐し・・・・・・・・緒方まさ子
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