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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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木村草弥歌集『信天翁』に寄せて・・・武藤ゆかり
信天翁_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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     木村草弥歌集『信天翁』に寄せて・・・・・・・・・・武藤ゆかり(「短歌人」同人)

 今年満九十歳を迎えた歌人木村草弥氏が第七歌集『信天翁』を上梓した。発行所は澪標。帯によると、本書は自由律の第三歌集『樹々の記憶』に連なるものだという。氏は詩人でもあり、巻末の略歴によると、詩集と紀行歌文集をそれぞれ三冊出版している。氏の旺盛な創作意欲は広く知られるところであり、京都の邸宅で編み出される作品を、ブログやフェースブックで全国へ発信している。
 本集は三部構成で、各章の扉にはラテン語の座右の銘が記されている。

vita brevis, ars longa
人生は短く、芸術は長い。
a fonte puro pura defluit aqua
清らかな泉から清らかな水が流れる
cogito, ergo sum
われ考える、ゆえに 我あり(デカルト)

 芸術を志す者は誰でも第一の箴言を心に刻まなくてはならない。そして、第二の箴言にある通り、清明な心から清明な文芸が生まれるのである。第三の箴言は、全てを疑っている自分の意識だけは確実に存在する、言い換えれば表現者としての自分自身は疑いようもなく存在する、という意味にもなるだろうか。歌人木村草弥の精神のありようが偲ばれる。

一病を持ちては永きたそがれか野の豌豆の花の白さや
<信天翁>描ける青きコースターまなかひに白き砂浜ありぬ
吉凶のいづれか朱き実のこぼれ母系父系のただうす暗し
庭の木につくつくぼふしが来鳴きけり酷暑のふつと弛める夕べ
村の見慣れた風景に眠つてゐる寓話をゆつくり呼びさましたらどうか

 巻頭の一連「信天翁」から五首を引いた。この連には親しい人との永遠の別れや父方、母方の系統への思い、小さな生命への慈愛がにじんでいる。いずれの歌も言葉の工夫に満ち、韻律も美しく、余韻嫋々たる悲しさを湛えている。この路線で一冊を貫くこともできる作者だが、定型短歌はこの連作だけで、次の連作からは自由律へと転じている。「村の見慣れた風景に…」は形式の変わり目に位置しており、転調著しい第二幕への序章ともなっている。定型が解きほぐされてゆく喜びを、歌の波に揺られて「ゆっくり呼びさまし」たい。

夕暮れた街 束の間切り裂いて 光と影が格子縞に象形する
波動する意識をとどめようとして 目を閉じた 明くる日
新たな季節の訪れの微かな気配 時の移ろいに身をゆだねて
波動し攪拌する意識に抗い むきだしになる感性を押しとどめ
攪拌し交差する意識の屈曲率 その透徹した美しさ

 連作「象形」から五首引いた。それぞれの歌が関連し合い、物語が進行するように歌の景色が移り変わっていく。「あとがき」には、本来短歌は一首で自立するものだが、本書では十行あるいは十二行からなる「短詩」のような形態であり、短歌ではなく「散文の短詩」として読んでもらいたい旨が書かれている。宗教と物理学が遠い彼方で交わるごとく、歌または短詩が物理学と出合ったような面白さがある。次々と差し出されるイメージに身をゆだね、無限空間に放り出される快感を、幸運な読者は感じればいいのである。

四月は旅立ちの月である。どこかで桜が咲いている。
水泳教室も新入生を迎えて活気づいている
華やかな花柄の水着に包まれた健やかな君のボディが立っている
贅肉のない鍛えた体幹、その真ん中の凹んだ臍が綺麗だ
どこかで別れの儀式があり、どこかで桜が散っている。

 本書の発行日は三月一日、桜の季節が目前である。連作「桜」から五首を紹介する。句読点がある歌とない歌が混在しているが、これも作品の自由度を高めた結果だろう。日本人にとって新たな旅立ちを意味する桜の花。そこから華やかな水着、健康的な女性と縁語のように歌が続いていく。結ばれた縁はやがて切れるもの。花の散華と共に「どこかで別れの儀式が」ある。本書は親しい人たちを失った喪失と諦念の書であると作者は言う。個々の離別体験は具体的には描かれていないが、語り尽くせぬ心情が背景にあると思われる。

風景とは自然が創り出した見事な「造形」である
それは「時間」の創造物とも言い換えられるだろう
砂漠に足を踏み入れ、暫くそこに身を置く
何十億年かけて存在している岩山と砂の一部になる
何十億年かけて地球に届く星の光に自分が融けてゆく

 悠久の時間と人間との対比が描かれる「岩の造形」から五首を選んだ。人間の想像を越えた長さを、岩石や砂漠に対峙して直感把握する男の姿が浮かぶ。それは星空を見上げる遊牧民のようでもあり、辺境を流浪する宗教者のようでもある。海外体験豊富な作者のこと、実際にどこかの砂漠へ足を踏み入れた時の印象なのだろうか。永遠と一瞬の間を自由律短歌が超高速で駆け抜けてゆく。個々の歌は独立して鑑賞できるが、読者はぜひ連作を最初の一首から味わい、作者の光のベクトルを感じて欲しい。
 最後に、歌集名『信天翁』にどんな意味があるか考えてみた。信天翁とは漢名から来ており、天に信(まか)せて一日中同じ場所で魚が来るのを待っている、翁のような白い鳥のことだという。直接的には、引用歌二首目のコースターの絵から取られたのかも知れない。しかし大胆に想像すれば、信天翁とは、居ながらにして精神を軽々と飛翔させ、大海の底にも銀河の果てにも自在に遊ぶ作者自身なのである。翁とは神仏に近い存在であり、神々は翁の姿で現れるという。歌の神はまさに今、歌人木村草弥として顕現しているのである。               (完)
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敬愛する武藤ゆかり氏が、私の本について、精細な書評を賜った。心から厚く御礼申し上げる。
メールの添付ファイルで頂いたので、そのまま原文通り転載する。
武藤氏との「縁」は、三井修氏のお世話で『昭和』を読む会を開いてもらったときに出席してもらったのが初めであり、三井氏がやっておられた『りーふ』誌に書評を書いてもらった時から、お世話になっている。
武藤氏については、このブログで何度も書いているのでくり返すことはしない。
原文を、読みやすいように「改行」などしようかと思ったが、敢えて、そのままにした。有難うございます。


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