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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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リバーマン帰る・・・・・・・・・・・・・・・・田村隆一
FI2618506_1E花の町

   リバーマン帰る・・・・・・・・・・・・・・・・田村隆一

雨男のリバーマン、アメリカは中西部
トーモロコシの空間へ帰って行くよ。
「横浜の波止場から
おお 船に乗って!」
二人の娘と、一人の息子を
両脇にかかえて、白熊のような奥さんに、
support されて、イリノイ大学へ帰って行くよ。
早く帰らないと、
ウーマン・リブの女教師に、professor の Position を
とられてしまうぞ、イリノイにはあんまり雨が降らないから
たっぷり、日本の梅雨に濡れて、
おお、青い、つぶらな瞳をうるませて、
躁鬱病のリバーマンは帰って行くよ。
そこでぼくらはお別れパーティ、
鎌倉は、いま入梅で、池はミシガン湖ほど大きくないが、
ボーフラが、ヒョロヒョロわいている。
そこで、ヒョロヒョロ立ちあがり、
ウィスキーに酔っぱらって、
ぼくは、演説したんだ、通訳は、ニークラ。
雨男が鎌倉にやってきたとき、
借家の交渉からガス風呂の修理まで、
ニークラが話をつけたんだ、ドルを、いちいち、
円に換算して、ちょうど、円の切り上げで、
ドルは下った、雨男が泣いた、
雨男は詩人だから、ドルの嘆きの詩を、ニューヨーカーに寄稿した、
原稿料が入ったから、雨男は料理屋へ行ったよ、
日本のPCBがたっぷりはいっている、いきのいいハマチが大好きで、
そこで、板前がたずねたものだ、「お客さん、ご職業は?」
雨男は、鼻をヒクヒクさせて、マイルドな日本語で答えたものさ、
「わたしは、シュジンです」
「へえ、主人?」
「シジンです」
「なーんだ、詩人ですかい」
そこで、ぼくは演説したよ、ヒョロヒョロ、立ち上がって演説したんだ、
「日本じゃ、大学の先生と、言ったほうがいいね、
詩人といったら、乞食のことだ、
中西部とはちがうんだ、あの燃える、
夕日がギラギラ落ちて行く、トーモロコシ畠のまん中で、
ほんとうの詩人とは、腕ぷしの強い農夫のことさ、
日本じゃ、進歩的なヘナチョコ百姓ばかり、アメリカといったら、ベトナム戦争と
人種差別のオウム返しさ、・・・・・・」
ぼくは酔っぱらって、なーんにもわからない
通訳も酔っぱらって、なーんにもわからない
雨男だけ、キョトンのキョンだ キョトンのキョン!
さ、元気で!きみたちの一路平安を祈る!
日本のことなんか、忘れてしまえ!
あばよ、カバよ、アリゲーター!
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田村隆一は「荒地」派の詩人として有名な人だが、短い詩が見つからないので長い詩の紹介になった。
今日、8月26日は田村隆一の忌日であるので、それに因んで彼の詩を載せる。

以下は、彼を敬愛する人・山田耕平氏のサイトを転載する。
ここには、年譜と、いくつかの面白いエピソードも書かれている。

言葉のない世界

このページは,詩人・田村隆一氏の業績を研究・紹介するため,個人的に作成したものです。
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年譜
田村氏の死に関する各氏のコメント
このページの作者(山田)の感想
田村隆一氏のサイン
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年譜

1923年 3月18日,北豊島郡巣鴨村字平松に生まれる。家業は「鈴む良」という鳥料理専門店。
9月1日,関東大震災。母に抱かれて裏の竹薮に避難する。
1929年 仰高西尋常小学校に入学。
1935年 東京府立第三商業学校に入学。
1938年 西脇順三郎『Ambarvalia』を読む。級友とともに企画し,詩誌「エルム」創刊。
1939年 中桐雅夫編集の「ル・バル」に参加し,鮎川信夫,森川義信,衣更着信,
三好豊一郎,牧野虚太郎等と知り合う。また,春山行夫,村野四郎,上田保,
近藤東共同編集の「新領土」の会員になる。
1940年 府立第三商業学校を卒業,東京瓦斯への就職を取りやめ,神田研数学館に通うが,
やがて「ル・バル」同人と新宿の飲み屋で語らうようになる。
エリオット『荒地』を原文で読む。
1941年 明治大学文芸科に入学。小林秀雄,長与善郎から学ぶ。「新領土」終刊。
1942年 森川義信,鮎川信夫,中桐雅夫らが召集される。「詩集」(「ル・バル」改題)が終刊。
1943年 文科系学生の徴兵猶予が停止され,豊島公会堂で徴兵検査を受ける。
横須賀第二海兵団に入団。海軍二等水兵を命じられる。
1944年 土浦海軍航空隊,鹿児島海軍航空隊を経て,滋賀海軍航空隊に配属。
予科練の教官となる。
1945年 陸戦隊に編入となり,若狭湾防衛にあたる。9月,京都から東京へ復員。
1946年 「日の出書房」という出版社で絵本の編集をする。
「純粋詩」十号に詩「坂に関する詩と詩論-一九四六年秋」および「出発」を発表。
1947年 4月,第一回純粋詩人賞作品賞受賞。9月,「荒地」創刊。
1948年 6月,「荒地」終刊。
1951年 『荒地詩集一九五一』に「腐刻画」「黄金幻想」「冬の音楽」「皇帝」などを収録。
この『荒地詩集』は年刊アンソロジーとして1958年まで続く。
1952年 『荒地詩集一九五二』に「立棺」などを収録。この年より4年間,早川書房に勤務し,
江戸川乱歩,植草甚一の協力のもと,ハヤカワ・ポケット・ミステリの編集にあたる。
みずからもアガサ・クリスティーなどを翻訳する。
1956年 3月,処女詩集『四千の日と夜』刊行。
1958年 大塚から北区中十条に転居。
1960年 「ユリイカ」に「若い荒地」の連載をはじめる。9月,保谷へ転居。
1961年 この年より3年間,群馬県の山荘で過ごす。
1962年 第二詩集『言葉のない世界』刊行。
1963年 4月,第六回高村光太郎賞受賞。
1965年 新宿区西落合に転居。長詩「腐敗性物質」成る。
1966年 3月,戦後20年間の全作品を編んだ『田村隆一詩集』を刊行。神奈川県伊勢原に転居。
1967年 第三詩集『緑の思想』刊行。12月,アイオワ州立大学客員芸術家として渡米。
「この国には,真の意味の階級がない。金があるか,ないかでクラスが決まってしまう。
したがって,アメリカでは金がないということは悪そのものです。」(「アメリカからの手紙」)
1968年 1月,思潮社現代詩文庫の第1回として『田村隆一詩集』刊行。
5月,アメリカからの帰国後,三鷹市大沢に転居。10月,『若い荒地』を刊行。
1969年 季刊誌「都市」の編集にあたる。渋谷参宮橋へ転居。『詩と批評A』刊行。
1970年 春,初台へ転居。9月,鎌倉材木座海岸へ転居。『詩と批評B』刊行。
1971年 3月,「アメリカ詩人アカデミー」の招きにより谷川俊太郎,片桐ユズルとともに渡米。
アメリカ各地で詩の朗読会を開く。ニューヨークにW・H・オーデンを訪ねる。
11月,鎌倉稲村ヶ崎へ転居。12月,自撰詩集『腐敗性物質』刊行。
1972年 12月,『詩と批評C』刊行。
1973年 3月,詩集『新年の手紙』刊行。5月,『詩と批評D』刊行。
同月,「ユリイカ」で田村隆一特集号。10月,月刊誌「旅」の依頼でインド旅行。
1974年 父友次郎,79歳で没。
1975年 3月,エッセイ集『ぼくの遊覧船』刊行。同月,二度目のインド旅行。
6月,エッセイ集『青いライオンと金色のウイスキー』刊行。
1976年 2月,インド紀行『インド酔夢行』を刊行。4月,エッセイ集『ぼくの交響楽』『詩人の
ノート』を刊行。5月,詩集『死語』刊行。12月,5冊の既刊詩集と,「恐怖の研究
「腐敗性物質」を収めた『詩集1946~1976』を刊行。
1977年 11月,現代詩文庫『新選田村隆一詩集』を刊行。
1978年 1月,詩集『誤解』刊行。2月,エッセイ集『書斎の死体』刊行。
10月,『詩と批評E』を刊行。同月,エッセイ集『ジャスト・イエスタディー』刊行。
この年,『詩集一九四六~一九七六』で第5回無限賞を受賞。
1979年 12月,「面白半分」臨時増刊号「さて,田村隆一」刊行。
1980年 3月,詩集『水半球』刊行。
1981年 6月,詩集『小鳥が笑った』(挿絵・池田満寿夫氏)刊行。
1982年 4月,詩集『スコットランドの水車小屋』刊行。6月,詩集『五分前』刊行。
1983年 4月,詩集『陽気な世紀末』刊行。
1984年 10月,詩集『奴隷の歓び』刊行。この年,日英バイリンガル詩集”Dead Languages
Selected Poems 1946-1984”をオークランド大学から刊行。
1985年 2月,『奴隷の歓び』で読売文学賞受賞。3月,詩集『ワインレッドの夏至』刊行。
1986年 3月,詩集『毒杯』刊行。
1987年 詩集『ぼくの鎌倉八景 夜の江の電』刊行。
1988年 2月,『詩集一九七七~一九八六』刊行。
1989年 詩集『唇頭の灰』刊行。
1990年 11月,詩集『新世界より』刊行。
1991年 10月,詩集『ぼくの航海日誌』刊行。
1992年 9月,詩画集『Torso』(画・宮崎進氏)刊行。
10月,詩集『20世紀詩人の日曜日』刊行。
11月,詩集『ハミングバード』刊行。
1993年 6月,詩集『灰色のノート』刊行。10月,現代詩文庫『続・田村隆一詩集』,
『続続・田村隆一詩集』刊行。この年,『ハミングバード』で第11回現代詩人賞受賞。
1995年 6月,詩集『狐の手袋』刊行。
1996年 2月,詩集『花の町』(写真・荒木経惟氏)刊行。
1997年 10月,『ロートレック ストーリー』(画:T・H=ロートレック 詩:田村隆一氏)刊行。
1998年 5月,詩集『1999』刊行。6月,日本芸術院賞を受賞。
12月,詩集『帰ってきた旅人』刊行。
8月26日午後11時27分,食道がんのため東京都目黒区の病院で死去。75歳。

注 本年譜では,詩集を中心に収録しました。この他にもエッセイ,
翻訳等多数の著作があります。
参考文献 青木健「田村隆一年代記」(「面白半分」1979年12月号臨時増刊号所収)
建畠晢「年譜-田村隆一」(講談社文芸文庫『腐敗性物質』,1997所収)
高丘卓+稲田智宏「田村隆一略年譜」(田村隆一『スコッチと銭湯』,角川春樹事務所,1998所収)

係累
生涯で五度結婚をした。最初の妻は鮎川信夫の妹。二度目の妻は福島正実のいとこ。岸田衿子は三度目か四度目の妻。最後の妻は田村悦子。
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田村氏の死に関する各氏のコメント

飯島耕一
「モダニズム的な詩と,下町的なユーモアの両面を持っていた。インテリで利口な詩人が多いなかで,型破りでダンディーで,男性的な人柄は貴重な存在でした。」
(毎日新聞1998年8月27日夕刊)
浦田憲治氏 「モダニズムの詩人として生き方もダンディーで粋(いき)だった。どこか”不良少年”の面影があった。長身でおしゃれ,酒飲み,ユーモラスで陽気だった。古典落語の世界と,英米ミステリーをこよなく愛していた。中原中也が灰色のマントなら,田村氏はレインコートがよく似合う詩人だった。」(日本経済新聞1998年8月27日夕刊)
大岡 信氏 「戦後詩最大の詩人の一人。七五調が中心だった戦前の詩と決別した詩は,現代社会に対する鋭い批評にもなっており,衝撃的だった。高踏的な内容を,平易な言葉で表現し,大衆に愛された。」
(朝日新聞1998年8月27日夕刊)
(同氏) 「最後の戦後派詩人を失った。「荒地」派は俗悪な戦後社会に対する批判精神をもっていたが,田村さんはアイドルのおじいちゃんとしてテレビや広告に出るなどして,笑いを込めたユニークな
活躍をされた。これで戦後詩はきっぱり終わった。」(中日新聞1998年8月27日夕刊)

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このページの作者(山田)の感想

 田村隆一氏は長命の家系だから100歳まで生きるはずと思っていました。

 最近古本屋で見つけた『さて,田村隆一』(「面白半分」昭和54年12月増刊号)に,「文明はエロス」と題する金子光晴氏と田村氏の対談(初出は「ピエロタ」昭和45年1・2月号)が載っていて,男色の話に始まって江戸時代の男郎屋,各自の初体験,大正期の噺家,荷風日記などについて両詩人が語っておられるのを,とても面白く読みました。
氏の死を報じた新聞には,

最後に人々の前に姿を見せたのは,今年一月のある雑誌社の新聞広告だった。
『おじいちゃんにも,セックスを』というコピーだった。(朝日新聞)
と書かれていました。その広告を見た事はありませんが,何だか嬉しい気持ちになってきます。思えば金子光晴氏も,年老いてからも街で若いお姉ちゃんをナンパし,一緒にお茶を飲んでいたといいますから,今頃は天国で古今東西エロス談義に違いありません。

 詩人は「路上の鳩」という文章のなかで,C・D・ルイースの『詩をよむ若き人々のために』を導きの糸として,「立棺」というみずからの詩作品の生い立ちについて語っておられます。そのなかで詩人は,鮎川信夫氏や中桐雅夫氏の詩編から「詩の種子」をもらったこと,またそれがみずからの心で知らず知らずのうちに大きく成長していたことの驚きについて触れつつ,こうした作詩過程が説明不可能なものであることを率直に述べています。短いながらすぐれた詩論であると思います。
(「路上の鳩」は現代詩文庫『田村隆一詩集』,思潮社,1968所収)

この詩論の中に,

詩人が自己の感情の歴史のなかに生きているかぎり,彼は思ってもみないことや
感じてもみないことをいかにも意味ありげに,そしていかにも直実そうに書いたり
歌ったりすることはありえないことなのです。

という一文がありますが,これは哲学者スピノザが,

真の観念をもつ者は,同時に自分が真の観念をもっていることを知り,
その真理について疑うことはできない。
(『エティカ』工藤喜作・斎藤博訳,中央公論社,1980)
という文章で言わんとしていることと同じであるといっていいと思います。詩人は,詩が単に個人のでたらめな空想から出発するものでも,ある特定の集団のために書かれるものでもなく,すべての人の「ただひとつの心」に宿るものであって,そこから成長してひとりの詩人の手(=技術)によって確かなものへ鍛え上げられていくものだと言っているのです。

詩人が死去したことは残念ですが,私たちの前にはこれらもくりかえし読み継がれるべき詩が遺されて
います。
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田村隆一氏のサイン
tamura1隆一サイン

いわゆる「自筆サイン本」のもの(山田所蔵)。実物はタテ3センチ,ヨコ2センチ程度です。
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田村隆一の写真を探したが見当たらないので、『花の町』(田村隆一・詩、荒木経惟・写真)(1996/2河出書房新社刊)という本の表紙を出しておく。
なお、Tokira氏の「Aladdin's cock」に関連する面白い記事があるので、ご覧あれ。
ここには新聞に載るコピーではあるが、田村隆一の写真が載っているので、写真は、これにて「代用」させてもらう。
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