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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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宮柊二『砲火と山鳩』─宮柊二・愛の手紙・・・木村草弥
宮_NEW

──新・読書ノート──

      宮柊二『砲火と山鳩』─宮柊二・愛の手紙・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・・河出書房新社・昭和63/07/30刊・・・・・・・

2015年の春、宮柊二夫人の宮英子さんが98歳で亡くなられた。
角川「短歌」10月号は「追悼・宮英子」として特集記事を載せている。その中で、この本に収録されている書簡についても触れられている。
そんなことで古書で買い求めてみた。箱入りの豪華な装丁の本である。
発行当時の値段で2600円と書いてあるが、私が買い求めたのは1000円プラス送料という安価なものであった。
外装の箱は経年で多少汚れてはいるものの、中は新本と思えるほど綺麗なものである。

この本は柊二が昭和61年12月に死んで、夫人が戸棚にしまいこんであったものを出して、出版されたものである。
当然、夫人から柊二あてに出された「往」の手紙があるのだが、それは柊二は戦場に居たから帰ってくる時に持って帰れる訳もなく、現存しない。

先ず「目次」を引いておく。

目次
第1章   出会いから出征まで(昭和14年)
第2章a   戦中書簡(昭和15年)
第2章b   戦中書簡(昭和16年)
第2章c   戦中書簡(昭和17年)
第2章d   戦中書簡(昭和18年)
第3章   帰還から結婚まで(昭和18年、19年)
第4章   旅中書信ほか(昭和19年)
第5章   再応召、終戦、疎開先へ(昭和20年)
 補 注    中山礼治
 あとがき   宮英子

掲出した画像の「帯」文でも読み取れるが、この帯の裏側に、英子夫人の「あとがき」の一部が載っている。

   軍事郵便・・・・・・宮英子
・・・・・柊二を裏切るような、後めたさで私は揺れている。
ただ、一方では私を急たてる或る焦りに似た気持が突き上げてくる。
それは、日本各地にはまだ軍事郵便がたくさん残っているはずである。
しかしその所有者はもう年老いた。このままにしておいては埋没してしまうのではないかという危惧が湧く。
(略)この『砲火と山鳩』が皮切りとなって、誰方か集めて下さる奇特な方があらわれらいものだろうか。
今さら軍事郵便などねという声もあろうが、切に願わずにいられない。  (「あとがき」より)

ここで、「あとがき」の出だしの部分を引いておく。

   あとがき          宮英子

この戦中書簡は、昭和14年2月から昭和20年10月に至る期間に、柊二から英子にあてた私信である。格二の二
十七歳から三十三歳、英子二十ニ歲から二十八歲。出会いから結婚後の疎開先までの二百通あまりだが、出征し
た中国山西省からの軍事郵便が大半を占めている。「軍事郵便」という言葉は、今は耳慣れない死語であるが、
戦時中は戦地からの書簡はすべて検閱印と「軍事郵便」の判が赤く押されて届いた。
これらの手紙は、結婚してからはお互いにかえりみようともしなかったが、それでも年度毎に束ねて手文庫に
入れ、押入れの上の戸棚に蔵いこんで、いつしか忘れられていた。三十年、四十年と歳月を重ねるにつれ、いっ
たい何が書かれていたのか、ところどころの文言隻句もうろ覚えで、また思い出したりしては今更めいて困る昜
合もあり、互いに見ない振りをしていた節もある。
昭和61年12月に柊二は死去し、亡くなってみると、生前書き散らした一片の紙片や日記の断片も大切で、反古
同様にしまい込んでいたこの戦中書簡をなつかしく取り出した。つづまるところ私に宛てた唯一の語りかけであ
る。読みかえすうちに、古びた便箋や葉書のこれ以上の手擦れが忍びがたく、 一信二信を害きうつした。そのう
ちにやむにやまれぬ気持に駆りたてられ、写経でもするように手紙の書き写しにのめり込んでいった。そして、
あたかもはじめて読んだ手紙のように、涙を流したりした。・・・・・・

柊二は戦地に居たときは「山西省」の最前線であったが、昭和18年に一旦、召集が解除されて帰国する。
書簡として、先ず引くのは、その前のものである。    ↓
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昭和18年4月23日 同前/東京市淀橋区戸塚町一 ノ三九二 滝口英子 (葉書)
四月九日附の御手紙拝受いたしました。ある命令で太原を通過するをり、時松さん夫妻にお会ひして、
時松さんがあなたにいろいろ御手紙を差上げてゐる様子を聞きました。御好意はありがたいのですが、
あまり当にしないやうに。
戦友一人内地に帰還するといふ。或る命令のもとにありて会ひがたければ。

   すがやかに帰りゆけこそ四とせほど離りをりたる日本の国へ
   敵中へ揉みこみし錐の尖ぞとも君と別れの会もせなくに
   トウチカに月照るときにあらあらしくわれはゐるとも汝を偲ばむ

といつた具合に自分達の殆どは延びて(注・1)、何時になるか判りません。只今をりますところは山の山の
中の山の上。粛然たるあけくれの中に敵を警戒してをります。若い戦友達を教へる一方、自分の勉強
もしてゐます。暁早く敵を求めてゆくときなど、林中の斑雪に月が青く照り、猪が伏し、ノロの群集
が目ざとく跳躍して逃げ、雉鳩がこもり音に鳴いたりします。文才あればバイコフの虎でなくて、柊
二の猪をものするのだが、正直申せばそんなこととは遠い切迫した状況の中にゐます。
注1 ─内地帰還を指す。
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戦中にあっても、このハガキに見られるように「歌」を作って書いてある。 立派なものである。
次に引くのは召集解除で帰国した時期のもの。  結婚式の段取りとおぼしきやりとりなどが見える。 ↓
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昭和18年10月8日/横浜市鶴見区鶴見六〇二 宮肇/東京都淀橋区戸塚町一 ノ三九二 淹ロ英子(葉書)
拝呈 只今郷里から立ち帰り御芳翰拝見いたしました。御文面の趣、父母姉らが戻りましたら申述べ
て相談いたし度い心組でゐます。
会社(注─1)には十三日頃から出社するつもり。個人的挨拶廻りは一切許して頂くつもり。一日も早く働か
ないと、戦歿した戦友や、今なほ御奉公してゐる戦友に申訳ありません。気がせかれて困ります。
先日は夜分御伺ひして大変失礼いたしました。御病気と伺つたので、何の心構へも心配りもなく伺つ
てしまひました。戦地帰りのあさはかと御許し頂きます。御従兄御夫妻にもよろしく御取りなし願ひ
たく存じます。当分は御面接申上げることも遠慮した方がよろしいでありませうか。片附けられるこ
とから早く片附けて、一月後になりますか、二月後になりますか、再度のお召しをこころから待ち度
くおもひます。
(注─1) 富±製鉄所に復職。

「再召集」され軍隊に復帰したが、戦争末期で渡航するのにも船は沈められて、無く、内地で、しかも故郷の新潟県に布陣していたようである。
先の帰国で二人は結婚して、さっそく妊娠した様子が手紙に窺える。  子供が男か女かと思案して、女の子なら「草生」という言葉が見られる。これは長女の名前となった。  ↓
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昭和20年6月20日/新潟県小千谷町東部第三六三九四部隊三宅隊 宮肇 (葉書)
〇赤ちやんは男だらうか女だらうか。よだれ掛けと夏帽子を買っておいた。いづれ外泊でも許された
ら、又はお前が面会に来られたりした時にあげる。女だつたら「草生」より「衛子」の方がよいやう
に思ふが、どちらに命名した。 (後略)
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宮柊二と歌集『山西省』 ← などについて拙ブログに載せたので参照されたい。
これを読んでいただけば、よく判ると思うが、宮柊二は戦争についても誠実な態度に終始した。
今日的な意義もあると思うので、あえて出しておく。



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