K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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四川省世界遺産の旅─黄龍・九寨溝他・・・・・・・・・・木村草弥
2007/07/02のBlog

峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
 四川省世界遺産の旅8日間(1)・・・・・・木村草弥

        ・・・・・・JTB旅物語・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

旅物語0001
標記のような旅をしてきた。
中国には数回行ったが、直近のものは2002年6月の山東半島青島・曲阜・泰山の旅で、それ以後は妻の体調不良で行けなかった。
中国は刻一刻と大変動しており、一昨年11月にANAのマイレージの期限切れ消化のために三日間上海に単身行ったときよりも、更に激しく変わっていた。
この頃は、国内旅行もJTB─特に「旅物語」の利用がほとんどである。
というのは私は以前からクレジットカードに「JTB」カードを持っていて、旅の申し込みと決済の一切を、このカードで居ながらにして行えるからである。しかもインターネット上で申し込みをすると、直後にJTBから確認の電話があって確定する、という簡便さが何とも便利なのである。
「旅物語」の品質としてのグレードは大衆的なものではあるが、ホテルなども決して悪くない。
今回は成都と九寨溝とシェラトンホテルだったが、現代中国では五つ星のトップクラスであり、極めて快適だった。

中国は沿海部を中心に大発展しているし、高速道路と航空網の整備には目を見張るものがある。
昔の中国では、飛行機は定員しか載せないのにもかかわらず、鉄道と同じような感覚で、空港でも押し合いへし合いの混雑で、発着時刻も混乱が普通だったが、今回は乗客も平静で、飛行機の発着の時刻も日本以上に定刻に離発着し、正確そのものだった。
ただ、旅の資料などは、まだまだ不自由で、今回手に入れた資料は『四川の魅力』(日本語版・著者 許文祥)、『蜀の風情』の二冊のみである。
ヨーロッパなどでは、今の時期になると、もう来年のカレンダーが出来ていて、みやげ物屋の店頭で買えるのだが、そういう文化的な面、観光開発の面では、極めて遅れている。
日本で買えるガイドブックとしては『地球の歩き方・成都・九寨溝・麗江』(ダイヤモンド社)、『ワールド・ガイド中国』(JTBパブリッシング)の二冊くらいである。あとは昭文社のものがあるくらいだが、全体として地域的な詳しい情報に乏しい。
したがって、今回の紀行文が、果たして読むに値するものになるかどうか、保障しかねるので、予めお断りしておく。
それに、中国は漢字も「簡略体」を採用しているので、ガイドブックなどは、この簡略体を併記しているが、このBLOGでは、私は現代中国語のフォントを採用していないから、出せないと思うので、ご了承を得たいと思う。
たとえば「九寨溝」は「九寨沟」と表記する。同じ発音なのであろう。ローマ字表記では Jiu Zhai Gou であり、これが現代中国語の発音を、ほぼ忠実に示しているようだ。
現代中国語の発音は中国の北西地方の方言が基礎になっていて、「ク」「サイ」「コウ」などの「清音」を「濁音」に濁るのが特長であり、われわれ現代日本人が「漢字」として発音しているのとは「違和感」があることを理解すべきである。つまり「キュウサイコウ」ではなく「ジウ ジャイ ゴウ」と発音するのだ。
これらのことは「日本語倶楽部」の記事のところでも少し触れたことがある。
旅は6月2日関西空港9:00中国国際民航CA164便上海行ではじまった。定刻よりも10分も早い離陸だった。総勢35名という大所帯。
上海現地時間10:30着。定刻で2時間半だが、実際は2時間しかかからなかった。
上海浦東空港で国内線に乗り継ぎ13:00にCA4504便成都行に乗る。
中国と日本との時差は一時間であり、中国国内は単一時間で時差は設けていない。
だから、東の沿海部と西の内陸部とでは、日の出、日の入りの時刻にかなりの明暗があろうと思われる。成都に15:50着。着後、宿泊のシェラトン リド ホテルに入る。
英語表記はSHRATON CHENGDU LIDO HOTELである。
漢字表記は「天府麗都喜来登飯店」である。

シェラトンホテル成都0001

写真②がホテル。高層で35階まである。私の部屋は30階だった。
市内には高層の建物が林立し、私が十数年前に訪れたときとは隔世の様子で、まるで浦島太郎のような心境になった。今の成都空港も数年前に新設されたもので、旧空港は国内地方専用の空港になっている様子。
このホテルは人民中路に面しており、目抜きの通りであり、ホテルに隣接して大きなサッカー場兼400メートルのアンツーカーのトラックを持つ競技場である。

サッカー場

翌朝は日曜日の朝とあって、薄暗いうちから、市民がトラックを列をなして疾走したり、サッカー場の周りのところでは太極拳や剣舞に打ち込む人たちなど、中国人たちの鍛錬ぶりを目のあたりにした。
中国、台湾、香港と言わず、中国系の人の住むところは、みな朝から体育というか、に励んでいる。これが中華系の特徴である。
写真④は、サッカー場の周りで太極拳に励む人たち。
リーダーらしき人が中に居ることがわかる。

太極拳

私が、この写真を撮って先へ進み、しばらくして引き返してきたら、「剣舞」をやっていたので撮ろうとしたら、やめてしまったので撮れなかった。
ジョギングする人は、もっと多い。先に書いたように、トラックを列をなして走っている人たちなどは、明らかに陸上競技の基礎の出来た人たちであるのは確かで、言わばトレーニングをしているかのようだった。

室内から
写真⑤は、私の30階の窓から見たサッカー場である。
窓越しなので、ガラスに反射して、いい写真が撮れなかった。

四川省のこと
「四川」という名称は、元朝が、この地に「四川行省」という行政区を設置したことに始まる。これが省略されて四川省と呼ぶようになり、清朝の時代に正式名称として採用された。
この四川省の省会(日本の県庁所在地に相当)が成都。
四川省は、以前までは人口1億3000万人と言われていたが、重慶市が直轄市として分離されたので、今は1億人という。それでも、この省ひとつでほぼ日本の人口に匹敵する多さである。
ここ成都は中国西南エリアの中心地で、かつ交通の要衝でもある。
市花は「芙蓉」で、市樹は「イチョウ」。
「三国志」の時代に活躍した劉備玄徳の「蜀」の国、参謀の諸葛孔明が活躍したところ。後で詳しく触れる。
成都は古くから「天府の国」と呼ばれ、肥沃な四川盆地の中心だった。2500年前にはすでに城壁で囲まれた大規模な街だった。現在の成都の街のかたちになったのは清の康熙帝のときに清城が築かれて以降だという。ただ今は、もう城壁は無い。
そして四川省と言えば、「パンダの故郷」「激カラの四川料理」というのが一般的な日本人のイメージということになろうか。

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  峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
      四川省世界遺産の旅8日間(2)・・・・・・木村草弥

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

青城山

 青城山
観光の第一日は成都の北西63kmにある「道教」の発祥地である「青城山」に向かう。
ここは標高1600メートルの峰々がつづく緑の木々が山全体を覆う原始林で、その様子から「青城山」と称される。前山と后山とがあるが、普通には「前山」のことを言う。
後漢の末期、道教の前身といわれる宗教集団五斗米道の創始者張道陵が布教をはじめたのが、ここである。その後も道教の聖山として栄え、今でも山中に道観が点在し多くの道士が修行する。
そのような文化的価値が認められ、2000年に「都江堰」水利施設とともにユネスコの世界遺産に登録された。

青城山ロープウエー

ここには長いロープウエー(二人がけのスキー場にあるようなリフト)に乗って上ってゆく。
月城湖という池があり、ワイヤー引きのフェリーみたいな船で渡った対岸にリフト乗り場がある。
よくご覧いただくと、写真②の向かいの山にリフトの筋が見える。
とても長いリフトである。
このリフトの終点のすぐ近くに「上清宮」がある。(写真③)

青城山上清宮

道教の寺院だけあって、普通の仏教寺院とは建物の形なども違いがある。
日本のガイドブックには載っていないが、現地で買ったガイドブック『四川の魅力』には、こう書かれている。

<昔、この山は「清い城山」と呼ばれたが、道教の教義「静心、無欲、素朴」というのが、この山の名前にマッチしています。唐の時代、領地をめぐって仏教と道教の間で紛争が起こり、皇帝が「観を道家に返し、寺を外へ移せ」と詔書を書いたとき、「清い城山」の「清い」を「青」に書き間違えました。以後、この山は「青城山」ということになりました。この事実は麓にある石碑に残っています。>

写真④は上清宮本堂前に供えられた「赤いローソク」である。どぎつい赤色で美的感覚を疑うが、中国人は、こういう派手な原色が好きである。

青城山上清宮ローソク

『四川の魅力』から引用してみよう。

<前漢時代の紀元143年、張道陵という人がここで道教を創始しましたが、唐代末には「鶴の仙人」と呼ばれた杜光庭が道教の本を出したりして、道教の普及につとめた。南宋の時代には李少薇が体を鍛えることを説き、信者を大幅にふやした。清時代の初めには陳清覚という人が修行に専念して、康熙帝から「丹台碧洞」という額をいただき、勢力を伸ばした。>

青城山屋台
写真⑤は、門前でおかずを売る屋台である。
おいしそうな匂いが辺りに漂っていた。

書きもらしたが「上清宮」の扁額の字は国民党主席だった蒋介石が書いたもの。
「上清」というのは、仙人が住んでいるという意味だという。
伝説によると、太上老君が大きな青い羊に乗って、吉祥の雲を追って、この辺りに来たという。成都の街中に「青羊宮」という大きな道教の道観(寺院)があるが、これに因んでいる。
この山には「樹木の王様」と言われる銀杏の木があり高さ30m、枝の傘の直径36mと言い、創始者の張道陵が植えたという。
「銀杏の実」「漬物」「茶」「酒」は青城山の四絶と褒められ、いい贈り物になるという。
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   峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
        四川省世界遺産の旅8日間(3)・・・・・・木村草弥

           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

 都江堰
青城山を降りて、すぐ近くの岷江のほとりの「都江堰」へ。
ここは成都の北西48km、岷江の上流にある古代水利施設。

都江堰②

この工事は紀元前256年(秦の襄王の統治期)、岷江の氾濫を防ぐために蜀郡太守の李氷が指揮を執って始まった。大規模な工事は息子の李二郎が受け継いだが完成したのは彼の死後、数世紀経ってからである。
現地ガイド・張さんの説明によると、上に書いた息子というのは、実際には居なかった。
李氷を慕う現地の人たちが、事業を継続する建前として、空想上の息子というのを作って事業完遂のための「シンボル」としたのだという。

都江堰③

都江堰の構造は「魚嘴」「飛沙堰」「宝瓶口」の3部分から成る。岷江の水は、先ず人工の中洲によって外江と内江に分かれる。外江の水は、そのまま岷江として下流へ流れてゆくが、内江の水は灌漑用水として宝瓶口へ流れこみ、いくつかの用水路に振り分けられて成都平原を潤すことになる。
写真③は当時の国家主席・江沢民の揮毫になる額。

この堤防を兼ねる中洲は竹製の籠に石を詰めたもの(土木工学上では「蛇籠」ジャカゴと呼ぶ)を積んで築かれた。

都江堰蛇籠

この中洲の最上流部を「魚嘴」という。鋭角になっていて、魚の嘴のような形なので、この名がある。中洲の最下流部を「飛沙堰」と呼ぶ。この堰は洪水対策のもの。岷江が増水したとき、内江へ多量に流れると、四川平原に水が流れ過ぎて氾濫を起こす。そのため、内江の水が多いときは、内江の水が飛沙堰を通して外江に戻るようになっている。
ここから引かれた水は成都平原5300平方キロメートルの農地を潤し、成都を「天府の国」と呼ばれる豊かな大地に変えた。
堰の東岸にある二王廟は李親子の徳を讃えるために南北朝時代に建てられたものである。
もちろん現在われわれが目にする堰は現代人の手が加えられたものなのは言うまでもないが、基本的に古代の工法が今も生きているのは貴重なものである。
写真⑤は、見学用に置かれた「蛇籠」の見本である。
この工法は、日本でも施工されていたものである。
竹の代わりに金属製の網などが使われることもある。

アメリカの宇宙飛行士が月から地球を見下ろしたとき、見えたのは万里の長城、エジプトのピラミッド、そして「都江堰」だったと言われている。『四川の魅力』によると、

<中国の戦国時代は多くの英傑を輩出しました。道教の老子、儒家の孔子、墨家の墨子などですが、李氷は水利工事の専門家であるとともに、優れた政治家でした。庶民の苦しい生活を考慮し、なるべく税金を減らすよう中央の宰相にも進言したりしました。彼は庶民との人間関係を重視したのです。李氷殿の上の額には「利済全川」と書かれていて、文字通り、この堰が出来てから四川省の庶民に恩恵をもたらした、という意味です。>

この日は、四川省の南西部にある「峨眉山」の麓の街まで約200数十kmをバス移動して、今晩宿泊のホテル峨眉山大酒店に入る。かくて第二日は終わった。
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2007/07/03のBlog
  峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
     四川省世界遺産の旅8日間(4)・・・・・・木村草弥

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

峨眉山
第三日が始まったが、昨夜泊まったホテル・峨眉山大酒店は部屋はともかく、ホテルとしての従業員教育がなっておらず、悪かった。
私たちは第三棟というところに泊まったが、本館と呼べる建物が、フロントというものがなく、食堂、レストラン棟という態のものだった。
ホテルの従業員もなっておらず、朝食の時間になっても出勤して来ず、私たちが群れをなして待っていたら、時刻を過ぎてノロノロと出てきて、大遅れで用意する始末。一頃の「国営商店」の頃の態度そっくり。おまけに、ここの食事は、おざなりの最低だった。その昼、峨眉山から下りてきての昼食も、ここで摂る始末で、踏んだり蹴ったりである。
旅のアンケートには、さんざん悪く書いておいた。

峨眉山金頂④


峨眉山は成都の南西160kmにあり、標高は3000mを越す高い山の頂上に「金頂」寺がある。バスで緑の森の中を延々と登り、最後はゴンドラに乗って頂に至る。空気が希薄で息苦しい。
ここは1996年に、隣接する楽山大仏とともに自然との複合世界遺産に指定された。

青城山ロープウエー

金頂に上るのには、私たちの乗ったゴンドラとは別に、むき出しのリフトもある。
ここの見所は、金頂で見られる「ご来光」「山の風景」「山中に残る歴史的建造物」だという。
「金頂」の建物─正式には「華蔵寺」という。全体に金ピカで、これらはそんなに古いものではなさそうである。

峨眉山金頂

峨眉山金頂③

 峨眉山の由来(『四川の魅力』による)
<昔から「青城こそ天下幽たれ」、「険門こそ天下雄たれ」、「三峡こそ天下険たれ」、「峨眉こそ天下秀たれ」という諺があり、四大絶景の一つとして、ここの景色が素晴らしい、しかも仏教の四大名山の一つとしても知られている。仏教の四大名山とは、山西省の五台山─文殊菩薩、浙江省の普陀山─観音菩薩、安徽省の九華山─地蔵菩薩、四川省の峨眉山─普賢菩薩、が修行していた場所です。>
<大昔、山の中の寺に一人の画家が訪ねてきました。画家は和尚さんと仲良く付き合って三ヶ月経ちました。宿泊料を和尚さんが取らないので、代わりに「峨眉四女」の掛け軸を置いて、必ず49日の後にご覧下さい、と言って去ったのに、和尚さんは、その絵を壁にかけてしまいました。ある日、外から和尚さんが戻ると部屋の中から笑い声がしたので、不思議に思って戸をあけると4人の美女がいて、あわてて逃げ出しました。
和尚さんが追っかけ、一人の裾に掴んだら、彼女は恥ずかしがって山に変わりました。後の三人も彼女を捨ててはいけないので、次々に三つの山に変わり、今の峨眉山になった、と言います。
実は今より6千万年前、ここはまだ川水一杯でした。地球の地殻変動のために東の方は沈下して平原になり、西の方は、この山になり、またチベット高原も含めて「地質の博物館」と呼ばれる峨眉山は、こうして生まれたのです。特異な地理条件のために、いろいろの珍しい動物と植物がここに生きているのです。>
<「金頂」の標高は3077mで、「日の出」「雲海」「「仏光」「聖灯」という四大絶景があるとされます。
特に「仏光」は、この吉祥の象徴を見たら、仏縁があると有難がられています。
この現象は今では「ブロッケン現象」として説明出来ますが、昔の人には不思議な体験だったでしょう。
普通、午後の2:00~5:00頃まで、また雨の後、雲が多いとき、よく出てきます。
ここでは年間75回くらい、どの季節にも見えて、他のところでは稀ですから、峨眉山の仏光は世界一だと言われます。>

ここは仏教寺院であるから、熱心な信徒が中国特有の、ひざまづいての礼拝を捧げるのが、写真⑤である。

峨眉山金頂⑤

今は仏教寺院だが、もともとは、この山は道教の山であった。
仙人の修行に一番のところであったが、仏教伝来以来、もう土着の道教と争いはじめたのである。
唐の時代に「禅宗」は、現地の主な宗教になり、お坊さんもどんどん集まってくるようになり、宋の時代を経て、明と清の時代には、ここには170の仏教寺院が見られ、そのときから道教は、ここから引いて行ったのである。
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2007/07/04のBlog

 峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
      四川省世界遺産の旅8日間(5)・・・・・・木村草弥

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

 峨眉山山麓・・・報国寺・・・中国の食事のこと
峨眉山の頂上から降りて、昨夜宿泊したホテルで昼食を摂る。
ここで、中国の食事のことを書いておく。
朝食はバイキングが多いが、シェラトンホテルの朝食は、西欧式のものも多く、中華風のものなどバラエティに富んでいるが、外で食べるときも含めて、いわゆる「中華」料理と称するものの連続であり、おまけに「四川」料理の味付けは概して「激カラ」である。
私は中華料理は嫌いではないが、毎日毎日、昼も晩も、これが続くとうんざりする。
回転テーブルの食卓で、一品で食べる量は少しづつだが、8日間も居ると、お腹の中が変になったようで、私は痔の持病があるので、脱肛気味になり、血がにじんだりした。肛門の辺りがゆるくなったのかブリーフの局部が汚れて困った。
それに、海外旅行の旅はヨーロッパでもそうだが、バスに乗る移動時間が多くて、体調を崩しがちである。私は疲れが胃腸に来る質で、今回も口の周りに「あくち」の吹き出物が出たりした。

峨眉山麓

写真①は、山麓にある峨眉山の登り口に建つ碑である。「書」の国らしく、毛筆体の達筆の字が彫られている。
「報国寺」は作られたのは古くはない、16世紀の明代に創建され、清朝に今の場所に移されたという。
峨眉山ガイド張さん

写真②には世界遺産のマークが見られる。
マイクを握っているのが現地ガイドの「張」さんである。日常会話に不自由はないし、説明すべき文物の知識もほぼ完璧だが、ときどき微妙な表現に違和感があるのはやむを得ないだろう。
このツアーでは、「イヤホーン」ガイドによる説明を採用していて、少し離れていても聞き取れるので便利である。
この「山麓」は海抜500mくらいのところで、暑い日中だった。
写真③が報国寺。
峨眉山報国寺

この辺りは山への上り口で緑も多く、ホテルやみやげ物屋も軒を連ねている。
中国政府も地方の機関も「観光」開発には力を入れており、予算もつぎ込んであるらしく、よく整備されている。
ここは行政的には「峨眉山市」になっているというが、ここの観光を済ませて、われわれは一路、隣接する「楽山市」へと向かう。

 楽山大仏(1)
楽山市は成都の南西164kmに位置し、人口348万人で四川盆地の南西部における水陸交通の要衝である。中国は、どこでも、ちょっとした都市でも数百万の人口を擁している。
ここは「楽山大仏」のあるところで古くから観光地として栄えた。
有名人では作家の郭沫若が、ここの出身だ。
街について「岷江」の船つき場から船に乗って水上から大仏を見る。

楽山大仏船②

写真④は船つき場。
この大仏は1996年に峨眉山と合わせてユネスコの世界遺産(文化、自然の複合)に登録されたが、仏像は高さ71m、肩幅28m、頭部の高さ14m、頭の直径10mという巨大さである。足の甲には大人100人がゆったりと座れるという。仏像の正式名称は「凌雲大仏」と言い、弥勒菩薩である。
この大仏が作られたのは岷江の氾濫を鎮めるためだった。
船に乗るには写真⑤のように救命胴衣をつけさせられる。
大仏は先に書いたように、大きいから、川の上から船に乗ってしか全容を見られないのである。
なぜこんなに大きい大仏が作られたのか、それは、この凌雲山の下で大渡河と青衣江が岷江に合流するために、古来水害が絶えなかったので、それを鎮めるためであった。
唐の玄宗皇帝の時代の713年に凌雲寺の僧・海通が建立を発案し、浄財を募り取り掛かったが、完成したのは803年で、実に90年の歳月を要したのであった。
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2007/07/05のBlog

峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
 四川省世界遺産の旅8日間(6)・・・・・・木村草弥

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9
楽山大仏

 楽山大仏(2)
船は一旦、大仏前よりも上流まで行き、流れを利用してエンジンを加減しながら大仏前に静止するかたちで航行する。その間に、観光客は写真をパチパチと撮るわけである。
写真①のように、この山は川の上から見ると、「涅槃仏」のように見える。山の上に見えるのが仏塔ストゥーパである。
大仏の彫られている岩は紅砂岩という風化しやすい、壊れやすいのだが、なぜ1200年もの間その姿を保ち得たのか。
先ず、大仏は周りの岩の隠れた位置にあって、原始林に囲まれていて、太陽の日差しも弱まり、風もある程度防げて、風化が他のところより遅かったと思われる。
次に、大仏自身に精巧な排水設備があるためで、後ろの排水のための穴や、頭部の三本の排水溝は、下の衣の折り目と繋がり、雨水による被害を防いだ。
また、もともと大仏には当初、屋根が掛けられて保護されていたのである。明朝の末期に農民の蜂起軍によって焼き払われたが、長年、このように保護が手厚くされてきたので、今日も立派な像を拝見できるのである。
現在、昔のように「屋根」を復元しようという計画があるという。
船を下りて、駐車場から歩いて「凌雲寺」と、大仏の頭部のよく見えるところへ上る。

楽山大仏頭

写真③が間近に見る仏の頭部である。頭の上には1021個の「螺髪」ラホツがあるという。
耳の長さは7mもある。ここまで上ると、川を渡ってくる風が涼しい。
この大仏建立にあたった海通の浄財を集める苦労話も伝わっている。
「布施」を求めていた或る日、貪欲な役人に遭い、集めた浄財を奪われそうになった。海通は毅然として「たとえ目を取られても、浄財は一銭も渡さない」と言い放った。役人が怒って「では目を頂こう」と言ったら、海通はその場で自分の目を抉りだした。これには強欲な役人も驚き、以後は二度と彼を困らせることはなくなったという。
写真④は頭の高さのところから、下の台座と川を見下ろしたもの。
この辺りから、大仏の脇を通って石段を川まで降りられるというが、私は降りなかった。

完成した当時、大仏は金ピカに全身金箔が貼られていたという。
海通の死後、工事は中断され、以後、遺志を継いだ人たちの名前もわかっているが、省略する。
凌雲寺のある、頭部の公園からは対岸の楽山市の町並みが一望できる。
先に書いたように楽山市は、この地方の要衝であり、ご覧のような高層建築も林立しており、日本ならば大都会の規模と言えるだろう。

楽山市街

 「一人っ子」政策の見直し
何しろ中国は13億の人口を抱える大国であり、いたるところに人が溢れている。
「一人っ子」政策を推し進めて人口抑制政策を採ってきたが、おかげで高齢化が進み、人口構成の歪化が見られるようになったとかで、今では「二人っ子」まで子供を産むのを認めるように転換したとか。
楽山観光を終えたあとは、一路、高速道路を経て、成都まで戻る。約二時間半の行程だ。
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2007/07/06のBlog

 峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
     四川省世界遺産の旅8日間(7)・・・・・・木村草弥

           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

 武候祠・・・劉備玄徳と諸葛孔明
私は1993年1月に、昆明、石林、桂林、広州などを訪ねた旅で、成都に来たことがある。十数年ぶりということになる。
先に少し書いたように、成都の街は、その頃の面影は全く無いと言ってよい。
この武候祠や後日行く「杜甫草堂」などは、よく保存され、昔のままの風情だが、辺りはすっかり近代化してしまっている。
紀元223年4月に劉備玄徳が白帝城で亡くなり、諸葛孔明が彼の遺物をここに埋葬して以来、すでに1800年の歴史のあるところである。
入口には黒い壁があり、それは中国の礼儀では、重要な人物がここに祀られているという意味である。

武候祠②

写真②の横額には「漢昭烈廟」と書いてある。
「昭烈」、「武候」とは、それぞれ劉備玄徳、諸葛孔明の尊号で、古代では君臣の身分を厳しく区別して、劉備には皇帝としての「贈り名」で「昭烈」と名づけたが、諸葛孔明の功績を讃えて、後世に君臣を一緒に、この地に祀ったものである。
この武候祠の敷地は4ヘクタールある。
明の時代に隣の劉備玄徳の廟と合併して今の規模になった。
「三国志」の時代と関連する塑像、鼎、太鼓、碑など200余りの文物が展観されている。

劉備殿
この建物の中に入ると上の横額に「業紹高光」と書いてある。「業」は功績、手柄ということで、劉備が蜀の国を建てたということだ。「紹」は当たるということ、「高」は前漢の創始者である高祖劉邦のこと、「光」は後漢を建てた光武帝劉秀のことで、つまり劉備の功績は、祖先である劉邦や劉秀の功績と同じくらいだという意味である。
劉備は、もともと「漢」の再興をめざしていたということに因むものである。
劉備は河北省の生まれで、40歳頃まで各地を流浪する者であった。
当時「黄巾党」の乱で庶民が苦しんでいたので、彼は自分の兵を連れて、この乱を平定しようと考え、その後、張飛、関羽と桃の木の下で義兄弟の契りを結ぶ。これが有名な「桃園の義」という物語である。「関羽殿」「張飛殿」に彼らが祀られている。
関羽は「関帝廟」として後世、中国、世界各地に祀られて有名である。

武候祠

武候祠
ここが本来の意味で諸葛孔明を祀るところ。
入口の横額に「武候祠」と書いてあるのは、有名な作家・郭沫若の筆になるもの。
先に書いたように「武候」とは孔明の「贈り名」である。
殿に入る上の額に「名垂宇宙」と書かれているが、これは孔明はいつまでも人々に偲ばれる人だ、という意味である。
武候祠③0001

武候祠③

羽毛の団扇を持って、穏やかな顔つきをしているが、紀元181年、山東省の生まれで、27歳まで湖南省の北にある襄陽で晴耕雨読の生活をしていた。
劉備の「三顧の礼」によって宰相に迎えられたというのは有名な話。
後は省略する。

武候祠⑤

写真⑤が劉備玄徳の陵である。
私の写真には無いが、『四川の魅力』誌には、この陵には「千秋凛然」という横額があるという。
劉備は威風堂々としており、いつまでも人々に偲ばれるという意味だという。
この陵墓は高さ12m、周囲180mである。紀元223年4月に劉備玄徳は夷陵の戦いに敗れ、白帝城で病死した。
そこから、ここ成都まではとても遠いから、劉備の遺体が確かにここに埋葬されているかどうかは判らない。
この千年間、一度も盗掘されたことがないというが、物語があり、唐の時代に二人の泥棒が盗掘に入ったところ、声がして、近づくと、劉備と孔明が碁をさしていて、しかも関羽と張飛が側に立って見ている。驚いた二人が逃げようとすると酒をすすめられ、一気に飲んで逃げたところ大きな雷が鳴った。帰った二人は、病気になり死んでしまったという。

ここにどのくらいの時間居ただろうか。
われわれは一路、黄龍、九寨溝めざして奥地へ向かうことになる。今晩の宿泊地は「茂県」である。途中、悪路と交通渋滞に遭遇することになる。乞う、ご期待。
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2007/07/07のBlog

峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
  四川省世界遺産の旅8日間(8)・・・・・・木村草弥

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

地図

 岷江上流・・・映秀・茂県への道・・・悪路と交通渋滞
先日行った楽山を流れている川も岷江だった。
岷江は大河・長江に合流して遥か東シナ海に注ぐのだが、今回の旅は、ずっとこの岷江にかかわるものだった。
黄龍、九寨溝に至る道は、ずっとこの川に沿っていることが、今回の旅で、よく判った。
中国の大河・長江は、大国・中国の遥か西の奥地から発しているのだった。

成都を発った私たちのバスは、地図を見ると、楽山への距離の三分の一足らずのところにある茂県(今晩の宿泊地)をめざして「地道」に入ったが、途中、どこか名前の判らない所で激しい交通渋滞に巻き込まれた。ガイドの話ではトンネル工事にともなう一方通行規制のためらしかったが、ここでわれわれは「勝手者」の中国人の一面を、かいま見ることになる。片側一車線の道路が渋滞しているのに、反対車線を強引に逆走してクラクションを鳴らしながら、先に割り込もうとするマナーの悪さ。
一頃の中国は、全くこうだった。マナーもよくなったと思っていたら、マナーの悪さは温存されていた。
今までからの経験から、私は中国人は、尊大で、「勝手者」だと思っている。激しい「自己主張」の持ち主である。厳しい乱世を生き抜いて来た何千年来の経験が性格として定着したのだろう。おまけに、世界は自分たちを中心に回っているという「中華思想」を抱いている。いまアフリカなどで天然資源の獲得を求めて中国人が進出しているが、その際の現地人などへの対応で、この尊大さが各地で多くの紛争を起こしているという。
私は日本人の「自己主張の無さ」をいつも反面教師として問題にするのだが、今回のような事態に直面すると、いろいろ考えさせられた。
高い山が延々とつづき、うねる谷あいに沿って狭い国道が走っている。「地道」にトンネルというものはない。ところどころにトンネル工事が見られるのは、山腹をぶち抜く「高速道路」の工事現場だ。
険しい岩山の山腹に張り付くようにして道は、くねり、登り、下りして延々とつづく。こちらから向うへ向かう車も大渋滞なら、向うから来る対向車も延々と渋滞しいている。ルートは、この道一本しか無いらしい。この間、何時間空費しただろうか。約3時間か。

 映秀での昼食は午後3時ころ
悪路でゆられ、ゆすぶられ、くたびれ果てて、写真どころではなかったので、写真は無い。
途中、土砂崩れのために、工事中の高速道路予定地の地道に迂回することになったが、仮設の橋が重量制限のため、乗客のわれわれは下車して先に歩いて対岸に渡る。もうもうとした土煙にむせながら300mも歩いたか。
みんな奥地でも学校教育には力を入れており、もうもうたる土煙の横に立派な小学校があったのを印象ふかく覚えている。
この辺りから、もう「アバチベット族チャン族自治州」に入っているらしかった。
そして、すっかり暗くなった中、できたばかかりの茂県国際飯店に着く。雨である。ホテルの横には岷江の流れが渓流の音をたてて流れていた。

茂県国際飯店はモーニングコールは午前5時─弁当もらって6時出発
高地と雨と低気温に備えてフードつきのコートを着用する。

どのくらい進んだだろうか。トイレ休憩も兼ねて羌(チャン)族の村に立ち寄る。
この「羌」という字は日本では「キョウ」と音読みするが、現代中国語では「チャン」と発音されている。
羌族は中国の少数民族の中では歴史が一番古い民族の一つで、アイマーとも呼ばれ、「現地の人」という意味である。彼らは今ほとんど九寨溝へ行く途中の岷江流域に住み、人口ほぼ20万人だという。

チャン族の村

チャン族の村②

チャン族の村④

写真②は羌族の村。
道沿いに住む彼らは写真③のように乾燥させたサクランボやナッツ類、などを売って生計をたてている。

羌族の歴史は3000年くらい前に遡ることができるという。殷の時代に甲骨文の中に彼らに関する記録があるという。秦の始皇帝の時代から、もうこの辺りに住み始めたという。もともとは遊牧民だったが、次第に農牧民になった。自分たちの言葉はあるが文字はない。漢民族とチベットの言葉によく似ているという。
牛の仲間の「ヤク」は黒色をしているが、一万頭に一頭ほどの割合で、白いヤクが居ると言い、珍しいので写真④のように観光客を乗せて一回5元で写真を撮らせる。

チャン族の村③

もっともガイドの張さんの話では、あちこちに白いヤクが見られるので、白毛に染めているのではないかという。
彼らの宗教は、万物には神と霊魂が宿るという、日本とよく似た宗教観を持つ。
それぞれの神は無限の力を持ち、人と家畜の安全、植物の収穫などの一切を支配しているから、彼らの宗教活動の主な内容は「魔よけ」などであるという。

この村から下に見えるのが、写真⑤の「畳渓海子」という湖で、ここは199?年の直下型の大地震で500メートル陥没して出来たと言い、数千人が亡くなったという。
おそらくは死者のほとんどはチャン族であったと思われる。

チャン族の村⑤

このような痛ましい記憶の湖を横目に見ながら、われわれのバスは一路、今日の第一の目的地である「牟尼溝」に向かう。
ここは谷筋から逸れて山の中に入ってゆくが、一般の観光コースにはめったに入っていないという。JTBは珍しいとガイドの張さんは言う。バス一台がようやく通れる道であるが、道路はよく舗装されている。

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2007/07/08のBlog
   峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
        四川省世界遺産の旅8日間(9)・・・・・・木村草弥

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 牟尼溝─地図にもガイドブックにも載っていない
ここ「牟尼溝」は、後から振り返る今だから説明できるが、地質的には「ミニ黄龍」「ミニ九寨溝」だと言える。
岷江沿いの谷筋から逸れて山の中に入ってゆく。
写真①がその入口であり、ここで入場料を支払い、ゲートのバーを上げてもらって入る。先には駐車場もあり、施設は整備されている。
資料がないので、高度がどのくらいか判りかねる。

牟尼溝③

滝(瀑布)がいくつかあり、写真②のように説明板が設置されている。
土が石灰分を含んでおり、茂る草に付着した石灰分が沈着し、それらが「堰」の役目をして「棚田」のような形の段を作る。石灰分を含んでいるので、水は見る角度によって青く見えるということである。
ここはチベット族の村(寨)だという説明である。これらも、後でゆく黄龍などと共通する。
扎嘎瀑布。どう発音するのか判らない。
この滝の位置は海抜3100メートルと言い、歩くと息切れする。
ここは夏から秋にかけてがベストシーズンとかで、冬場には黄龍の代わりのツアーとして組み込まれることが多いという。後から言えることだが、黄龍を見たら、ここの規模は小さいので、改めて見る必要はないところ。
資料がないので、写真だけ載せておく。悪しからず。

牟尼溝④

写真④が成都を基点として各地へ乗せてくれた大型バスである。
エアコンも快適に効く立派なもの。
中国製である。狭い道もあるので、都江堰を終わってから「助手」を一人乗せた。
このようなことはトルコなどでは、よくあることである。運転の交代要員ということではない。
九寨溝空港までわれわれを送った後は、また、例の悪路と渋滞のところを通って成都まで帰ってゆくのだと思うと大変である。

牟尼溝⑤

牟尼溝を出てからの昼食は写真⑤のところ。
地元で採れた「キノコ」が主体のものでおいしかった。
店の名前もキノコにふさわしく「山野軒」とは恐れ入る。
しかし、料理の写真は撮らなかった。
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       四川省世界遺産の旅8日間(10)・・・・・・木村草弥

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黄龍①

黄龍・・・・・富士山山頂のような高地で酸素うすく息切れする
ここは1993年にユネスコの世界遺産の自然遺産として指定された。
成都から400kmの四川省北西部の松藩県の北部に位置している。色とりどりの池群、3400もの沼、奇妙に鍾乳洞の景観が特徴である。8万平方メートルの土地はカルシウム化で、世界でも独特なカルストの形になっている。
トルコの地中海沿岸のパムッカレとよく似ているが、ここは大自然の中に広大な面積を占め、規模は比較にならないほど大きいし、海抜も3300~3600mにも達する高地である。黄龍の「龍」の字は、簡略体では、このように書く。
ここの施設は立派で、入口に着くと、構内専用のバスが待っており、ロープウエイの乗り場まで乗せてくれる。
全部歩いて上下してもいいのだが、大半の人は上りは写真②のロープウエイを利用するようだ。

黄龍②

ロープウエイの終点の高度は3500メートルだと言い、ここから歩いて頂上のお寺までの2キロほどの道は、木道も含めて相当のアップダウンがあり、もらった携帯用の酸素ボンベを吸っても息も絶え絶えで、ヘトヘトで何度も休憩してぜいぜいする。
私が高地に、いかに弱いかが、よく判った。

黄龍③

写真③が頂上の「黄龍寺」である。
この周りには青色の水の美しい棚田の沼が散在する。

s1860黄龍

沼、池の周りは木道が巡らされて見事に整備されている。
もっとも私は息も絶え絶えでゆっくり鑑賞する暇はなかった。
帰りの集合時間が迫っており、早々にロープウエイの駅に引き返したが、この帰りの道が予想に反してアップがあり、息を切らせて難渋したのだった。
山頂では辺りをよく見る余裕はなかったので、目についた池の写真を夢中で撮ったのみである。
心配した添乗員が途中まで迎えにきてくれていた。
頂上駅で少し休んでロープウエイで下におり、バスに乗って、集合場所で待つ。
頂上から歩いて下まで降りた人が大半であるが、酸素を使い果たしたと言って疲れたという人など多数である。

 黄龍の由来
『四川の魅力』から少し引いておこう。
むかし、大禹という神が岷江の水を治めたとき、彼は騎乗の黄龍に乗って、いろいろの辛苦をなめた末に、やっと水害を鎮めた。その功績を讃えるために山の南麓に寺を建てた。
この辺りの地勢は飛び起きそうな金色の龍のようで、こういう名前がつけられたという。
水に溶けた炭酸カルシウムの沈殿物が数万年を経て、独特のカルスト地形になり、見る角度によって青かったり、緑っぽく見えたりする見事な景観を呈している。
頂上にある「黄龍寺」について『四川の魅力』誌には、こう書かれている。

<この寺は、平凡だと見えるが、一つの「絶」がある。それは玄関の横額である。
正面から見ると「黄龍古寺」、右から見れば「飛閣流丹」、左から見れば「山雪水碧」ということです。実は、近くに行ってみると一つの額に書かれていることがわかり、角度によって字の形、内容も変わるようになっていて、不思議でしょう。>

とある。
私は写真③にも写っている通り、息も絶え絶えだったので、少し離れた正面から一枚だけ写真を撮ったのだった。
この説明に気づいた人が、どのくらい居ただろうか。

集合場所に落ち合って、あとは一路、今夜の宿泊の九寨溝シェラトンホテルに入る。
そこまでに長い道のりを二時間くらいも走ることになる。
このホテルは九寨溝の入口の至近距離にある。
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2007/07/09のBlog

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         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

九シェラトン②

 九寨溝シェラトンホテル・リゾート
英文で書くと SHERATON JINZHAIGOU RESORT
中国語表記では 九寨溝喜来登国際大酒店 となる。
この街は道路沿いにホテルや旅館がずっと並ぶ細長い街道をなしているが、その一番奥の入口に近いところに広い敷地を占めている。成都のホテルのような高層ではなく、五階建てくらいの中国風の作りになっている。
シェラトンホテルは世界的なホテルチェーンではあるが、オーナーが居るフランチャイズ制になっている。ここのホテルは多分に中国風の経営スタイルになっている。
オーナー制のフランチャイズについて言えば、たとえば、神戸の六甲アイランドにあるシェラトンは、オーナーは旅行代理店のJTBである。ここには、阪神大地震以後に、亡妻と一緒に泊まったことがある。
このホテルの敷地には東棟と西棟と歌劇棟などがあり、多少は行き来がわずらわしい感じがする。
ここには二泊する。
写真②は東棟であり、ここには主レストランが配置されている。
先に書いた敷地の案内板。
案内板に隠れているのが「歌劇棟」で翌日の夜に「西蔵民族ショー」を見ることになる。
私たちの泊まった「西棟」。
内部は西欧風の近代的な作り。
私の泊まった部屋のすぐ裏は山並みであった。
西棟の玄関入口。
案内板には、WEST WING と書かれている。
朝食は、この中でバイキング。洋風のメニューも豊富。

モーニングコールは7時で、各自朝食を済ませて8:30集合で九寨溝観光へ。
構内へはバスは横付けできないので、少し離れた駐車場から露店の中を歩いて構内へ入る。
入ると、広大なビジターセンターがあるが、写真は撮れなかった。
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2007/07/10のBlog

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     四川省世界遺産の旅8日間(12)・・・・・・木村草弥

         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

 九寨溝(1)
世界遺産の中でもピカ一のところだけあって、入口のビジターセンターも、ゲートもきれいに整備されている。

九寨溝①

写真①はゲート。混むときは一日に3万人が押し寄せるという。
今日は、せいぜい1万人だろうと言い、空いているらしい。
九寨溝は成都市の北450kmのチベット族チャン族自治州に属する。
ここの魅力は峡谷に沿って、「海子」と呼ばれる大小の湖と周囲の自然が織り成す景観にある。特に濃い青色をした湖水に代表される色彩が人々を魅了する。
写真はクリックすると大きくなり、鮮明に見られる。お試しあれ。
ここはY字型になっている3つの峡谷に沿って、チベット族の9つの山寨に分かれて暮らしていたことから、このように呼ばれるようになったが、標高2000~4500メートルの高地にあって、交通の便も非常に悪かったため、昔から一部の人しか知らない風光明媚な場所に過ぎなかった。
しかし、1992年にユネスコの世界自然遺産に登録されると、その特異な景観が知られるようになり、21世紀に入るとホテルの建設や空港、道路の整備がすさまじいスピードで進められ、国内外から多くの観光客を迎えるようになった。
特に、中国の景気が良くなり、旅行ブームにも乗って、中国人の観光客が多いのが目立つ。
写真②は「諾日朗瀑布」である。


九寨溝②諾日朗瀑布

入口の標高は2000メートルだが、一番奥の長海は3100メートルになる。
入口から長海までは距離が31.6kmもある。
この中の移動は天然ガスを燃料にするバスを使用しており、私たちはグループで一台を貸切で使用した。
標高が高く気温が低いので、写真③の「五花海」の倒木なども腐敗しないので、倒れたままの姿をとどめている。

九寨溝五花海倒木

写真④は「樹正瀑布」である。
ここの標高は2200メートル、滝の高さは11メートル、巾は62メートルある。
九寨溝⑩樹正瀑布

岩の間に樹木が生え、樹木の間を水が流れ、こういう樹木と水との融合した風景は、ここに無限の生命力を見せつける。
秋の紅葉のシーズンには、また違った印象を与えることだろう。
ここは冬も閉鎖しないと言い、冬は冬で、氷や氷結した瀑布に落ちる水の様子が見ものだろう。

ここには114の高山湖沼(海子という)、47の泉、17の滝(瀑布)、5つの湿地、11の急流が点在し、その透明度の高い水面に周囲の緑や雪山の白が映える様は、とても見事である。
写真⑤は、一番奥の「長海」である。

九寨溝⑦長海

沢は他にもあるが、ここら辺りから水は下に流れてゆくことになる。
この長海から下ったところに「湿地」が点在するが、ガイドの話では、湿地に水が溜まることが少なくなり、乾燥化が進んでいる、と言い、やはり開発の影響が徐々に及んでいると思われる。
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2007/07/11のBlog

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           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

 九寨溝(2)
ここの峡谷には、もともと西蔵族─チベット族が主に9つの山寨に分かれて住んでいた、と先に書いた。

九寨溝⑥

政府は、ここを開発するにあたり、彼らに売店などの権利を与えて融和策を取っているのだった。①の写真は樹正瀑布だが、ここを下がったところにチベット族の水車を利用した「磨房」が展示されている。水車を利用して穀物を粉に挽くところである。

九寨溝11マニ車

写真②が、その「磨房」の建物の説明板。
チベット族も広い地域に散らばって住んでいるので、地域によって生活様式は異なるらしい。
ここでは農牧生活を送っていたのであろう。
先日に行った「牟尼溝」に住むのもチベット族であったが、帰りに立ち寄った昼食のレストラン「山野軒」の料理のメインは「きのこ」だった。

この辺りは標高が高い、湿潤な土地であるから、きのこ類が豊富なのであろうか。
そういう山野草などの採集も彼らの主な仕事だったと思われる。
写真③が「磨房」の建物。

九寨溝磨房②

渓流の上に高足式で建てた水車小屋である。
床下には冷たい、清らかな渓流の水が、とうとうと流れていた。
小屋の周りには、チベット仏教の象徴である旗「タルチョ」が何本も立てられている。
多くの人々が(ほとんどは中国人だが)珍しそうに小屋の中を覗きこんでいる。
屋根は板の上に石を置いた素朴なもの。
その並びには、これもチベット仏教の象徴である「マニ車」が置かれている。
このマニ車は、中に「経典」が入っており、くるくると回すことで一巻のお経を読んだことになるのだった。
中国人の観光客も珍しいのか、横に立ってさかんに写真に納まっている。
中国は総勢13億人という巨大な人口を擁する国であるから、旅に出る人間の数も巨大である。
写真⑤は、この中の移動に使うバスの助手のチベット族の女の子である。
私たちのバスは貸切だったから、私たちが降りて観光中は運転手とお喋りをしながら待っているのだった。

九寨溝⑤専用バスの女の子

私が写真をせがむと気軽に被写体になってくれた。
まだ15、6歳だろうか、可愛い子だった。
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2007/07/12のBlog

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 九寨溝(3)・・・・・チベット族民族村
先に書いたように原住民であるチベット族には、この施設の中でのみやげ物屋などの権利を与えて、優遇策を採っているという話だった。

九寨溝15民族村

とにかく、すごい数の観光客だから、みやげ物の売れる金額も大変だろう。
貧しい生活をしていた彼らにとっては、生活様式も一変したにちがいなかろう。
写真①が「民族村」の遠景である。
その一角に立つ仏塔とマニ車とタルチョの林立である。
『四川の魅力』誌から、ここにまつわる伝説の物語を引いておく。
<昔、ここで暮らしていた男の神様・ターゴオと女の神様・スオーモオがお互いに恋い慕っていましたが、山の鬼に反対されて、二人は鬼と激しい戦いをしました。
スオーモオがうっかりして手鏡を落とし、その割れた欠片が今の一つ一つの湖になりました。
ターゴオは勇ましくて、鬼を九寨溝の入口まで追いかけました。彼を助けるために山の神様は山を屏風にして、鬼の進路を塞ぎ、力を入れて鬼を岩壁に押し込めました。
今その鬼の顔が山の壁に見えたり隠れたりして、その山も「宝鏡岩」と呼ばれるようになっています。ターゴオとスオーモオは一緒になり、ここの守り神になりました。>

丁度ここに駐留する中国人民解放軍の交代式と遭遇したので撮ってみた。

九寨溝14警備の兵交代式

表面的には彼らの存在には気づかなかったのだが、軍隊が何かに備えて目を光らせているのだった。
ついでに書いておくと、現在、中国人民解放軍は「志願制」で、志願者の中から優秀な人物を選抜しているのだそうだ。
この写真からも、一種の威圧感をひしひしと感じるではないか。
写真④が「民族村」という施設だが、実際は、みやげ物を売る売店と変わりはなかった。
チベットの「曼荼羅」と説明されたものは、マンダラでも何でもなく、仏像を描いたものに過ぎず、マンダラとはどういうものか、が何も判っていないのであった。
仏画なども、べらぼうな値段を言い、文化的価値など一切ない代物である。
毛皮なども豊富だが、製品の質が悪く、買って帰っても、臭くて室内には置けないという。
黄龍と九寨溝は土質的にも、よく似たものでありながら、黄龍は棚田式の石灰池の連続が美しいところだった。
もっとも、私は酸素不足で、青菜に塩だったので、詳しく観察できなかったのが残念であったが、ここ九寨溝は移動もバスによるもので体は楽だったが、規模は雄大である。
写真⑤は五花池のものであるが、刻々と光線の具合で七色に変化する湖沼の様子は、神秘的ですらあった。
ゆっくりと楽しみたいところだが、この景観が、いつまで、今のような状態で見られるかが気になるところである。
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2007/07/13のBlog

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 西蔵民族ショー
九寨溝見学から帰って、ホテルで夕食を食べてから、ホテル内の「歌劇棟」でチベット族の民族ショーを見ることになった。

九寨溝18チベットショー

客席がすり鉢状に傾斜した数百席の立派なものだが、音響がボリューム一杯のガンガン響くものだった。
ヴォーカルで歌う男性はCD屋の店頭で見かけた人らしく、声量の豊かな歌手だった。
一番あとのフィナーレでCDを手にしていたから、間違いなかろう。
言葉がわからないので歌詞については何とも言えないが、舞台の袖のところのテロップに文字が出るようになっていて、おおよそのことは理解できた。「人民解放軍」を讃えたり、共産党を讃えたりという文字も見えたので、少数民族としても、生き抜くためには、現政権にこびる必要があるのかなあと、少しかわいそうな気になった。
出演者が、果たしてチベット族かどうかは判らない。
羌族の歌や踊りという説明の字も見えた。

人民解放軍の名前が出たところで、一席。
このツアーには女の人ばかり3人4人というグループが居る。
私は一人参加なので、一人掛けの席から、彼女らの会話を聞いていると面白い。
それらには必ず「仕切り屋」の人がいて何かと威張って仕切っている。会話が中国の軍隊のことになって、仕切り屋が「中国は国民皆兵だ」と断定している。先にも書いたように中国は「志願兵」制度を採っている。
後で、ガイドの張さんにこっそり聞いてみたら、「国民皆兵なんかにしたら人数が多すぎて持ちませんよ」と彼は一言で切り捨てた。
因みに、いま中国軍は装備の近代化を図り、兵隊の数は必要ないのである。量より質を目指している。

九寨溝16チベットショー

出演の女性は、美女ばかりだった。
同行者の中からは「きれいな人ばかりね」という声も聞かれた。
この晩はお客は多くはなく、40~50人か。
出演時間は一時間半ほど。料金は250元である。

先にも書いたが、中国の国民の大多数を占めるのは「漢民族」であり、少数民族は圧迫を受けて、辺地に追いやられたり、漢民族と混血して同化したりしている。
有史以来、この傾向はつづき、まだ終わっていない。
建前的には、少数民族は権利を認められ、保護されていることになっているが、たとえば、チベットでは、中央政府の政策に反する言動は厳しく弾圧されている。ダライラマがインドに逃れているのなど、一例である。
この夜のショーの舞台袖のテロップの文字板に出てくる言葉が、はしなくも、このことが「衣の下に覗く鎧」の諺よろしく、かいま見させてくれた。
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杜甫草堂①

2007/07/14のBlog

   峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
     四川省世界遺産の旅8日間(16)・・・・・・木村草弥

             ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

 杜甫草堂
翌朝は成都に戻る飛行機の便に備えてモーニンクコール5:00、集合6:00で、ホテルの用意した「お弁当」を持って九寨溝空港に向かう。ここは数年前に出来たばかりの高度3500mという山の上にある。ホテルから黄龍方面に向かう道を2時間ほど走る。
途中、ここへ来るときに通った道を一部戻る。
バスの中でお弁当を食べる。
途中、来るときに通った道の道標に「九道拐」というのがある。「道拐」とは180度の急カーブ=ヘアピンカーブのことであり、それが連続して9つあるということである。それだけ急カーブで高度を上げてゆくということだ。ガイドの張さんの説明では360mの間に「道拐」が9つあるということだった。
英語表記も併記され、それには「first turn」という風に書かれていた。
飛行機は8:30発。成都着9:20。着後、「杜甫草堂」を見学。

杜甫草堂②

ここには先に書いたように1993年に一度来たことがある。
草堂の中は全く変わっておらず、竹の茂る静寂そのものの風情だったが、以前は「郊外」だったのだが、周辺はすっかり都市化してしまって面影がない。
成都における歴史的文物というと、武候祠とここだけである。
私には『南船北馬』という紀行歌文集がある。1990年と1993年の中国の旅を素材にしたものだが、その中で「杜甫」については「漢詩」を引いて詳しく書いたことがある。
いま読み返してみても、よく書いてあると思うが、少部数しか出さなかったので、何とか再出版したい気がするほど愛着がある。
この敷地の中は梅林、竹林が茂り、渓流が走っている。この渓流の名前─浣花渓から「浣花草堂」が由来する。

杜甫草堂③

写真③の横額のかかる小径を好んで散歩したという。額の字は「花」の元の象形文字である。
杜甫は、ここ成都に3年しか暮らしていない。
彼は「科挙」試験に失敗するなど苦労した。ようやく40歳を越えた年齢になって、ようやく職を得たが、「安禄山の乱」が起こり、捕らえられたり、脱出したりのあと、大飢饉にあって生計がたたず、官職をすてて放浪の旅に出た。そして剣南(成都)の節度使であった巌武の保護を受けて、ここ成都にしばらく落ち着いた。ここはその頃の仮寓生活に由来する。
しかし三年後、また江を下って湖北省から長安に帰ろうとしたが、流浪の旅暮らしの中で、舟の中で死んだ。
彼の詩をひとつ引いておく。

 江碧鳥逾白 江は碧にして鳥いよいよ白く
 山青花欲燃 山は青くして花燃えんとす
 今春看又過 今春みすみす又過ぐ
 何日是帰年 何れの日か是れ帰年ならん

「江」というのは成都を流れる錦江を指す。「帰年」とは家に帰る時期の意味である。
また「旅夜書懐」(旅夜、懐いを書シルす)という詩もある。これは旅の一夜、心に浮かぶ感懐を書きつけた、という題である。
成都の浣花草堂に住んで比較的安定した生活を送っていたが、永住することも出来ず、再び流浪の旅にのぼった彼の心には、深い憂愁と絶望感があつたろう。

ここに引いたのは私の『南船北馬』の文章である。

杜甫草堂④

毛沢東がここに来て杜甫の旧跡を偲んだ記念の写真などが展示されている。
毛沢東に『浣渓沙』という詩があるが、これは杜甫草堂を流れる浣渓に因むものである。
その一句は

 一唱雄鶏天下白

というものであり、ひところ中国のあちこちにスローガンのように掲げられたという。
このエピソードも、私の文章に書いてあることである。

写真⑤がガイドの張さんと、添乗員の山中さんのスナップである。
場所は杜甫草堂の「花径」の一角である。

杜甫草堂⑤

ガイドの張さんが登場したので、彼の話を、少し。
バス移動のつれづれに彼が中国のことについて、いろいろ話してくれた。

中国では、毎年、給料が10数パーセントづつ上昇している。
日本でも昭和30年代の高度成長期には、まさにもそうだった。
つまり「インフレ」ということである。
もう十年もすれば、中国の賃金は大幅に上昇し、低賃金だけが目当ての中国進出は頭打ちになるだろう。
中国では、いまマンションなどの不動産の投機ブームである。
彼の父が成都市内で利殖目的でマンションを購入したが住まずに何年か置いてある。
知人たちの買った物件が数年を経ずして何倍にも値上がりしているからである。
シャンハイなどでは株式投資も過熱して、有り金をはたいてつぎ込んでいるという話も日本でも報道されている。
まさにバブルもいいところである。
張さんは、得意げに話すが、バブルが弾けて日本が立ち直るまでに何年要したか。
大気汚染、水質汚染なども深刻であり、中国は、日本の公害の轍の教訓を学んでいないと痛感した。日本を反面教師としてほしい気が、しきりにしたことである。

この後、昼食を「老房子」というところで摂り、午後は「パンダ繁殖研究基地」に行く。
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2007/07/15のBlog

峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
     四川省世界遺産の旅8日間(17)・・・・・・木村草弥


       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9(JTB旅物語)

 成都パンダ繁殖研究基地
成都の市街地のはずれにある「パンダ基地」である。
パンダの生息地は秦嶺山脈の奥地にあり、観光客の踏み込めるところではないし、研究者も立ち入るには不便なので、交通の便のよい、ここに開設された。
パンダ基地①
写真は「パンダ研究基地」の入口ゲート。

竹林の茂る静かな広い一角であり、門を入ったあとは12人乗の電気トロリーで回る。
パンダ基地②

現在、パンダは絶滅に瀕しており、なかなか数が増えない。
人口繁殖などで頭数を増やすことは出来るが、それを自然に帰すことが難しい、という。戻しても、自立できず餓死してしまうケースが多いと報じられている。
ここで繁殖したもので、現在9頭が世界各地の動物園などに「貸し出し」されているという。

パンダ基地③

パンダ基地⑤

パンダは一日の40%ほどの時間を「笹」や「たけのこ」の食事に費やし、あとはほとんど寝て過ごす、と言い、私たちにも寝ている姿しか見せなかった。見物人慣れしていて、人声がうるさいのか、後ろ向きやソッポを向いているのが多い。
色が白くきれいなのは一年以内の頃で、後は毛がうす汚れて黄色っぽくなる。
写真③は一歳未満のもの。
写真④は二歳以上のもの。
パンダは普通1頭産むが、人工受精では2頭以上産むことがあるが、その場合、2頭目からは、親から離して人工栄養で育てることになり、人間の未熟児と同じような「保育器」も展示されている。
とにかくパンダの赤ちゃんは、数百グラムという超未熟の状態で生まれるからである。
ここでは「レツサーパンダ」も数頭飼育されていた。彼らは起きて、しきりに動き、あちこちに縄張りの「臭いつけ」の行動をしたりしていた。

パンダ基地⑦

最後の夕食には麻婆豆腐発祥の地である「陳家麻婆豆腐店」本店で食べた。
いろいろ説はあるが、日本でもおなじみの麻婆豆腐は、この陳家のおばあさんが材木運搬の労働者向けに創りだした庶民的な料理である。
出てくる料理は一般と同じだが、さすがに味は良かったように思う。
以前、私が来たときとは場所が変わっているという、旧本店は火災で燃えたとかである。
夜にはオプションで「川劇」観賞があるが、私は疲れているので参加しなかった。
これで旅の日程は終わり、明日は成都空港から上海空港経由で関西国際空港に帰る。
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初出・Doblog2008/05/24
チャン族の村⑤

  補遺・・・中国・四川省大地震のこと・・・・・・・・木村草弥

今回の「中国・四川省大地震」のことについては、スベイン旅行中のホテルで観る現地のテレビ報道でも、トップ・ニュースの扱いだった。
しかし、横文字の国であるし、私はスベイン語は出来ないから、テレビ図面に映るテロップの「中国語」文字から判断するに過ぎなかったが、四川省、北川、綿竹、汶川、などの地名が読み取れたに過ぎないが、一見しても昨年、私が旅した岷江上流部のことだと直感した。
この地については、下記に若干触れてあるので見てもらいたい。

2007/07/07 付け
峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
 四川省世界遺産の旅8日間──(8)
 岷流上流─映秀・茂県への道─────悪路と交通渋滞

地図

掲出してある地図を見られよ。地名を大きくして見られないが、この旅での「谷筋」あるいは平行する谷筋が大被害を受けているのは間違いない。
今朝の新聞によると、この地震を起こした「断層」は250キロメートルにも及び、80秒かけて南西から北東にかけて走ったらしい。マグニチュード8という超巨大地震だったようだ。
私の昨年の記事にもある通り、道路は谷筋に張り付くように狭い国道が通じているに過ぎず、ここがふさがると交通は途絶する。被害は少数民族のチャン(羌)族の住む地域であり、彼らに多くの犠牲が出ているのは道理である。
掲出した写真が199?年かの地震で陥没して出来た湖(畳渓海子)のものである。
今回も、同様のことが起きているらしい。せき止められた水が一気に流れでると洪水を起こして大被害になるので軍隊が出て爆薬で堆積した土砂を取り除いたなどという新聞報道があるからである。
旅行中は日本の新聞などには全く触れられなかったので、帰国して走り読みした新聞記事から、とりあえず書いてみた。
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(5/25追記)
昨夜の午後8時からのNHK特集で四川大地震のことが詳しく報道された。
私の旅行中のことで詳細が判らなかったが、この特集で、よく判った。
上記に書いたことが基本的に正しかった。
正確な地震の発生時刻が5/12午後2時28分すぎということも私は知った。
震源地は「都江堰」の西北約150キロらしい。この町についても私の紀行文に書いてある。上に書いた通り、この震源から北東に250キロにわたって断層が走った。
都江堰の町も壊滅的な被害を受けたらしい。
私の紀行文にも地名のある「映秀」の町は壊滅的な被害で、とにかく生き残った人が三千余人のみという。私がバスで通った土地だけに、ひしひしと胸に迫ってくるものがある。
テレビ画面は「映秀」から「都江堰」まで約150キロを徒歩で避難してくる多数の人々を映していた。未曾有の集団的避難だという。
死者は「綿竹」で7000人以上。 「北川」で8600人以上。「汶川」で2560人。全体で五万人を越え、行方不明者が二万数千人居るというから、死者は八万人にも及ぶだろう。
被災者のうち540万人以上が現在避難生活をしており、被災者でない人も含めて1400万人が避難生活をしているという。
小学校などの学校の倒壊が多く、授業中であったため、多くの児童、生徒が犠牲になった。私の通った道端にも多くの学校があって、川に沿ったところにあったから、地震の直撃を受けて大被害となったらしい。
テレビ画面は、鉄筋などの手抜き工事があったのではないかと当局者に詰め寄る群集の姿を映していた。
四川省は、この省だけで日本全体と同じくらいの人口をかかえており、また四川省の夏は蒸し暑くテントや路上での避難生活は、とても厳しいだろう。





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