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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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私信と『修学院幻視』書評・・・井芹能一
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 ↑ 近江日野 馬見岡綿向神社 干支絵馬 写真は平成18.12.14 井芹氏撮影
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↑ 一緒に恵贈された司馬遼太郎の街道をゆく「近江散歩、奈良散歩」
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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       私信と『修学院幻視』書評・・・・・・・・・・井芹能一

いかがお過ごしでしょうか。
頂戴いたしました第三詩集『修学院幻視』を拝読しながらも感想も述べず失礼の極みをお許しください。
個人的理由もあります。
白内障を患い、仙崖の老人六歌仙そのもので目は疎くなった状態です。
新聞等文字の大半がインクの切れかかった印刷物のように薄く見え、かかりつけの医者は様子を見て手術しようと言っています。
精読して感想を言えるような文学的才能がないのを恥じ入る次第ですが、面白かったです。
幻想だけに、こちらの想像力も喚起されました。それに何でしょうか諧謔味。~~~

  山頂の下の尾根には「愛の鐘」というカップルには嬉しいところもある。
  まさに至れり尽くせりである。
  高倉山頂から勢いよくパウダースノーの斜面に
  滑り出たのはいいが
  ゲレンデの外れのブッシュに突っ込んで
  男はそのまま帰ってこなかった。

怖いような、ざまあみろ、と言いたいような。
頂戴した時、「幻視」という言葉で思い出した本がありました。
井沢元彦のデビュー作で、江戸川乱歩賞の「猿丸幻視行」です。
筋書はすっかり忘れてしまいましたが、猿丸の「奥山に紅葉踏み分け・・・・・」に込められた謎を解くため、薬により折口信夫の思考方法を他人が取り入れ、宇治田原禅定寺の奥にある「猿丸神社」や月ヶ瀬を徘徊する、まさに幻視行で、大変失礼なことに一部混乱してしまっていました。

月刊「茶の間」─楽しく拝読していました。そして「俺、この木村草弥さん知っとんで」と自慢していたのですが、12月号で掲載が終わり、寂しくなります。
この「茶の間」の作者紹介では  歌人木村草弥 きむらソウヤ/歌人 となっておりますが、Wikipedia では きむらクサヤ となっています。
山城郷土資料館の解説ボランティアの初めごろは木村重夫で、すぐに「ソウヤ」になられたと記憶しているのですが。一時、「草弥」をクサヤと読む人が多いのでとお聞きしたことがありました。

最近は二か月に一回の通院になりましたが、昨年の正月は、その前年の暮れから、お住まいの近くの「国立・南京都病院」に入院していました。
間質性肺炎とかの胸の病で恋患いの一種だと思います。
お近くを通るたびに思い出すことがあります。かつて会員名簿を作成した折に、ご住所の「十六」を「16」と表記し、「十六」は「丈六」堂に繋がる地名からだと、ご注意を頂いたことです。
「丈六」の仏さんか、どんなんだったのだろうかと想像しています。
「丈六」ではないのですが、「十一面さん」いまだに離れきれずにいます。
東大寺の修二会、呼吸困難を押して今年も恐らく数回は、「絶対秘仏」の十一面観音菩薩に逢いに行くことになります。そして会った気になります。どんな方かなと思いながら。

同封いたしました「絵馬」、午年生まれの木村草弥さんには相応しくないかも知れませんが、「亥年」にしか作成しない絵馬で、子丑寅・・・などは一切作成していません。
自慢話ですが、司馬遼が「街道をゆく」の「近江散歩」にこれを採り上げる前、滋賀県に単身赴任で七年半勤務していた時に、これを知っていたことです。
綿向神社干支絵馬の収集は一回り遅れますが、平成七年乙亥、平成十九年丁亥、平成三十一年巳亥 の三回目で26年になります。
牡丹鍋になれば別ですが、上品さに欠け、粗野に感じるのが亥です。
山城郷土資料館には、この皮で作った子供の靴が一足収集されています。明治時代には貴重な皮だったてのでしょうか。
今でも猪は資料館の裏山に出るようです。

山城郷土資料館、今では数少ない社会との接点で~~~またしても 同じ話に 子を褒める 達者自慢に 人は嫌がる。でしょうが、私は資料館の仕事を、もう暫く続けます。  敬具
  平成31年1月7日       井芹 能一  拝
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敬愛する井芹能一氏から、懇篤な私信と書評を賜った。
京都府立山城郷土資料館で短い期間であったが、一緒にボランティアをした間柄で、今も交友が続いている。
本文にある二月堂・修二会については → 「この記事」 を参照されたい。井芹氏から頂いた資料のことが詳しく書いてある。

並の感想ではない、独自の私信と書評で、有難く拝受して、ここに披露する次第である。
当地の南京都病院に入院されていたのは何も知らず失礼いたしました。
どうぞ、御身ご自愛くださり、資料館の仕事もおやりください。  有難うございました。

(追記) いただいた司馬遼太郎の本『街道をゆく─近江散歩、奈良散歩』の巻頭の「近江の人」のところに、この綿向神社が登場する。
司馬遼が、これを書く以前に井芹氏は、ここを知っていた、ということである。
綿向神社は『延喜式』に載る古い神社で、造営されたのは白鳳十三年(685年)だという。
私は、司馬遼太郎には詳しくないし、愛読した本も少ない。
文章がくどいし、簡潔でなく、饒舌である。
小説なども、もっと削れる、と思うような始末であるから、井芹氏のご期待には添えそうもないが、せっかく頂いたので目を通してみたいと思う。
司馬遼太郎には、独特の「司馬史観」というものがあり、彼を好む人には何事にも代えがたい魅力があるらしい。
山城郷土資料館に居た頃、ボランティアたちを中心に「友の会」も含めて、東大阪の「司馬遼太郎記念館」の視察にバス一台で行ったことを思い出した。
蔵書家としても司馬は有名で、執筆に必要な資料なども、どしどし買い求めたので、それらの資料で溢れている。
展示してある本も高い天井まで、ぎっしりで、取り出すには高い梯子をつかわなければならない。
そんなことを思い出した。もうン十年も前のことである。
これが、私の余計な話であり、「ひとこと多い」のである。 だから私は嫌われる。 ご放念くたさい。








                        
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