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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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光本恵子『口語自由律短歌の人々』・・・木村草弥
光本_NEW

──新・読書ノート──

     光本恵子『口語自由律短歌の人々』・・・・・・・・・・・・木村草弥
                   ・・・・・・鶫書房2019/03.29刊・・・・・・・

先ず、版元の「鶫書房」というのは、「ながらみ書房」の編集者だった爲永憲司氏が昨年、独立して設立されたところである。
この本は、光本恵子氏が「長野日報」紙に二十年にわたって書き続けて来られたものを一冊にまとめられたものである。
その息の長い営為に敬意を表したい。
「口語自由律」の歴史は長い。
この本の「裏・帯」に「本書の主な登場人物」として、ずらっと名前が出ている。
煩を厭わず、書き抜いてみる。

青山霞村/浅野英治/足立公平/井伊文子/石川啄木/石原純/石本隆一/伊東音次郎/伊藤文市/稲村謙一/太田静子/太田治子/大槻三好/香川進/笠木次郎/川窪艸太/川崎むつを/草飼稔/児山敬一/佐藤日出夫/清水信/抄滋郎/逗子八郎/炭光任/高草木暮風/田中収/近山伸/津軽照子/津島喜一/土岐善麿/中野嘉一/鳴海要吉/西出朝風/西村陽吉/長谷川央/花岡謙二/原三千代/平井乙麿/藤井千鶴子/藤本哲郎/古川眞/前田夕暮/松本昌夫/松本みね子/宮崎信義/森谷定吉/柳原一郎/山田盈一郎/六條篤/渡辺順三

なぜ煩を厭わず書き抜いたかというと、私には未知の人が多く、採り上げるのが困難だからであり、せめて「名前」を挙げて敬意を表したい、と思ったからである。

新聞連載という字数の規制があるので、一篇は短い。だから「触れられる」ことにも限界がある。
私が知る何人かについて、極めて「私的」な、かつ、「恣意的」な記述に終始するが、ご理解を得たい。

香川進のこと。
私は短歌を始めて、地元で「梅渓短歌会」というのを作って知人、友人たちに声をかけて二十数名で月一回「歌会」をやり始めた。
その際に、私は国文学徒でもないので、誰か指導者に来てもらいたいというので「地中海」の幹部だった船田敦弘氏を招いたのである。
彼は高校の国語の教師だった。
その縁から「地中海」短歌会に数年所属したことがある。
その時に船田氏宅で『香川進全歌集』に接した。
私は若い頃から「自由詩」に接していたので、香川の「自由律」の処女歌集『太陽のある風景』に注目した。
そこから勧められるままに「香川進の自由律短歌についての私的考察」 (「地中海」誌1994年~1995年)という毎号連載の文章を書かせてもらった。
いま私の手元には、それらの掲載誌が無いので、詳しく検証することが出来ないのを許してもらいたい。
私の論の趣旨は、この歌集の根底には、徳永直の小説『太陽のない街』が、色濃く反映されているという論で、それらを立証しようとしたものである。
この徳永直の小説は、当時のプロレタリア文学の一つの到達点として、高い評価を得ていたらしい。
題名の付け方が、明らかに徳永の本を意識したものになっている。そこに私は着目したのであるが。
それらは勿論ことば足らずで、「地中海」内でも話題にはならなかった。
話は替わるが、香川進というと、前衛短歌華やかなりし運動にブレーキをかけるべく、保守派からの働きかけの先鋒として活動し、角川「短歌」編集部に山本友一を編集長として送り込むなどの策動をしたと言われている。
一年近く、この記事を載せてもらったが、香川進は何の発言も、反論もなかった。読んでいなかったのではないか。
ただ、今でも「香川進・検証」ということが「地中海」内でやられていて、その分厚い本が私あてに送られてくるということは、私の文章が意識されているということだろうか。

前置きが長くなった。
光本氏の本では「口語自由律歌人 香川進」 「歌集『湾』と香川進の逡巡」 という二つの項目の文章がある。
前者は『太陽のある風景』を、後者は『氷原』 『湾』について触れている。
そして、昭和56年の或る会で「宮崎信義の弟子」だと告げると、大きな体と手で私と握手したのであった、と書かれている。

1958年『湾』で第4回日本歌人クラブ推薦歌集(現日本歌人クラブ賞)受賞、1973年『甲虫村落』で第7回迢空賞受賞、1992年『香川進全歌集』で第15回現代短歌大賞受賞。
また「宮中歌会始」の選者をするなど、歌壇では栄達した地位を占めていた、と言えるだろう。
だから香川進は「地中海」内では「カリスマ」的な扱いになっていて、自由な発言が出来ないような雰囲気にあることを、敢えて書いておく。

石本隆一も香川の弟子で、独立してからの彼の結社名も「氷原」であるのも、香川の第二歌集『氷原』の名前をもらったものである。
彼についても「石本隆一のこと」という文章が4ページにわたって書かれている。
角川「短歌」編集長を務めているが、これも香川進の推挙によるものだろう。

高草木暮風断片(一) (二)
もちろん私は彼の歌については何も知らないが、大学に居た頃、人形劇マリオネットをやっていた友人に誘われて、その練習に立ち会ったことがあるが、その会場が高草木暮風の家だった記憶がある。
昭和二十年代のことである。すでに結構な老人であった記憶である。確か「右京区」だっと思う。
「高草木」という名前が特異なので記憶に残っているのである。
彼の歌に関することではなく恐縮するが、いま思い出したことなので書いておく。
この本によると、昭和34年に67歳のときに脳出血で倒れ、左半身不随になり、昭和40年73歳で亡くなった、書かれている。
私が姿を見かけたのは、まだ元気だった晩年ということになろうか。

浅野英治の歌。
彼についても4ページの文章がある。4ページというのが、新聞連載の一回のスペースだったらしい。
彼も独特のキャラクターだった。
私は会ったことはないが、手紙などで何度も文通した。
彼は東京で、喫茶店かスナックをやっていて、そこが文人、歌人の溜まり場になっていたらしい。
光本氏の本によると吉祥寺の「スナック・パピヨン」だという。
彼が自由律の結社として会誌「倚子イシ」を出していたが、この独特の名前を付けたのが玉城徹だと聞いた。
私は、これを「椅子」と書いて、こっぴどく叱られたことがある。
彼は、そういう点で歌人には顔が広く、新年の角川名刺交換会ではあちこち挨拶に回っていたらしい。
宮崎信義は短歌研究社とは懇意であったが、角川編集部には余り縁がなく、浅野英治を頼って、この会にも出たらしい。
その頃の宮崎信義の口ぶりでは「浅野さんは東京では有名人でっせ」ということだった。
とにかく病身の人で、地元の四日市辺りの出版社から次々と歌集を出すのが印象に残っている。
我の強い人で、少しでも彼の言い分に反論すると、とたんに交友を絶ってくるという人だった。

余り長すぎると迷惑なので、そろそろ終わりに入りたい。

「作歌工房─日本の詩歌の韻律に関して」 (「新短歌」誌1996年~1997年)という枠を貰って、この表題で見開き2ページの記事を毎号連載で一年余り書かせてもらった。
いま手元に原本が無いので、間違いがあればお許しを得たい。
この記事を書いているときには、「新短歌」のナンバーツーを自称する川口克己から陰に陽に「嫌がらせ」を受けた。
彼も亡くなった今だから、遠慮なく書くことが出来る。
私が宮崎信義のもとを離れる決心をしたのも、それが原因である。
このような「嫌がらせ」は他にもあったようで、奈良の「潮」の藤本哲郎が「新短歌」をやめたのも、私と同じだったかと思う。
今でも思い出すが、細かい几帳面な字で、びっしりと書いてきたものである。
そんな時も、宮崎信義は、しれっーとして知らん顔をしていて、そんな一面が宮崎にはあったことを書いておきたい。

極めて「私的」な、かつ、「恣意的」な記述に終始したことをお許しいただきたい。
私も卒寿という齢になったので、遠慮なく書かせてもらったことを告白しておきます。 どうか、お許しを。
書き足りなかったことは、後日、補筆することがあるかも知れないので、予めお含みを。
ご恵贈有難うございました。          (完)





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