
食(は)むといふ営為はかなし今たべし
蜜柑の香りををとめはまとふ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
早生みかんのシーズンが終って、本格的な「蜜柑」のおいしい頃となった。
この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、体に食べたばかりの蜜柑の香りを漂わせている少女の姿から
「食むといふ営為はかなし」という想いに至った心境を述べている。
この歌集を上梓して、すぐ親しい友人から、日野草城の句に
をとめ今たべし蜜柑の香をまとひ
というのがあると言い、これは盗作とまぎらわしく、まずいのではないか、と言われた。
調べてみると歳時記の蜜柑の項に、確かに、この句が載っている。
以前にこの句を私が見て、それが私の頭の中に「フレーズ」として存在して、たまたま、この歌を作った時に浮かびあがってきて、私の歌の中のフレーズとなるに至ったのであろう。
短詩形の場合には、こういうことはあり得ることで、私自身では、仕方のないことだと思っている。
考えてみると、古来、こういうことは多々あったと思われ、自分独自の発想と思っていることが、すでに類型として存在する、ということはあり得ることである。
私の歌の弁明は、このくらいにして「蜜柑」の話題に戻る。
私の子供の頃、近在で栽培している蜜柑というのは秋の間は酸っぱくて、それをムシロなどで囲って寒い冬のさなかになると、
甘みが出てきて、おいしくなる、というような種類のものであった。
今は、皮が薄くて剥きやすく、中の皮も薄くて皮ごと食べられるような品種の蜜柑が多くなった。その代り保存は利かず、じきに腐ったりする。
蜜柑はリンゴなどのように包丁で皮を剥く必要もなく、手で簡単に剥けるので食べやすい果物である。
それに1個あたりの値段も高くなく手ごろである。今では愛媛県、福岡県などの大産地が出てきて和歌山県の有田ミカンなどの影は薄くなった。
しかし和歌山の「新堂」ミカンなどは、多少値は張るが、やはり美味である。

蜜柑の句を引いて終りにしたい。
蜜柑山の雨や蜜柑が顔照らす・・・・・・・・西東三鬼
かの夫人蜜柑むく指の繊(ほそ)かりしが・・・・・・・・安住敦
闇ふかく蜜柑をひとつ探りえつ・・・・・・・・加藤楸邨
蜜柑吸ふ目の恍惚をともにせり・・・・・・・・加藤楸邨
死後も日向たのしむ墓か蜜柑山・・・・・・・・篠田悌二郎
蜜柑山の中に村あり海もあり・・・・・・・・藤後左右
蜜柑ちぎり相模の海のあをきにくだる・・・・・・・・川島彷徨子
蜜柑むいてそれから眩しい灯と思ふ・・・・・・・・原田種茅
子の嘘のみづみづしさよみかんむく・・・・・・・・赤松憲子
蜜柑摘み昔は唄をうたひしに・・・・・・・・山口波津女
蜜柑むくはてこんなことしてゐては・・・・・・・・星野麦丘人
子をなさずゆくてゆくての蜜柑山・・・・・・・・永島靖子
蜜柑むくめくるめく思い鎮むまで・・・・・・・・豊口陽子
蜜柑島夜は漁火もて囲む・・・・・・・・三好曲
伊予の蜜柑花のかたちに剥きたまへ・・・・・・・・森賀まり
みかん吸ふ袋かぞえをたのしみて・・・・・・・・小川恭生
蜜柑捥ぎ海のきららを手で包む・・・・・・・・徳田千鶴子
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