
水仙のりりと真白し身のほとり・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子
「水仙」はいろいろの品種があるが、日本水仙は12月頃から咲きはじめて、春先まで息の長いものである。
『山の井』に「霜枯れの草の中に、いさぎよく咲き出でたるを、菊より末の弟ともてはやし、雪の花に見まがひて」云々とあるのも、簡潔にして要を得た水仙の紹介である。
写真②は黄水仙である。

わが家の庭の一角にも1月中ごろから日本水仙が咲きはじめ、今も寒風の中に、けなげに咲いている。
水仙の集団的な自生地としては、越前海岸や淡路島南端などが有名で、観光バスを連ねて見物に大勢が来る。
水仙の球根は植えっぱなしでよく、変にいじくらない方がよい。数年に一度くらい掘りあげて植えなおしする程度でよい。
夏になると、地上部の葉は、すっかりなくなり、他の植物の陰に隠れてしまうが、寒くなると葉が地上に出てくる。
水仙は学名を Narissus というが、これはギリシア神話で美少年ナルシッサスが水面に映るわが姿に見とれ、そのまま花になってしまったのが水仙だという。自己陶酔する人を「ナルシスト」というのも、これに由来する。
なお「水仙の隠喩」というのがあるので、「シンボル・イメージ」の世界では、こういう象徴的な捉え方をするので、参照してもらいたい。
水仙や白き障子のとも映り・・・・・・・・松尾芭蕉
水仙に狐遊ぶや宵月夜・・・・・・・・与謝蕪村
のような古句があるが、この両句は、ともに水仙をじかに見て詠んだのではなく、「障子」を通して、障子に映る影からの印象を句にしている。
何分、水仙の咲く頃は厳寒だから、それも当然であろうか。
掲出の橋本多佳子の句は、水仙の「白さ」を「りりと真白し」と把握して、わが身になぞらえているところに、情感あふれる句を詠んだ彼女ながら、芯は清楚さを湛えていた自画像を、よく表現し尽くしている。
「りり」は、漢字で書くと「凛々」しい、となるだろう。

以下、水仙の句を少し引いておく。
水仙を剣のごとく活けし庵・・・・・・・・山口青邨
海明り障子のうちの水仙花・・・・・・・・吉川英治
水仙花紙に干しある餅あられ・・・・・・・・滝井孝作
水仙や古鏡の如く花をかかぐ・・・・・・・・松本たかし
水仙花三年病めども我等若し・・・・・・・・石田波郷
水仙花眼にて安死を希はれ居り・・・・・・・・平畑静塔
水仙の花のうしろの蕾かな・・・・・・・・星野立子
水仙や捨てて嵩なす蟹の甲・・・・・・・・大島民郎
水仙や老いては鶴のごと痩せたし・・・・・・・・猿橋統流子
水仙花死に急ぐなと母の声・・・・・・・・古賀まり子
牛追ふや磯水仙を手にしつつ・・・・・・・・山田孝子
水仙やカンテラに似て灯はともり・・・・・・・・飴山実
奪ひ得ぬ夫婦の恋や水仙花・・・・・・・・中村草田男
水仙の吾を肯へり熟睡せむ・・・・・・・・石田波郷
水仙や時計のねぢをきりきり巻く・・・・・・・・細見綾子
水仙やたまらず老いし膝がしら・・・・・・・・小林康治
水仙のしづけさをいまおのれとす・・・・・・・・森澄雄
抱かねば水仙の揺れやまざるよ・・・・・・・・岡本眸
水仙は一本が佳しまして予後・・・・・・・・鈴木鷹夫
水仙の香や一睡の夢の後・・・・・・・・高橋謙次郎
水仙は八重より一重孤に徹す・・・・・・・・西嶋あさ子
水仙花私淑は告ぐることならず・・・・・・・・山田諒子
水仙の切り口に夜の鮮しき・・・・・・・・野崎ゆり香
日の果てに水仙立ち止れば岬・・・・・・・・吉田透思朗
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