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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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馬部隆弘『椿井文書』──日本最大級の偽文書・・・木村草弥
椿井_NEW

椿井_NEW
 ↑ 裏表紙

      馬部隆弘『椿井文書』──日本最大級の偽文書・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・中公新書2020/03/25刊・・・・・・・

敬愛する浅田周宏氏が来宅され、上梓されたばかりの標記の本を下さった。
同氏は『浅田家文書』の当主として名高いが、京都府立山城郷土資料館の解説ボランティアや、城南郷土史研究会『やましろ』の会員として活動されている。
 ↑ 赤字の部分はリンクになっているのでアクセスして、お読みいただきたい。
先ず、この本の著者である馬部隆弘氏の略歴を引いておく。
馬部隆弘 略歴
1976年 兵庫県生まれ。
1999年 熊本大学文学部卒業
2007年 大阪大学大学院文学研究科 博士後期課程修了。 文学博士。
枚方市教育委員会。長岡京市教育委員会を経て
現在 大阪大谷大学文学部 准教授
著書 『由緒・偽文書と地域社会──北河内を中心に』 (勉誠出版) 2019年 など

『椿井文書』なるものについては、私は何も知らなかったが、一読して、驚いた。
この本の「要約」が、掲出した本の「裏表紙」に載っていて、極めて的確なものである。画像として読み取れるので読んでもらいたい。
『椿井文書』とは、山城国相楽郡椿井村(京都府木津川市)出身の椿井政隆(権之助 1770~1837)が、依頼者の求めに応じて偽作した文書を総称したものである。
中世の年号が記された文書を近世に写したという体裁をとることが多いため、信じ込まれてしまったようである。
しかも、近畿一円に数百点もの数が分布しているだけでなく、現代に至っても活用されているという点で他に類をみない存在だという。

郷土史などでは、文献を「引用」するという形で書き継がれるので、その資料を「鵜呑み」にして記載されてきた。
それらを一つ一つ検証して書かれている。

この本の巻頭の図版の「口絵 ⒈」に「仏法最初高麗大寺図」なるものが載っている。その説明書きには

<左上部分が椿井村にあたるが、椿井氏来住以前を想定して描かれているため、「薗辺村」という呼称が記される 京都府立山城郷土資料館寄託浅田家文書>

の記入があり、ここから浅田氏と「椿井文書」との関わりが生じたものである。
また、読み進むと浅田家と濃い婚姻関係にあった「小林凱之」家の屋敷の絵図を、横井が描いたものが載っている。
ただし、これは横井の偽文書とは関係がないので、念のため。
椿井村に隣接する小林家は大きな地主であったから、接触があったものとみられ、また有力者ゆえに彼の方から近づいて行ったものか。
なお「浅田家」は、近隣の地主とは異なり、上狛村・椿井村に及ぶ大地主であったから、小林家のような近隣の地主とは「縁戚」を結んでいたのである。
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数年前に開かれた、公開シンポジウム「近代日本の偽史言説」で発表された椿井(つばい)文書に関する発表には下記のように書かれている。 ↓

「椿井文書とは、山城国相楽郡椿井村(現京都府木津川市)出身の椿井政隆(1770~1837年)が、依頼者の求めに応じて偽作したもので、中世の年号が記された文書を江戸時代に写したという体裁をとることが多い。そのため、見た目には新しいが内容は中世のものだと信じ込まれてしまうようである。
彼の存在は研究者の間でもあまり認知されていないため、正しい中世史料として世に出回っているものも少なくない。
椿井文書は、近畿一円に数百点もの数が分布しているというだけでなく、現在進行形で活用されているという点で他に類をみない存在といえる。」
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私は素人であり、かつ郷土史などには無縁の人間なので、ここで検証することなどは無理なので、紹介するにとどまることを了承されたい。

奈良の「興福寺」は藤原氏の氏寺であって、今とは遥かに広大な寺領であったが、その興福寺に連なる縁戚をでっちあげて、自分を、俗な言い方をすれば「偉い」出自に仕立て上げた。
とかいうことがあったらしい。
とかく地方の有力者とかは、今でも「商店」の由来を「創作」して飾りたてることが、ままある。
それに類することが、椿井政隆の手でやられてきたのである。
この本の第五章には「南山城の事例」として、当地に隣接する今の京田辺市の「式内咋岡神社をめく゜る争い」 「井手寺の顕彰」などが載っている。
井手について言うと、ここは聖武天皇の皇后の縁戚である橘諸兄の別業地であったから、その橘諸兄に連なる縁戚のデッチあげ、などもあったようだ。
著者が勤務しておられた枚方市についても、椿井による「偽書」に基づくと指摘しても、編集をまとめる責任者の「地域おこし」のための一言で却下され、今も、その間違いが続いている、などと書かれている。
また著者の指摘に対しての「反論」をする人の多くが、「偽」の記載によって「箔が着く」立場の人である立場にある、と書かれている。京田辺市の「普賢寺」のくだり、などである。
また彼は「絵図」などを描くのが巧く、それも色どり豊かなので、見た目がよく、それらを取り込むことで文書が引き立つので愛用された、と書かれているのも納得できる。
それに彼が生きた時代を見てもらいたい。「幕末」と言える時代である。葛飾北斎が生きた時代で、明治元年が1868年だから、時代が大きく変動する頃である。
この頃には社会は大きく動いていた。人々は不安を抱いて生きていた。そういう時代なればこそ、彼のような贋作者がはびこったのだろう。


私の勝手な感想を言えば、椿井村の主宰者という彼の「設定」自体が、怪しいのではないかという気がするが、いかがだろうか。
舌足らずの紹介で申し訳ないが、「サワリ」として受け止めていただきたい。
間違いがあれば直します。ご指摘ください。よろしく。 
浅田さん、ご恵贈有難うございました。


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