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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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小西亘『宇治の文学碑を歩く』・・・木村草弥
小西_NEW

──新・読書ノート──

     小西亘『宇治の文学碑を歩く』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・澪標2019/02/10刊・・・・・・・

小西亘氏が新しい本を出された。 ご上梓おめでとうございます。
226ページもの分厚い労作である。
この本の「帯」に東義久氏の文章が載っている。

  <歌碑を舞台装置として、
   これまで蓄積した博識を十二分に発露し
   縦横無尽に時代を紡ぎ駆け巡る。
   それは歴史の実証主義と文学の浪漫がほどよく融合し、
   読み手をいい気分にしてくれる。
   そして、読み終えたとき、宇治の奥深さにもう一度、
   自分の足と目で触れてみたくなる。>

そして、巻末には「『宇治の文学碑を歩く』によせて」という解題の短文が載っている。

先ず、目次を見せておく。

   宇治川右岸を歩く
   塔の島・宇治川左岸の文学碑
   さわらびの道、源氏物語ミュージアム、大吉山(仏徳山)頂上へ
   三室戸・黄檗・木幡へ
   槙島・伊勢田・大久保・志津川へ

これは小西氏が実際に歩いて探訪したルートを示している。

著者プロフィールは以下の通りである。

小西 亘 (コニシ ワタル)

1958年京都府南山城村に生まれる。
1982年より京都府立高校に勤務、現在京都府立南陽高校国語科教諭。
著書: 1996年『注釈青谷絶賛』(発行企画世話人会)
     2004年『月ヶ瀬と齋藤拙堂』(月ヶ瀬村教育委員会・共著)
     2012年『青谷梅林文学散歩』(城陽市観光協会)
     2012年『「月瀬記勝」梅渓遊記』(「梅の月ヶ瀬へ」編集委員会)
     2013年『相楽歴史散歩』(山城ライオンズクラブ・共著)

この本は何年もかけて、資料にも詳しく当たって、裏付けも取って、まとめられた、文字通り「労作」と言えるもので、小西氏の営為に脱帽である。 おめでとうございます。

先ず、文句を言うようだが、私が読んで「違和感」を覚えた点を指摘したい。

本文は、目次に出ているルートを辿るかたちで描写されるが、先ず指摘しなければならないのが、叙述が「です」「ます」調の会話体だということである。
この文体は文芸評論家の中村光夫が取り入れたもので、ひところ真似されたが、小西氏の場合、感じを柔らかくしようとの意図であろうと思う。
普通に見られる「である」調は、文章の冗長さを避ける意味で長年の間に習熟されてきたもので「文章語」として、読みやすいものである。
第二に指摘したいのは、「目次」に見られるように「項目」建てが極端に少なく、宇治の地理に詳しくない人間には読みにくい、ということである。
目次にしろ、本文にしろ、もっと「項目」は細かく立てて、読みやすくする必要があろう。

歌や俳句の頭に丸数字が見られるが、これは文学碑の一連番号らしい。全部で52ある。
これなどは、巻末などに番号順に「文学碑一覧」として書き出すのが親切というものだろう。
著者は、実地に歩いて探訪されたので分かり切ったことであろうが、読者に「著者の歩き」を強いるのは、いかがなものか。
読者は、どこからでも「任意の個所を開いて」読めるという親切さが必要ではないか。
最近よく見られることだが、例えば、マラソンとか駅伝の実況で、解説者のコメントが、ずらずらと長いのは興ざめするのと同じである。
文章は、というか、センテンスは短く、歯切れよく「区切りたい」ものである。
それに、手書きのイラスト風でいいから、文学碑の所在地を示した「地図」がほしい。


先ず「苦情」から述べた無礼をお詫びする。
こんなことを言う人は、先ずいないと思うから、あからさまな、「敢えて」の助言と受け取ってもらえば有難い。

著者の、細かく資料に当る姿勢には敬意を表します。とにかく「実証的」で、私のような感覚的な人間には出来ないことである。
小西氏の勉強ぶりには頭が下がります。

大部の本なので、ほんの一部を採り上げるが、本文の鑑賞に入りたい。
「巨椋池干拓碑」というネットの記事がある。先ず、この記事を下記に引いておく。 ↓

京都府宇治市槇島町一ノ坪(巨椋池土地改良区事務所内)
建立年 1942年
建立者 巨椋池土地改良区
寸 法 高360×幅150×奥行30cm
碑 文
[西]
巨椋池干拓之碑【題額】
此地モト巨椋池ト称シ往古宇治木津桂三川ト連レル一大湖沼ニシテ後世漸次改修ヲ経シモ明治中期マデハ沿岸」
一帯ノ水禍連年絶エズ尋イデ同四十三年淀川改修ニ因リ独立ノ一沼沢トナリシニ災害尚終熄セズ而モ水運魚獲」
ノ利益ハ失ハルルコト多キニ到レリ土地ノ先覚者夙ニ之ヲ憂ヘ大ニ其根本的干拓ノ急務ナルヲ論ジ初メ府営ヲ」
冀ヒシモ果サズ是ニ於テ干拓期成同盟会ヲ興シ現地ノ自営ニ頼ルノ已ムナキニ及ビ又幸ニ 昭和ノ御代ニ入リ」
国営開墾ノ議起ルヤ好機ヲ逸セズ万難ヲ排シ一意之ガ実現ニ努メシ結果同四年帝国議会ニ豫算ノ通過ヲ見更ニ」
幾多曲折ノ後漸ク同七年二月本池施工ヲ決定セラレ十一月耕地整理組合ヲ結成シ翌八年六月起工ノ運ニ会ヘリ」
爾来八年有餘ノ歳月ヲ閲シ同十六年十一月竣工ヲ告ゲ遂ニ多年ノ宿望ヲ達スルヲ得タリ而シテ干拓事業ノ経営」
ハ政府ト京都府ト組合トノ三者協力ニ依リ経費ハ国庫及ビ組合ノ支出ニ係リ合計三百四十二万四千餘円ヲ算シ」
以テ干拓田六百五十町歩及ビ周囲既耕地改良一千餘町歩ヲ得タリ
抑モ巨椋池ハ古ク万葉集ニ其名著ハレ爾後文人墨客ノ来遊相継ギ沿岸亦史蹟ニ富ム近年天然記念物ニ指定セラ」
レシむじなもノ如キ水藻ヲ首メ各種鳥類魚族ノ一大繁殖地ニシテ周辺住民ハ祖先以来其恵沢ニ浴スルコト尠カ」
ラザリキ即チ累年ノ水害ニモ屈セズ恒ニ郷土ノ風物ヲ愛護シ伝統ノ生業ヲ継紹シテ以テ現時ニ及ベルモノ洵ニ」
故アリトナス吾等此地ニ生育シ親愛ノ情浅カラザリシニ今ヤ地勢ト景観トノ一新セルヲ望メバ懐旧ノ情甚ダ切」
ナリ而モ滄桑ノ変ニ深ク 聖代ノ餘徳ヲ感ゼザルヲ得ズ況ヤ 皇国未曾有ノ時局ニ直面シ食糧増産ノタメ干拓」
地域ノ利用多大ナルヲ惟ヘバ吾等ノ光栄ト欣悦トハ文詞能ク尽スヲ得ザル所ニシテ住民積年ノ艱難ト奮闘ト亦」
初テ報イラレタルニ庶幾キヲヤ即チ上下内外ニ亘リ関係各方面ガ一致協力ノ賜物ナルヲ顧ミテ向後一層ノ人和」
ヲ計リ粉骨砕身厚生ニ資シ以テ時局克服ニ貢献センコトヲ期セザル可ラズ乃テ蕪文ヲ撰シテ大要ヲ叙シ之ヲ後」
昆ニ伝ヘント欲ス細事ハ別ニ巨椋池干拓誌ニ詳ニス
昭和十七年十一月
農林大臣 井野碩哉篆額 巨椋池耕地整理組合長 池本甚四郎撰文 松窓吉田芳男書」
[西]
巨椋池干拓摘録
一工事直前ノ巨椋池 周囲四里 面積八百町歩 水深平均三尺
一起工 昭和八年六月 竣工 昭和十六年十一月
一開墾干拓事業費 参百四拾参万四千円
一成功反別 六百五十町歩 既耕地改良 一千三十四町歩
一主ナル関係者
創業期
池本甚兵衛 玉井源次郎 藤田為治郎 山上歌吉 奥山仙造
田村秀太郎 内田又右衛門
久世郡長後藤善二 京都府技師樺島多賀助 同高橋藤五郎
施工期
国営事務所
所長可知貫一 狩野直* 高橋嘉吉
京都府
知事斎藤宗宜
耕地課長樺島多賀助 地方技師宮本憲象
干拓事務所長石垣茂市 金子武馬 樺島多賀助 奥田一郎
耕地整理組合
組合長玉井源次郎 山田賀方 池本甚四郎
-----------------------------------------------------------------------------
長く引きすぎたかも知れないが、ここには巨椋池の概要が詳しく書かれている。
宇治川、木津川、桂川という三川合流地にあって、それらの川の「遊水池」として機能していたのである。
水深は平均三尺(約1m)とあるから浅い池であった。
それが三川の改修によって高い堤防が築かれ、「内水」池となって水質が悪くなった様子が読み取れる。だから「干拓」となったのである。

さて、本題の文学碑のことである。

    鳰浮いてなごりの池の夕茜    水也

この句碑は平等院の傍の宇治市観光センターの敷地内にあるという。小西本63ページ。文学碑の一連番号では⑫となる。
これは、先に、くどくどと引いた文章の中に出てくる「池本甚四郎」の句である。「水也」が彼の雅号。
干拓という水にまつわる仕事に精魂を果たした人として、この雅号は、ぴったりである。
いま検索してみたが、Wikipediaには登載されていないが、京都府議会議員から国会議員として京都二区から出て当選している。戦前のことである。
彼は小倉村の出身で、父親の後を継いで干拓に尽力したとあるので、小倉村の有力者だったろう。
小倉村は巨椋池の周縁部にあって、水が増水しても、ここまでは漬かなかった。
昭和28年に淀川が決壊して、辺り一面が元の巨椋池に戻るという災禍があったが、そのときも、この地域は水に漬かなかった。
小倉村久保 という集落には今でも丸久小山園、山政小山園、共栄製茶などの豪商の抹茶専門の茶問屋が軒を並べている地区だが、これらの店の旦那衆は余技として俳句などを嗜んだ。
池本甚四郎も、そのような系譜に連なるのだろうと推察できる。

この句の載る原本は、池本氏の『句日記』昭和23年の項にみられる、とあるが、そこでは

    鳰浮いてなごりの池の夕

と出ているという。 これは本にするときの活字の拾い間違いによる誤植だろう。
私は家業の商売の「山城園報」というパンフレット制作の関係で、幼い頃から印刷所に出入りしていたが、活版印刷の場合、活字は「部首」ごとに整理されている。
だから「茜」という字は「草冠」の部首に入っている筈なのだが、拾うときに間違って「日」偏の「晒」という字を拾ってしまったか、活字を仕舞うときに間違って「茜」の棚に戻してしまったか、である。

とにかく、小西氏の検証は綿密で、行き届いていて敬服するばかりである。
本文に何も触れない、という無礼を免れる意味から、この池本氏の句だけ引いておくので、お許しいただきたい。

この本の趣旨とは離れるが、小西氏は南山城の名士であられて、あちこちに文章を書いたり、講演したりなさっている。
その中で、下記 ↓
JA京都やましろ「やましろ探訪」南山城文学散歩⑪」

の記事を見かけたので、読んでみてほしい。全部で⑫のシリーズものである。
赤字の部分は「リンク」になっているので、クリックして読んでください。

碌な本文の鑑賞に入ることなく終わるのは逡巡するが、本文の鑑賞は、詳しい人の解題に待ちたい。
不躾な物言いをお詫びします。私の真意をお汲み取りください。有難うございました。   (完)


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