
──村島典子の歌──(33)
村島典子の歌「わたしは柿の木なのか」32首・・・・・・・・・・・木村草弥
・・・・・「晶」101号2018/03所載・・・・・・
わたしは柿の木なのか 村島典子
ゆくりなくこころゆたけく生きむとぞ思ひたりける歌よみながら
雨の夕べうすぐらきなかにわが坐して昔おもへば稚くなりぬ
緑金の鮮らけき山まなかひに聳ゆるみゆる夢の中らし
「氷の鞍」とたれか叫びぬ天空を掩ふがごとし神山ならめ
夢出でてうつつにあれど未明みし山ありありてしまらく消えず
何ゆゑに息子は夢に泳ぎゐむ朝明うつつに母われは待つ
胡瓜ぞもきうりの匂ひ胡瓜草キウリイヲゐて何ぞかなしき
宿敵と思ひし人の夢にきて親友也と告げて去りたり
いまさらに愕くほどのなしと思へど地球儀を創りし人ありしこと
ガラケイを持たないのかと揶揄さるは原始人に同じきことか
野ぶだうのつぶらなる実は朝霧ににほひ出づこの世のものと思へず
来世など信ぜずさあれ来世には寸分違はずこのわれになる
手の甲のむらさきの斑をシニボクロと祖母言ひきわが手にも出づ
十一月十三日吉野秋野の前登志夫のみ墓に詣づ
花束をあつらへをりてまつ゜百合をカーネーションを黄色き菊を
供花なれば如何と戸惑ふ花舗のあるじ終にはベゴニアの鉢を呉れたり
墓前にはうすべにの花似合ふべし夭折の君の愛子のため
墓参なれどやあ来ましたと言ひながらユリ供へたし百合峠のゆり
標ゆひて導きたまへ槇山のまほらのその地へ君のみ墓へ
雨の槇山ひんやりとせり弟子三人おぼつかなくも導かれ来ぬ
奥様は老いたまへども艶やかな声の変はらず十年まへの
古木なる大杉をわがしるしとし再び三たび来むとしおもへ
国原を見下ろす山の槇やまの家族のみ墓彼岸なるべし
師の屋敷の板塀の朱のつたもみぢ友はもらひて東へかへる
攀ぢのぼり蔓草ひとえ引き寄する書庫地蔵堂の崖のなだりに
師のきみの方丈の上に蝶(かはらひこ)ひらひら舞へば去りがたかりき
どんぐり山の櫟のこずゑに朝きて聴鳥観鳥しまらくの間を
聴き鳥と知ればわが耳さとくして冬天にその耳はそばたつ
観鳥なりき雉の歩みてゐるところ吉野の山の斜りに見たり
申し子とわれを呼びける人とほく山なみとほく老いにけるかも
母を憶ふ極寒のあさ洗顔に湯を足しくれし母ありしこと
わたくしは柿の木なのかと柿は問へり熟柿を鵯に突かせながら
実生にて育ちし柿は十八年間わぎへを去らず春夏秋冬
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お馴染みの村島さんの詠いぶりである。
村島さんの先師・前登志夫氏が亡くなって十年になる。四月五日が祥月命日である。
角川書店「短歌」誌2018年四月号は「没後十年・前登志夫」という特集を掲載している。
前氏は歌が佳いこともさることながらエッセイも見事であった。 名文と言えるだろう。
こよなく酒を愛し、大阪ナンバの法善寺横丁の「正弁丹吾亭」に屯していたらしい。私の兄事していた米満英男氏から聞いた。米満氏も酒好きだったが、私の知らないことである。
歌集の題のつけ方も秀逸である。 『子午線の繭』 『縄文記』 『青童子』などの命名である。
村島さんの一連は大方を前登志夫の回想が詠われているので、私もつられて書いておく次第である。
ご恵贈有難うございました。
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