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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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「日蓮と法華の名宝」と「青蓮院・青不動御開帳」・・・・・・・・・・木村草弥
日蓮と法華の名宝展0001

  「日蓮と法華の名宝」と「青蓮院・青不動御開帳」・・・・・・・・・・木村草弥

かねて私宅の菩提寺である真蔵院から頒けてもらっていた券を持って、友人と二人で11/12に京都国立博物館の「日蓮と法華の名宝」展に行ってきた。
国立博物館は九時半から開館だが、早々に行ったので空いていた。
日蓮と法華の名宝展「切手」
この日は先着1800人にと図版②のような日蓮上人の画像の「切手」を呉れた。
この封筒に印刷してある通り、「日蓮聖人門下連合会」が配布しているものであり、図版①のパンフレット(これは菩提寺から貰ったもの)も、同じところが経費を負担して配布しているのである。

京都に息づく法華の心
日蓮上人が鎌倉幕府へ「立正安国論」を奏進した文応元年(1260年)から750年。その節目の年を記念して、この展覧会は開かれた。
狩野永徳や本阿弥光悦、尾形光琳、尾形乾山、さらに俵屋宗達や長谷川等伯など、京都で活躍し、近世日本美術史を支えたこれらの芸術家たちが皆、法華の信徒だったことは驚くべきことである。
彼らが法華信徒であったことは、私は知らなかったので、今回はまさに蒙を啓かれたのであった。

近世・京都の芸術家の多くが、法華の信徒だったのはなぜ?
日蓮上人が入滅した折、帝都開教という遺命を受けたのは、孫弟子にあたる日像上人だった。まさに時代は鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇による建武の親政が始まって室町幕府が成立するという、激動の時代であった。そんな首都に日像上人は飛び込んで弘通活動を起したのである。
平安京以来、天台宗や真言宗という伝統的な仏教が根ざしていた京都。
そんな中で日像たちの活動は「首都追放」という厳しい弾圧に何度も遭いつづけたのである。
しかし、そんな中、篤い信仰を寄せたのが酒屋や大工といった商工業者たちであった。
これは日像上人が京都で最初に構えたとされる法華堂が、商工業者の居住する下京(しもぎょう)周辺の綾小路大宮に位置していたことからもわかる。
彼ら商工業者もまた、この激動の時代に新たに京都へやってきた人たちだったからであろう。
そして、他に大きな理由として、当時の京都では比叡山延暦寺などの大寺院が朝廷や幕府と並び立つ権力を持ち、商工業を行う上でも延暦寺との関係なしには何も出来ない状態だった。
そんな「不自由さ」から抜け出したいという願望も日像上人への信仰に繋がったのであろう。

信仰の拡大、法難、そして・・・
ところが応仁・文明の乱(応仁元年~文明9年─1467年~1477年)以後、戦国時代に入ると法華信仰は急速に拡大。文明年間の記録には「法華宗の繁盛は耳目を驚かすものなり」と書かれているほどという。
そしてついに日蓮諸宗・各本山寺院の僧侶や信徒は、法華一揆を結成。延暦寺と真正面から衝突することになる。これが天文法難である。この騒乱では、延暦寺側に近江国の守護大名・六角氏が援軍したため、法華一揆は完敗。日蓮諸宗の寺院もすべて京都を追われ、堺へと落ちのびる。
その数年後、天皇から許可が出され、各本山寺院は京都へ戻りはじめるが、延暦寺が立ちふさがったが粘り強く交渉して京都での復興に成功。これらの各本山寺院の姿は、いくつかの「洛中洛外図屏風」に描かれており、中でも日蓮諸宗の寺院を大きく描いているのが、天正2年(1574年)に織田信長が上杉謙信に贈ったとされる「上杉本洛中洛外図屏風」だが、これを描いた狩野永徳こそが法華の信徒であった故である。
その後も「法難」はつづき、信長の命で日蓮諸宗と浄土宗が宗論を行い、日蓮諸宗が負けた安土宗論(天正7年・1579年)があるが、これで日蓮諸宗は宗論上の敗者とされたが、実は、これで日蓮諸宗と信長との関係が悪化したのではなく、むしろ以前よりも良い関係を築くようになったのには、狩野家や本阿弥家、後藤家と言った信徒の中でも特に裕福な人たちが、信長や豊臣秀吉に重用されながら桃山文化を担うようになるのも一因であろう。
そして江戸時代に入っても、法華信徒の中から多くの芸術家が輩出し、近世日本美術の潮流を築いて行ったのである。
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Blue_FudC58D青蓮院「青不動」

  青蓮院 国宝・青不動明王二童子画像 御開帳

青不動

青蓮院では、1144年の創建以来、日本三大不動明王の一つとされる「青不動」を秘仏としてきたのを、今回初めて公開された。多い日には3000人のお参りがあるという。
私たちは東山七条から市バスに乗って祇園に出て、浄土宗本山・知恩院の北隣の「青蓮院門跡」を訪れた。
ここは天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つとして知られている。門跡寺院であるから朝廷ゆかりを示す「菊」の御紋が掲げられている。
お庭は小堀遠州の作とされ、夜にはライトアップされている。
比叡山延暦寺第十二代・行玄大僧正(藤原師実の子)に鳥羽法皇が帰依され、第七皇子をその弟子とされ、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して青蓮院と改称せしめられたのが門跡寺院としての始まりである。
つまり行玄は門跡寺としての青蓮院の第一世、鳥羽法皇の皇子が第二世門主・覚快法親王である。
当院は第三世門主・慈円(慈鎮和尚、藤原兼実の弟)のときに最も栄えた。慈円は天台座主を四度もつとめて、その宗風は日本仏教界を風靡し、また日本人はじめての歴史哲学者として不朽の名著『愚管抄』を遺し、また新古今時代の国民的歌人として『拾玉集』を我々に示している。
また浄土宗の祖・法然、浄土真宗の祖・親鸞を庇護し、法然死後、その門弟源智(平重盛の孫)が創建した勢至堂は慈円が法然に与えた院内の一房の跡で、これが知恩院の起源となった。
また親鸞は九歳のときに慈円について当院で得度し、死後、院内の大谷に墓と影堂が営まれたのが本願寺の起こりである。それ故、本願寺の法主は明治までは当院で得度しなければ公に認められず、また当院の脇門跡として門跡を号することが許された。

当日、私はカメラを持参しなかったので、青蓮院の詳しい様子は、「bittercup氏の記事」に詳しいので見てください。「青不動」の画像も鮮明に、ご覧になれる。
また『新版古寺巡礼京都(30)青蓮院 東伏見慈晃・藤本義一』という記事を同氏が載せられたので参照されたい。
なお、私の記事中に掲出した画像はWikipediaから拝借したものである。



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