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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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三井葉子詩集『人文』・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
三井葉子「人文」

──新・読書ノート──

      三井葉子詩集『人文』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
         ・・・・・・・・・・・編集工房ノア2010/06/01刊・・・・・・・・・・

三井葉子さんが新・詩集を出された。「人文」(じんもん)と題する。
それは巻頭に載る詩に由来する。 こんな詩である。

          人文

     ヒトだけでいいのに
     文(ぶん)とつなぐと生活がはじまってしまって
     朝星夜星 郵便配達夫は人から人へ文をとどけなければならぬ
     
     むかし
     アルプスのモンブラン山の上を
     プロペラ機でひらひらととんだとき
     山頂から山の裾まで続く道が途切れながら山をめぐっているの
      が みえた

     道かァ
     と思った

     あの道の
     うつくしさ    
     道を歩くあしのうつくしさ
     が
     文だねえ
     と

     今朝 咲いた朝顔に
     いうと
     ええ
     あついわねえ
     朝から
     と
     首筋の汗を拭っている。
  
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いつも言うことだが、詩は意味を辿っては、いけない。
特に三井葉子さんの詩は、文脈が脈絡なく「跳ぶ」ので意味を辿っては、いけない。
難しい語彙が使ってあるわけではないのに、「三井さんの詩は難しい」と、よく言われる所以である。
アルプスの道の美しさ、のことに目を奪われていると、突如

    今朝 咲いた朝顔に
     いうと
     ええ
     あついわねえ
     朝から
     と
     首筋の汗を拭っている。

というような詩句が入ってくる。詩の脈絡としては「意味」は辿れない。
この終末の六行は、その夏の朝の暑さに対する家人か近所の人か、あるいはきれいに咲いた朝顔に、
話しかけた三井さんの言葉かも知れない。それを、ここに、さりげなく挿入したのである。
俳句や短歌でいう「二物衝撃」という技法である。
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今日は、こうして一冊の詩集にまとめられた、推敲された詩と「初出」との「異同」について書いてみたい。

私は三井さんとの付き合いも日が浅いし、これらの詩の初出がどこか明記もないので、たまたま詩誌「楽市」に載った作品が数点あるので、それらを対照しながら書いてみる。
詩にしろ歌にしろ俳句にしろ、初出の作品を「推敲」するというのは大切な作業であって、それによって作品が生きるからである。
「取り敢えず」作る、発表する、というのは有り得ることで、後から手直ししたらいいのである。
短歌の場合などは「歌会」というのがあるから、そんな時に発表して、みんなの意見を聞いて手直しして、いい歌になることがある。

           ・・・・・・・・・・・詩集『人文』の詩になったもの

     わたしの母は夜
     マスクをかけて寝ていた
     どんなに考えても
     夜の底で
     マスクをして 寝ている母は
     さびしい

     あれは舟で
     いま舟出を待っているところよ
     ほんとの舟は
     もうすこし大きいのだが
     あれは母の影なのだ

     ふんわりと水に映って
     
     雲も映っていて
     
     と
     いうところまで行きたいのだけれど

     あれから
     母のマスクは
     どうしたのだったか。

「初出」の詩誌「楽市」65号に載る   という詩

     わたしの母は 夜 マスクをかけて
     寝ていた
     どんなに考えても夜の底でマスクをして寝ている母は
     さびしい

     白いマスクが 夜のなかで浮いている

     舟出を待っている
     よう
     よ

     ふんわりと水に映って
     雲も
     映って

     あれから母のマスクはどこへ行ったのだったか。

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お判りいただけただろうか。 どこが、どう変ったのか対照して、見てもらいたい。
「下線」を引いたところに異同がある。それらは「行分け」を取り入れたり、行を削除したり、「助詞」を取り替えたり、新しく詩句を作ったりして、詩としての雰囲気を、がらりと変えている。

      かなしみ

 わたしの母は生まれて半歳にもならない子をそのかいなに抱
いてから生涯、そのむすめを愛した。
 母はかなしみを知っていた。わたしはそのかなしみを生きた。
 許してねと母は養い子になったわたしに言い。あきらめて、
とわたしに運命をおしえた。
 母には養育を断ることができなかった。夫が、そう決めたの
で。母の慰めは自らの従順であった。夫を信じて夫に従ったの
である。そしてかなしみはわたしが育つにつれてすこしずつあ
らわれた。

 ある日。

 母はこんな話をした。
 あるところにナ。
 鶏のお母さんいてたん。鶏のお母さんはことしの春子の卵
を暖めていた。さぁ、十もあるのかねえ。
 羽根の下に入れてナ。あしで裏返して。ふくらんで座ってい
た。ようやく雛が孵る。黄色いくちばしで雛は虫を食べ、ピヨ
ピヨ鳴いてナ。まい日すこしずつ育った。
 ある夕方。お母さん鶏はその雛たちを連れて散歩に出掛ける。
 溜め池があってナ。そこまでくるとなんと。そのなかの一羽
がとつぜんスルスルと水に入ってうれしそうに泳ぎ出した。お
母さん鶏は水に落ちたとばっかり思うだろ。コ、コココココ
鳴きたてる。けれどお母さん鶏は泳げないのだ。水に入って助
けてやることができない。
 お母さん鶏が暖めていた卵のなかにアヒルの卵がひとつ、ま
ぎれていたんだよ。

 わたしはかなしみを母に習った。
 わたしはいま。この母とまじりながら池の端をとんでいる。
といまは
思っている。
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「初出」の詩を引くことはしないが、「下線部」は「初出」が推敲されて、詩が厳密になっている。


このように詩集に収められたものと「初出」を対照することによって、詩人としての三井葉子さんの「こだわり」を知り、
三井さんに対する敬意と思慕を深める次第である。
この詩集には全部で29篇の作品が収録されている。
折々にひもといて鑑賞したい。



     


    
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