K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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三つの世界遺産都市を巡るバルト三国周遊紀行(1)・・・・・・・木村草弥
トラカイ城
  ヴィリニュス郊外の元・古都のトゥラカイ城

    三つの世界遺産都市を巡る
      美しきバルト三国周遊(1)・・・・・・・・・・・・・木村草弥

         ──2009/08/22~2009/08/28 7日間── JTB旅物語主催

フィンエアー

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 旅は全員の「スーツケース不着」事故から始まった
忠実に旅の日付を追うことはしないが、私たちの旅は関西空港発フィンエアー(フィンランド航空 AY078便)で出発した。この便がヨーロッパへは最短の飛行時間という航空路であり、行きと帰りでは偏西風の関係で差があるが九時間半から十時間という、体には易しいものである。
こうしてフィンランドのヘルシンキ経由で、最初の訪問国・リトアニアのヴィリニュス空港に降り立ったのだったが、待てども一向にスーツケースが出て来ない。
ヘルシンキからヴィリニュスへの乗り継ぎ時間は約1時間5分であったから、スーツケースを乗せ忘れたわけである。
ヘルシンキ→ヴィリニュスは一日一往復の便しかなく、結局スーツケースは翌日の夕方にホテルの私たちの手元に戻ったような次第である。
フィンランドも人口数百万人という小国だが、この国は大きな造船所や航空会社も有する北欧の強国であるが、バルト三国は、後で詳しく書くが、小国に過ぎないから自前の交通手段は持ち合わせていない。ここヴィリニュス空港にはフィンエアーの駐在員は居なくて、系列の会社が荷物の手配の代行をしているに過ぎず、お詫びのしるしにとトラベルセットをくれたが全員の数があるわけではなく、たまたま私は貰ったが、若い夫婦の人にあげた。
参考までに書いておくと、8/29夜のニュースで、世界最大の客船「オアシス・オブ・ザ・シーズ」がフィンランドの造船所で完成したという。22万トン、全長300数十メートルのカリブ海周遊の新造船であり、今年のクリスマスシーズンから処女航海に就くという。

とにかく、私も旅にはたくさん出たが、荷物の不着に遭遇したのは初めてである。
このような騒動に巻き込まれながらヴィリニユスのホテル「ヨーロッパシティ」で夜を迎えることとなる。

ホテルヨーロッパシティ①

ホテルヨーロッパシティ②

このホテルは新市街の外れにあり、アメリカ風の近代的な明るいもの。部屋も広く快適である。ここには二泊する。
スーツケース不着のため、ショルダーバッグに入れていた予備のカメラで撮ったので初日と二日目までの写真のサイズは小さいので了承されたい。
なお私は自分の齢も考えてビジネスクラスにしたが、他に宮崎から参加の夫婦の方が居られた。総勢35名(添乗員を含めると36人)という大世帯である。

今回を最初にして紀行文を載せるが、手に入る資料が少なく十分な記事が書けないと思うので手元の資料を読み込みながらの掲載となるから、次回の掲載がいつになるか判らないので、あらかじめお断りしておく。

 リトアニアの元・首都トゥラカイ城
リトアニアの観光は、先ず郊外約30キロにあるトゥラカイ城から始まった。(写真①)
ここはトトーリシュキュー湖とルカ湖、ガルヴェ湖に挟まれた細長い半島に位置する。
城は14世紀後半にチュートン騎士団の侵略を防ぎ、また祭事などを行うために、キュストゥティク公とヴィタウタス大公によって建設された。
この人は今のロシアのモスクワに至る広い領土を有していたというリトアニアの建国の父として度々ガイドの説明に出てくる。

トラカイ城内

写真 ↑ は城内の様子。煉瓦で出来た城内に後から付けられた外づけの階段を上り下りする。

聖ヨハネめネムポック像

写真 ↑ はトゥラカイの守り神である聖ヨハネ・ネポムックの彫像という。
百年以上かけて建てられた城は15世紀初頭に完成するが、湖に囲まれているという地理的な有利さを持っていた。
大公の死後、権力がポーランド側に移ると城は荒れ、廃墟となったが、1961年から復元が始められ、1987年には15世紀当時の姿を取り戻した。
復元個所とオリジナル部分との煉瓦や漆喰の違いが眺められて、よく判り、面白い。
また、ここは少数民族のカライメの故郷としても知られる。彼らは15世紀はじめに大公によってクリミアから傭兵として連れて来られたトルコ語系の人々で、ここトゥラカイを中心に200人ほどが民族性を守りながら暮しているという。
カライメには、キビナイと呼ばれる窯で焼いたパイの民族料理があり、これを食べさせるカフェが数多くあるという。

 中世の面影を残すリトアニア第二の都市カウナス
トゥラカイを出て、カウナスに差し掛かった頃から雨が降りだす。
カウナスは14世紀の記録に登場する古い町。15世紀にはハンザ同盟の代表部が設けられ、商業都市として繁栄したので、旧市街には、この頃のゴシック建築が数多く残っている。
先ず、木々の茂る閑静な高級住宅地の中にある元・日本領事館の建物を利用した杉原千畝記念館に入る。

杉原記念館①

杉原記念館②

杉原記念館③

私は2000年にイスラエルのエルサレムを訪問したが、そのとき杉原千畝のことも感銘を持って知ったので、今回も厳粛な気持で建物に入った。
先ず彼に関するDVDを見る。建物の中は狭いので、われわれ一行が入ると一杯である。
応分の寄付をしたので図版ののような絵ハガキをもらい、スタンプを押した。

杉原千畝については、ご存じでない方もあるかと思うので、少し書いておく。
彼は「日本のシンドラー」と称せられるが、そのいきさつは次のようなものである。

第二次世界大戦初期、ナチスの迫害を逃れ、日本通過に活路を求めてきたユダヤ人に、本国の日本外務省の指示に背いて「通過ビザ」を発行して多くの命を救った杉原千畝。
舞台となったのが、当時リトアニアの首都が置かれていた、このカウナスである。
1940年の七月。カウナスの日本領事館の外に突然に多くの人垣が並んだ。彼らはナチスに追われ、ポーランドからリトアニアに逃れてきたユダヤ人だった。その要求は日本の「通過ビザ」。すでにヨーロッパにユダヤ人が安住できる場所はなく、シベリア経由で米大陸に逃れるのが唯一生き残れる可能性を秘めた道だった。
当時の領事代理、杉原氏はビザ発給の許可を求める電報を何度も日本に打ったが答えは「否」だった。
この前年、ドイツとソ連はバルト三国併合の秘密協定を含む不可侵条約を結んでおり、リトアニアにもソビエト兵がすでに入場していた。日本領事も一刻も早い退去を求められ、その期日が近づく中、杉原は、群をなし、救いを求めるユダヤ人たちを無視することが出来ず、独断でビザを発給する決心をする。「私を頼ってくる人々を無視するわけにはいかない。でなければ私は神に背く・・・・」。
その後、半月の間、彼は昼夜をわかたず、ペンが折れ、腕が動かなくなるまでビザを書き続けた。リトアニアを脱出する列車の中までそれは続き、第三国に渡ることが出来たユダヤ人は6000人を越えたと伝えられている。
彼の功績はリトアニアでも評価されて、ヴィリニュスには彼の名を冠した通りが生まれ、彼を記念しての桜の植樹もなされている。
カウナスの旧日本領事館も杉原記念館として保存され、地元の大学には日本文化研究センターも開設されている。

ツェベリナイト(肉詰団子)

この後、旧市街で、こちらの名物「ツェベリナイ」という肉詰団子 ↑ を食べる。
スープが脂っぽいものでカロリーは高い様子。さほど旨いものでもない。

あと観光した「旧市庁舎」「聖ペトロ&パウロ大聖堂」内部の写真2枚を掲げておく。

カウナス大聖堂

カウナス大聖堂内部①

カウナス大聖堂内部②

あとは、しょぼ降る雨の中、一路ヴィリニュスに戻りホテルに帰る。
かくてリトアニアの第一日は終る。
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ヴィリニュス市全景
 ゲディミナスの丘からのヴイリニュス全景
 
   三つの世界遺産都市を巡る
      美しきバルト三国周遊(2)・・・・・・・・・・・・・木村草弥

         ──2009/08/22~2009/08/28 7日間── JTB旅物語主催

 ヴイリニュス旧市街観光
今日は午前中、ヴィリニュス旧市街の観光である。
掲出した写真は市街を見下ろす「ゲディミナス城の丘」からの全景である。
この写真の手前の方に、旧市街を取り巻いていた城壁と城門の名残りが見られる。
手前正面に口を開けているのが見えるのが「夜明けの門」で、後でそれにまつわる記事と写真を出す。

ヴィリ・聖ペトロ&パウロ教会

見学は先ず「聖ペテロ&パウロ教会」から始まる。
ペテロとかパウロとかは、キリストを取り巻く初期の聖人だから、同じ名前の教会がたくさんあるのでややこしい。
昨日のカウナスでも出てきた。
この教会は、「バロックの街ヴィリニュスを代表する、いわば記念碑的な建築だ」とガイドブックには書かれているが、それは内部にある彫刻群─特に2000以上あるという漆喰彫刻に圧倒される。
一枚だけ写真を載せておく。 ↓

ヴィリニュス大聖堂身廊

教会建設の資金を出したのは、当時の将軍バツァスで、入口右側の壁に「ここに罪人眠る」と書かれた墓石が見える。見事な教会を自らの「廟」として残すことは、当時最も誉れ高いことと考えられていたからである。
彫刻のテーマは、多くは聖書や神話から取られており、リトアニアの戦史を表したものもあるという。
女性の姿が多いことにも気づくが、彼女らの表情は差し込む光の加減によつて変化して見えるように計算されているという。

ここを出て、先に載せた写真の「ゲディミナスの丘」からヴィリニュスの街を俯瞰する。
そこを下りて、先に説明した旧城門の「夜明けの門」を見る。

夜明けの門

夜明けの門①

夜明けの門②

「夜明けの門」聖母マリアのイコン

一連の写真の三番目の写真の奥に四番目の写真の「聖母マリアのイコン」がある。イコンの前面に純金の覆いがしてあるのである。こちらでは、こういう形のものが多い。
ここはローマ・カトリックを信仰する国なので、聖母マリアは深く信仰されている。
ヴィリニュスは14世紀にゲディミナス大公によって国家の首都として創設され、その後、ポーランド・リトアニア共同国家のリトアニア側の首都となった。

ここを出て、後は徒歩で移動して、先ほどの「ゲディミナス城」の下になる「下のゲディミナス城」の横にでる。
「上のゲディミナス城」から見た「下のゲディミナス城」の写真を出しておく。
真ん中あたりに見える茶色い広い屋根のところが、その「下」の城である。
ヴィリニュス望景

ここは、すぐ大聖堂、旧市庁舎広場に隣接するところである。

ヴィリニュス大聖堂鐘楼

大聖堂と鐘楼

鐘楼は高くて、どこからでもよく見えるので、ヴィリニュスの象徴とされているらしい。

大聖堂内部①

大聖堂内部②

大聖堂内部③

大聖堂内部の写真を三枚つづけて載せた。
聖カジミエルの聖画には手が三つあるが、三つ目の手は画家が何度消しても再び現れてきたので残されたと伝えられている。また側面の絵の一つは、120年後に棺を開けた際にも遺体に変化がなかったという聖カジミエルの「奇跡」を描いたもの。この奇跡にあやかろうと、体にハンデを持つ人たちが、痛んだ部位を捧げて奇跡の恩恵に浴そうと、身体の部位の彫刻を捧げたものが三番目の写真である。
20世紀になって調査が行われ、絶世の美女と謳われたバルボラ・ラドヴィライテ妃(1522~1551)をはじめリトアニアの支配者たちの棺が、この下で発見された。

次いで、歩いて聖アンナ教会を外から見る。煉瓦づくりの独特の色と形が面白い。
聖アンナ教会

 ヴィリニュスの建築美について
リトアニアないしはヴィリニュスについての資料は少なくて、唯一、カウナスの杉原千畝記念館で買い求めてきた『ヴィリニュスとトラカイ』というガイドブックに若干の記述があるので、少し引いてみる。
この本の「原著者」はトマス・ヴェンツロヴァという人で、こんなことを書いている。

ガイドブック

<歴史上の不幸によって、町から建物は消え、通りは変り、住民構成さえも著しく変化してきた。その中でも最も悲劇的な出来事が、第二次大戦中の大規模なユダヤ人コミュニティーへの迫害であった。属国になり、言葉や文化が変わっても、ヴイリニュスは常に様々な顔を持ち続け、この町は常に異文化交流、いわゆる「ダイアローグの町」であった。そして今後ともそうあり続けるに違いない。
数多くの戦争や占領、破壊に遭ったにもかかわらず、ヴィリニュスの建築は独自のスタイルを持ち続けている。ドイツやスカンジナビアの影響を全く受けることなく築かれたヴィリニュスは、バルト三国の他の二つの首都とは大きく異なり、どちらかというとプラハやローマを思わせる。アルプスの北側にあるバロック様式の町の中で、ヴィリニュスは最も東に位置する一番大きい町であり、さらに、ゴシックから古典主義に至るヨーロッパ建築様式のほとんどをヴィリニュスで目にすることが出来るのである。これらほとんどの建築物は、いつもその全盛期を過ぎた後にヴィリニュスに辿り着いたが、恐らくこの理由によって、建築の完成度は完璧に近いものとなったのであろう。
ヴィリニュスのバロック様式のクーポラ(丸屋根)や尖塔は、不規則な中世の都市設計に溶け合う。宗教に対して寛大な態度をとっていた町には数多くのロシア正教教会やユダヤ教のシナゴーグ、バロック様式を真似して建てられつつも独自のスタテルを守り通したモスクがある。それらは、すべてヴィリニュスのローマカトリック気風に東洋の精神を込めたものである。
リトアニアの首都はパリプセスト──むかし羊皮紙に書かれた文章の下から、すでに消された文字が浮き出てくるもの──に例えられる。・・・・・・・
特筆すべきは、リトアニアがヨーロッパで最後にキリスト教を受け入れた国であるということだ。
最初、ヴィリニュスは異教の町であった。近代になっても町の周辺には異教の伝統が見られたのである。異なる宗教に異なる言語が加わり、多くのヴィリニュス出身者たちは幾つかの言語──リトアニア語にポーランド語、ロシア語、つい最近まではベラルーシ語やイディッシュ語──を自在に操る。・・・・・>

多くを引いても煩雑になるので、この辺にするが、この文章は、この地の置かれた環境と位置を的確に要約していると言えよう。

これでヴイリニュスの旧市街の見学は終りであり、レストランでコウドゥナイ(リトアニア風水餃子)の昼食を摂る。皿の真ん中の白いものはヨーグルトである。少し酸っぱい味と餃子のような肉包の取り合わせが独特の感覚である。

「コウドゥナイ」

あとは一路「シャウレイ」へ。旅の日程表にも距離の記載はないが、ほぼ3時間くらいはかかった様子。北国の乾燥した爽やかな空気とは言え、夏の陽が照りつける午後だった。

これが私たちを乗せて最終地のタリンまで乗せてくれるバスである。運転手は添乗員の英語にも無反応な、もの言わずのリトアニア人だった。かかずりあうのが面倒で、わざと英語を話せない振りをしていたのかも知れない。
バス

 シャウレイ──十字架の丘
シャウレイは北部リトアニアの中心都市で、町の名はヴィキンタス率いるサモギティア人が帯剣騎士団を破った1236年の「サウレの戦い」に由来するという。
当時プロシアを占領しつつあったチュートン騎士団と、リヴォニアを占領した帯剣騎士団との連結を阻む位置にいたのがリトアニアだった。
シャウレイは二度の世界大戦で多くの被害を受けたため、旧市街など古い建物はほとんど残っていない。
「シャウレイの丘」というが、だだっ広い野原の真ん中に、ほんの二、三メートルの高さの土手があるに過ぎず、その丘と周辺に隣接する土地に無数の十字架が林立している。ただし「墓」ではなく、死体などはなく、記録によれば1831年のロシアに対する蜂起の後、処刑や流刑にされた人々のために立てられたらしい。
それからは、ここは抑圧された民族、宗教の象徴として扱われ、それを嫌ったソ連当局が禁止したり、取り除いたりしたが、その都度、夜陰に紛れて新しく立てられたという。
近年は遠くアメリカやオーストラリアからも移民の人々が、かの地から運ばれた十字架を残すという。
シャウレイ③

シャウレイ①

シャウレイ②

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 リトアニアの概況など歴史的に
<かつてヴィリニュスは、まるでトリエステやチェルノヴィッツのような異文化の坩堝で、不思議な街であった>と、二つの世界大戦の間にこの町で青年時代を過したポーランドの詩人チェスラーヴ・ミーローシュは書いた。
街の運命は歴史の変遷に翻弄され、移り変わった今もなお、ヴィリニュスは不思議な雰囲気を持つ街として生き続けている。

 年表的に
BC20 バルト族の祖先が現在の地に移住
1236年 シャウレイ近郊でセミガリア人とサモギティア人の連合軍が帯剣騎士団を破る(サウレの戦い)
1253年 ミンダウガス大公、カトリックに改宗し、リトアニア最初の王位に
1263年 ミンダウガス大公暗殺。リトアニアは再び自然崇拝の国に
1316~41年 ゲデイミナス大公、リトアニアの領土を東に拡大
1385年 リトアニア大公ヨガイラ、ポーランド王女ヤドヴィガと結婚。リトアニアとポーランドは同じ君主を戴く連合国となり、リトアニアはカトリックを受け入れる
ヴィタウタス大公、リトアニアをバルト海から黒海にいたる国に拡大
1410年 ポーランドとリトアニア軍、ジャルギリスにおいてチュートン騎士団(ドイツ)を殲滅
1547年 最初のリトアニア語の本を出版
1569年 リトアニアとポーランドは共同国家に。貴族のポーランド化が進み、リトアニアは事実上ポーランドに吸収される
1795年 第三次ポーランド分割るリトアニア、ロシア領に。共同国家消滅
1812年 ナポレオン軍、ヴィリニュスに入城
1830年 ロシアに対する蜂起多発。激しい報復。カトリックに対する弾圧、リトアニア語の禁止など「ロシア化」が進む
1904年 日露戦争。ロシア化政策の緩和
1915年 第一次世界大戦、ドイツ軍リトアニアに侵攻
1918~20年 ドイツ敗戦後、リトアニア、ソ連、ポーランド三つ巴の戦いが続く
1920年 ポーランド軍がヴィリニュス占領により首都はカウナスに置かれる
1939年 モロトフーリッペントロップ秘密協定によりソ連軍がリトアニアに駐留、翌年侵攻
1941年 数万人のリトアニア人逮捕。大流刑の始まり
1941年 ドイツ軍バルト三国に侵攻。20万人以上のユダヤ人が強制収容所へ
1944年 ソ連軍ふたたびリトアニアを占領
1949年 「人民の敵」とされた数十万人がシベリアに流刑される
1990年 リトアニア、独立を宣言
2004年    〃   EUに加盟

長々と引用したが、他民族と国家の運命に翻弄された小国の悲哀を、これらの事実が証明するからである。
この国は、広さは北海道の約八割。人口は約338万人である。
民族構成はリトアニア人84.3%、ポーランド人6.2%、ロシア人他であるが、ナチスに迫害されたためユダヤ人は皆無に近い。
宗教はほとんどがカトリック教徒、他にロシア正教徒など。

ヴィリニュスは内陸の都市のため、バルトの中では、ハンザ同盟の影響の少ないところと言えよう。

 リトアニアの名前の由来など
先に書いたようにバルト三国については資料も少なく、現地でも日本語によるガイドブックは簡単なものしかない。
今回の旅に来る前に資料として本を検索してみたが、出版が二十年以上も前のものなどが多く、参考にならないと思った。唯一、用意したのは原翔『バルト三国歴史紀行ⅠⅡⅢ』(彩流社刊)で、各国別に三冊になっている。
この他にダイヤモンドビック社『地球の歩き方・バルトの国々』は携行した。

これらの本によると、日本でいう「リトアニア」という国名は「LIETUVA」と表記されている。
この名前は、ここは他の二国と比べて雨が多いので「雨の地」を意味する「LIETUS」から由来するというが、原翔の本によると、南部のケルナヴェという小さな村の傍にネリス川に注ぎ込む「LIETAUKA」川があり=別名「LIETAVA」ということで、これがリトアニアの国名の由来だ、という。どちらが正確か私には判らないが、書いておく。

後は、バスで一路、今夜宿泊の二番目の国・ラトビアの首都リガへ。
写真は夕食のレストランで、ラトビア風冷製スープ「オクローシカ」を賞味する。
ただし、このスープの写真はない、お許しあれ。
リガ夕食レストラン

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バルト地図
 
   三つの世界遺産都市を巡る
      美しきバルト三国周遊(3)・・・・・・・・・・・・・木村草弥

         ──2009/08/22~2009/08/28 7日間── JTB旅物語主催

いよいよ旅も4日目に入った。 はじめにバルト三国の地図を出しておく。
いつの旅でも、どこの旅でもそうだが、午前中、徒歩で見学して、昼食を摂って、午後から次の都市へ移動、というのが日本人の通例である。昨年の旅の時にも書いたのだが、ヨーロッパの辺地も道路がよくなって移動時間が短くなり、そのおかげで旅そのものが、せちがらくなり、面白みがなくなった。
道路のことについては、午後の移動の記事の中で触れる予定である。
今日の分から写真のサイズが大きくなる。
今回の旅も、それに同じく、今日は午前中リーガの町を徒歩で見学する。

リガホテル
 リーガホテル・・・トイレ臭、突然の「停電」など
先ず、昨夜泊った「リーガ・ホテル」だが、写真のようにソ連支配時期の1956年に建てられた一見重厚だが、内部設備は悪い。トイレ・浴室の便器の周りに尿の茶色い滓がついていて、かつての公衆便所のような悪臭がする。今どき、こんな臭いのするトイレは公衆トイレでも経験したことがない。
いつもは夜中に起きたときのためにトイレのドアは開け放しておくのだが、トイレの臭気が部屋にこもるので、閉め切っておかざるを得ない。
その上、今朝、早朝、まだ電灯の明りの要る時刻だったが、突然、「停電」した。パッと消えるのではなく、チカチカという感じで点滅して数分間、二度ばかり消えた。
こんなところにも、ラトビアの今の経済状態が現れているようで、変に納得した。
因みに、日本の電気の状態は世界最高であって、「ヘルツ」で表されるが、周波数のサイクルの状態も極めて安定しており、電圧も正常域を保っているという。
こんなラトビアのような通電状態では、バッテリーの補助を維持していなければパソコンなど一遍にオダブツである。

 ラトヴィアの首都・リーガ
先ず、この「リガ」のことだが、日本ではリガと発音するが、これはドイツ語読みと言われ、現地では長音にして「リーガ」と呼ばれる。ガイドブックなども、そのように表記される。
朝食を済ませて、8:45の集合までにホテルの前の公園の辺りを散歩する。

リガトラム①

リガトラム②

ホテルの前は、トラムが朝暗いうちから走っている。その写真2枚を出しておく。
その通りを渡ると広い緑地公園になっていて、ホテルの真向かいに国立オペラハウスが威容を見せている。 ↓

リガオペラハウス

リガ公園

この公園を抜けると、ピルセータス運河というのがあり、その橋を渡るとプリーヴィーバス大通りの真ん中に自由記念碑が建っている。
これは1935年にラトヴィアの独立を記念して建てられた高さ51メートルの記念碑。
塔の上に立つ女性ミルダは、ラトヴィアの三つの地域──クルゼメ、ヴィゼメ、ラトガレの連合を表す星を掲げている。デザインは公募された中から選ばれ、建設資金も寄付によってまかなわれた。
碑の基部には「祖国と自由に」という文字が刻まれ、ラトヴィアの歴史と文化を象徴する彫刻で飾られている。ソ連時代にも破壊されることはなかったが、反体制の象徴として近づくだけでシペリア送りと噂される、民族の悲劇を具現化したような記念碑だったという。
現在昼の間、一時間毎に最初の共和国時代の軍服を着た衛兵の交代が見られる。
たまたま団体行動の際に見かけたので、写真を出しておく。 ↓

リガ自由記念碑①

リガ自由記念碑②

リガ自由記念碑拡大

リガ自由記念碑衛兵交代①

リガ自由記念碑衛兵交代②

 ラトヴィアの概要
ラトヴィアは広さは日本の北海道の約8割で、人口は226万人。ラトヴィア人59.%、ロシア人28%など。公用語はバルト語族に属するラトヴィア語。宗教は北部、西部はルター派プロテスタント、東部はローマカトリックが多い。他にロシア正教など。
バルト三国は、EUの対ロシアへの思惑もあって、政治的にはEUに加盟しているが、通貨制度である「ユーロ」には加盟が認められていないので、移動するたびに通貨が替わるので、面倒である。たった一日の滞在のために通貨交換が必要であり、ユーロは商店などでも通用しないので不便である。
おまけに両替した通貨のうち、コインは原則として交換対象にならず、また紙幣でも小額だと交換を拒否されることもある。
私は米ドル10ドル、20ドルと小額の交換にとどめ、まとまったものはクレジットカードを使った。
もっとも私の買うのはガイドブックなどであり、もはや物欲は超越したので、基本的にシヨツピングはしない主義である。水とか食事の際の飲み物などの代金が最低限必要である。
バルト三国ともユーロとの間では交換レートは、ほぼ固定されているらしい。

 ラトヴィアの歴史
BC20 バルト族の祖先が現在の地に移住
854年 スエーデン軍が、アプオレで15000人のクール人の軍隊と衝突
1186年 シトー派の司教マインハルト、ダウガヴァ川河岸のリーヴ人の村に教会設立、以後この地域はリヴォニアと呼ばれる
1201年 僧正アルベルト、リーガに上陸。翌年、異教徒征服のためにドイツ諸都市のならず者を集め、「帯剣騎士団」を組織する
1236年 サウレの戦いで帯剣騎士団敗北。より強力なリヴォニア騎士団が組織される
1282年 リーガ、ハンザ同盟都市に
1290年 現在のラトヴィア全土がリヴォニア騎士団の支配下に
1521年 宗教改革の到来。騎士団弱体化
1558年 リヴォニア戦争
1561年 騎士団、ここをボーランド・リトアニア連合に売り渡し、その保護下にクールランド公国を設立
1629年 スウェーデン、ここを支配
1700年 大北方戦争始まる
1710年 ロシアのピョートル大帝、ここを支配
1772年 第一次ポーランド分割。ラトガレ地方ロシア領に
・・・・・・・
後は、先にリトアニアのところで書いたのと同様な経緯で、ドイツ、ロシア、ナチスドイツ、ソ連などに支配される 

 リーガの旧市街見学へ
8:45集合で、徒歩で旧市街見学へ。自由記念碑については先に書いた。
そこを引き返して(ホテル側ということになるが)、いよいよ旧市街に入る。
この通りを「カリチュ通」という。この道を挟んで北側と南側に教会などの文化財がひしめく。
メモが混乱しているので、写真を撮った順番に、アトランダムに写真を載せる。
現地ガイドの話によると「リーガ」=ラテン語で「波うつ」の意味という。町の下の土は「砂地」で建物は陥没しやすいという。
リーガの町が「歴史」に登場するのは先に書いたように1201年にブレーメンの僧正・アルベルトが上陸し要塞を築いたのに始まるがハンザ同盟などドイツとの関与が大きく極言すればドイツ系の町と言える。これは先のヴィリニュスや後のタリンなどと大きく違うところである。
「新」市街には「ユーゲントシュピール」という様式の建物などがあるというが、今回は立ち寄らなかった。
かつて「バルトのパリ」と謳われたリーガの町並みもソ連支配下では手荒く扱われ、ついには「零落した貴婦人」とまで呼ばれるほど傷ついたが、独立後の復興はめざましく修復され、中世からの刻をきざむ旧市街も魅力を失わず、ハンザ商人の活躍した舞台へと観光客を誘いつづけている。
以下、旧市街の由緒ある建築群である。

リガ旧市街建築群①

リガ旧市街建築群②

リガ旧市街建築群③
 ↑この建物は「猫の館」と呼ばれる。
その由来は、この建物の持ち主は裕福なラトヴィア人商人だったが、ドイツ人が支配するギルドに加入させてもらえなかった。そこで彼は尻をギルド会館に向けた猫を屋根に取り付けたのでギルド側は激怒したが「あなた方は規則を持っているのに守らない。私の猫は規則など持っていないから、猫がどう振舞おうと勝手じゃないか」と応えたという。後に、ギルド会館はコンサートホールに替わったから、今度は猫が喜んで音楽に誘われて踊っているという。

 ギルド会館の建物は、ここ ↓
リガブラックヘッド・ギルド
この建物は「ブラックギルド・ヘッドの会館」と呼ばれていて、15世紀から、その華麗な姿をみせていたが、1941年にドイツ軍の空襲で完全に破壊され、リーガの創設800周年を記念して2000年に再現されたものである。
「ブラックヘッド」とはハンザ同盟の未婚の貿易商人の友愛会だったと言われる。建物正面に掲げられた大時計は月、日、時と月齢を刻む。時計の下には四つのハンザ戸都市、リーガ、ハンブルク、リューベック、ブレーメンの紋章が浮き彫りにされ、ギリシア神話の神々の像が置かれている。

リガ旧市街城壁の塔
 ↑ リーガ旧市街城壁の塔が奥に見える

リガ聖ヤコブ教会尖塔
 ↑ 聖ヤコブ教会の尖塔 こういう尖がった塔が北ドイツの影響下の教会の特徴 

リガ教会?②
 ↑聖ペトロ教会の塔  ここに登ってリーガの町が一望できる
 
聖ペトロ教会の塔からの俯瞰
リガ町並み屋根

リガ三人兄弟の家0001
 ↑ 「三人兄弟の家」 17世紀のもの以後三世紀にわたる建物の隣接

散策は続いて、現在、大統領官邸として使用されているところに出る。ものものしい警戒である。
丁度、衛兵交代の刻にも遭遇したので、その写真も一枚。
リガ大統領官邸①

リガ大統領官邸②

リガ大統領官邸③衛兵交代

いよいよ散策も終末に至り、「リーガ大聖堂」に来る。
ここは僧正アルベルトが建設を始め、何度かの増改築の末、今の形になったのは18世紀後半という。
先に書いたように、ここは土地が砂地で地盤が悪く、教会の周囲が、めり込んでいるようになっているのが、その証拠である。

リガ大聖堂

リガ教会蒼穹
 ↑ 上の写真二枚が大聖堂(通称ドームという)

リガ大聖堂前広場

このリーガ大聖堂前広場で解散して一時間ほど自由行動。私は広場脇の「ダブル・コーヒー」というガイドブックにも載る茶房のテラスで、カプチーノを飲む。おいしかった。
再集合して、近くのレストランで名物の「カーポストゥ・ティーテンス」というロールキャベツを食べる。あっさりした味で皆にも好評だった。

 バルト三国の道路事情
国から国へと移動すると、高速道路や地道の国道を通るが、高速道路は、よく整備されており、快適なものである。その道の傍に大きな「EUの星の○」がついた看板が建っている。
ガイドの説明によると、これが域内の格差を無くするためにEUの予算で建設したものですよ、というものらしい。
バルト三国にも財政的な格差はあり、特にラトヴィアは国家破産の危機にあると書いたものもあるほどで、昨日、リトアニア北部のシャウレイから国境を越えて、ラトヴィアに入った途端、道はガタガタして驚いたが、それが現実なのであった。ここでは財政的に苦しくて、道路にも十分の予算が回せないものらしい。

昼食後は、一路、次の訪問国エストニアのタリンに向かうが、日程表によると、タリンへ約309㎞とある。
添乗員の説明によると、EUの規則で一時間走ると何分休息を摂るとか、決められているそうで、途中タリンまで二回のトイレ休息を取る。
このことは昨年のスペイン・ポルトガルの旅のときにも書いておいた通りであり、今はフランスのサルコジ大統領など保守派もいるが、おおよそヨーロッパでは「社会民主主義」政党が政権を取っていたから、労働者の権利は、日本よりも、ずっと尊重されているということである。

 日本車が多い
バルト三国では、自動車の生産はしていないので専ら外国からの輸入ということになる。
したがって「日本車」がたくさん走っている。トヨタ、ニッサン、マツダ、三菱などである。スズキ、スバルもあったのではないか。
ヨーロッパに来ると、車の生産国では、その国のメーカーが強いが、車を生産していない国では日本を含めての競争ということになり、俄然、日本車が増えてくる。
昨年、スペイン、ポルトガルのところでも書いたが日本車が健闘している。アイルランドでも日本車が目だった。
バルト三国でも、リトアニア、エストニアでは日本車が多い。
後日、エストニアのタリンのところでも書くが、タクシーがトヨタのカローラが突出して多かったのが印象的である。日本車は大きくないし、故障はしないし、政府の余計な干渉がなく、自由競争が保証されれば日本車に歩があるのは当然である。

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タリン・街俯瞰・新
 ↑ タリン・トームペアの丘の俯瞰
   
三つの世界遺産都市を巡る
      美しきバルト三国周遊(4)・・・・・・・・・・・・・木村草弥

         ──2009/08/22~2009/08/28 7日間── JTB旅物語主催

 エストニアの首都タリン
中世の空気を今に伝えるエストニアの首都タリンは、バルト海のフィンランド湾に臨む港町。
かつて閉ざされたソ連の地方都市の地位に貶められた時期もあったが、現在は多くの観光客の行き交う、北欧に開かれた「バルトの窓」と言われている。

タリン・ホテル①

タリン・ホテル②

タリンの宿は、シテイセンターの一角にあるレヴァル・オリンピアホテル。 ↑
REVALホテルグループは、この一角に三つのホテルを持っており、私たちの泊ったホテルは、モスクワ・オリンピックの開かれたときにヨット競技がここで開かれたので建てられたので、この名前だという。ソ連時代に建てられたとも思えない近代的な明るいホテル。エレベータも広く、速度も速い。港から数百メートルの距離である。
このホテルは二十四階まである高層で、市内のどこからでも、よく目立つ。

松村一登氏に教えていただいたところによると、

<Olumpia ホテルは,90年代初めに大規模な改装が行われて,ソビエト時代の雰囲気はなくなりました。>

つまり全面的に改装されたのであり、ソ連の建物という印象が全くないのも、よく判った。
感謝して追記しておく。

すぐ近くには一階にスーパーが入ったデパートがある。
トラムやトロリーバス、バスなどの走る通りには、数百メートル歩かなければならない。とにかく便利のいい立地にある。
ホテルの前にはタクシーが数台駐車しており、ほとんどは日本製のトヨタ・カローラであり、きれいに大事に乗られており、ピカピカに磨いてある。

 世界遺産はトーンペアの丘に集中している(掲出の写真参照)
朝、集合して午前中、半日徒歩で見物するので、トイレを済ますために先に港のフェリー乗り場のトイレに寄る。
港にはバルト海クルーズの大型客船が停泊している。
あとは一路、トーンペアの丘の駐車場へ。
こちらでは、世界遺産のあるところは、どこも「丘」の上にあるのが特徴である。
これは昔から「平地」は防御が難しく、みな高台に要塞様の建物を構えたことに由来するだろう。

 エストニアの歴史
BC30 エストニア人の祖先が、この地に到着
1187年 エストニアのバイキングがスウェーデンの首都スイグトゥーナを略奪
1211年 レンビトゥ率いるエストニア軍が帯剣騎士団と衝突
1219年 デンマーク王ヴァルデマラⅡ世、タリンと北部エストニアを占領
1227年 帯剣騎士団がタリンを占領
1343年 聖ゲオルギの夜のエストニア人の大反乱、この結果、デンマークは北部エストニアをチュートン騎士団に売り渡す
16~17世紀 ドイツの支配力強まり、エストニアは農奴に
1524年 宗教改革、リヴォニア騎士団弱体化
1558年 リヴォニア戦争、ロシアのイワン雷帝、バルト地方に侵攻
1561年 スウェーデンが北部エストニアを、ポーランド・リトアニア連合が南部エストニアを支配。リヴォニア騎士団解体
1629年 スウェーデン、リヴォニアを支配
1700年 大北方戦争始まる
1710年 ロシアのピョートル大帝、エストニアとリヴォニアを支配
1816~19年 農奴解放
1905年 ロシア革命始まる
1915年 第一次世界大戦勃発
1918年 エストニア共和国独立宣言
・・・・・・・後は、リトアニア、ラトビアと同様に変遷を辿る
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今年2009年は、1939年の独ソ不可侵条約締結から70周年になるのを記念して、1989年にバルト三国国民が連帯して、これに抗議した「人間の鎖」の手つなぎ運動が、八月二十三日に三国の人々が参加して式典が行われた、という。
その記念すべき時期に、ここに来合わせたことを意義ふかく想起したい。

なお、日本の大相撲に「把瑠都 凱斗 」という力士がいるが、彼は、ここエストニア出身である。
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私の敬愛する歌人・村島典子さんから手紙が来て、もう九年前に上梓された歌集の題が『タブラ・ラサ』であることから、私の、このサイトを見た、と書いて来られた。
私は、この歌集は未見であるが、ネットを検索してみてアルヴォ・ペルトというエストニアの作曲家のことを知った。
このリンクに貼ったサイトには、1935年生まれという、この作曲家のことが詳しく載っているし「タブラ・ラサ」が彼の著名な曲であることも知った。
ここに付記して書いておく。一度、この曲を聴いてみたいものである。

(9/29追記)この記事をご覧になって村島典子さんから、当該の歌集『タブラ・ラサ』(2000年柊書房刊)をご恵贈いただいた。
読み込んで、また記事にする予定であるが、とりあえず御礼を書いておく。
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 トーンペアの丘の見学
今日も午前中のみ、ここの徒歩での見学となる。
バルト海クルーズ船の搭乗客も、どっと押し寄せ、丘の上は押す押すなの混雑である。
以下、写真撮影順に載せる。詳細なメモを取れなかったので、間違いがあれば後日訂正する。

トーンペアの丘は、石灰岩の層で出来た高さ42m(海抜は47m)の丘。市街を見下ろすトーンペアは常に権力の居城となり、市議会が支配する下町とは政治的にも物理的にも厳格に隔てられていた。
エストニアの神話では、トームペアは古代の王カレフが眠る墓陵であるとされている。
彼の妻リンダは彼を埋葬したのち巨大な石を集め、墓陵を造ろうと考え、墓陵が完成する最後の石をエプロンに包み丘を登っていたとき、エプロンの紐が切れ石は転げ落ちてしまった。疲れ果てた彼女は、その石に腰を下ろし、悲しみの涙にくれた。彼女の涙は、ウレミステ湖になったという。
トーンペア城の南側下の広場に、泣き続けるリンダの像がある。

タリン・建物①
 ↑ この木造の教会?は何か不詳

タリン・建物②
 ↑ 「のっぽのヘルマン塔」と呼ばれる高さ50.2mのもの。エストニアの国旗を掲げて国を象徴する存在となっている。

タリン・建物④

タリン・建物③

タリン・トームペアの丘・建物①

 ↑ 上の三枚はロシア正教のアレクサンドル・ネフスキー聖堂。1901年に当時の支配者の帝政ロシアによって建てられた。タリンの町並との調和を考えると異端児的であるが、今ではすっかりタリンの名物建物として調和が取れている。
教会に入ってすぐ右手の壁には、日露戦争で沈んだロシア艦隊を記念したプレートがかけられている。

トーンペア城は、かつてエストニア人の砦があった場所に13世紀前半に建てられた騎士団の城。外城の中に修道院型の内城がある強力なもので、支配者が替わるたびに補強改築された。現在の姿になったのは18世紀後半のこと。
当時の権力者エカテリーナⅡ世は官邸として使うために改築を命じたので、正面から見ると城というよりは宮殿に近いものとなっている。 ↓
タリン・建物⑤

 ↓ 大聖堂(トームキリク)と呼ばれる。1219年にデンマーク人がトームペアを占領してすぐに建設した、エストニア本土では最古の教会。聖マリアの大聖堂とも呼ばれる。1684年の大火災で焼失したが、約100年の歳月をかけて現在の形に再建された。 
タリン・建物⑥

 ↓ 旧市庁舎北ヨーロッパに唯一残るゴシック様式の市庁舎。14世紀半ばに最初の建物が建てられ、1404年に現在の姿になった。外側から見るだけで内部には入らない。前の広場には人が一杯。
タリン・トームペアの丘・建物②

タリン・トームペアの丘・建物③
 ↑ 「三姉妹の家」 15世紀に建てられた商家の集合体で、美しく飾られたファサードが女性的な雰囲気だというので「三姉妹」と呼ばれている。

タリン・トームペアの丘・建物④
 ↑ 「ふとっちょマルガレータ」と呼ばれる、街の最も重要な出入口を守るため、1529年に建てられた「砲塔」。直径24m、壁の厚さ4.7mという頑丈なもの。ここから砲弾が発射されなくなってからは倉庫や兵舎、監獄として使われた。ここが監獄に使われていた頃、囚人の食事の世話をした慕われていたのが太ったマルガレータであったので、このように言われているという。
今では、
この塔の中には「海洋博物館」があり、船の模型、漁具から缶詰まで、海とかかわりのあるものの展示が充実しているという。塔上からの眺めも必見という。

 ↓ 以下、この丘からの俯瞰の写真を三枚かかげておく。
タリン・トームペアの丘から俯瞰②

タリン・トームペアの丘から俯瞰③

タリン・トームペアの丘から俯瞰④

タリン・トーンペア風景
 ↑ 見事な「装飾扉」だが、これはハンザの頃の「ブラックヘッド・ギルド」(ラトビアの項で書いた)の会館の建物の入口の扉だという。
これも、松村一登氏から教えていただいた「タリン市の公式案内サイト」(英文)を見て判明した。
改めて、御礼申し上げる。

タリン・トーンペア風景②
 ↑ 聖オレフ教会 北ドイツ様式の教会。落雷で焼け落ちたのち1840年に今の形になった。高さ124mにも達する塔は旧市街では最も高い建物。
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 バルト三国の言語について
リトアニアで、添乗員が「リトアニア、ラトビアの言葉はスラヴ語族で」と言いかけたら、現地ガイドの女性が待ったをかけ、「バルト語族」だと言ったのが私の記憶に残ったので、専門家である松村一登氏に聞いてみた。 その返事のコメントを下記に貼り付けておく。

<言語の系統のお話をします。

以前講義のために作ったウェブページがまだありましたので,まずごら
んください。

http://www.kmatsum.info/lec/meziro/sekai/genetic.html
http://www.kmatsum.info/lec/meziro/indoeuropean/indoeurop.html

「バルト語派」「スラブ語派」のかわりに「バルト諸語」「スラブ諸語」
といったほうがわかりやすいかもしれませんね。

バルト系の言語は,ラトビア語とリトアニア語の他に,17世紀に亡びた
プロイセン語(プロシア語)があります。歴史的なプロイセンは,ポーラ
ンド北部からカリーニングラード(旧ケーニスベルク)のあたりなので,
現在はスラブ語化されている地域ですね。

ポーランドから南の東欧の言語は,ハンガリー語を除いてほぼすべて
スラブ系ということはご存じの通りです。歴史的には,ドイツ人が北
方向と東方向に進出して,バルト三国や中部ヨーロッパに勢力を広げ
ました。

バルト語派とスラブ語派をいっしょくたにしたらバルト人がどう思うか
は,ゲルマン語派とロマンス語派を一緒にしたら,フランス人やドイツ
人がどう思うかを考えていただくと想像が付くかとおもいます。

バルト三国の人たちにとって,スラブ=ロシアという連想があるので
とくに神経質になる人が多いと思います。韓国と日本の関係がそうで
あるように,歴史はずっと尾を引きます。>

引用部にあるURLにアクセスしてもらえば、言語学でいう言語の系統が判るので参照されたい。

なお、三国のうちエストニアは言語的には別の系統「ウラル語族 - フィン・ウゴル語派のバルト・フィン諸語」に属する。
具体的には「フィンランド語」の系統に属するということであり、詳しくはWikipediaの「フィンランド語」のところを見てもらいたい。
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あと、市内に戻り、「セリヤンカ」というトマト味のスープの昼食を摂って解散、ホテルに徒歩で帰り、大阪の四人と一緒に美術館に行くことにする。
トラムに乗りたいというので、数百メートル歩いて停留所に行くが、郊外にあるので、どのトラムに乗ればいいのか判らない。停留所にいた少し足の悪い老婦人が英語が話せて、その人のおかげで、ようやく辿りつける。その人はトラムを下りてからも、わざわざ通行人に聞いたりして公園の一角のところまで案内してくれる。
 トラム、トロリーバスのこと
ラトビアのところでも書いたが、こちらでは、市内交通機関として、よく目につく。
トラムというのは軌道(線路)があり上には架線がある電車のこと。
トロリーバスとは車体はバスと同じだが、軌道はなく、バスはゴムタイヤで走り、架空の架線からポールで電気を取って走るバスと電車の折衷のようなもの。
ソ連支配地では、よく見られるもので、旧東欧─今でいう中欧のチェコ、ハンガリー、ポーランド、東ドイツなどでよく見られた。それが、ここでも市民の足として今でも使われているのである。
ソ連の支配も、すべてが悪かったのではなく、一定の社会インフラは残したことになる。
トラムの車体も、チェコとか東ドイツ製ではないか。当時は両国は技術的に高かったし、体制内で分業化していたから。
下に載せる「切符」も、トロリーバス、トラム、バスに共通するようである。
因みに、日本にも「トロリーバス」は昔あった。京都市でも四条大宮から西院まで短区間だが、走っていた。この区間は地下に阪急電車京都線が走っていたので、その関係からトロバス(と略称した)になったものか、実験的な導入かは判らない。

 ↓  トラムの切符。
タリン・トラム切符

↓ めざした美術館のカタログと写真。
タリン・美術館カタログ

タリン・KADRIORU美術館①

タリン・KADRIORU美術館②
私たちのめざしていた最終目的地の「KUMU」美術館は一番奥にあり、その手前に、写真二枚の「KADRIORU美術館」があったので先に見る。
この建物については、私の記事をご覧になった「松村一登」氏からコメントをいただいた。
 
<Kadriorg の宮殿
  この建物は帝政ロシア時代にロシア皇帝によって建てられたものです。>

道理で、この美術館は、とても趣のある優雅なものであった。
ガイドブックに載る記事を引いておく。
<大北方戦争(1700~1721年)後、バルト地域を手に入れたロシアのピョートル大帝が妃エカテリーナのために離宮と公園を造られせたのがここ。地元の人々はエカテリーナに対応するエストニア女性の名を使い「カドリの谷」(Kadriorug)と呼んだ。離宮の建設が開始されたのが1718年、イタリアの建築家による後期バロック様式の宮殿で、現在はカドリオルク美術館になっている。>

img20090724002355133クム美術館
 ↑ ネット上から、「KUMU美術館」の写真を拝借したので出しておく。

最終目的地である「KUMU美術館」は「カドリオルク公園」の東北端にある七階建ての近代的なもの。ここには図書館、カフェ、ミュージアム・ショップもある。
カフェのテラス席でコーヒーを飲む。
2006年完成という、この建物は、すごく金をかけた立派なもので、恐らく外資がこぞって投資していた頃に建てられたものであろう。ソ連支配下でのリアリズムの絵も展示されているが、抑圧下にあったときの絵には独特の「風刺」「アイロニー」の見られるものもあり面白い。
金融危機で、じゃぶじゃぶだった外資が一斉に引き上げた今では考えられないような贅沢な造りである。
松村一登氏のご指摘で判ったのだが、この緑地というか、広大な公園は「Kadriorg の宮殿」の敷地だったのだろう。その一角に、現代美術の殿堂として、この「KUMU美術館」が建てられたのだろう。
ご指摘に感謝して、訂正と追記をしておく。

歩き疲れたので、私は一人で先に美術館前からタクシーでホテルに帰る。
乗ったタクシーはトヨタ・カローラ。運転手に声をかけて車のことについて少し話す。
夕食はホテルのレストランで簡単なもので済ます。
これで全日程は終りである。
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最終日は出発までフリーなので、ゆっくり朝食を摂り、荷物の整理をして、昼食は現地通貨の消化を兼ねて、近くのスーパーでサンドイッチとジュースを買って部屋で食べる。
部屋は12時までの使用で、12:45集合で空港に向かいタリン→ヘルシンキは14:45発AY3926便。
ヘルシンキ→関空は17:20発AY077で、関空に゜08:55に到着して、帰宅する。



コメント
コメント
スーツケース不着とは
旅の初めに不便な思いをされましたね。
バルト三国、私にはあまりなじみのない国ですが、記事にあること全て珍しく、楽しく拝見させていただきました。
続きを楽しみにしています。
2009/08/30(日) 23:00:35 | URL | シルバ #- [ 編集 ]
「加筆」していますので、またご覧ください
■シルバさま。
お早うございます。
少しづつ「加筆」していますので、おついでの折に
またご覧ください。
有難うございました。
では、また。
2009/08/31(月) 10:31:27 | URL | sohya #- [ 編集 ]
おやおや・・・
荷物の不着は結構増えているようですね。
この春の中欧旅行の同行者も経験してました。
全員だったら、みんなであきらめもつきますが、
その方の場合はツアーの中の4・5人で、同情されるのもまた、
気が滅入ったそうです。
保険に入っていたので、緊急に買った費用はあとで支払われたそうですが、
買いたくても買えない場所もありますしね。
2009/09/01(火) 23:54:01 | URL | emarch #- [ 編集 ]
「加筆」していますので、またご覧ください
■emarchさま。
コメント有難うございます。
各日付とも、「加筆」していますので、またご覧ください。
では、また。
2009/09/02(水) 10:56:03 | URL | sohya #- [ 編集 ]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2012/10/22(月) 15:26:28 | | # [ 編集 ]
Re: 私のブログは「リンク」フリーです
■メール拝見しました。
私のブログは「リンク」「引用」フリーです。
ご自由にお使いください。
2012/10/22(月) 18:55:17 | URL | 木村草弥 #- [ 編集 ]
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