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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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永井章子詩集『出口という場処へ』・・・・木村草弥
永井_NEW

──新・読書ノート──

      永井章子詩集『出口という場処へ』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                         ・・・・・澪標2018/09/30刊・・・・・・

永井章子さんから、標記の本が贈られてきた。
永井さんとは三井葉子さん主宰の結社「楽市」 に居たときの知り合いだが、私は最後の頃の会員なので永井さんとは親しくはないし、三井さんも亡くなられたので付き合いも途絶えた。
2012年9月の前詩集『表象』を出されたときに恵贈されて、このプログに書いたことがある。  → 『表象』

いま読み返してみたが、的確な鑑賞になっていると思う。
実は、先だって私は蔵書を日本現代詩歌文学館などに寄贈したばかりなので手に取りだすことが出来ない。

この本には永井さんの略歴も「あとがき」も何もない、すっきりしたものである。

  永井章子(ながい あきこ)
1944年12月 大阪生まれ

1998年10月 詩集『水の居場所』 (白地社)
2003年2月  詩集『炉の証言』  (澪標)
2008年11月 詩集『時の系譜』  (思潮社)
2012年9月  詩集『表象』  (編集工房ノア)

「イリプス」 「Z」 同人
ペラゴス集合体所属、日本現代詩人会会員

これが本の奥付に載るすべてである。

「出口という場処へ」という題名は、この本の14ページからの3ページに載る詩から採られている。
この本には、あちこちの詩篇に「出口」という単語が見られる。
そういう意味で、この「出口」という言葉が、この一巻を読み解くキーワードになるだろう、と思う。


      「出口という場処へ」 抄     永井章子

   ・・・・・・・・・・
   その時 出口!という言葉が耳に入ってきました ハッとしてリー
   ダーの顔を見ました途端 まわりの人達が皆いっせいに立ち上がっ
   たのです そしてそれぞれ別々の方向に歩き出し 見ている間に見
   えなくなってしまいました。私も慌てて立ち上がり まわりを見渡
   しましたが どこにも出口らしいものは見当たりません
   出口はどこですか! と思わず私は叫んでしまいました
   するとリーダーは私の前に来て 囁いたのです
   ここからただ出たいというだけでは出口は見つかりませんよ 目的
   が一人ひとり違うように 出口の場所も違うので 自分で見つけな
   ければならないのですよ
   ・・・・・・・・・・
------------------------------------------------------------------------
他の作品にも
<「出口は?」/とうろたえる私/いつだって・・・・/自分では出口が見つけられない>
<出口が遠い>
<出口を探しているのですから>
<今も 出口と書かれた下に立っています>
などのフレーズが頻出する。 けだし、この本の題名に付けられただけのことはある。
先に、私が、<この「出口」という言葉が、この一巻を読み解くキーワードになるだろう、と思う。>と書いた意味を分かってもらえるだろう。
これは、もしかして「夢見」の中の光景なのではないか、と思う。
「夢」の中では、こういう、切羽詰まったような、とりとめもないようなシーンに出くわすからである。

この本の「帯」で倉橋健一が、こう書いている。
<出口はどこなの という生きることにたいする根源的な不安が主題になっている。
 出口がどこと問うことは、裏返しにすれば、問いを発する場に、
 はてしなく蹲っているということでもあるだろう。
 ・・・・今日の私たちは誰もが、幸福という語の内に会ってすでに難民なのではあるまいか。>

前詩集『表象』を紹介した文の中で私は、こう書いた。  ↓

<「詩」というのは、極言すると「言葉の置き換え」ということである。
「詩語」というような特別の言葉があるわけではない。
日常使っている言葉を「置き換え」て、詩語に仕立て直すわけである。
後の詩を例にしてみよう。

<日暮れに向けて わかれ話をする>
一日の昼間の終わりは「日暮れ」である。 今日一日との「おわかれ」である。
作者は、これを「日暮れに向けて わかれ話をする」と表現し直したのである。
この「言葉の置き換え」をするときに詩作者の感性が問われるのである。
「言葉の置き換え」とは「比喩」──喩え、と同じことである。何かを何か別の言葉で喩えるのである。
その、喩えが的確であれば読者の心を打つし、不的確であれば打たない。そういうことである。
<夕焼けの橋を渡って 半身だけ赤く染まる私>というフレーズも、実景としての夕焼けを浴びている自分を想像してもらうと、よく判かるだろう。
このフレーズは詩語として極めて的確である。>

この言葉を、この本を読んでからも、作者に贈りたい、と思う。

この本の後半は「ウー」と題されている。
「ウー」とは、どうやら飼っている犬のようである。

     ウー 抄     永井章子

   夜明け前
   旅に出る準備をしていた
   だのに
   地図を広げて探すけれど
   いつまでたっても
   目的地が決まらない
       ・・・・・・・・
   覚束ないものは
   ウー とかすかな声
   ウー と呼びかけると
   体の中でこだまする
   穴があいたように
   身のうちがとても寒い

     とても気が合っている 抄    永井章子

   ウーと駈けっこをする
   何も考えずひたすら走ることがウーへの友情
       ・・・・・・・・
   ここはどこ
   走った後ウーのいつもの質問
   西の城門に決まってるよ
   私はとにかく西の方角が好き
        ・・・・・・・・
   出口は見たことがないけれど
   ウーとはとても気が合っている

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そろそろ拙い鑑賞も終わりにしたい。
永井さんは三井さん亡きあとも、いくつかの会に入って詩を作っておられるようである。
これからも、お元気で、ご健筆のほどをお祈りして、ご恵贈に感謝して筆を置く。
有難うございました。    (完)










     
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