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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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東義久『山城国一揆』 『木津川を泳いだ大仏』 『春咲き川』・・・木村草弥
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 ↑ 1991/10/25 文理閣 第一刷
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 ↑ 2006/06/10 文理閣 第一刷
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 ↑ 2003/08/10文理閣 第一刷

──新・読書ノート──

    東義久『山城国一揆』 『木津川を泳いだ大仏』 『春咲き川』・・・・・・・・・木村草弥

東義久氏の既刊の本をアマゾンの古書で求めたが、ほぼ新本のものである。

先ず『山城国一揆』は大部のもので一ページに二段組み、小さな活字で、ぎっしりと組んである。
第一部
修羅の巷
野に生きる
風雲山城
国一揆に燃ゆ

第二部
怒りの大地
国創りの譜
きらめく野の草

第三部
苦しみの大地
決戦前夜
稲屋妻城孤立無援
燃える砦

膨大な小説を簡単に要約できる力は私にはない。
主な登場人物である「多賀弥助」 「結城」 「定円」 「重蔵」などのイラストが載っていて息抜きになる。
この「山城国一揆」については郷土史家の中津川保一、敬朗氏父子などが取り組んで来られた。歴史学者・門脇禎二氏なども関わっておられる。
それらの人々に示唆を受けながら、この本が書かれたようである。
小説であるから、合戦などの場面での描写にも臨場感がある。
国一揆の成立と、その瓦解が描かれるが、私には読み解け得ない分野であることをお詫びしたい。
最後の「燃える砦」の部分の描写は、こんな具合である。

<明応二年九月十日午前、それまで不気味なほど静まりかえっていた森から、木々の葉を大きく揺るがして数羽の山鳩が逃げるように飛び立った。
引き続き、エイエイオーッ、との掛け声が城を取り囲む森のあちこちで挙がった。
そして、地を揺るがすような不気味な法螺がなり響いた。>

「奈嶋の五兵衛」「多賀弥助」なる人物が登場するので、私の住む土地のことでもあり、親近感を持って読んでみたい。

もう二十数年前、三十年近くも前の本であるから、著者の東義久氏も、まだ若かった。
これだけの大部の小説を書かれた精力に敬意を表したい。 ゆっくり読ませていただく。
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木津川を泳いだ大仏
この小説は「季刊みみ」99号から106号に掲載されたものという。
この本は『元禄村方日記 南山城「上田氏日記」を読む』(奥田修三著)を読んだことから想を得て書かれた、という。
「あとがき」で著者はいう。
<ぼくは元禄時代の山城の寺田村辺りを舞台に、男と女の物語を創ってみたくなった。
それは、哀しい男と女の古い恋の物語であり、木津川畔に立つ機会があれば思い出してもらえば幸いである。>

     奈良の奈良の大仏さん
     大きな体で
     この世のなげきを
     受けとめてござる

     奈良の奈良の大仏さん
     尊い生命わ吹き込み育てて
     見守ってござる

     奈良の奈良の大仏さん
     大きな心で
     はかなき人の世
     救うてござる

巻頭に、このようなフレーズが書き留めてある。

一巻は「未練時雨」 「五里五里の里」 「寒梅」 「光る川」 「哀しみの果て」 「お犬様」 「流転の譜」 「大仏が行く」の章分けで進行する。
「未練時雨」は弥兵衛とひさの心中の物語である。
「五里五里の里」は佐七と多佳の話である。

因みに、この話の中で「隣りの久津川村」とあるが、これは現在の地名との誤認である。
「久津川」という名は昔は存在しない。この命名は明治になってから村が出来るときに「久世」「上津屋」「平川」の集落が合併するときに一字づつ字を取って久津川としたものである。
それは私の住む青谷村でも同様で、青谷という地名は存在しない。「奈島」「市辺」「中村」が合併して青谷村になった。山手にある「粟神社」から名前が採られたという。
合併の際には、こういう無難な命名がされることが多い。
久津川にしろ、青谷にしろ、その名前は駅とか小学校とかについているに過ぎないのである。
余計なことを書いた。お詫びいたします。 閑話休題。

佐七と多佳の物語は、後の章にも続いてゆく。
最終章「大仏が行く」では、奈良の南都大仏殿造営の材木が、淀から木津まで上がってくるので川筋から人足を出せ、とのお達しのことが描かれている。
木津川の舟は、下りは流れに乗って下るが、上りは風があるときは「帆かけ」で、風がないときは人足が岸からロープで引いて上がったという。
木津川の廻船業は笠置から淀までで、それから先は淀川が大河なので大きな船、十石舟とかで運営され、廻船問屋の組織も別であった。
私宅は分家だが、本家は廻船業を営んでいたという。明治になって鉄道が開通して、この商売は立ち行かなくなり本家は、どこかへ行って消息不明である。
本家の墓は私宅が、いわゆる供養をしている。また余計な話に逸れた。 閑話休題。

いずれにしても哀しい物語である。
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春咲き川』 は京都の北部を流れ、舞鶴辺りで日本海に注ぐ小川・高野川の物語であり、京都から一時的に移り住んだ少年・憲太と土地の子供の知子、などの交流の物語である。
これは障害児の物語でもあり、ほのぼのとした物語になっていて、心を打つ。
初出は「京都民報」という地域紙だという。

尻すぼみのような形になったが、『春咲き川』については、この辺りにしたい。
東義久氏の作品をまとめて読む機会になり、東氏の小説家としての力量に敬意を表したい。
私などは、息が短くて、小説のような根を詰める作業は出来ない人間である。
だから短い短歌や詩でお茶を濁しているばかりである。有難うございました。

なお余談だが、私たち兄弟の長兄・「木村庄助」太宰治に私淑し、死後、結核の療養日誌が太宰に送られ、それを元にして『パンドラの匣』が書かれたのは公知のことだが、この『パンドラの匣』を終生の仕事としているのが「浅田高明」氏である。
その浅田氏の太宰関係の本は、すべて、ここ「文理閣」から出されている。
そんなことから「文理閣」は私には懐かしい出版社なので、敢えて、ここに書いておきたい。



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