
な・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷川俊太郎
十月二十六日午後十一時四十二分、私はなと書く。なの意味するところ
は、一、日本語中のなというひらがな文字。二、なという音によって指示
可能な事、及び物の幻影及びそこからの連想の一切。即ちなにはなに始ま
り全世界に至る可能性が含まれている。三、私がなと書いた行為の記録。
四、及びそれらのすべてに共通して内在している無意味。
十月二十六日午後十一時四十五分、私は書いたなを消しゴムで消す。なの
あとの空白の意味するところは、前述の四項の否定、及びその否定の不可
能なる事。即ちなを書いた事並びに消した事を記述しなければ、それらは
他人にとって存在せず従ってその行為は失われる。が、もし記述すれば既
に私はなを如何なる行為によっても否定し得ない。
なはかくして存在してしまった。十月二十六日午後十一時四十七分、私は
私の生存の形式を裏切る事ができない。言語を超える事ができない。ただ
一個のなによってすら。
----------------------------------------
日付と時間の入っている谷川俊太郎の詩なので、今日の日付で載せた。これは『定義』という24篇の散文詩風の作品で構成される詩集で1975年思潮社刊に載るもの。
物事を「定義する」ということに拘って24もの詩をものした詩才に脱帽したい。こういう詩の作り方は詩作りのトレーニングになる。
| ホーム |