
──村島典子の歌──(30)
村島典子の歌「渡嘉敷行」40首・・・・・・・・・・・木村草弥
・・・・・「晶」98号2017/6所載・・・・・・・
渡嘉敷行・・・・・・・・村島典子
ふはふはとましろき真綿敷きのべて春の星あり藍色の星
眼下には雪かづきゐる山のみゆ四国山脈よぎりたるらし
関空の春のあをぞら翔びたちて冷たき雨の那覇に降りたつ
平成29年3月11日、渡嘉敷小中学校卒業式
戻り寒さ(ビーサー)の風雨のつよし体育館に父母在校生祖父母ゐそろふ
小中のたつた八人の卒業生おごそかに前にすすみ出でたり
干潮の昼とはいへど聞こえくる渡嘉敷港に波の打つ音
四月には島を出る子ら中学生ら十五年前この島に来り
島々に星のごとしも星砂の浜に遊びきわが少年も
島の子として育ちたりし七百人の村びとなべてに愛されながら
エイサーに太鼓、三線、チョンダラー名手といはむ主役をつとむ
一分間サイレン鳴りて東北に六年前の午後の至りぬ
*
三月の霧ふかぶかと閉ざしたり渡嘉敷島の自決の谷間
ヒカンサクラまだ咲き残る西山は神の降ります御嶽(うたき)なりにき
霧こむる自決の山に登りきつ冷たき春の雨ふる谷間
鉄扉ひらき入りゆくわれに結界のうちそと何処霧たち籠むる
濡れそぼつ細木の幹にすがりつつ下るその地へ恩納河原に
このやうな狭き谷間に数百の村びと寄りて死をたまひしか
第二次大戦末期、昭和二十年三月二十六日、米兵渡嘉敷島に上陸。
二十七日夜、豪雨のなか、島民は西山A高地に集結さる。翌二十八日、恩納河原にて集団自決に至る。
混乱の地に降る雨の無慈悲なり二三四・二高地の山
大雨の一夜のあけて家族(うから)らはおのが家族を死なしめたりき
手榴弾不発の家族、老人は斧もて孫を妻を殺めき
弱きものより殺したりきと伝はりき阿鼻叫喚の朝来りけり
誰何(すいか) され逃げし少年投降の勧告をもて処刑されにき
八月十六日終戦を知らざりし日本軍に、米兵の舟より伝はる日本語
「兵隊さん長い間ご苦労様でした」。
「生きて虜囚の辱めを受けず」洗脳のはてなる虚しき日を潜みたり
何といふかなしき時代「死にます」と応へざらめや少年のこゑ
狂ひびと防衛召集兵は身重なる妻を案ずるのみに殺されき
壕を掘り身をひそめたる日本軍戦争終結は信じがたかり
白旗をかかげ下れば集落に米軍中佐待ちてありにき
命令を待たねばならぬ、武装解除できぬと若き隊長応へぬ
集団自決を語る老婦のかたりぐち「したら」「してから」子孫(こまご) に伝ふ
*そうしたら、そうだから
*
風雨つよき一夜があけて林道を上がり下りせり少女につきて
琉球松ひくく斜面に生ひ茂る林道半ばに弁当つかふ
轍あとが砂岩となりて凹凸の林道クロスカントリーのさま
てんてんとモウセンゴケの岩肌に生ひて小さき虫を待ちをり
繊毛の赤きちひさき葉にのばす花首ながし虫を呼ぶらし
岩とびて遊べる少女に水溜りの黒きイモリも赤き腹見す
雨ののち若夏(うりずん)の風ふきはじむ岬にきたり紺碧の海
干潮の浜辺のふしぎ地球儀の古地図の黄色き文様あらはる
疾風の崖より見ゆる瑠璃色の渡嘉敷の海、地球のなだり
海溝のふかき紺青に誘はる、鳥にあらずも、魚にあらずも
竜宮より帰りきたりし思ひなり楽浪(さざなみ)の辺に打ち上げられし
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いつもながらの村島さんの、のびやかな詠いぶりである。
ここにも紹介したが、子供さんが嫁いだ渡嘉敷島の戦争末期の悲惨な経験を詠い残しておられる。 稀有なことである。
この歌にも書かれているが「生きて虜囚の辱めを受けず」というのは、東条英機が昭和になってから著した『戦陣訓』に拠るものである。
第一次世界大戦の頃までは日本でも「捕虜」になるのは不名誉なことではなかった。だから戦いでは双方とも多くの捕虜が居たのである。
国際的にも条約で捕虜を保護することが義務であった。
それを、東条らは、無残にも「不可」として、「自死」を強いたのである。
現在の世の中の動きも、看過できない「悪しき」風潮が見られる。 わが国にあっても、アベの振舞いぶりは、とても危険である。 この機会に、敢えて書いておく。
村島さま。 いろいろ教えていただき有難うございました。
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