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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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長嶋南子詩集『海馬に乗って』・・・木村草弥
海馬_NEW

──新・読書ノート──

       長嶋南子詩集『海馬に乗って』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・空とぶキリン社2020/09/01刊・・・・・・・・・

この本が贈られてきた。
発行日付よりも、ずっと前に届いた。
長嶋南子さんについては、前詩集が出たときに2018/08/02に書いた。 → 『家があった』 参照されたい。

茨城県常総市生まれ。
既刊著書
詩集
『あんぱん日記』 1997年 夢人館 第31回小熊秀雄賞
『ちょっと食べすぎ』 2000年 夢人館
『シャカシャカ』 2003年 夢人館
『猫笑う』 2009年 思潮社
『はじめに闇があった』 2014年 思潮社
『家があった』 2018年 空とぶキリン社
エッセイ集『花は散るもの人は死ぬもの』 2016年 花神社

Wikipediaに長嶋南子の項目が出ている。そこに「実息はイラストレーターのゴンゴンこと長嶋五郎。」とある。
この本の表紙及扉絵は長嶋五郎とあり、ご子息の絵であるらしい。

「海馬」とは何なのか。辞書には、こう書いてある。 ↓
海馬(かいば、英: hippocampus)は、大脳辺縁系の一部である、海馬体の一部。特徴的な層構造を持ち、脳の記憶や空間学習能力に関わる脳の器官。
その他、虚血に対して非常に脆弱であることや、アルツハイマー病における最初の病変部位としても知られており、最も研究の進んだ脳部位である。心理的ストレスを長期間受け続けるとコルチゾールの分泌により、海馬の神経細胞が破壊され、海馬が萎縮する。心的外傷後ストレス障害(PTSD)・うつ病の患者にはその萎縮が確認される。βエンドルフィン(=脳内ホルモンの一つ)が分泌されたり、A10神経が活性化すると、海馬における長期記憶が増強する。
神経科学の分野では、海馬体の別の部位である歯状回と海馬をあわせて「海馬」と慣例的に呼ぶことが多い。
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ネットを探したら、これが出てきた。長いが引いてみる。 ↓
詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)    2019-11-06 07:11:02 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「干し柿」(「Zero」12、2019年06月14日発行)

 朝吹亮二『ホロウボディ』の「わたしはむなされていた」は、「意味」がわからない。「意味」がわからないからこそ、私はあれこれ「余分」なことを考える。そして、その「余分」を朝吹の差し出している「余分」と交換する。
 朝吹は「余分」と感じていないかもしれないが、表現されたもの、読者に提出されたものは「余分」と定義してもいいと私は思っている。ほんとうに朝吹にとって必要なものならば、それを朝吹は「ことば」として提出するはずがない。ずっと朝吹自身で抱え込んでいるはずである。他人が読んでかまわないと判断したのは、それがすでに「余分」になったからである。
 詩は、多くの商品のように「売れる」ということは少ない。だからなかなか「商品」とは認められないのだが、少なくとも書いたひとは「商品」にしようとしている。(商売ではなく、芸術のために書いているとかなんとか言うのは、方便である。)そして、「商品」というのは、どんなときでも「余分」なもの、自分では「つかわなくなったもの」である。「ことば(詩)」が特徴的なのは、それを「商品」として売り払ってしまった後も、なおかつ自分のものと言える点である。「売ったはずのことば」は依然として、書いた人の「肉体」のなかに残っていて、それを踏まえて「ことば」からさらに「余分」を生み出し続けることができる。他人が(たとえば私が)、朝吹の「発表したことば(売りに出したことば)」を引き継ぎ、加工して売り出すと「盗作/剽窃」ということになる。「換骨奪胎」という言い方もできるけれど。
 あ、脱線した。
 もとにもどって言いなおそう。
 「詩」だけに限らないが、あらゆる「商品」は、それをつくった人がどう思っているかわからないが、「余分」なのものにすぎない。どれだけ「余分」を生み出すことができるかが、いわば「商品価値」を決める。「ことばの暴走」がときに「詩」として評価されるのは、つまり、そういうことである。
 「意味」以上のものがある。
 その「意味以上」は、どうつかっていいか、「他人(読者)」にはわからない。でも、なんとなく、それを「つかってみたい」という気持ちになる。書いた人に「余分」なものが、なぜか自分には「必要」に見える。「それ、おもしろそう」という感じが、この場合「必要」ということなんだけれど。
 その「余分」をつかえば、何かおもしろいことが自分にもできそう。つまり「余分」を生み出せそうな感じ、自分が自分ではなくなる(自分の限界を越えられそうな気がする)。そういう感じを味わうために、たぶん、ひとは「ことば」を読む。詩を読む。小説を読む。

 という前置きは、必要ないものかもしれないが、私は書いておきたくなった。

 と書いて、やっと、長嶋南子「干し柿」について書き出せるかなあ、と私は思っている。
 何回か書いたが、私にとって長嶋南子は「おばさんパレード」には欠かすことのできないスターである。この「おばさん」はどんな「余分」を持っているのか。「意味」を越える「余分」をどんな具合に吐き出しているか。
 「干し柿」の全行。

渋柿をもらった
皮をむいてベランダに吊るす

わたしをベランダに吊るす
しわしわになって食べごろ
こんなに甘くなるんだったら
もっと前に干せばよかった

ベランダで
陽をあびて風にふかれ
水分が抜けていく
張りがなくなったこのからだ
いまさら甘くなったって

つやつやの渋柿のころがなつかしい
誰にもかじられず
ふくれっ面でななめ向いて
タバコふかしてエラそうにしていたあのころの

 「渋柿」という「もの」と、歳をとって(あ、歳を重ねて)、他人のあれこれを許容できる(受容できる)という「長嶋の事実」が、「甘い」ということばのなかで「交換される」。長嶋は「渋柿」と「自分」を等価交換(意味の明確化)をしている。「商売」している。
 この段階では「余分」は、まだ生まれていない。
 「余分」は「しわしわになって食べごろ/こんなに甘くなるんだったら/もっと前に干せばよかった」という「思い(比喩による強調)」である。といっても、これはきちんと順序だった動きではない。比喩による強調によって意味が明確化されるのだから、ほんとうは、そのふたつ「意味」と「強調(余分)」は区別できない。はっきりしているのは、この「意味」と「余分」をことばにするまでは、「意味」にとって「余分」は必要なものだった。長嶋には、その「余分」がなければ「意味」は成立しなかった。でも、実際にことば(意味)にしてしまったら、もうそれ(余分)はいらない。長嶋には「わかってしまった(意味が明確になった)」ことになる。だから「これ、買ってちょうだい」と売りに出すのである。
 私は、「あ、買います」とすぐに手を伸ばす。「それ」が欲しいのだ。それを自分のものにすれば、自分の知らなかった「意味」が明確になる、と思ってしまう。
 でも、「それ、買います」と言って、それを「自分のもの」にするために、あれこれつかおうとするのだが、うーん、うまくいかない。そうだよなあ。それは長嶋の「肉体」のなかで動いていた、長嶋に必要だったことば(意味を明確にするための過剰)であって、それをそのまま私がつかうという具合にはいかない。自分のつかえるように、工夫しなくてはならない。
 どうすればいいのかな?
 これは、よくわからない。わからないまま、私は、べつのことを考える。長嶋のことばを「つかう」のではなく、それを「目の前」において、自分のことばを動かす。長嶋のつかい方とは違うつかい方をする。(これを、私は「誤読」と呼んでいる。)
 どんなふうにか。こんなふうにである。

 長嶋のことば(詩)は「批評」である。
 「もっと前に吊るせばよかった」は、よく人が言う「もっと前に……すればよかった」という「後悔」の表現ではない。「こんなに甘くなって、だらしない」という「自己批判」を含んでいる。「自己批判」なのに「後悔」を装っている。つまり、この「装い」が「余分」ということになる。そして、それを「売り」に出しているのだ。さて、だれが買うか。買って、どんな顔をしてそれをつかうか。そういう「いじわる」な開き直りがある。この奇妙で、強烈な「いじわる」を私は「おばさん」の特徴だと考えている。「おじさん」にはこういう「いじわる」は思いつかない。「おっさん」は「いじわる」をするよりも「甘えん坊」になる。
 「おばさん」の「批評」は「おばさん」自身にも向けられる。「水分が抜けていく/張りがなくなったこのからだ」という具合に。
 と、思ってはいけない。これは実は「自己批判/自己批評」ではない。「このからだ」と書いているが、「この」からだだけを問題にしているのではない。
 これはねえ、ほかの「おばさん」を笑っているのである。自分を批評するふりをして、ほかの「おばさん」を笑っている。ここが「余分」のポイント。ここに書かれている「しわしわ」の女、(歳をとって、しわが増えた女)、性格(人柄?)が「甘く」なった女を想像するとき、たとえば私は、長嶋を思い浮かべない。私は長嶋にあったことがないから、長嶋がほんとうに存在するかどうかもしれない。長嶋を個人的に知っている一以外は、ここでは「どこかでみかけたおばさん(自分の知っているおばさん)を思い浮かべながら、ここに書かれていることを「事実」だと「誤読」する。
 ここには長嶋を超えていく「余分」、「他のおばさん」につながっていく「余分」が書かれている。
 むりやりがんばっていえば、これは長嶋を「他人」にしてしまって、そのうえで「他人としての長嶋」を笑っている。そういう「余分」なことをするのである。ふつうは、そういう「余分」なことはしない。ちらっと頭をかすめるかもしれないが、かすめたらかすめたまま、かすめさせる。明確に、だれにでもわかるような「ことば」にはしない。
 長嶋のしていることは、他人を笑う(おばさんを笑う)ことで、笑い(批評)を共有することだ。ここで笑った瞬間、共感した瞬間、読者は「長嶋おばさん」になるのだ。
 「他人としての長嶋」を笑った後、長嶋は「ほんとうの長嶋」に帰っていく。つられて、読者も、そこについてゆく。それが最終連。「なつかしい」ということばが特徴的だが、長嶋は、「甘くなった渋柿」ではなく、渋いままの「若い渋柿」を、やっぱりいちばん美しいと感じている。大事にしている。「私はただの干し柿ではない。渋柿だった」と自慢している。この自慢が、また、読者を気持ち良くさせるんだけれど。つまり、自分も「渋柿だった」と思い込ませるんだけれど。

 これってさあ。
 私は、ここで「いじわる」になる。
 これこそ「余分」じゃない? それなりに歳を重ねたんだから、いまさら「若いときは美しかった」なんて言っても、だれが信じる? 歳を重ねたら、やっぱり「渋柿」ではなく「干し柿」にならないと。
 若いおじさん(たぶん、私は長嶋より「若い」と感じている。ウディ・アレンによれば、男は歳をとらないそうだから)は、そういう「いじわる」を言う。
 あ、でも、私がいま書いたことは、ちゃんと長嶋は書いているね。
 やっぱり年の功。
 あるいは、女の強さ。
 「男(おじさん、おっさん)には書けないだろう、ざまをみろ」と、もう笑われてしまっている。
 私はなんとか「ちょっかい」を出したいのだが、いつでも押し切られてしまう。長嶋が先頭に立って「おばさんパレード」に繰り出したら、私は、長嶋に見つからないように電信柱の影にかくれて、それを見つめてみたい。
 見つけられて、あんなところに隠れちゃって、と詩に書かれるような「いじわる」されるといやなので、あらかじめ書いておく。
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長いので適当に読み飛ばしてもらいたい。
ここに引かれている「干し柿」という作品が、今回の本に、同じ題で収録されている。

ところで「海馬に乗って」というフレーズは、どこに出てくるのか。
巻末の近い「わたしは忙しい」という長い詩の中にある。

     ・・・・・・・・・・
   ぼくは ? (はてな)です と息子は書く。

   真夏の高速道路で たったの五秒間で
   息子は ? の国へ海馬に乗って行ってしまった
   戻っておいでと叫ぶ
   海馬にニンジンでも食べさせれば戻ってくるか
   せっせとニンジンを買ってくる
   真夏の空にはいつのまにか
   イワシの大群が押しよせてきた
   海馬は息子を乗せたまま
   戻ってこない
   ニンジンにもイワシらにも見向きもしない

   ──おかねを稼いでおかあを楽にさせたい
   と  ? の国から便りが届いた

      ・・・・・・・・

長い詩の一部である。
とにかく今度の長嶋南子さんの詩は、何だか「不気味」である。
前の詩集『家があった』とは、別の不気味さ、である。
前の詩集から、丁度二年ぶりの本である。長嶋さんは1943年生まれとあるから、まだまだお若い。
またの詩集を期待して不十分ながら筆を置く。有難うございました.。       (完)








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