K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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散文詩と長歌「愛の寓意」・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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 ──草弥の詩作品<草の領域>──(63)

    散文詩と長歌・愛 の 寓 意・・・・・・・・・・・・・・・・・木 村 草 弥

魅力的になりたければ「謎を纏うこと」と、ココ・シャネルは言った。
「謎めいているからこそ、人生は生きるに値する」と、アルフレート・クービンは言った。
「謎以外の何を愛せよう」──デ・キリコは言った。
古来「謎」をめぐる名言がいくつもある。

いくつもの謎を纏った絵と言えば、イタリアのメディチ家からフランス国王フランソア一世に
贈られたブロンツィーノの『愛の寓意』の絵がピカ一であろう。
寓意画は十六世紀に流行した。
画家が難解で凝った寓意や擬人像を考案し、鑑賞者はその解読に挑戦するという賞玩が、
宮廷社会での知的遊戯となった。
『愛の寓意』の絵も、彼らの目を悦(よろこ)ばせるとともに、その教養や見識を問うたものだ。
まだ、すべての謎が解き明かされたものではなく、謎は謎を呼び、さまざまな解釈がなされて、
作品の魅力を倍加させて今日に至っている。

真っ先に目を引くのは、色彩の美しさだろう。
冷たい光に浮かび上がる、陶器のように滑らかな裸身、その輝く白さが、背景の妖しいブルーに
よく映える。クッションの赤や衣装の緑という配色にも、心憎いばかりの計算がある。
計算と言えば、人物のポーズもそうだ。
主役二人の取り澄ました表情と、引き伸ばされ捩れた官能的肢体の落差が効果的である。
そして直角に上げ、だらりと下げ、画面を横切る、腕、腕。
軽快に一歩踏み出し、くの字に曲げ、しどけなく投げ出される、脚、脚。
これらの動きと方向が少しでも違えば、作品の均衡は崩れてしまうに違いない。
そして圧倒的なエロティスムがある。
その放射の源は、右手に矢、左手に金のリンゴを持つ成熟した女性と、両性具有的な面立ちの
少年との絡み合いだ。
身につけているのはティアラだけという彼女は、少年のキスを受け、指に乳首をはさまれ、
横顔はあくまで典雅で無表情ながら、頬と耳をほのかに紅潮させている。
Z型の非常に不自然な体位は、恍惚のあまり脱力しつつある瞬間なのだろうか。
そんな彼女の頭を繊細な手で支える相手も、やはり不自然で無理な姿勢を取っている。
背にブルー・白・緑の小さな三色翼を生やし、片足を赤いクッションに載せた彼は、顔の輪郭
からどう見ても思春期前後の少年の筈だが、下半身はすでに一人前の逞しさが感じられ、
そうしたアンバランスなところが見る者の不安を増幅する。背中に見えるベルトは矢筒を下げ
るもので、矢筒そのものは左足の近くにある。右の足元には、番いの白鳩が見える。
少年の背後の暗がりには、醜い老婆や、口をあける女の横顔、カーテンをむんずと摑む腕の主の
禿げ頭で白髭の老人も白黒の大きい翼を生やしている。その他にもまだ何人かの人物が居る。
こうした登場人物たちや、さまざまな物、それらが何を意味するのか。
ブロンツィーノの友人だったヴァザーリの記述──<彼は特異な美しさをたたえた絵を描いたが、
それはフランス国王フランソアのもとへ送られた。絵には裸のヴィーナスと、彼女にキスする
キューピッドが描かれ、周りには快楽、戯れ、欺瞞、嫉妬、愛の情欲などが描かれていた>や、
当時の図像研究書『イコノギア』、また現代イコノロジー(図像解釈学)の泰斗パノフスキーの
説などがあるので参照されよ。 因みに、この絵はロンドン・ナショナルギャラリー所蔵。

ひとつだけ書いておこう。
白髭の老人が「時の翁」である。砂時計と大きな翼が象徴するものは、無慈悲な「時」であり、
この絵の一番上に居ることからも、あらゆるものに君臨するのである。
彼が荒々しく容赦なく剥ぎ取ろうとしているカーテンはロマンティックな薄闇色ブルーであり、
夜の帳に隠れていた、愛という名のもとに蠢くさまざまなもの──快楽、戯れ、欺瞞、嫉妬、
情欲などが、一挙に白日のもとに曝されるところだ。
だけど、何かがおかしい。
キューピッドは、ヴィーナスとゼウスとの間に生れた息子なのだ。
つまり、この二人は、愛の女神と、その実子なのだ。これは母子像なのだ。
本能的にアブノーマルを感じさせるところに、この『愛の寓意』の絵の凄さ、があるのだ。
愛というものの大きな要素である<官能>は人間性を逸脱させることもある──この絵は、
そう語っているようである。
しかし、作者ブロンツィーノは、それを肯定しているのか、否定しているのか。謎である。

       極東の果て古代中国には「菊慈童」という不老不死の物語があった
          そんな夢幻の境に沈潜する男が現代に居たのである
             現代版「愛の寓意」そのものである
              以下は、その男の夢物語である

              菊慈童めき・・・・・・・・長歌と挿入歌二首

     人倫の通はぬ処、狐狼野千(ころうやせん)の住み処(か)とぞいふ菊咲く処
      ──甘谷の水は菊水「菊慈童」の七百歳のいのちこそ憶へ──木村草弥
     蜜壺にあふるるものに口つけて陶然とすれば菊慈童めき
     ケータイがどこかで鳴るな、あの音を鳴らぬ設定にしておきなさい
     その場所をあなたの舌がかき混ぜた 快楽(けらく)の果てに濃い叢(くさむら)だ
     ふたりは繋がつて獣のかたちになる 濃い叢にあふれだす蜜
     頭と頭よせあつてかき抱けばぢきに夜の闇が二人を包む
     刻々と<時>は進むがカレンダーはもう見ないでよ無明のうつつ
     睦みあひもだえしのちは寂(さび)しくも泥のごとくに眠れるわれら
     山の端に朝日のぼりぬあかときをわれらはひしと掻き抱きたり
     あなたとの子が欲しいと君は言ふ、君の子宮はもう無いのだよ
      ──ぬれてほす山路の菊のつゆのまにいつしか千歳を我は経にけむ──素性法師
     飲むからにげにも薬と菊水の月は宵の間身は酔ひにつつ
     <愛の寓意> 何の謂ひぞも 股間から春画のままに滾(たぎ)るものかな

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(2010/05/05作)
習作のため改作することがあります。
「菊慈童めき」の長歌の部分は歴史的かなづかいを採用しています。ご了承ください。
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この絵は「愛のアレゴリー」とか「愛の勝利の寓意」とか書かれることもある。
ここで参考までにブロンツィーノのことを載せておく。

アーニョロ・ブロンツィーノ(Agnolo Bronzino, 1503年11月17日 - 1572年11月23日)は、マニエリスム期のイタリアフィレンツェの画家。本名はアーニョロ・ディ・コジモ・ディ・マリアーノ・トルリ(Agnolo di Cosimo)。ブロンツィーノという愛称は、恐らく彼の髪の色であった「青銅」色を意味するイタリア語”ブロンツォ”に由来する。メディチ家のフィレンツェ公コジモ1世の宮廷画家として活躍する。「愛の勝利の寓意」に代表される画風は、極めて知的・技巧的で洗練された美しさに満ちている。また、肖像画にも多数の優れた作品を残している。

生涯
ブロンツィーノは1503年11月17日フィレンツェ近郊の貧しい肉屋の息子として生まれた。ブロンツィーノは始めラファエリーノ・デル・ガルボの弟子となり、次いで1515年頃からポントルモの工房で働き始めた。 1523年から25年にかけて、ガッルッツォのカルトゥジオ会修道院の回廊装飾、次いでサンタ・フェリチタ教会のカッポーニ家礼拝堂の装飾を師ポントルモと共に行った。カッポーニ家礼拝堂の天井にある4つの円形パネルの内2つはブロンツィーノの手によるとされている。

1531年には、デッラ・ローヴェレ家の元で働くためペーザロに移住した。 1530年から45年にかけて制作された一連の肖像画(≪ウゴリーノ・マルテッリの肖像画≫≪パンチャティキ夫妻の肖像画≫は、芸術家としての新局面を示している。

1539年、ポッジョ・ア・カイアーノの装飾に従事していたポントルモの要請によりフィレンツェに帰還した。フィレンツェ公コジモ一世とエレオノーラ・ディ・トレドの結婚祝祭のための装飾に携わった後、彼はメディチ家の宮廷画家となり、ドゥカーレ宮殿内(現ヴェッキオ宮殿内)の公妃エレオノーラ・ディ・トレドの私用礼拝堂の装飾を施した。宮廷画家として公爵家族の一連の肖像画を制作し、さらにはメディチ家により設立されたばかりの綴れ織り工場のため、数々の下絵を制作した。


1557年のポントルモの死後、サン・ロレンツォ教会において未完になっていた彼のフレスコ画装飾を完成した。

ブロンツィーノはアカデミア・デル・ディゼーニョの設立に関わり、1563年には設立者のひとりとなった。

1572年11月23日に弟子であり、息子のように扱っていたアレッサンドロ・アローリの家で亡くなり、サン・クリストフォロ・デイ・アディマリ教会に葬られた。

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