
──京の冬の庭の句いくつか──
■如月の水にひとひら金閣寺・・・・・・・・・・・・・・・川崎展宏
俳句は17音と短いので語句を省略することが多い。この句も「ひとひら」ということについては何も書いてない。
この句の場合、「ひとひら」というのが、今の季節の梅の花びらが浮いているのか、あるいは水に映る金閣を花に譬えて「ひとひら」と言ったのか、
読者にさまざまに想像させる言外の効果をもたらすだろう。
何もかも言い切ってしまった句よりも、「言いさし」の句の方が趣があるというものである。
春雪や金閣金を恣(ほしいまま)・・・・・・・・松根東洋城
池にうつる衣笠寒くしぐれけり・・・・・・・・・名和三幹竹

■凍蝶の越えむ築地か高からぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人
「凍蝶」については何度も書いた。最近にも載せたが、成虫のまま冬を越す蝶のことである。
写真②のムラサキシジミも、成虫のまま越冬することが知られている本州に棲む蝶である。
「築地」とは築地塀とも言うが、泥土を固めて作った塀で上に瓦を乗せてある。
京都の寺院の塀などは、みな築地造りである。
この句は、冬の季節の今、そんな築地を眺めながら、「凍蝶は、この庭のどこかで越冬しながら春を待ちこがねて、やがて春になれば、
この高くはない築地を越えてゆくのだろう」と思いをめぐらしているのである。
しみじみとした情趣のある句である。

■寒庭に在る石更に省くべし・・・・・・・・・・・・・・・・・山口誓子
梅天やさびしさ極む心の石・・・・・・・・・・中村汀女
みな底の余寒に跼み夕送る・・・・・・・・・宮武寒々
これらの句は龍安寺で詠まれたものである。
写真③には雪の石庭を出してみた。
掲出の誓子の句は「石更に省くべし」という大胆なことを言っている。
この寺は臨済宗妙心寺派の古刹だが、応仁の乱の東軍の大将・細川勝元が創建したが応仁の乱で消失し、勝元の子・政元が再興したが
寛政9年(1797)の火災で方丈、仏殿、開山堂などを失い、現在の方丈は、西源院の方丈を移築したものという。
因みに、二番目に掲出した相生垣瓜人の句も、ここ龍安寺で詠まれたものである。

■僧も出て焼かるる芝や二尊院・・・・・・・・・・・・・・・・五十嵐播水
雪解(ゆきげ)水ここだ溢れて二尊院・・・・・・・・・波多野爽波
二尊院は嵯峨野の西の小倉山の山懐にある。
ここには正親町三条を源とする「嵯峨」家30代にわたる菩提寺で、写真④に掲出する嵯峨家の墓がある。
愛新覚羅浩という、元の満州国皇帝の弟に嫁いだ浩は嵯峨家の出身である。
からくにと大和のくにがむすばれて永久に幸あれ千代に八千代に
昭和53年(1978)8月、日中平和友好条約が成立したとき、愛新覚羅浩が、わが身を顧みて、心からその喜びを歌に詠んだ。まな娘・慧生の23回忌であった。
小倉山というのは「百人一首」で知られるところである。

■祇王寺と書けばなまめく牡丹雪・・・・・・・・・・・・・・・高岡智照尼
句を作る尼美しき彼岸かな・・・・・・・・・吉井勇
祇王祇女ひそかに嵯峨の星祭・・・・・・・・・岡本綺堂
声のして冬をゆたかに山の水・・・・・・・・・鈴木六林男
祇王寺の暮靄(ぼあい)の水の凍てず流る・・・・・・・丸山海道
しぐるるや手触れて小さき墓ふたつ・・・・・・・・・貞吉直子
「祇王寺」とは平家物語で知られる白拍子祇王ゆかりの寺である。寺というよりも庵であろうか。
平清盛の寵愛を受けていたが、仏御前の出現によって捨てられ、母と妹とともに嵯峨野に庵を結んで尼となった。
後に仏御前も祇王を追い、4人の女性は念仏三昧の余生を過ごしたという。
この庵は法然上人の門弟・良鎮によって創められた往生院の境内にあったが、
今の建物は明治28年に、時の京都府知事・北垣国道が嵯峨にあった別荘の一棟を寄付したものである。
所在は嵯峨鳥居本小坂町である。
この句の作者についてはWikipedia─高岡智照 ← を参照されたい。
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