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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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小野雅子歌集『青陽』鑑賞・悲傷──メビウスの環・・・木村草弥
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小野雅子
 ↑ 小野茂樹夫人・小野雅子歌集『青陽』ながらみ書房刊平成九年七月十日
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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──新・読書ノート──

小野雅子歌集『青陽』鑑賞    「地中海」誌 一九九七年十月号 掲載

       悲傷──メビウスの環・・・・・・・・・・・・木村草弥

久我田鶴子の『雲の製法』を先日読んだばかりの感慨のさめぬうちに、この歌集にめぐりあうことになった。
いまは亡き小野茂樹の、余りにも有名な
・あの夏の数かぎりなきそしてまたたった一つの表情をせよ
 と詠われた、その人の歌集である。
久我はその本の中で山川方夫の作品の特質についての川本三郎の言葉を紹介して、「耐える」という静かな受容の態度の「スティル・ライフ」(静物画)のような、と表現している。
この亡夫君の特徴をとらえた評は、そのままそっくり、この『青陽』という歌集一巻を通底するものとして把握できるのではなかろうか。
巻頭の歌は
・家の中を風とほりゆき初夏の朝の光はみどりに染まる
これは叙景という具象を通過することによって抒情したものと言うべきである。
それは、おのずから亡夫君の逝った五月に通うであろう。
・夕茜いろ褪せゆけば三日月は淡き白より金色となる
・明けそむる窓の幅よりなほ長き雁の棹ひがしを指して消えゆく
などの歌にも同じことは言える。しっかりとした叙景に支えられた心象詠というべきものである。
こういう観察の精細さ、確かさによって、歌はいずれも確固とした存在感のあるものとなっている。観念だけの、うわ滑りの歌ではない、安心して読める作品がつづく。
「季節」を詠って、それが亡夫君への思慕へと傾斜してゆく作品を拾うと
・花の季を過ぎたる枝を仰ぎ見る還りては来ぬ花、時、人よ
・灯のゆくへ問はずにおかむ川を往き海の果てゆき空に連なる
・夏空は昏れむとしつつひとひらの雲さへあらぬ悲しみのごと
・走るがに時は移りてみどり濃し想ひは季に届きがたしも
・花冷えの夕出しに行く三通の手紙どれかは過去へ着かぬか
・花の木の下に集ひし若き日の人らの中に夫だけがなき
そして、これらの歌を通過して
・街灯のひかりの域にしろがねの斜線を引きて夕立のとき
・若者のドラマみるよる空蝉のやうなる揚げたそら豆の殻
のような喩の表現の的確な歌に出逢うことが出来る。
一首目の歌の「しろがねの斜線」という比喩は驟雨を描いた安藤広重の版画の景をも想起させる「絵画的な喩」となっている。二首目の歌の比喩は何でもない日常の現代風景を描きながら、そら豆の殻の空蝉のやうなる、と表現して、比喩だけではなく、どこか白けた現代の若者を象徴することに成功している。
また
・瞑りゐるわが右側は恋のはなし左にリサイクルの話が聞こゆ
・待合室の老女ふたりは日日炊ぐ米の量より会話はじめつ
のような「聞くともなしに聞いている」日常の景をトリミングして、文芸表現の域に高めた作品がある。しかも前者からは「環境」問題を、後者からは老齢者あるいは独居老人のことなどを考えさせる。現代に生きる問題意識をも提起しているというべきだろう。
・他人の掌の湿りとどむる吊革の白き握りにすがるほかなし
なども、現代の日本の「クリーン志向」を詠っているとみることも出来ようか。
歌を詠むほどに、亡夫君がある顕ち出でて仕方がないという風情の歌がつづく。
・ペーパーナイフに弾みをつけて紙を切るかく切り捨てて生きたきがあり
・とほき日に夫の言ひたるそのままにわが癖を娘が指摘し嗤ふ
・伝へらるるは死にゆける者伝ふるは生きてゐる者いつの世にても
・曲り多き道ゆきたればわが想ひ研がれて淡きものとなりたる
・いとほしき人は逝きても涙する朝夕あればわれは生きゆく
・口紅のケースを握りしめて描く元旦のわが唇の弧を
これらの歌は、時をへだてても、なお、生々しく起こって来る「悲傷」というべきものである。
その極限にあるのが
・闇にゐてスイッチの位置をさがしゐるこの指先をいのちと言はむ
・闇の中に力をこめて手を開くかく生きそしてにんげんは死ぬ
のような歌である。ここには「孤り」の人間の姿が詠われている。それは「情念」とも言えようし、また反対に「諦念」とも言い得ようか。
巻末の一首は
・人間に生れしことの幸ひに思ひ至れば濃き濃きみどり
これは「人間」というよりは「茂樹」の愛に包まれて一人の「女」として生きてきた「幸ひ」に「思ひ至った」のであろう。そして「濃き濃きみどり」という若葉の五月に想いは巡って、それはメビウスの環のように、亡夫君の若葉の下の死につながってゆく。
先に述べたことが「悲傷」というのは、そういう意味において作者の想いを的確に要約出来ると思う所以である。

歌集の「帯」で発行人及川隆彦氏は「髪」かんむりに「春」つくりという難しい字を使って「髪がなびく」の意味に訓ませたいらしい。この字はJIS第二水準のリストにもないのだが、白川静の「字通」を繙いてみると、この字は、抜け毛、髪が乱れる、の意味とある。この字は「帯」という字をつけて熟語にすると「かみかざり」の意味になると書かれている。
夫君を亡くして何年たっても「悲傷」の日々はつづき若葉の五月が巡って来るが、春の「かみかざり」を飾ってユーカリの木の下に佇む作者の姿が、まざまざと見えるようである。
そういう思いのする一巻であった。    (完)
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この記事は、ただいま私の手元になくて、PCにも保存していなかったので、小野雅子さんにお願いしてコピーを送っていただいた。
いま読み返してみても、われながら、いい記事である。
「悲傷──メビウスの環」という題名が何とも的確である。
このようにPCの「my document」に保存したので、いつでも取り出せる。
有難うございました。


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