K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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草弥の詩「畢詩・京終と称ふる地なる」・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
塔

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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 ──草弥の詩作品<草の領域>──(69)

      畢詩・京終と称ふる地なる・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

            ──石川女郎と大伴宿祢田主との贈答歌──
       遊士(みやびを)とわれは聞けるを屋戸借さずわれを還せりおその風流士(みやびを)  
       遊士にわれは有りけり屋戸借さず還ししわれぞ風流士にはある


  山背(やましろ)の 杣のわが屋戸(やど) 西つかた 神奈備山に
  五百枝(いほえ)さし 繁(しじ)に生ひたる 栂(つが)の樹の
  弥(いや)つぎつぎに 絶ゆることなく ありつつも 止(や)まず通はむ。
  青丹によし 寧楽(なら)の京師(みやこ)に 春の日は 山し見がほし
  秋の夜は 河し清(さや)けし 旦(あさ)雲に 鶴(たづ)は乱れつ
  夕霧に かはづは騒ぐ。
  京終(きやうばて)と称(とな)ふる地なる 仮庵(いほ)の 高楼の屋戸ゆ
  玻璃戸より ふりさけ見れば 春日なる 若草山に 雪は著(しる)しも
  一人して 巻きたる帯を 二人して帯解(おびとけ)て寝(ぬ)る 若草の嬬(つま)。

     わが命 ま幸(さき)くあらば また逢はむ
     ひたぶるに 貪(むさぼ)らむかな この熟睡(うましね)を 

奈良地図

奈良に住んでいるか、奈良によほど詳しい人以外に「京終」を「キョウバテ」と読める人は少ない。

「京終」の地名としての歴史は鎌倉時代以降だそうである。位置からして、平城京外京の南端(厳密にいえばやや端よりやや南)であったと考えられる。
「平城京の端」よりも「外京の端」と言ったほうがいいかも知れない。理由は、鎌倉時代の奈良中心地は現在とほぼ同位置であり、記録上「京終」が南端らしい。
以下、平城京以来の歴史に遡って辿ってみよう。

元興寺小塔院趾の西側を通る道は、平城京東六坊大路の名残である。
平城京は、南北が北一条大路から九条大路まで、東西は朱雀大路を中心として西四坊大路から東四坊大路までが九条大路に至る。
奈良市の北西部から大和郡山市に及ぶ、南北四・八キロ、東西四・三キロに及ぶ、唐の長安の都を模した堂々たる日本の首都であった。
平城京の左京(東部)は、南一条大路から五条大路まで、五坊大路から七坊大路まで、三条分東へはり出していて、外京と呼ばれていた。
都が京都に遷る時、平城京の中心にあった宮殿や、主な建物は解体されて、使える材料は出来るだけ平安京の建設に使われた。
その跡地は経済観念の発達した国司の指導で、付近の農民を集めて壇を削り、溝や池を埋めて農地や民家にしたので、都が京都に遷った後は、万葉集に詠われているように

  立ちかわり 古きみやことなりぬれば道の芝草 長く生ひにけり

といった風景となり、やがてどこが宮殿の跡かも分からなくなっていった。
しかし、平城京に建立された社寺はそのまま残されたので、これ等の諸大寺を中心として門前町を形成していった。
ことに外京には、総国分寺であり、盧遮那仏がおわす世界最大の木造建築である大仏殿を持つ東大寺、藤原氏の氏神である春日大社、氏寺の興福寺、仏教寺院として日本最古の歴史を持つ元興寺等がある上、京街道に直結しているので、貴族の祖霊参り、平安時代に盛んになった長谷詣や熊野詣、江戸時代頃から庶民に拡がったお伊勢参り等で賑わい、門前町が宗教都市を形成し、観光都市として発達していった。
現在、奈良市は西郊へ拡張したり、周辺の町村を合併する等で、平城京より随分広くなっているが、旧奈良市と呼ばれる大正時代頃までの奈良の町は、ほとんど、この外京に当る部分である。

【平城京六坊大路】
平城京時代、朱雀大路は幅約八十四メートル、普通の大路でも道幅が約二十四メートルもあって、大路と大路の間には、約十二メートル幅の小路を東西南北に各三本づつ設けたというから、道幅は狭くなったり、多少折れ曲がったりはしているが、(道の東側が残ったり西側が残ったりして、折れ曲がったのだろうか。)
旧六坊大路は、京終・瓦堂・東木辻・鳴川・高御門・脇戸・下御門・餅飯殿・橋本・東向・花芝等、往時を偲ばす町名の町を貫いて、旧外京の中心を、一条通りから京終まで南北に通っている。
この六坊大路を境にして、東に興福寺、元興寺が、さらに東には東大寺が建立されたので、この西側辺りは門前町として賑わいを見せていたのだろう。
昔のことに思いを馳せながら、六坊大路の名残の道を京終から北へとたどってみよう。

【京終駅周辺】
奈良に住んでいるか、奈良によほど詳しい人以外に「京終」を「キョウバテ」と読める人は少ない。
京終町は広くて、昔は京終郷とか京終村と呼ばれていた位なので、北京終町とか南京終町等に分かれているのだが、戦争中、中国の北京や南京への関心が高まった時には「ペキンおわり町にはどう行きますか?」とか、「ナンキンおわり町はどちらでしょうか?」と道を尋ねられて、最初はとまどったものだ。
この地は平城時代、五条大路の延長線と、外京六条大路の交差するところで、文字通り、京の終、京の果からきた名前だろう。
平城時代の京終は、京の果とは言いながら、京洛の内だから、どのような人達が住んでいたのかよく分からないが、明治の中頃位までは、住民の多くは農業を営む農村地帯であったようだ。

この京終駅の一つ先には「帯解おびとけ」という、何となくゆかしい名前の駅がある。
この桜井線は、愛称を「万葉まほろば線」と称し、この先、「天理」「三輪」などを経て桜井まで達する。


  
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