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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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木村草弥第三詩集『修学院幻視』 (全)
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 ↑ カバー装「後水尾天皇像(宮内庁書陵部蔵 尾形光琳筆)」


木 村 草 弥 第 三 詩 集   『修 学 院 幻 視』 (全) 
                  ・・・・・・澪標2018/11/15刊・・・・・・・・・

     栞 文

     開き直りの現代詩
         ──『修学院幻視』に寄せて──
                        詩人・評論家、大阪芸術大学教授(フランス文学) 山田兼士

木村草弥さんは一九三〇年生まれ、今年米寿になられるが、大変お元気な方である。美学者として著名だった木村重信を兄にもち、文化的環境の中で生きてこられたと想像されるが、家業の宇治茶問屋を継ぎ、実業に精を出すかたわら、本格的に文筆を始めたのは還暦を越えてからであるらしい。以来、六冊の歌集と二冊の詩集を上梓し、本書は第三詩集ということになる。
 
木村さんと私の縁は比較的最近のことで、二〇一四年に亡くなった三井葉子さんが主宰していた詩誌「楽市」の同人のひとりとして、三井さんから紹介されたのがきっかけと記憶している。木村さんとの初対面は三井さんの告別式場でのことだった。その少し前(二〇一〇年)に上梓された詩集『愛の寓意』を読んで、 伝統的詩型と散文詩型を融合した独自のスタイルに瞠目したことをよく覚えている。この基本姿勢は本詩集でも貫かれていて、作者自身が「畢詩  あとがきに代えて」の中で「現代詩は何でもあり、だから「見てきたような」虚構で彩ってみた。」と断言している。良い意味での開き直りというべきだろう。事実、「虚構で彩」られた遊女がらみの作品群などは、詩集中最も自由奔放な想像力を発揮した秀作だ。
 
前詩集と比較すると、本書は散文形を含みつつ通常の行分けも用いながら、内容的には解説、説明、解題といった散文的要素が強く、そうした散文性を一挙に「詩」へと昇華させている要因として、おもに作品末尾に置かれた短詩や和歌(おもに後水尾院の作)、短歌(自作を含む)を挙げることができるだろう。むしろ、 これらの短詩や和歌、短歌から逆算して本文が綴られたような趣きで、そういう意味では、これらの作品を一種の〈詩論詩〉と見ることもできる。全体としては、 後半の後水尾院を主人公とする江戸時代初期の雅ぶりが中心にあり、同じ関西に 住みながら京都の文化歴史に疎い私などにも、大変興味深くまた楽しく読むことができた。懇切丁寧な解説的文章は詩としての欠点どころか、逆に、通常の詩の欠点を克服する一手段とさえ思えてくる。
 
これに比べて前半の詩群は、かなり通常の詩に近い書き方になっているが、ここでもやはり、作者の厳密さへのこだわりは十分に発揮されていて、その厳密さ、精緻さの中からこそ立ち上がるポエジーに注目すべきだろう。八十五歳という長寿を全うした後水尾院の享年をすでに越えた(とはいえ現代人の寿命ははるかに延びているが)米寿の詩歌人の今後から目を離すことはできない。


修学院幻視     目次

Ⅰ 春の修羅
柊の花
ガーラ湯沢
上と下
買春という言葉
原初の美
春の修羅
あなたの名前どう訓むの?
アンドロギュヌス
水馬
イグ・オリンピツク

Ⅱ 修学院幻視
序詩 後水尾天皇とは?
お車返しの桜
後水尾院の御放屁
およつ可愛いや
およつ御寮人
近衛信尋 吉野大夫を灰屋紹益と張り合う
花芯─お夏の巻
尺八─お秋の巻
なぜ修学院なのか
こたつがかり─お冬の巻
ひよどり越え─お春の巻
桂の月
昔の修学院山荘見学ツアー
後水尾院と後宮の女たち
『後水尾院葬送記』
畢詩 あとがきに代えて


  Ⅰ 春の修羅

(この扉の裏面)

    
      屈折率    宮沢賢治

   七つ森のこつちのひとつが
   水の中よりもつと明るく
   そしてたいへん巨きいのに
   わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
   このでこぼこの雪をふみ
   向ふの縮れた亜鉛の雲へ
   陰気な郵便脚夫のやうに
      (またアラツディン、洋燈(らんぷ)とり)
   急がなければならないのか
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     柊の花      

柊(ひいらぎ)は、悪魔を祓うとかいう言い伝えで、
家の玄関脇に植えられていたりする地味な木だが、
鋭いノコギリ状の葉を持っている。
この木は初冬に、その鋸歯の葉の蔭に小さな白花をつける。
季節が寒い冬であり、しかも皆いそがしい十二月だから、
この花に気づく人も少ないだろう。
今この花の花盛りで十一月下旬から咲きはじめた。
傍を通ると、すずやかな佳い香りがする。
人によってはスズランに似た香りだという。
花言葉は「用心」「歓迎」
雌雄異株で、
雄株の花は二本の雄蕊が発達し、
雌株の花は花柱が長く発達して結実する。
実は長さ十二~十五ミリになる核果で、
翌年六─七月に暗紫色に熟す。
その実が鳥に食べられることにより、
種が散布されることになるのである。

結構かわいらしい清楚な花である。
図鑑を見るとモクセイ科の常緑小高木と書いてある。
柊という名前の由来は疼(ひいらぐ)で「痛む」という意味である。
疒(やまいだれ)に旁(つくり)に冬と書く。
熟語に「疼痛(とうつう)」があるのをご存じだろう。
葉の棘に触れると疼痛を起こすことから言う。
「いら」とは「苛」で棘を意味する。
本来、この木は関西以西の山地に自生する暖地性の木らしい。
この頃に咲く花としては「枇杷」の花などもある。
さざんか、茶の花などは、よく知られているものである。
この頃に咲く花は初夏の頃に実をつける習性がある。
年が代って節分になると、
この木の小枝に鰯の頭を刺して、
魔除けの縁起かつぎをする木として、一般に知られているが、
この頃では家が小さくなって、
この木が植えられる家が見られなくなって、
この風習も廃れる一方であろう。

  ひひらぎの秘かにこぼす白花は
     鋭き鋸歯(きよし)の蔭なるゆふべ 木村草弥

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ガーラ湯沢 

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた」
と川端康成は書いた。 
一九三五年『文学界』の編集者だった小林秀雄は、この
小説には、このフレーズの前に長い描写があったのだが、
編集者の権限で小林がばっさり削って、この有名な出だ
しになったらしい。こういうレトリックを「ポッと出」
手法という。(閑話休題)
トンネルばかりが多い上越新幹線だが
今ではトンネルを抜けると「越後湯沢」駅である。
冬季だけ開業の臨時駅「ガーラ湯沢」は
ゴールデンウイークの五月はじめまで春スキーを楽しむ
男女で混んでいる。
この駅はJR東日本の若手の思いつきから始まった。
そして成功してJR東日本の関連会社としては大成功し
た社内プロジェクトなのだ。
今ではシーズン中、一日に数千人が利用する。
ここは元々、上越新幹線・越後湯沢駅に隣接する保安基
地だった。
その裏山に開業したのがガーラ湯沢スキー場だ。
ここ新潟県南魚沼郡湯沢町は元々豪雪地帯だ。
今ではスキーだけでなく「スノボ」スノーボードで滑る
若者が多い。だから「スキー場」ではなく「スノーパー
ク」と称する施設が流行りだ。
首都圏から最速で七七分で着く「ガーラ湯沢駅」を出る
と、スキーセンター・カワバンガから八人乗りゴンドラ
が中央エリアのレストハウス・チアーズに動いている。
ここからは初心者用ゲレンデへフェートンというリフト
や中上級者用リフトが何本も連なっている。
エーデルワイスは滑走距離一六〇〇mを誇る。
標高一一八一mの高倉山頂からは上級者用の非圧雪コー
ス九〇〇mなどが連なる。パウダーと迫りくるこぶにチ
ャレンジだ。下まで滑り下りてもリフトが上まで送って
くれるから楽だ。
遊び疲れたら「下山コース・ファルコン」という二五〇
〇m、標高差五七三mを一気に駅前のスキーセンター・
カワバンガまで滑走できるルートもある。
スキーセンター・カワバンガにはSPAガーラの湯、レ
ストラン、更衣室などが完備している。レストハウス・
チアーズにもレストランがある。
山頂の下の尾根には「愛の鐘」というカップルには嬉し
いところもある。まさに至れり尽くせりである。
高倉山頂から勢いよくパウダースノーの斜面に
滑り出たのはいいが
ゲレンデの外れのブッシュに突っ込んで
男はそのまま帰って来なかった。
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上と下    

タオダさんと仰(おつ)言(しや)いましたか。
どんな字を書きますか。
土(つち)偏に上下と書きます。
垰田です。
IMEの表外漢字にも出ています。
「訓」は「たお」で出ています。
もっとも、漢和中辞典あたりでは載っていません。
この苗字は極めて珍しく全国順位では一一五七三位。
全国人数はおよそ五八〇人と言われます。
「名字由来ネット」というサイトで調べますと、
私は広島県出身ですが、此処におよそ二六〇件が
数えられ、北隣の島根県が五〇件と次いでいます。
だから、ほぼ広島県近辺に発する苗字と考えられます。
私の苗字は「タオダ」と訓(よ)みますが、他には
同じ字を書いて「タカダ」と訓む姓もあるようです。
自分の苗字なので少し調べてみました。
Wiktionaryというところがあり、
〈会意的造字法による国字。
尾根が最も低くなった土地を上下で表す。
「たわ」「鞍部」。〉と記載されています。
垰野とか垰畑、垰谷、垰村など広島県、
山口県に見られる姓であるようです。
人名、地名には地域の特異性があるようですね。
私の知人に「小(こ)圷(あくつ)」という苗字の方が居られます。
この「圷」という字もIMEで出てきますが、
調べてみたら「圷」とは川沿いの低湿地のこと。
苗字としては茨城県に非常に多く分布しているらしい。
なるほど。私の知人も土浦市に居住しておられます。
この字も日本製の国字ということです。
この字の対義語は「塙」で、
山などの小高い場所を「塙(はなわ)」と言い、
逆に川沿いの低湿地を「圷(あくつ)」と言います。
「阿久津」「安久津」などの苗字も、
このような地形から派生したのでしょう。
「峠(とうげ)」という字がありますが、
これも地形から来た国字で、
よく知られているので漢和辞典にも出ておりますね。
偏(へん) を「山」「土」と付け替えて旁(つくり)の「上」「下」で、
様々に苗字が出来る面白さを体験いたしました。
有難うございました。
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    買春(かいしゆん)という言葉   

もう二十数年も前のことになるが、私の旧制中学から大
学も同じ友人で、某一流会社の専務まで勤めて威張って
いた男が、放送局のアナウンサーが「買春」を「かいし
ゅん」と読み上げるのは、けしからんと、私あての手紙
で言ってきたことがある。
結論を先に言っておこう。
「買春」を「かいしゅん」と読むことは正しい。
日本語というのは「音(おん)」と「訓(くん)」の二本立てで成り立つ
言語である。
この友人の言ってきたことにも一理はある。「売買(ばいばい)」と
いう熟語があるように「音(おん)よみ」すれば「買(ばい)」と発音す
るが、事は、そう簡単ではないのだ。
(お断り)概念を正確にするために、「音(おん)よみ」は「カタ
カナ」で、「訓(くん)よみ」は「ひらがな」で表記する。 
「売春(バイシユン)」という音読みの言葉があるので「買春」を音読
みでしてしまうと、同じ発音になって紛らわしい。そこ
で考えられたのが「かい・シュン」という読み方である。
日本語の読み方には先に言ったように二通りある上に、
このような一つの熟語に「音(おん)よみ」と「訓(くん)よみ」を一緒
にして、「読み」を合成することがある。こういうのを
「湯桶」(ゆ・トウ)読み、あるいは「重箱」(ジュウ・
はこ)読み、と称するものである。
「湯」は訓よみでは「ゆ」であり、「桶」は音よみでは
「トウ」である。これが湯桶読み。重箱を読むときは
「ジュウ・はこ」と読む。これが重箱読みと称される。
太古、日本には文字が無かった。歴史時代になって中国、
朝鮮半島から渡来人によって、かの地の先進的な文明が
齎されるときに「漢字」という文字が一緒に渡来した。
しかし、文字は無くても、「言葉」はあった。それは
「やまとことば」と称され=訓よみ、の基礎となる。
一方、大陸から齎された漢字による「漢語」は音読みと
して成立し、以後、日本語は、この「読み」を使い分け
て今日に至る。「かな漢字混じり文」の成立である。
有名な「万葉集」は、原文は全部、漢字表記である。
このように「やまとことば」も「漢字に由来するもの」も、
すべて漢字で書かれ、その仕組みは複雑で、単に「音(おん)」
を表わすもの、漢文を読み下す時の上下かえり点式のも
の、などの組み合わせで表記される。 ここで一例を。
有名な柿本人麻呂の歌 (万葉集巻①歌番号48)
ひんがしの野にかぎろひのたつ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ
(原文)東 野炎 立所レ見而 反見為者 月西渡
の歌は後世に賀茂真淵が訓み下したとされるが、結句の
「月かたぶきぬ」の原文は「月西渡」の三文字である。
だから今の万葉学者の中には、人麻呂の言いたかったの
は、単純に「月西渡る」ではなかったのか、と言われる。
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原初(もとつはじめ)の美        

バリ島
バリ──朝の露、昼の陽、
やがて来る濡れたような完璧な闇
バリ島に舞い下りた神々は贅沢だ
寺院は花と贈り物に満ちる
信仰ふかい人々と
蓮の花のゆっくりした開花と落花のテンポ
湧く水は渇きを知らず
大地は全てをつつんでふかぶかと呼吸する
花々は虫を遊ばせ
自らの肢体の美しさを見せつけて微笑(ほほえ)む
バリ──聖と俗との間を行き来する
原初(もとつはじめ)の美意識の島、花々満ちて
うねうねと棚田がつづく風景の
行きつく先はウブドゥの村
パンダワ王子コワラ王子の争いの
やるせない物語の影絵芝居(ワヤン・クリッ)
ガムランの楽に合せて操り師(ダラン)は
人形つかい語る叙事詩(マハー・バーラタ)を
人形は水牛の皮と骨でもって
精緻につくる心の影なのだ

仏伝図 ─ボロブドール─
摩耶夫人は不思議な夢を語った、
アショカの園の昼下りのこと
釈尊の誕生を予言するバラモン僧に
感謝の布施をする王と摩耶
苦行で痩せ細った太子に
乳粥をさしあげる娘スジャータが居た
この名に因んで「めいらく」という乳製品会社が
「スジャータ」コーヒー・フレッシュを売り出した
怒り、憂いは醜い顔に彫られた
「悪い顔」(ヴィルパ)の文字を添えて
禅定とは気を集中し思惟をこらし
真理を追求(ついぐ)する姿と言う
釈尊の初転法輪の力によって
バラモン僧は比丘(びく)になった
百二十一面目のレリーフの「仏伝図」
涅槃まで描かれずここにて終る
第一円壇ま東に向くストゥーパは
幸運を招くとみな像に手を伸ばす
たたなわる巨(おお)きな石塊のシルエット
平原に赤い夕陽が没してゆく
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春の修羅    
─死者たちの 野に風車ひとつ からからから─
石牟礼道子

三・一一以降、なんとも重苦しい感覚がまとわりついて
離れない。
宮沢賢治生誕二ケ月前(一八九六・六・一五)に発生した
三陸地震津波が県内に多くの爪痕を残した中での生誕だった。
また誕生から五日目の八月三十一日には秋田県東部を震
源とする陸羽地震が発生し、秋田県及び岩手県西和賀郡
・稗貫郡地域に大きな被害をもたらした。
この一連の震災の際に、母イチは賢治を収めたえじこ(乳
幼児を入れる籠)を両手で抱えながら上体で蔽って念仏
を唱えていたという。
家業が質屋の息子である賢治は、農民がこの地域を繰返
し襲った冷害などによる凶作で生活が困窮するたびに、
家財道具などを売って当座の生活費に充てる姿にたび
たび接し、この体験が賢治の人格形成に大きな影響を与
えたとされている。

いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか

(まことのことばはここになく
修羅のなみだはつちにふる)
           *宮沢賢治「春と修羅」抄

生きものたちが冬の厳しい寒さをやりすごすために、
代謝を制限して眠ったような状態を冬眠という。
北国で太陽が遠ざかる冬に活動しているものは本当
に数えるほど少ない。
     大怪獣クラーケンのように
     無慈悲に襲いかかってくる
     大津波よ!
     修羅よ! 春の修羅よ!
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 あなたの名前どう訓(よ)むの?  

  (先生) ご入学おめでとう!
皆さんの名前を読み上げるのに必要だから
「読み方」を教えてください
山川心桜さん
   (生徒) 「やまかわ こころ」です
   (先生)  ハイわかりました。
(ひとり言つぶやく)「桜」の字は読まないわけね。
読まないのなら余計な桜の字をつけるな。
   (先生②) この字は二〇一六年の女の子の名前
     トップです。「ここあ」と読ませる例もあります。
   (先生)  ほう。 では次。
佐藤奏人くん
(生徒)  「さとう たくと」です
   (先生)  ハイわかりました。
(ひとり言つぶやく)奏(かなで)るから「タクト」ですか。
  連想ゲームですな。
では次。
鈴木大和くん
   (生徒)  「すずき ひろと」です
   (先生)  ハイわかりました。
     (ひとり言つぶやく)昔は大和(やまと)だったのにな。
   (先生②) 「やまと」と読ませるのも多いですよ。
     この名前は二〇一六年ベストテンに入ってます。
   (先生)   では 横山杏さん
   (生徒)  「よこやま いちご」です
(先生) (ひとり言つぶやく)エッ。(絶句)
杏(あんず)を苺と訓(よ)むのか。似て非なる植物なのに。
         これもベストテン入りなのか。
では次。
片山柊希くん
   (生徒)  「かたやま しゅうき」です
(先生)  ハイわかりました。
     (ひとり言つぶやく)これは、まっとうだな。
これもベストテン入りの名前だというのか。
もっとも柊(ひいらぎ)なんて地味な植物を知ってるのか。
棘のある葉っぱの植物だが、
節分には鰯の頭を刺して戸口にかざす風習がある。
有名な歌人に宮柊二(みやしゆうじ)という人が居た。
北原白秋邸に住み込み門下生となったが復員して戦後、
短歌結社「コスモス」を主宰し大結社に育てた。
 目覚むれば露光るなりわが庭の
露団々の中に死にたし  宮柊二


あと先生はクラス全員の名前の訓(よ)みを覚えた。
そして珍妙な「宛て字」の名前の連続に疲れ果てた。
やれやれ。
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アンドロギュヌス   

あの子は売られて行きましたよ。
もう少し早くいらつしゃればよかったのに。
あなたに貰った薬を大切にしまっていましたよ。
ちゃんと持って行きましたよ。
たっしゃな子だから、一生にあの薬の数ほど、
風邪をひくことはないでしょう。
会った時、私も彼女も風邪をひいていたのだった。
少女はその薬を風邪薬と信じていたのだろう。
    (川端康成『掌の小説』化粧の天使達)
少年の頃に亡長兄の蔵書で川端康成の本をむさぼり読んだ。
『掌の小説』や『浅草紅団』などである。
まだ子供だったので性的には深い読解が出来なかった。
『掌の小説』では堕胎しようと東京市電運転系統図を見なが
ら男の掛声に合せて窓敷居から飛び下りて、どしんと尻餅を
つく描写の「叩く子」や、「愛犬安産」という仔犬の産まれ
る描写などに瞠目した。
『浅草紅団』では主人公の弓子が時折、男に変装して「明公」
という若者に変装したりして、いわゆる「アンドロギュヌス」
(両性具有)の少女として設定されるなど「倒錯したエロチ
シズム」を描写するところなど大正末期から昭和初期の大都
会東京下町の風俗を活写したものだと今になって判るのだ。
「女であること」を必要以上に露出する舞踏団やカジノ・フ
ォーリー、売春など肉体の商品化は現代に続く風俗なのだ。
弓子が「私は地震の娘です」と言い切り、小学校五年生だっ
た関東大震災の混迷のさなかに姉の悲恋を見たのだ。
アンドロギュヌスの聖性を帯びた美少女や、彼女と同様に、
変装好きな紅団の面々。ポン引き、無頼の徒など、健全な市
民から疎外された者たちを存分に跳梁させる『浅草紅団』の
「アノミーそのものの世界」は、関東大震災に引続いて世界
恐慌の波に洗われることになる「一九二〇年代の東京を裏返
しにした陰画」を見る思いがする。
それはプロレタリア文学が夢想していた革命の設計図とは別
に、川端が垣間見た地下世界(アンダーワールド)の不逞な
活力を活写した、と言えるだろうか。
「地震の娘」の弓子に代わって、彼女よりも鮮明な輪郭で、
算術が得意で成熟した女になりきっている「春子」。
川端自身は後年『浅草紅団』を読み返すのに四日間もかかっ
たと「嘔吐を催すほど厭であった」と述べているが、後には
『浅草紅団』を好意的に捉え『伊豆の踊子』が人々を天城越
えの旅に誘ったように『浅草紅団』は昭和初年代の風俗が綴
られた都市文学として新しく評価されて来たのである。
二〇〇五年にはアメリカでも翻訳されて、浅草の観光案内書
として「浅草観光の上級あるいはマニア向けコース案内書」
と呼ばれ、平成の今も残っている浅草独特の怪しい雰囲気を
味わうことが可能だ、と解説されるに至っている。
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  水 馬
       ──ナルシスの鏡を磨く水馬───宮下恵美子
      

水馬─あめんぼう は小さな、体重の軽い水生昆虫だから、
細く長い脚の先で、巧みに水の表面張力を利用して、
六本の脚で立って、ひょいひょいと水面を移動する。
少年は、内向的な性格で、こんな虫や蟻などの生態を、
じっと眺めているのが好きだった。
と言って「昆虫少年」というのでもなかった。

歳時記を見てみると「みずすまし」という名前が、間違って、
この「あめんぼう」のこととして呼ばれていたらしい。
「みずすまし」というのは全然別の虫であって、
1センチほどの紡錘形の黒い虫である。「まいまい」という名前がある通り、
水面をくるくると輪をかいて廻っている。
水中に潜るときは、空気の玉を尻につけている。
『和漢三才図会』には<常に旋遊し、周二三尺輪の形をなす。
正黒色、蛍に似たり>と書かれている。
「あめんぼう」(水馬)については<長き脚あって、身は水につかず、
水上を駆くること馬のごとし。よりて水馬と名づく>
と書かれていて、なるほどと納得する。
「あめんぼう」という命名は、飴のような臭いがするので、この名があるという。

水馬がふんばつてゐるふうでもなく
     水の表面張力を凹ませてゐる   木村草弥

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 イグ・オリンピック   

先ごろ兄が死んだ。
兄は優等生でスポーツ万能
要領もよく、いつもトップを歩んでいた。

ボクは子供の頃から虚弱児だった。
しよっちゅう腹を壊し弱虫で
運動は苦手で頭も良くなかった。
「お前は俺の影だ」と兄は宣言した。
だからボクは、いつも兄の「影」だと自認していた。

オリンピックで表彰台に立つ優勝者。
勝ち誇って辺りを睥睨する。
彼には負けた選手の痛みが判るのだろうか。
ボクは負け犬だったから先ず敗者の心を考えちゃう。
「イグ・オリンピック」というのを考えついた。
なぜオリンピックは暑い暑い酷暑に開くのか。
テレビ放映権を持つマスコミの都合だけだろう。
今では録画技術もよくなって生放映と違わない。
時間帯が合わなければ「録画」で見せればいいのだ。
一九六四年の東京オリンピックは十月十日
この日は秋晴れの特異日ということで選ばれた。
真夏のマラソンなど苦行もいいところ。
選手寿命を縮めるだけだ。
一方、冬のオリンピックはいい。
氷や雪がなければ出来ないからだ。
「イグ・オリンピック」には国歌演奏は無い。
出走者は自腹で参加する。交通費も出ない。
メダルはあるがオモチャみたいにちゃちなものだ。
プラスチックにメッキをした類のもの。
区民運動会のトロフィーみたいなものだが
「イグ・オリンピック」というマークが凄い。
子供たちが原っぱでやる運動会とは、そこが違う。
「イグ・オリンピック世界記録」が発表される。
スポーツで世界をいかに平和にしたかが問われる。

数年後、兄が死んだ齢をボクが超えた。
「お前は俺の影だ」と兄は宣言した。
「影」が自立することは出来るだろうか。
「イグ・オリンピック」が開催される今日。
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Ⅱ 修学院幻視

(扉 裏面) 
    
ゆきゆきて思へばかなし末とほく
       みえしたか根も花のしら雲
    ─後水尾院 辞世の御歌─
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     序詩  後水尾天皇とは?

後水尾院
後陽成天皇の第三皇子。名は政仁(ただひと。即位後、ことひと、に改める)。
慶長十六年(一六一一)、十六歳で即位。
後陽成院は弟・八条宮智仁親王への譲位を望み、父子の間は不和が続いた。
元和三年(一六一七)、後陽成院は崩御。同六年、徳川秀忠の娘和子(まさこ)を中宮とする。
幕府より多大な財政援助を受ける一方、朝廷の無力化をはかる施策には反発し、
寛永四年の紫衣事件が直接の原因となって、
寛永六年(一六二九)、皇女である興(おき)子(こ)内親王に譲位(明正天皇)。
以後、四代五十一年にわたり院政をしいた。
和歌を重んじ、廃絶しかけていた宮中の行事を復活させるなど、朝廷の風儀の建て直しに努めた。
慶安四年(一六五一)、落飾し法皇となる。
延宝八年(一六八○)、老衰により崩御。八十五歳。
泉涌寺において葬礼が行われ、月輪陵に葬られた。
和歌約二千首を収める『後水尾院御集』(鴎巣集ともいう)がある。
二十一代集以下の諸歌集から一万二千余首を類題に排列した『類題和歌集』三十一巻、
後土御門天皇以後の歌人の歌を集めた『千首和歌集』などを編集した。
叔父智仁親王から古今伝授を受けている。
和歌のほかにも立花・茶の湯・書道・古典研究など諸道に秀で、寛永文化の主宰者ともいうべき存在であった。
『玉露藁』『当時年中行事』『和歌作法』など著作も多い。
洛北に修学院離宮を造営したことは名高い。
女性関係は派手で、男女あわせて三十七人の子を産ませている。
禁中法度を無視して宮中に遊女を招き入れたり、遊郭にまでお忍びで出かけた、と
言われている。
退位して「上皇」になってからも中宮・和子以外の女性に三十人余の子を産ませ、
五十六歳で出家して法皇になった後でも直らず、五十八歳で後の霊元天皇を産ませた。

【仙洞御所】
京都御所の東南にある。
仙洞とは上皇の御所の意で、寛永六年(一六二九)後水尾上皇の御所として、
徳川幕府が桜町の地を相して造進した。
故に桜町宮または桜町の仙洞とも称した。
爾来、霊元・中御門・桜町・後桜町・光格各上皇の仙洞となった。
その間、数度の火災に焼亡し、寛文以後は再興されなかったから、
今は庭園だけが残っている。
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     み車返しの桜

京都の人々の憩いの場として、普段はひっそりとしている御所も、
春と秋の一般公開期間には沢山の観光客が訪れる。
東西七○○m、南北一三○○mの広大な敷地の中には、様々な樹木が植えられて、
どれも手入れが行き届いている。
三月になると、まず梅林が春の訪れを告げる。
続いて梅林の隣の桃林が満開になり、四月には桜が春の主役になる。
御所は枝垂れ桜が多数植えられていることでも有名で、北側にある枝垂れ桜はどれも枝振りが大きく、見ごたえがある。
芝生の上に腰を下ろして、ゆっくりと桜を楽しむことが出来る。
御所の中でもっとも有名な桜と言えば「御車返しの桜」だろう。
御所、宜秋門の斜め前にある、御(み)車(くるま)返(かえ)しの桜。

     一重と八重がまざって咲くめずらしい桜である
     そのあまりの美しさに 後水尾天皇が
     御車を引き返させて 再びご覧になったことから
     「御車返しの桜」と呼ばれるようになった

     後水尾院は 別に花見をしたかったわけではない
     「修学院山荘」の出来上がり具合を見届けに行きたいと
     思って輿に乗られたところだった
     院は 松の木に特別の関心を抱いておられた
     上御茶屋へ行く途中の松並木の刈込みの仕方にも
     あれこれと指図をなされた
     普通は松を低く刈込むというようなことはないのだが
     小(こ)径(みち)を歩いて上ってゆくときに
     周りの景色がよくみえるように との意図であった
     牛車は山荘の入口までしか乗っては行けないので
     後は歩くしかなかった

因みに、いま山荘と書いてみたが、当時は「修学院殿」と呼ばれていた。
ましてや「離宮」などと呼ばれるのは明治以後のことである。
樹木は毎年少しづつ大きくなる。刈り込んでも造営当初とは大きくなりすぎてしまった。
つづいて因みに、ここの池や樹木などの管理は佐野藤右衛門が請け負っている。
佐(さ)野(の)藤(と)右(う)衛門(えもん)は、庭師の名跡。
京都・嵯峨野にある造園業「植藤」の当主が襲名する。
藤右衛門は、天保三年(一八三二年)より代々、仁和寺御室御所の造園を担ってきた。
当代の第十六代 佐野藤右衛門(一九二八年(昭和三年) ~ )は、日本の造園家、作庭家。
祖父である第十四代藤右衛門が始めた日本全国のサクラの保存活動を継承し、
「桜守」としても知られる。
京都府立農林学校卒業。造園業「株式会社植藤造園」の会長。
桂離宮、修学院離宮の整備を手がける。
パリ・ユネスコ本部の日本庭園をイサム・ノグチに協力して造る。
一九九七年(平成九年)、ユネスコからピカソ・メダルを授与された。
一九九九年(平成十一年)には、勲五等双光旭日章を受章。
二○○五年(平成十七年)には、京都迎賓館の庭園を棟梁として造成。
豪放な振舞いで知られ、この迎賓館の造成中も宮内庁の役人の干渉がひどい、と
「さあ、休みや、休みや」と職人を引き揚げさせたエピソードが伝えられる。

 院は山荘に着かれ 隣雲亭で一休みして こんな歌を詠まれた

     やよひ山咲きおくれむもうらみじや花を卯月のぬさとたむけむ

     見し春のつつじをうつす山水のただ松青き夏になりゆく

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        後水尾院の御放屁
            ──世の中は気楽に暮せ何事も
                 思へば思ふ思はねばこそ──後水尾院

     修学院村にも若葉の初夏が訪れた
     お忍びで後水尾院が供ぶれも少なくお越しになった
     時しも田植の時期で 山荘の周囲の棚田では
     早乙女が一心に稲の苗を植えていた
     水張田には蛙がころころと盛んに鳴いていた
     何人かが横一列になって こちらに丸い尻を向けて
     ひたすら苗を植えていた
     この頃 軽口の「笠句」というのが
     庶民の間で流行りはじめていて

         かしましや こらへかねてぞ田へつぶて

     という句を院は存じておられた
         ははあ、この光景は正にこの句そのものじゃな、と
         心の中で呟かれたものである

     刈り込まれた松並木の狭い道を辿って
     院は上御茶屋の隣雲亭にお着きになった
     眺望が開け 眼下に浴龍池 遠景に借景の山並が拡がった
     ここは眺望を目的とした簡素な作りで床も棚も無い
     六畳の一ノ間、三畳の二ノ間と六畳間の三室だけからなる
     院はうっすらと汗ばまれた肌を拭われた

     つい先日、八條宮のお招きで院は桂山荘に遊ばれた
     そこでご覧になった襖などの唐紙の紋様が
     陽の移ろいにつれて様々に変化するのを堪能されたのだった
     今日は、その唐紙を作った唐長(からちよう)の当主を呼んでおられて
     雲母(きらら)刷りの原料のことなどを聴かれた
        因みに唐長は創業寛永元(一六二四)年。今に続く本邦
        唯一現存する唐紙屋である。現当主・千田堅吉は十一代
        目にあたる。修学院に工房を構える。創業からのデザイ
        ンの板木が六五〇本も伝来するが、それらの伝統を受け
        つぐと共に、現代的なデザインも旺盛に取り入れて創作
        している。

     見はるかす池に張り出した木々の枝先には
     モリアオガエルの卵塊が いくつもほの白く点っていた
     院は胸をはだけて ごろりと横になられて寛がれ
        やよ唐長や、許せよ、
        貴(あて)は、ちと、おいど(・・・)の埃を払いとうなったわ、
     と仰せられて、ぷぉ~と
     豪快に御(ご)放(ほう)屁(ひ)あそばされた。   
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     およつ可愛いや

     お上(かみ)のお筆下ろしがいつだったかは判らない
     お上は十六歳で即位された
     すでに れっきとした青年である
     三十七人もの子を産ませる後年の精力絶倫さをみると
     この頃 性欲にめざめても当然である

     下々であれば浮世絵春画の交合図などを見て覚えるのだが
     高貴な処にあっては
     男女の仲に手慣れた女官が手引きするなどがなされた

     典侍をつとめていた四辻与津子は
     公家の四辻公遠(きんとお)の娘で
     四辻の字を取って
     「およつ」と呼ばれていた
     お上のお手がつくように配置されたのだった

     お上──三宮政仁(ただひと)親王は
     慶長十六年(一六一一)四月十二日に即位された
     天皇は十六歳 父の後陽成上皇四十三歳である

     お上は「およつ」を可愛がられた
     やがて およつは第一皇子・賀茂宮を
     元和四年(一六一八)に出産する
     このとき お上は二十三歳である
     そして翌年に第一皇女・梅宮──のちの文智女王を産む

     元和六年(一六二〇)徳川和子入内
     元和九年(一六二三)十一月十九日
     和子が女一宮・興子内親王のちの明正天皇を産む

のちに後水尾院は詠まれた

     人にかく添ふ身ともがな見しままに夢も現もさらぬ面影
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     およつ御寮人

「およつ」と呼ばれていた此の女性は、儚い数奇な人生を辿った。
禁中に上がって女官「典侍」という地位にいたが、若い後水尾帝の
寵愛を受けて二人の皇子と皇女を生んだ。
名は四辻与津子というので「およつ御寮人」と呼ばれていた。
生年は分かっていない。 一六三八年に歿している。
丁度この頃、徳川秀忠の娘・和子(まさこ)入内の話が出て、
その最中に天皇に寵愛する女が居て、子を成していることが分かり、
徳川家が怒って一悶着あった。
近臣を罰するなどの詫びを入れて、元和六年(一六二〇)に和子が
女御として入内した。
「およつ」の生んだ第一皇子・賀茂宮は四歳で一六二二年に歿し、
第一皇女・梅宮・文智女王は、十三歳で鷹司教平に嫁したが、
三年足らずで離縁。
およつの死後は和子女御──後には中宮が育て、後水尾帝も可愛がった
ので「円照寺」住持として傍に置いていた。
円照寺は修学院山荘の敷地の一角にあったが、山荘の整備のために
大和に移されたが、寺領を幕府に寄進させるなど、和子は多大の援助
を注いだ。
文智女王は、後年にこんな詩を和子に贈っている。

   思碧潭
君在洛陽我嶺南  屢難飛錫侍清談
思看宮裡凭欄日  玉兎移輪浸碧潭

この自作の詩に詳細な自註を施しているのが知られている。
それは「女院様を慕うにつけて御所の碧潭の額を思うの詩」の意とある。
文智女王は文才があったので後水尾帝も可愛いくて仕方なかった。
かつて和子(東福門院)の入内によって母およつ御寮人は後水尾帝の側から
引き離され、兄・賀茂宮は皇統の一族から、その名を抹消された。
それらのことを見てきた梅宮・文智女王である。
東福門院その人に怨みはなくとも心うちとけぬ日々もあっただろう。
もはやあれから半世紀。
今では蔭となり日なたとなって文智女王を援ける東福門院のやさしさが
身に沁みるばかりであった。
その仲立ちの労を取ったのが、かつて東福門院の侍女であり、のちに
「円照寺」住持となった文智女王に帰依して尼僧として仕えた文海尼
であった。
文海尼は上賀茂の社家松下家の出身。母は梅宮の幼いころに乳母を務めて
いて、因縁は浅くはない。
寛永七年(一六三〇)生まれだから東福門院の侍女・相模(さがみ)として
仕えたが、東福門院は相模を大いに信用し、二十二歳で出家し文海と名を得て
仏道の学問に親しんだ後も、法談を聴いたこともあった。
文智女王が出京できないときは文海が替って京都と奈良を往復して仲介の役を
果たしたのである。
東福門院が歿するとき、文海尼だけを招いたことが、その最もよき証拠である。

梅宮・文智女王は、一六一九年生まれ。一六九七年に歿しているが長命だった。
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   近衛信尋 吉野太夫を灰屋紹益と張り合う

後水尾院の生涯を語るとき、「近衛信尋」の名を欠くことは出来ない。
彼は一体どういう男なのか。

近衞 信尋(このえ のぶひろ、慶長四年五月二日(一五九九年六月二十四日)~ 慶安二年十月十一日(一六四九年十一月十五日))は、江戸時代前期の公家・藤氏長者。官位は従一位関白。
幼称は二宮。法号は応山。
慶長四年(一五九九年)五月二日、後陽成天皇の第四皇子。八條宮智仁親王の甥。幼称は二宮。
母は近衛前久の娘・前子。母方の伯父・近衛信尹の養子となる。
慶長十年年(一六○五年)、元服し正五位下に叙せられ、昇殿を許される。
慶長十一年(一六○六年)五月二十八日、従三位に叙せられ、公卿に列する。慶長十二年(一六○七年)に権中納言、慶長十六年(一六一一年)に権大納言、慶長十七年(一六一二年)には内大臣となる。
慶長十九年(一六一四年)、右大臣に進み、元和六年(一六二○年)に左大臣、
元和九年(一六二三年)には関白に補せられる。
和歌に極めて優れ、叔父であり桂離宮を造営した八條宮智仁親王と非常に親しく、
桂にての交流は有名である。
正保二年(一六四五年)三月十一日、出家し応山と号する。
慶安二年(一六四九年)十月十一日、薨去。享年五十一。
近衛家の菩提寺・京都大徳寺に葬られた。法名は本源自性院応山大云。

近衛前久、信尹の文化人の資質を受け継ぎ、諸芸道に精通した文化人であった。
書道は、養父信尹の三藐院流を継承し、卓越した能書家であった。
茶道は古田重然に学び、連歌も巧みであった。実兄の後水尾天皇を中心とする宮廷文化・文芸活動を智仁親王、良恕法親王、一条昭良らとともに中心的人物として担った。
また、松花堂昭乗などの文人と宮廷の橋渡しも行っていた。
六条三筋町(後に嶋原に移転)一の名妓・吉野太夫を灰屋紹益と競った逸話でも知られる。
太夫が紹益に身請けされ、結婚した際には大変落胆したという話が伝わっている。

今に続く公家の筆頭の家柄である。      
いつも朝廷の中心に居座り続け、天皇家とともに運命を共にしてきた。
多大な日記や記録を保存する「陽明文庫」が有名である。
近衛家の陽明文庫に残る百数十通の院との勘返状(往復書簡)を見ると二人の頻繁な文のやり取りの繁きことが手にとるようにわかるという。
後水尾院とは、すぐ下の弟であり影になって院を支えてきた。
母方の近衛家に養子に入ったが、このような血の交流は、後にもしょっちゅうあった。

最高級の遊女と言われる「二代目 吉野太夫」との関係が史実として伝わっている。
吉野太夫というのは代々称された名前で、吉原の高尾太夫・大阪の夕霧太夫と並び、
「最高の遊女」であった。
吉野太夫は十代以上続いたと言われるが、特に有名なのが「二代目」。本名は松田徳子という。

京都で生まれた徳子は七歳の時に遊里へ売られた。
そして林弥という禿(かむろ)(遊女見習い)となった。
当時の遊里は、五条大橋畔から下流域にあった。六条三筋町(のち島原へ移転)に棲息する。

徳子は持ち前の美貌と、そして頭の良さでぐんぐんと美しく成長し、なんと十四歳にして「太夫」となった。
「太夫」というのは最高級の遊女、その中でも「吉野太夫」という名を貰った徳子はピカイチ。
茶の湯・和歌・舞などどれをとっても超一流、また思慮深く教養があり、
たちまち京都中の大評判になった。

そんな吉野太夫だが、この吉野を巡って二人の男が対立していた。
一人は豪商の跡取り息子・灰屋紹益。
もう一人は後水尾天皇の実弟で公家筆頭の近衛信尋。
彼は芸術家本阿弥の一族とも繋がりがある。
恋のさや当ての結末は、吉野が選んだのは灰屋のほうだった。吉野二十六歳・灰屋二十二歳だった。

が、灰屋にはちゃんとした妻がいた。
そのため父から勘当されてしまった。
でも妻が死んでしまったため、父は灰屋を許し、吉野太夫を正妻にすることを許したのだ。
因みにこの時のエピソードだが、吉野は所持品を売ったりしてけなげに夫に尽くした。
ある日のこと、ある老人が雨が降ってきたので吉野の家で雨宿りさせてもらった。
そこで心ある茶のもてなしを受け、感動した老人が後日吉野のもとへたずねたところ、
そこに息子がいたのでビックリ!
この老人は紹益の父だったのだ。こうして二人は勘当を解かれ、正式な妻となったのだった。
吉野を親戚に紹介する日、親戚の女房達は吉野なんかに負けるものか!と、
競ってゴージャスな着物を身にまといやってきたが、吉野は質素な着物で、
物腰柔らかに挨拶。女房達は恥かしくなったそうである。
だが吉野は病気になってしまい、三十八歳で死んでしまったのである。
灰屋は吉野の死をすごく悲しみ、吉野の骨を粉にして飲んだと言われている。

    後水尾院は、一夕、近衛信尋と雑談をしておられた

    吉野太夫の噂などが院の耳にも届いていたのである
    
        < 汝(なれ)は気ままでいいのう >

    信尋が答える

         < お上(かみ) 何を仰せられます
          お上こそ生殺与奪の権を
          手中にしておいでです >

    院は苦笑いして

         < 何が生殺与奪の権じゃ
          貴(あて)には何の力もないのじゃ
          幕府の食い扶持で生かされておるのみじゃ
          何を以て 生殺与奪の権などと言うか >

   と、改めて苦虫を噛みつぶしたような顔で仰せられた。

今も陽明文庫に残る近衛信尋の懐紙の歌

    うぐいすもこゑうららけき春日野の松に残らむ雪にならはば   
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       花芯──お夏の巻

      お夏は市井の遊女である
      お上が遊里に遊ばれたときに 見つけて来られた
     「床上手」として知られていた

      お上は上皇として 直接には禁裏の公式行事にも縛られず
      学問と言っても いつもあるものではないし
      連歌の会も センスのある者が揃わないと面白くない
      と仰せられて ますます 色道に精を出された
      禁裏に詰める女は 氏素性を明らかにする者ばかりで
      色事には慣れておらず お上は専ら 自分の精を放つのみであった

      今しも院も熟年の齢になられて
      それも 市井の遊里に遊ばれて
      お相手をする遊女が 性の喜びを あからさまに発するのに驚かれた
      女が歓喜の声を発すると それがお上にも伝わって
      何とも言えぬ男女の性の一体感を味われたのだった
      お上は男女が共に果てる という性の秘め事の極致を求められた
      此処を愛撫すると女が喜ぶのだという秘処も お覚えになった

      口を吸われ 乳首を愛撫されて お夏は喘いだ
      さらに 花芯──豆へのお上の攻めはつづいた
          因みに 豆とはクリトリスのことをいう(閑話休題)

           早乙女の股ぐらを
           鳩がにらんだとな
           にらんだも道理かや
           股に豆を挟んだと、ナヨナ

         という民謡があったらしい、と
         当時流行り始めていた「笠句」の本に書かれている。お分かりかナ。 

     お上の舌が 容赦なく 花芯の尖端を舐めつづけるので
     お夏は 恥ずかしげもなく 嬌声を上げた
     「入れて!入れて!」と お上の一物の挿入を求めた
     お上の 温といお筆先が お夏の巾着に食い込み
          因みに 巾着とはヴァギナのことである
          この巾着は よく締まる などという
          お筆先とは ペニスのことである(閑話休題)
     二人は 獣のように つながりあった
     お夏の巾着の中で お上の筆先は ぬめぬめと動き
     挿入は 浅く 深く ぐるぐる廻って 変幻自在となり 
     二人は汗まみれになって 至福の境地へと高まってゆく
     まさに夢幻の時間が過ぎてゆくのであった

     途中で お上は挿入を止め 
     お夏を組み敷いて またもや 
     花芯へのクリニングスの攻撃を はじめるのであった
     お夏は耐えかねて 「行く!行く!」と息も絶え絶えになって絶叫する
     そして 「入れて!入れて!」と お上の一物の挿入を求める
     二人は ふたたび 獣のように番って 合体して 一つになる
     汗は 二人の顔や胸や腰や腹や背中やらを べとべとに濡らし
     いつしか 頂点に達して 「出る!行く!」と叫びあい
     お上のお筆先から シーメンが お夏の巾着に 放たれる
     遂に 二人は果てたのだ
     お上は 甘美な射精感と 
     お夏は 至福の受容感と に満たされて 
     遂に 二人は果てたのだ
     まさに 二人は合体の極致に達したのだった
     激しい息遣いと けだるい倦怠のうちに
     二人は布団に横たわり 高まった息遣いを 静めて
     けだるい眠りに落ちた

  のちに後水尾院は詠まれた

       常夏のはかなき露に嵐吹く秋をうらみの袖やひがたき

  「常夏の花」は撫子の異名である
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       尺八──お秋の巻

      お秋も市井の遊女である 
      「尺八」の名手として知られていたのを
      お上が連れて来られたのである

      尺八とは今風に言うと「フェラチオ」である
      今どき風俗店では常識の遊びである
      昔の人は、優雅な言葉を隠語に使ったものだ
      フェラチオ (Fellatio) は オーラルセックスの一種であり
      パートナーが相手の一物を口に含んだり舌を使うなどして刺激する
      語源はラテン語の fellare(吸うという意味の動詞)
      英語の隠語ではBlow jobなどと言う
      フェラチオは短縮されて「フェラ」と呼ばれることが多い
      古語では「吸茎」「口取り」「雁が音」「尺八」「千鳥の曲」とも言った
      今どきの隠語では「F」「フェラーリ」などという
      また勃起した陰茎を横から咥えることを俗に「ハーモニカ」と言う。


      お上は 今や熟年の齢となられて
      さまざまのことをお試しになった
      下々の者がやっている性行為の体位に
      とても関心を持たれた

      <四十八手などというそうじゃのう>
      などと言われた

      世の中は戦国時代から太平の世になって
      世の中が落ち着くと
      性そのものを楽しむ機運になってきた
      浮世絵の隆盛になるのは もっと先だが
      その走りの肉筆描きの春画などが
      市井の巷には出回りはじめていた

      また院は旺盛な読書家であられたので
      平安時代初期に書かれ 伝承される
      最古の説話集『日本霊異記』のことも
      ご存じだった
      著者は奈良右京の薬師寺の僧・景戒
      上・中・下の三巻
      変則的な漢文で表記されている
      
      仏像と僧は尊いものである
      善行には施し 放生といったものに加え 写経や信心一般がある
      悪事には殺人や盗みなどの他 動物に対する殺生も含まれる
      狩りや漁を生業にするのもよくない
      とりわけ悪いこととされるのが僧に対する危害や侮辱である
      これらが『霊異記』の考え方である
      転生が主題となる説話も多い
      動物が人間的な感情や思考をもって振る舞うことが多く
      人間だった者が前世の悪のために牛になることもある。

      その中で天竺の話として息子にフェラチオをする母親の説話があるのも
      お上は ご存じで
      <母子の間でのう>などと
      お秋に語りかけられるのだった

      フェラチオというラテン語が近代世界に知られるようになったのは
      チャップリンの二番目の妻リタが怪文書「リタの不満」で
      「彼(=チャップリン)にフェラチオという倒錯行為を強要された」
      と明かしたためであると言われる。


         お上と お秋との 尺八の秘戯の様子を
         描くのは 長くなるので
         止めておこう

のちに後水尾院は詠まれた

     誰がなかの人目づつみの隔てとて立ち隠すらん秋の河霧
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    なぜ修学院なのか

後水尾院を遡ること約八百年前、嵯峨天皇は在位中よりしばしば嵯峨山荘に行幸し、
譲位後は歿するまで嵯峨院で過ごすことが多かった。
そして詩を文人たちに作らせたという。
嵯峨上皇の歿後、その皇女で淳和天皇の皇后であった正子は貞観十八年(八七六年)、
嵯峨院を大覚寺と改め、嵯峨上皇の尊像、禅経文などを納めて礼拝する仏地としたいと望み、
その二宮恒寂法親王を開山として勅額を賜り、嵯峨院の山荘は仏祖をまつる霊地へと替り、
以来、禁中と深い結びつきをもつ寺として寺容を誇ってきたのである。
後水尾院の脳裏には、この嵯峨院のことが深く意識され続けてきたのだった。
嵯峨院は明らかに後水尾院の修学院のモデルであった。
後水尾院は、洛西の衣笠山なども候補地として調べさせたり、自らも洛北の岩倉や幡枝などに
山荘を設営させたり、御幸したりしたが、気に入らなかった。
後水尾院は大覚寺にあるような「大池」が欲しかった。

話は時代を飛ぶが、後水尾院が修学院に山荘を造営されてから約七十五年後、
近衛家熙は大覚寺門跡とともに修学院を訪れた記録が残っている。山科道安の『御記』である。
それによると、近衛家熙は山荘の作者を明快に断言している。
  <御亭をはじめ、御庭の一草一木に至るまで悉く後水尾院の御製なり。>
道安が尋ねる。
  <それは何とてあの遠き処を、遊ばしけるにや。>
家熙は、次のように語った。
  <ふと、あの山を御手に入てより、あの地勢山水を御考へにて雛形が出来て、
  草木をはじめ踏石捨石に至るまで、皆それぞれに土にて石形をこしらへ、その処に置いて見て、
  恰好よきやうにあそばし、其の七八分も出来たる時分に、ござつつみの輿にのせ、平松可心、
  非蔵人某などを付られて見分に遣はさるること度々なり。>
非蔵人某とは赤松芸庵かも知れないと言われる。
造営はかなり長期にわたった。
すでに明暦元年(一六五五)以前に隣雲亭が建っているのだから、万治三年(一六六〇)以後に茶屋が完成したのは確かだろう。
それが、上・中・下のどの茶屋なのかなどの資料はないし、この後にも工事は続いたであろう。

後水尾院が山荘造営の上で一番気になったのが八条宮の桂山荘である。
すでに智仁親王は亡くなっている。
かつて譲位や和子入内をめぐって朝幕間の仲介に努力した智仁親王は、元和年間(一六一五~二四)に桂の里に茶屋を設け、次第に山荘としての体裁を整えていた。
智仁親王は寛永六年(一六二九)に歿し、しばらく荒廃するが、二代目・智忠親王に至って
中書院が完成し、今日に至る姿が半ば出来上がった。
後水尾院は、ここを参考にしたいと考えたのであろう。
修学院の造営が進む明暦四年(一六五八)三月十二日、お忍びで桂へ出かけられた。
後水尾院は、
この忍びの御幸を含めて三回桂を訪ねている。

後水尾院が「大池」に拘られたことは先に述べたが、この地には水が無かったから、
今の「浴龍池」を作るために堰堤を築き、山麓に至る流れの水を引き、
さらに音羽川の水を引いて溜めた。
そのために山際の地形を造成した際の土を西側に盛って堤を築いた。
堤は四段の石垣で約八メートルの高さとし、さらにゆるいカーブで幅広い盛土をもって
約七メートルの高さを得て、あわせて十五メートルの高さをもつ堰堤としている。
当然、この堰堤は下の茶屋からみれば異様な姿を見せるので、ここに数メートルの高さの
植え込みを作り、さらにその間に楓などを植えた「大刈込」の独特の景観を工夫したのである。
記録によると盗賊が侵入して放火され、隣雲亭も燃え落ちているから、今に残る隣雲亭が
明暦以前のものと同じ位置かどうかは分からないが、少なくとも浴龍池が築かれてからの
位置はほとんど変わらないと言われている。
因みに、現在みられる上・中・下の茶屋を結ぶ松並木は「御馬車道」と言われる通り、明治期に
宮内庁の管理になり、天皇の離宮行幸のために整備されたものであり、もとはただの畦道だった。
離宮の周りに広がる水田なども昭和期に宮内庁が買上げ、付属農地にしたものである。
前の大池、西浜を越えて遠望される松ヶ崎より岩倉方面の山々の風景は、
後水尾院が眺めたのと余りかわらぬ姿をとどめていると思われる。

後水尾院は、嵯峨院が大覚寺として、嵯峨上皇の尊像、禅経文などを納めて礼拝する仏地となり、
その二宮恒寂法親王を開山として勅額を賜り、嵯峨院の山荘は仏祖をまつる霊地へと替った故事に
倣おうとなされたのは確かだった。

皇子の尊敬法親王に、この山荘を贈るべく寛文六年十月二十五日に「置文」(遺言)を書いて
おられるが、後水尾院より前に歿してしまわれ、この計画は実現せず、そのまま禁裏に所属するこ
とになった。

修学院山荘は後水尾院の<閑放の地>であった。
すでに落飾し、建前としては朝廷の実務を離れた法皇であり、念願通り、案外気楽に山荘へ出かけることが可能だった。
京都所司代も東福門院同伴のときは警備を厳重にしても、院一人であれば、お忍びとして殆ど放っておくことになっていた。

鳳林和尚が後水尾院に随行して山荘を訪れたのは万治二年(一六五九)四月十四日のことであった。
妙法院堯然法親王、照高院道晃法親王らと一緒だった。
床飾りの掛物は京極摂政良経の懐紙と日観のぶどうの絵であった。
このあと一同は山荘の南、雲母坂の方へ出かけて俳諧を楽しんだ。
鳳林和尚が

    卯の花や白きはげにも雲母坂
  
と禿(はげ)の字を隠して、それに「きらら」を利かせた発句を作ると、
後水尾院は

       絵にもおよばぬ夏山の隈

と「脇句」をお付けになった。
続いて「三句」をお命じになったが、ついに誰も出来なかった、と鳳林和尚は日記に書いている。
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    こたつがかり──お冬の巻

     寒くなってきた
     京の底冷えと言って
     盆地である上に
     都の三方を山に囲まれて
     冷気が溜まりやすく
     京の都の冬は とても寒い

     禁裏は
     北は今出川通から
     南は丸太町通までの間で
     極端に言えば 冬の間は
     比叡下ろしの風が 雪を呼んで
     いつも ちらちら 雪が舞う始末だった

     お上は
     馴染みの お冬を呼ばれたのだが
     寒くて 炬燵を出られなかった
     夜は しんしんと 更けていった

     < お上 よい知恵がありますのえ
     こたつがかり と言いますのえ >
     と言って お冬が お上を誘った

     炬燵に入ってのプレイである
     お冬は お上の膝の上に座り
     こたつ台に手をつきながら 挿入する
     座位の後背位である

     これは 炬燵を利用した冬限定の体位である
     お冬は 炬燵に手をつきながら
     一心に 腰を振った
     お上は お冬を抱きかかえながら
     お冬の乳首を もみしだいた

     二処責めの愛撫に
     お冬は よがり声を上げた
     それに刺激されて
     お上も 歓喜の声で 応じられた

     抱き合ったまま 横に倒れて
     なおも 激しく まぐわうのであった
     そして二人は 絶頂に達した

     泰平の世がつづいて 
     下々の庶民も 
     性の楽しみに 勤しむようになり
     四十八手 なんていう体位を
     編み出す 始末だった
     < 江戸四十八手 >という
     浮世絵の春画や 手拭に版刷りした
     体位一覧が 出回るような始末だった

       雪が 小止みなく降りつづき
       夜は しんしんと更けていった

のちに後水尾院は詠まれた

     手習ひのただ一筆も書き添へばいかで待ち見るかひもありなん
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     ひよどり越え──お春の巻

     あたたかくなってきた
     お春は その名の通り 春が好きだった
     まして お上に呼ばれて いそいそとやってきた
     
     < ぬくうなってきたからナ
      お春の お得意の
      ひよどり越え を所望してみよう >

     と お上が呼ばれたのである

     ひよどり越え とは
     今どきの言葉で言えば 後背位である
     これは『平家物語』の一ノ谷の戦いで
     背後の山越しに後方から攻撃をかけたのに見立てたのだ
     因みに
     古代ギリシャの喜劇『女の平和』には
     「チーズ削りの上の雌ライオン式に立ち」というせりふがあり
     この体位だと 言われている

     もっとも お上は 繋がるまでに
     口吸い に始まり 
     豆なめ と続き
     お上の一物への 尺八などを
     お求めになって 徐々に
     ご気分を高めてゆかれた

     < 貴(あて)も もう齢じゃからのう >
     と仰言(おつしや)られたが
     秘め事では お元気そのものであった
     ただ いろいろと趣向が多いのである

     この体位では 
     乳房や乳首 尻なども 空いている手で
     思い通り 愛撫することも出来る

     お上は 知識旺盛であられたから
     お春を相手にしても
     寝物語りに こんな話をなさった

     <『日本書紀』という本にはのう
      イザナギとイザナミの神さんが
      鶺鴒(ニハクナブリ)が交尾する様をみて
      子を成す方法を知ったとあるのじゃ >
     と 薀蓄を披露されたりした

     こんな伝説のため 古来日本では
     結婚と鶺鴒の縁は深く
     セキレイは結婚と交接を象徴する鳥となっている

     古くは「枕を交わす」「情を交わす」といった奥ゆかしい言葉を使った
     「肌を合わせる」「体を重ねる」なども そうである

     お春のような 床上手な遊女は 
     お上にとっては 師匠のようなもので
     技(わざ)には疎い禁中の女たちを相手にしておられる お上には
     目からウロコのような 秘戯を たくさん覚えられた

     お上は あらためて 挿入され
     お春の きんちゃくの締めも
     ますます 具合が良くなり
     お春の腰を抱いて 
     獅子のように 咆哮して 精を放って
     果てられた

のちに後水尾院は詠まれた

   花よいかに身をまかすらんあひ思ふ中とも見えぬ風の心に
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     桂 の 月

桂川の水面に涼やかな秋風と月が巡って来た
桂川の川水を引いた池の水面に満月が映っている
古書院の縁側から張り出した竹箕子の<月見台>に
八條宮智忠親王たちの観月の宴が催されたのだ
ここ桂の地は古くから貴族の別荘地として知られ
古くは藤原道長の別業が営まれていた。
近くの松室には<月読神社>があり、
桂という地名も中国の<月桂>の故事から来ている。

八條宮家初代の智仁親王によって桂山荘の基礎が築かれ
<古書院>は一六一五年頃に竣(な)ったと言われる。
八條宮家二代の智忠親王は<新御殿> などを付加され、
今宵、後水尾院をお招きになったのだった。
回遊式庭園の桂川から水を引いた池には築山や洲浜、
橋、石灯籠が配され、茶屋の松琴亭、賞花亭、笑意軒、
月波楼が黒い影となって佇んでいる。

後水尾院は、すっかり寛がれ

   河波に月のかつらのさほさして
        明くるもしらずうたふ舟人

   明けぼのや山本くらく立ちこめて
          霧にこゑある秋の川水


と歌を詠まれた。
松琴亭の唐紙の刷りの紋様が光線の射し方によって
様々に変化するのにも興味を示され、職人は誰かなどと
お聞きあそばされた。
後水尾院は四代の帝にわたって絶大な院政を敷かれ、
また色好みとしても知られている。

    身にそへて又や寝なまし移り香も
          まださながらの今朝の袂を

    待ちいでてかへるこよひのつれなさは
            ひとり見はつる有明の月


などの恋の歌を残された。
この頃、徳川幕府は慶長二十年(一六一五年)に
「禁中並公家諸法度」を発するなど朝廷の行動全般を支
配するようになった。
それに対する怒りと諦めとが、
ないまぜになった御生涯であったろうか。

    芦原やしげらば繁れ荻薄
         とても道ある世にすまばこそ

    世の中はあしまの蟹のあしまとひ
         横にゆくこそ道のみちなれ

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 昔の修学院山荘見学ツアー

後水尾院は色々の人を招きながら、さらに山荘の充実に努められた。
万治三年正月には茶屋が完成しているし、これに合わせて「修学院八景」の詩歌を五山の僧や廷臣に命じている。
詩が作られたのは、寿月観、彎曲閣、蔵六庵(以上は現在の下の茶屋の建物)。窮𨗉亭、隣雲亭、洗詩台、止々斎(以上は上の茶屋の建物)。
菩提樹、浴龍池、万松塢(以上は上の茶屋の庭園・池)であった。
因みに、茶屋の建物の名称には仏典から採られているという。
「蔵六庵」は『阿含経』から。「止々斎」は後水尾院の好きな『法華経』の「止々不須説」から、
など。
後水尾院は深く仏に帰依していたから、嵯峨院の故事に倣って、将来、後水尾院自身と東福門院の尊像が修学院に於いて礼拝され、
後生菩提を弔ってくれることを密かに期待されていたのだろう、と言われている。
だが、結論的にいうと、この修学院に門跡寺院を建立する計画は実現しなかった。
詳しくは別段で書いた。

万治二年の五月から年末まで鳳林和尚の日記『隔蓂記』には、この八景詩のことが頻出する。
それだけ後水尾院も、この山荘の美を文芸の世界に残そうという意欲があったのだろう。
因みに、別の資料によると、この鳳林和尚というのは鹿苑寺(金閣寺)の僧侶だった人。
ちょうど嵯峨天皇が巨勢識人らに嵯峨院の詩を献じさせたのと同じ趣向である。

越えて寛文年間になると修学院を訪れる人の数も増えてきた。
それまでの公家や門跡などの限られた人ばかりではない。
何と、一般の僧侶や、寺に関係する町人など、あたかも今日の離宮見学と同じような団体の見学まで行われた。
これも寛永文化の名残りであって、公家・町人社会が未だ隔絶していなかったことの証左でもあろう。
『隔蓂記』寛文二年(一六六二)四月二十一日の条を見ると、どうやら前々から依頼しておいた見学の許可が下りたらしい。
「明日、修学院之御屋敷・仙洞離宮之御池、おのおの拝見、ないない申し上げ明日参らるべき旨、
予案内者として修学院へ赴く」。
こうした願いに対しては、許可証となるべき<見学之割符> が出されるシステムが出来上がっていたと見え、鳳林和尚も<割符>を受け取っている。
翌二十二日は相国寺衆は大体のこらず同伴、北野社家の日ごろ連歌などで顔見知りのメンバーも、鹿苑寺の寺侍などももちろん一緒である。
その他画家の父子や町の人々、総勢八十人ほどの大きな団体になった。
御殿・御茶屋・亭を見学して前もってことわってあったので池の舟も飾りつけてあって三隻に分乗し、持参の弁当を開いて一日の宴遊を楽しんでいる。
翌日見物の割符を無事に返上して、この見学行は終わった。
この日の記録に見えるように、見物には一応の型があった。御殿・御茶屋の見物、さらに浴龍池での舟遊び、さらに茶や食事の饗応というのが一般的であったようだ。
後水尾院の皇女で近衛基熙に嫁していた級宮常子内親王(旡上法院)は度々修学院山荘に遊んでいて、寛文七年(一六六七)閏二月六日の条には少し早い春を、ここで楽しんでいる様子が見える。
先ず下の茶屋の寿月観の庭の土筆採りがある。
今も寿月観の前に白砂を敷いた小さな庭がある。その向うにかつては彎曲閣が建てられていた。きっと、この渓流端の傾斜地に生えていた土筆でも採ったのだろう。
それより上の池に赴く。田の畦づたいに土筆を採りながらとあるから、今のような松の並木はまだ無かったであろうが、田の中を通って上の茶屋へ行った。
隣雲亭には上がらず、西浜を行って止々斎から舟に乗っている。
今も止々斎跡の近くに舟乗り場がある。
舟から窮𨗉亭、隣雲亭を眺めて堤にあがり寿月観に帰っている。
寿月観には基熙が居て平松可心らとともに夕食を摂った。
同じ『旡上法院殿御日記』の寛文十一年(一六七一)三月二日には後水尾院のお伴をして下の茶屋
より上の茶屋に行き、止々斎で昼食を摂っている。
「所々、葉まじりに桜咲き、山ぶきも少有り、山にはつつじ咲き、みごとのうつくしさ、いふばかりなし」という風情であった。
この時すでに中の茶屋にあたる朱宮の茶屋が完成しており、ここにも立ち寄っている。

このような山荘の遊びのパターンは修学院に限らず、後水尾院の好んだ風流の一つであった。
後水尾院は先にも書いたように前後三回にわたって八条宮の桂山荘を訪れているが、寛文三年(一六六三)三月六日の桂御幸を、これも鳳林和尚の記すところによると、和尚は早々に桂に到着し、玄関より書院に移り、あちこち見物し、やがて一同が揃ったところで庭に出ている。例によって鳳林和尚は讃嘆の辞を記す。
「処々之佳景、桜木奇石、方地百里絶言語佳境、御茶屋処々之飾、御菓子驚凡眼者也」。
書院で切麦(索麺)などを食べたのち、増水した桂川に舟を出している。
さすがに舟が自由にならないというので桂川の舟遊びは早めにきりあげて山荘の池に舟を浮かべることになった。
法皇、朱宮、級宮以下法親王たち。すなわち後水尾院は娘や息子たちに囲まれて舟遊びに興じ、舟の中では菓子がふるまわれ、たぶん舟を降り、茶屋に移ってからであろうが茶がたてられている。

これらの宴遊記録を見て気づくのは、宴遊の中で池の舟遊びと茶の湯が重要な役割を果たしている。
寛文二年(一六六二) 十月十八日の修学院での後水尾院の「口切りの茶」では、夕方から舟に乗り、開飛亭に移って、ここで後段と濃茶がふるまわれている。

浴龍池は平安時代以来の貴族庭園の伝統をよく伝えるものであった。
池泉舟遊式ともいうべき舟遊びに主眼のある庭園であった。
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     後水尾院と後宮の女たち

日本の禁中でも「後宮」という言葉が使われていたということを知った。この言葉も、もともとは中国由来のものである。
私のこの詩では、これらの女性たちとは別に、後水尾院が巷の遊郭に遊んだり、禁中にも引き入れたと言われる「遊女」がある。
遊女のことは別段で書くので、区別しておく。

後水尾院は生涯に三十七人の子を産ませたことで知られているが、さぞや十数人の女が居たのではないかと思うが、一統を見てみると、女の数は数人のみである。
その代り一人の女がたくさんの子を産んでいる。時系列的に挙げると、このようになる。
■典侍・四辻与津子(およつ御寮人)が二人。
■中宮・徳川和子(東福門院)が七人。
■典侍・園光子(壬生院)─後光明天皇の生母─が五人。
■典侍・櫛笥隆子(逢春門院)─後西天皇の生母─が十人。
■典侍・園国子(新広義門院)─霊元天皇の生母─が六人。
■典侍・四辻継子が三人。
■宮人・水無瀬氏子が二人。  などである。

院のお手のついたものは、もっと多く居ただろうが、子を成した人が記録に残っているだけだから、女の数は増えることはあっても、やはり特定の女との性交渉だったことが判る。
特に、院との相性もあるから、晩年の愛妃であった新広義門院のことが記録に残っているのも当然だろう。
しかも園家は、その後もずっと天皇家と深い関係が明治まで続いて、伯爵位を得ているのだから、
新広義門院の功績は大きかったというべきだろう。

これらの女の人を見ていると、五十くらいで死んだ人もあるが、いずれも七十、八十という長命であり、下々の庶民の寿命から考えると、とても長寿である。
やはり衣食住など特権的な地位のおかげであろう。
後水尾院の前後の天皇の記録を見ると、いずれも中宮、典侍、後宮など多い場合は十数人抱えており、子の数も二十数人から三十人に及ぶものがある。
だから後水尾院が特に色好みというわけではないようである。
宮中というところは、天皇の胤を宿して自家の出世繁栄を得たいと、公家の上下を問わず女を禁裏に差し出したようである。
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      『後水尾院葬送記』

洛北の山荘を訪ねる後水尾院のあとには、必ずといってよいほど東福門院の姿があった。
晩年のお二人の円満な様子は、前半生を思えば、想像も出来ないほどの仲の良さであった。
徳川秀忠の娘・和子(まさこ)としての入内から後水尾院の譲位に至る朝幕の確執は、
想像に絶する苦しみを東福門院にもたらしたのだろうが、
そうした困難をはねかえすだけの大きさが東福門院にはあった。
女御と呼ばれていた入内当時から、東福門院の難しさを支えていたのは、
化粧料一万石と言われる経済力であった。
入内当時、禁裏御領全体と殆ど同額の公式な収入が女御御所にはあったからである。
東福門院の派手好み、衣装好きは有名だったらしく、当時の京都有数の呉服商だった
雁金屋尾形家の資料に女院からの注文が残るという。
東福門院は三十七人にのぼる子供たちの良き母親でもあった。
ことに後光明天皇(一六四三~一六五四在位)、後西天皇(一六五四から一六六三在位)、
霊元天皇(一六六三~一六八七在位)三人の親王を自分の子として即位させたことは、
優れた配慮だった。
東福門院自身から生まれた二人の親王は早逝し、明正天皇(一六二九~一六四三在位)一人が
女帝として即位しただけで、その後に生まれた親王たちはすべて他の女房から生まれている。
後光明天皇は京極局、後西天皇は逢春門院、霊元天皇は新広義門院を実の母としているが、
これらの女房たちには全く経済力はない。
もし禁中最大の経済的実力者・東福門院と反発しあうことになったら無用の摩擦が起きるだけ
であり、そこで東福門院は、親王が即位するにあたって、わが子として扱い、経済的にバック
アップしたのである。
また内親王に対しても、その配慮は行き届いていた。
ことに東福門院入内に際して最大の難関となった「およつ」御寮人の娘・梅宮に対して深切な
るものがあった。
後水尾院が修学院山荘造営にあたり、可愛がっていた梅宮すなわち文智女王の円照寺を大和国
に移したが、その寺領として寄進するだけでなく、幕府に命じて寄進させている。

東福門院は、延宝六年六月十五日にわかに病状があらたまって臨終を迎えたが、
文智女王に従っていた文海尼ただ一人招いたのであった。
記録には

   法皇御愁傷、以ての外の躰也

と書かれている。 
時に、東福門院は七十二歳、後水尾院は八十三歳。 
この日、元和六年(一六二〇)の入内から、ほぼ六十年に及ぶ二人の生活が終わったのだ。

東福門院の死を悼んで、後水尾院は歌をお作りになった。

     東福門院崩御の時、弥陀の六字を句の上に置きてあそばしける

  南(な)に事も夢の外なる世はなしと思ひしこともかきまぎれつつ

  無(む)かひゐてたださながらの俤に一ことをだにかはさぬぞうき

  阿(あ)け暮れにありしながらのことわざも目の前さらに見る心地して

  弥(み)ぬ世まで思ひのこさずとばかりも此の一ことを何にかふべき

  陀(た)れに思ひ聞きてもみても驚かぬ世をばいつまで空たのみして

  仏(ふ)たたびはめぐりあはむもたのまれずこの世を夢の契りかなしも

八十の賀を過ぎてもなお元気だった後水尾院も、延宝五年(一六七七)に晩年の愛妃・新広義門院を亡くし、翌年東福門院を失ってからは、急に衰えを見せてきた。
後水尾院は、東福門院のあとを追うように、その二年後、延宝八年八月十九日早朝、崩御され、
泉涌寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られた。

納棺の際の様子について堯恕法親王の日記に詳しく書かれている。
『後水尾院御葬送記』によると、「上段に徽宗皇帝の三尊仏が掛けられ、
屏風には不動の像が掛けられた。
院の体は文智女王と朱宮の手で沐浴され、北首西面に安置され、枕元に酢を入れた鉢が置かれた。
暑気が激しいから臭気を取るためである。
屏風の絵を外にして引きまわし、中の机に本尊と香炉を置いた。翌日納棺である。・・・・・」

念のために、泉涌寺について書いておく。
ここには後水尾院をはじめとして孝明天皇までの二十五人が葬られている。
恐らく天皇には「戒名」も付けられていたと思われる。

なお京都市上京区の相国寺境内には後水尾天皇の毛髪や歯を納めた、後水尾天皇髪歯塚が現存する。
八十五歳という長寿だった。
因みに、この長寿記録は、昭和天皇によって破られるまで、歴代天皇の中で長年、群を抜いて一位だった。
その最晩年は、却って長寿の淋しさが、後水尾院を襲ったであろう。
二十五人いた兄弟姉妹のうち存命者は二人のみ。四歳年下の弟で仲のよかった近衛信尋は、
すでに三十一年前に歿している。
近衛家の陽明文庫に残る百数十通の院との勘返状(往復書簡)を見ると二人の頻繁な文の
やり取りの繁きことが手にとるようにわかるという。
佐野紹益と島原の名妓・吉野太夫を争ったという粋な話は先にしたことが思い出される。

諡号は、遺詔により「後水尾院」とされた。
水尾帝とは清和天皇のことで、徳川家が清和源氏を祖とすると名乗っているので、
その徳川氏を上回るとの意思が見える。
数々の経緯のあった徳川氏とのことを思えば、うたた感慨を覚える心地だったのだろう。

辞世のお歌は

     ゆきゆきて思へばかなし末とほくみえしたか根も花のしら雲 

   いまわの際(きわ)に後水尾法皇は幻を視(み)られた
   修学院山荘の浴龍池の大池に舟が浮かんでいて
   およつ御尞人、新広義門院と東福門院が
   仲良くこちらを向いて微笑んでいる。
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畢詩  あとがきに代えて

それは突然のことだった。
宗政五十緒(龍谷大学文学部教授・近世文学専攻)が大学院生の女の子を連れて私の家を訪問された。
この頃、宗政は「都をどり」の台詞の作詞を担当していて、今年は宇治茶の茶摘み風景を取り入れたいので参考にと来訪されたものである。
今から三十年も前のことで平成に入ってすぐの頃か。
茶園や茶摘み道具の竹製の茶摘み籠を見せたりした。都をどりの場面では茶摘み籠に当家の屋号である○京の印が入っていたりした。
宗政は短歌結社「あけぼの社」という小さな会を主宰して弟子たちに歌や文章を執筆させていた。
その中に森川知史(現・京都文教短期大学教授・コミュニケーション論)という人がいて、この人が何と私たちの従姉の子なのだった。
都をどりの関連でいうと、猪熊兼繁(京都大学法学部教授・法制史専攻)先生に一般教養の法学概論の講義を受けたが京都弁丸出しの漫談のような講義だった。
この猪熊兼繁が先任の都をどりの作詞家だったのが亡くなられて、その後任が昭和五五年から宗政五十緒ということで因縁話のように繋がるのだった。
都をどりは「甲部歌舞練場」を本拠にする格式高いもの。祇園乙部というのはいわゆる遊郭であって、一口に祇園と言っても、いろいろあるのである。
宗政五十緒『江戸時代の和歌と歌人』(同朋社出版、平成三年刊)という本で後水尾院に触れたのが、
そもそもの始まりだった。
彼はハーバード大学研究員としてアメリカの大学に居たりして、その筋では名の知られた学者のようである。
彼は一九七七年に「江戸時代前期における宮廷の和歌」という論文で、いくつかの近世和歌史が近世初期の和歌の環境面について触れるところの少ない不満を述べ、後水尾・後西・霊元三院の文学活動の一端を明らかにしたのが発端となり各氏が研究を始めたらしい。
もっとも昭和五年には、すでに 吉沢義則『頭註後水尾院御集』(仙寿院刊)のような詳しい研究書が存在する。
だから近世和歌については、江戸時代から研究されていたことであり、宗政の論文は、軽視への一石を投じたものと理解できるのである。
彼は心筋梗塞で心臓バイパス手術を受けたことがあり、後に私の亡妻も同じ手術を受けたことで、
これも因縁めいている。その彼も二○○三年に心筋梗塞の再発で死んだ。
今でこそ龍谷大学は理科系の学部も揃った総合大学になっているが、私たちが学生の頃は龍谷大学は僧侶養成の学生数も数十人という文学部のみの学校だった。
西本願寺の敷地の一番南端のところが校舎だったらしい。
心臓バイパス手術というのは大手術で何時間もかかるので、その時に、彼は「臨死体験」をした、
と西本願寺の雑誌に書いていた。

後水尾院に関する記録は膨大なものがあり、近衛家に伝わる『陽明文庫』の文書などを基に、
よく研究されている。
『後水尾院御集』(久保田淳監修・鈴木健一著 明治書院刊「和歌大系68」平成十五年)
『後水尾天皇』(熊倉功夫 中公文庫2011年再版)
今回の私の本は、この二著に当該部分の引用、参照に多大の恩恵を受けている。
心より厚く御礼申し上げる。
以下の本は読んだけれども参考にしただけで、引用などはしていない。

『後水尾天皇 千年の坂も踏みわけて』(久保貴子 ミネルヴァ書房2003年)
『お公家さんの日本語』(堀井令以知 グラフ社2008年)
『御所ことば』(井之口有一・堀井令以知 雄山閣2011年)
小説『花と火の帝 上・下』(隆慶一郎 新潮社2010年)作者死亡のため未完

「御所ことば」については、ここに上げた本を読んだが、天皇自身の発言・お言葉については何も記載がないので参考にはならなかった。
「貴(あて)」という言葉を書いたが、これは私の独断による造語である。
今に伝わる下々の言葉に「わて」「あて」というのがあるが、これらは元々は御所言葉であったものが民間に伝承して使われているものである。それらの例としては「おみおつけ」などが、そうであると言われている。詳しくはお調べいただきたい。

御所ことばの件だが、その頃、宮中の一角に「お湯殿」という女官たちの溜り場のようなところがあり、そこで日常のことを記録した『お湯殿の上の日記』というのが残っていて、それらを堀井令以知らが調べたものなどが知られる。
堀井令以知は一九二五年生れだが、私の住む青谷村の中村という集落出身である。
もっとも先代のときに村を出ているから当地の学校には行っていないらしい。
彼は「御所ことば」の専門家としてテレビドラマなどの考証に名前が出ていたが二〇一三年歿。

後水尾院は五代四十年にわたって強力な「院政」を布いたことにも象徴されるように、江戸時代全般を通ずる先例を築かれたようである。
そういう、いわば巨象のような後水尾院を、盲人が体の一部分を撫でているようなのが、
私のこの詩である。
小説でもない、論文でもない、エッセイでもない、──まさに詩としか名づけようのない一片の木の葉である。
全くの虚構と言えば「お夏」「お秋」「お冬」「お春」の一連などだが、現代詩は何でもあり、だから「見てきたような」虚構で彩ってみた。

後水尾院の三十七人にのぼる皇子や内親王の数を見ていると、今の皇位継承者の断絶云々という騒ぎは何なんだという気がするが、明治天皇を最後として「後宮」「側室」制度というのが無くなり、
これも時代の移り変わりかと、うたた感慨深いものがある。
年長に生まれても「儲君」にもなれず「法親王」として寺院に追いやられた皇子たちの悲嘆も思いやられた。
後水尾院が『禁中並公家諸法度』によって統治や行動に厳しい枠をはめられ「学問・諸芸能」に役割を限定されたのを見ていると、今の「象徴天皇」そっくりなのに感心する心境になったものである。
一方は強制したのが徳川幕府であったが、他方はアメリカ占領軍であった。
歴史的に見て、この両者は、これで良かったのだという気がする。
明治維新の「皇国史観」の強制によって、天皇は「現(あら)人(ひと)神(かみ)」とされ、「天皇の名」によって悪いことが圧政として強いられた。
たとえば日清、日露戦争をはじめとして第二次世界大戦に至る、当時の世界列強の帝国主義に倣った侵略戦争への突入などがそれである。
その意味では、天皇には戦争責任があったと言えるが、アメリカ占領軍は天皇制を残すことによって占領政策を円滑に進める道を選んだのだった。
先に第五歌集『昭和』を出したが、その読後感の中に「昭和という時代へのノスタルジー」というようなものがあったが、私の中では、もっと「にがい」記憶として存在するのであった。
この詩とも言えないものを書きながら、脳裏にはさまざまなことが想起した。
これもいい勉強をさせてもらったと思っている。       (完)


   初出一覧
                 上梓にあたり大幅に加筆、削除した

原初の美                  『詩と思想』2013年8月号 2013/08/28
春の修羅                   『詩と思想詩人集2013』 2013/08/31
アンドロギュヌス              『詩と思想』2014年8月号 2014/08/28
ガーラ湯沢                 『 詩と思想詩人集2014』 2014/08/31
水馬                     『詩と思想詩人集2015』 2015/08/31
上と下                    『詩と思想』2016年7月号 2016/07/28
柊の花                    『詩と思想』2016年12月号 2016/12/28
あなたの名前どう訓むの?        『詩と思想詩人集2017』 2017/08/31
イグ・オリンピック              『詩と思想』2018年8月号 2018/08/28
買春という言葉               『詩と思想詩人集2018』 2018/08/31

後水尾院の御放屁            『詩と思想』2012年7月号 2012/06/28
序詩                     「草の領域」       2012/07/02
お車返しの桜                「草の領域」       2012/07/05
桂の月                    『詩と思想詩人集2012』  2012/08/20
およつ可愛いや               「草の領域」       2012/08/21
およつ御寮人                 「草の領域」       2012/08/23
近衛信尋 吉野太夫を灰屋紹益と張り合う    「草の領域」       2012/08/24
花芯─お夏の巻                「草の領域」       2012/08/30
なぜ修学院なのか               「草の領域」       2012/09/04
『後水尾院葬送記』              「草の領域」       2012/09/06
昔の修学院山荘見学ツアー         「草の領域」       2012/09/08
後水尾院と後宮の女たち           「草の領域」       2012/09/09
尺八─お秋の巻                「草の領域」       2012/09/23
こたつがかり─お冬の巻           「草の領域」       2012/12/07
ひよどり越え─お春の巻           「草の領域」       2012/12/15
畢詩 あとがきに代えて            「草の領域」       2012/12/15

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