
木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
木には常緑樹と落葉樹とがあって、落葉樹は冬には葉を落して、春の芽吹きを待つ。落ちかかる葉や、地に落ちている葉を「落葉」と言う。
樹の種類にもよるが、落葉というのは、一時に集中して、ハラハラと落ちる。
美しい眺めであるが、掲出の楸邨の句は擬人的に「いそぐないそぐなよ」と言っている。これは明らかに、人間の一生になぞらえて、「散り急ぐな」と言っているのは確かだろう。
ここで、俳句や短歌などの「句切り」のことについて、少し書きたい。
この楸邨の句は、一読すると「破調」のように見える。「意味」の上から「句切り」をすると、確かに5、7、5というリズムからはみ出そうだが、この句の場合は
木の葉ふり/やまずいそぐな/いそぐなよ と区切って読めば5、7、5という「定型」のリズムに乗るのである。
こういうのを「句またがり」と言う。
昔は、こういう「句またがり」などは、リズムを崩すとして忌み嫌われたが、前衛短歌、前衛俳句華やかなりし時期に多用され、以後は一つの技法として認められるようになった。
確かに日本語の、こういう5音7音などの「音数律」はリズムを作るものとして重要である。というのは、日本語は、その特性として「音韻」を踏めないから西洋の詩や中国の詩(いわゆる漢詩)のように「韻」や「平仄」でリズムを取れないから、その代用として「音数律」という特有のリズムが発見されたのである。
交通標語などに採用されるものの多くが、この5音7音などの「音数律」によって作られているのが、その実証といえようか。
何度もあちこちに書いたので気が引けるが、ポール・ヴァレリーの言葉に
<散文は歩行であるが、詩はダンスである>
という一節がある。この一節は私が大学生の頃に、文芸講演会があって、三好達治から聞いて、以後、私の座右の言葉として日々ふりかえっている言葉である。これは「散文」と「詩」との違いを簡潔に言い表した言葉であり、過不足がない優れた表現である。
「落葉」「木の葉」「枯葉」などの句を引いて終る。
寂寞を絢爛と見る落葉かな・・・・・・・・松根東洋城
風といふもの美しき落葉かな・・・・・・・・小杉余子
木曽路ゆく我れも旅人散る木の葉・・・・・・・・臼田亜浪
多摩人の焚けば我もと落葉焚く・・・・・・・・水原秋桜子
ごうごうと楡の落葉の降るといふ・・・・・・・・高野素十
わが歩む落葉の音のあるばかり・・・・・・・・杉田久女
野良犬よ落葉にうたれとび上り・・・・・・・・西東三鬼
ニコライの鐘の愉しき落葉かな・・・・・・・・石田波郷
落葉踏みさだかに二人音違ふ・・・・・・・・殿村莵糸子
子の尿が金色に透き落葉降る・・・・・・・・沢木欣一
からまつ散る縷々ささやかれゐるごとし・・・・・・・・野沢節子
本郷の落葉のいろの電車来る・・・・・・・・伝田愛子
宙を飛ぶ枯葉よ麦は萌え出でて・・・・・・・・滝春一
一葉づつ一葉づつ雨の枯葉かな・・・・・・・・八幡城太郎
落柿舎は煙草盆にも柿落葉・・・・・・・・阿部小壺
その中に猫うづくまり朴落葉・・・・・・・・佐佐木茂索
朴の落葉わが靴のせるべくありぬ・・・・・・・山口青邨
朴落葉うれしきときも掃きにけり・・・・・・・・村田とう女
落葉して凱歌のごとき朴の空・・・・・・・・石田勝彦
| ホーム |