ねがはくは花のもとにて春死なむ
その如月の望月のころ・・・・・・・・・・・・・・・西行法師
もし願いが叶うならば、爛漫たる桜の花のもとで死にたいものだ、まさにその二月十五日の満月のころに。
古来、日本の歌や句では「花」というと「桜」の花を指す決まりになっている。
「如月の望月のころ」は旧暦で二月十五日、望月─満月のことであるが、今の太陽暦では三月末にあたる。
西行の熱愛した桜の花盛りの時期だが、その日は、また釈迦入滅の日でもある。仏道に入った者として、最も望ましい死の日だった訳である。
この歌は、自分の歌の中から秀歌72首を自選して三十六番の歌合(うたあわせ)の形に組み、藤原俊成に判を求めた「御裳濯河歌合」(みもすそがわうたあわせ)に含まれている。
時に、西行70歳。
3年後の建久元年2月16日、彼は驚くべきことに、願った通りの時に死んだ。73歳だった。
西行が入滅したのは、河内の弘川寺(現在の大阪府南河内郡河南町弘川)である。
先に書いたように釈迦涅槃の日に、しかも熱愛していた桜の満開の望月の時、という頃に命を終えたということが、世人の深い感動を誘ったのである。
写真①②は弘川寺。
因みに、芭蕉をはじめ、西行の足跡を慕って諸国を行脚した歌人や俳人はかなりの数にのぼるが、西行終焉の地・弘川寺を突き止めたのは、
享保17年(1732年)、藤原俊成の『長秋詠草』の記事によって発見した歌僧・似雲であると言われている。
いま弘川寺を訪ねると、似雲が再興したと伝える「西行堂」が本堂背後の丘にあり、その脇に川田順の筆になる
<年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山>・・・・・・・・・西行(山家集)
の歌の石碑が立つ。
そして木下闇の広場には佐佐木信綱の書で
<仏には桜の花を奉れわが後の世を人とぶらはば>・・・・・・・・・・西行(山家集)
の大きな歌碑が立っている。
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写真③は、本堂を見下ろす場所にある西行堂。
以下、Web上に載る記事を転載しておく。
(草弥・註。↓ この記事はその後抹消されたらしい)
弘川寺・西行終焉の地を訪ねる(大阪府南河内郡)
春風の花を散らすと見る夢は 覚めても胸のさわぐなりけり 西行
西行に興味を持ったのは、
十数年前、藤田美術館で西行伝筆の一幅に出会ってから…。
にわかにも 風の涼しくなりぬるか 秋たつ日とは むべもいいける
よみ人知らず・西行・伝・筆とされる。ようするに詠んだ人は不詳だが西行が書いた「書」であると伝えられる高野切れの一幅。記憶のままなので正確であるかどうかの保証はない。この時代にはときの階位が低いと「よみ人知らず」とされるようだが、仮に西行が詠んだ歌ではないにしても何らかの意図を持って西行が書いたことはほぼ間違いがないし、何より覚え易い。
三度ほど暗誦して諳んじることができる。
西行の歌ほどすんなり心の内部に入ってくる歌はない。あまり歌に詳しくはないが、その頃の貴族の生活や社会環境まで併せて考慮しなければならなかったり、ときの職業歌人が技巧を弄したような歌もあまり好きではない。前段階での勉強が必要な歌に、私自身はなかなか共感できる深みにまで達することができない。もしくは私にそこまでの余裕がないか…。
西行の歌に、ある意味、辞世のような迫真性を持つ歌が多いと思うのは私だけか。
とにかく、以来…私はどんな炎暑の夏も、ある時期がくれば毎年のように前述の、よみ人知らず・西行・伝・筆の句を思い出し、その度に西行のことを思い出す。その季節ともなれば、夏の南風とは違う微かな涼風に、たしかに秋の訪れを感じるし、それは900年の時間を飛び越えて感じる同じ風のように思えるからだ。
弘川寺は天智天皇の四年、役行者によって開創され、天武、嵯峨、後鳥羽、三天皇の勅願寺で、本尊は薬師如来。西行終焉の地としてその名を知られる。
西行堂は、江戸中期、西行を慕って広島よりこの地を求めた歌僧似雲によって建立された。
晩年の西行はこのあたりで起居し歌を詠み暮らしたのだろうか。
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私事で恐縮だが、私の姉・登志子は昭和19年2月に結核で死んだが、死期を悟ってからは、しきりに花の下で死にたい、と言った。
その花とは、私たちの村は梅の花の名所であったから、「梅」の花を指しているのだが、彼女の意識の中には、
花の種類こそ違え、西行の、この歌があったのは確かなことであった。
そして姉は、その願いの通り、梅の花咲く季節に死んだ。
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