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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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「詩と詩人集2019版」所載作品「後水尾院と一絲文守。立花と庭園。」・・・木村草弥
詩と思想_NEW
 ↑ アンソロジー「詩と思想・詩人集2019」 /2019/08/31刊
320px-一糸文守
↑ 一絲文守 肖像 
ikebana_rikka_pic2_l立花正風体
 ↑ 「立花」正風体
img1b334b6bzikfzj修学院離宮
 ↑ 修学院離宮 下の茶屋から

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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──草弥の詩作品「草の領域」──(95)

      後水尾院と一絲文守。立花と庭園。・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・アンソロジー「詩と思想・詩人集2019 」所載・・・・・・・

   一絲(いつし)文守(ぶんしゆ)は後水尾院に寵愛された僧である。
   後水尾院は政治的、権力的な繋がりの人物よりも、
   こういう文人肌の人を好まれた。
   院は弟の近衛信尋の仲介によって、彼に出会った。
   ただ若くして早逝したので、長命の院と違って、
   エピソードには乏しいが、いかに寵愛されたのかが
   判るのが、死後三十年も経たのちに「仏頂国師」の
   号を贈られていることである。

   後水尾院が力を注がれたのが「立花」と「庭園」だ
   と言われている。

   「立花」は、譲位後の後水尾院が和歌と並んで最も
   情熱を注いだ遊芸である。
   いわゆる禁中大立花(寛永立花)においては、二代・
   池坊専好が後水尾院の庇護のもと指導的役割を果た
   している。
   今日、立花を高度の芸術として大成させたのは専好
   とされるが、日本花道史の側からみても後水尾院は
   最大のパトロンの一人であった。
   近衛家熙が記した『槐記』の享保十三年(一七二八)
   二月四日の条には、立花に才能を発揮していた尭然
   法親王(獅子吼院。後水尾院第十皇子)に対して、
   後水尾院が、自分の歯が悪くなったのは立花のため
   であるから、ほどほどにせよと忠告したという逸話
   が載っている(一般に、物事に凝ると歯が抜けると言
   われる)。もっとも、この話には落ちがあって、法親王は、
   後水尾院の歯が抜けたのは立花のせいではなくて
   和歌のせいだと言って笑ったという。

   「庭園」は、もちろん修学院山荘のことである。
   寛永十八年(一六四一)頃鹿苑寺の鳳林承章に命じて
   衣笠山付近に適地を求めさせるなど検討を統けて
   いたが、明暦元年(一六五五)長谷への行幸の途次、
   第一皇女梅宮(文智女王)のいた円照寺に後水尾院が
   立ち寄ったところ、その一带が気に入り、ここに山荘
   を造する構想が成ったらしい。
   万治三年(一六六〇)頃には、ほぼ完成していた。
   現在では、上・中・下の茶屋が存するが、万治にでき
   た当時はまだ中の茶屋はなかった。
   上の茶屋は最も壮大な庭園で、小高い隣雲亭に立って、
   眼下の浴竜池から遥か京都北山一带へと目を移していく
   と、雄大な景色を我が物にしようとした帝王ぶりを味わ
   うことができる。

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かねて原稿提出中の本書が、早目に刊行されたのでアップしておく。
どうということのない散文詩である。
これは昨年刊行した『修学院幻視』に関係する記事で、もともとの原稿にあったものだが、詩集からは省略したものである。
ここに、それを補うものとして出しておく。







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