K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
201707<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>201709
ランス「フジタ礼拝堂」Chapelle Foujita à Reims・・・・・木村草弥
800px-ChapelleFoujitaフジタ礼拝堂
↑ フジタ礼拝堂
p9251915フジタ礼拝堂①
 ↑ フジタ礼拝堂・聖母子
fujita_maria_lフジタ礼拝堂・祭壇画の聖母子
↑ フジタ礼拝堂・祭壇画の聖母子 拡大図
p1011138フジタ礼拝堂④ゴルゴダの丘への道行き
 ↑ キリスト・ゴルゴダの丘への道行き
f0095128_235273フジタ礼拝堂
 ↑ ステンドグラスが少し見える

──巡礼の旅──(14)─再掲載初出2013/07/23

      ランス「フジタ礼拝堂」Chapelle Foujita à Reims・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この礼拝堂については田中久美子さんが書いた → 「フジタ礼拝堂」というページがあるので、先ず、それを読んでもらいたい。 ↓
----------------------------------------------------------------------------------
     シャンパンの財が育んだランスのアートスポット
            フジタ礼拝堂
      ──平和を望んだ藤田嗣治晩年の傑作──


1913年、27歳の時に画家になることを夢見てフランスにやってきた藤田嗣治(Tsuguharu Fujita/Léonard Foujita)は、エコール・ド・パリのひとり としてパリのモンパルナス(Montparnasse)で大輪の花を咲かせます。
フジタは2度の大戦の後の1959年、ランスの大聖堂で君代夫人とともに洗礼を受けました。
そのときの代父はシャンパン・メーカー、マムの社長であるルネ・ラルー(René Lalou)。
そしてフジタは、マムの敷地内に平和の聖母に捧げる礼拝堂を作ることを思い立ったのです。

1966年初夏、80歳の画家は礼拝堂内部のフレスコ画に着手しました。
フレスコ画は漆喰を塗った壁が乾ききらないうちに素早く描かなければならないため、失敗が許されません。
大変な集中力を必要としますが、フジタは毎日12時間、壁と向かい合い、全部で200m²にもおよぶ空間をわずか90日間で仕上げました。
こうして秋に完成した礼拝堂は、ランス市に寄贈されることになりました。
正面の壁画にはキリストを抱いた聖母が描かれ、その右側のサインの部分に君代夫人が描かれています。
f0095128_23563772フジタ礼拝堂・君代夫人
 ↑ 君代夫人
君代夫人は2009年4月に逝去され、最愛の夫が眠る礼拝堂右側、≪最後の晩餐≫の絵の下に葬られました。

f0095128_23585717フジタ礼拝堂・最後の晩餐⑥
 ↑ 「最後の晩餐」 藤田夫妻は、この絵の下に眠る。

f0095128_23385616フジタ礼拝堂・磔刑図
 ↑ キリスト磔刑図

入り口上のキリスト磔刑図の右側には、ひざまずくラルーとフジタの自画像が描かれています。
f0095128_23523023フジタ礼拝堂・藤田の顔
 ↑ メガネの人が藤田。その左がマム社の社長ルネ・ラルー

ステンドグラスがある出窓の部分の壁には、この土地にふさわしくシャンパンの樽に腰掛ける聖母とキリスト、その向こうにはぶどう畑や大聖堂が見えます。
聖母を樽の上に腰掛けさせるという斬新な図像を描くにあたって、フジタは法王に許可を取ったと伝えられています。
ステンドグラスはフジタの下絵を、ランスの名匠シャルル・マルク(Charles Marq)の手によって仕上げられました。
その主題は、洗礼を受けたフジタの想いを表すかのように、「天地創造」や「アダムとイヴ」、「ノアの箱船」など『旧約聖書』からとられました。

f0095128_191295フジタ礼拝堂・七つの大罪
 ↑ 「七つの大罪」をテーマにした画は、傲慢、嫉妬、暴食、色欲、怠惰、貪欲、憤怒 が描かれている。

また聖具室の扉にも注目してください。
16枚の小さな絵がありますが、イタリア・ルネサンスのボッティチェリ(Sandro Botticelli)、ドイツ・ルネサンスのクラナハ(Lucas Cranach)やデューラー(Albrecht Dürer)など、美術史を飾る巨匠にフジタが捧げたオマージュになっています。

このように礼拝堂には、見るべきたくさんのディテールがありますが、礼拝堂奥の左右にあるステンドグラスは、故国日本に対するフジタのまなざしを感じ取ることができる作品です。
テーマは広島――。ヨーロッパとアジアで大戦を経験したフジタは、戦争の悲惨さを身にしみて痛感していたのでしょう。
この礼拝堂を平和の聖母に捧げたのも、穏やかな世界を希求してのことです。小さい空間のなかには、画家の強いメッセージがあふれています。

田中久美子(Kumiko Tanaka/文)
--------------------------------------------------------------------------------
彼については → Wikipedia 藤田嗣治 に詳しい。

こういう壁画の絵の中に作者やパトロンなどを描き込むのは画家の特権であって、古来いくつかの作例がある。
藤田は、それに倣ったのである。
田中さんも書いているように、シャンパン・メーカーとして功なったマム社の社長もパトロンとして金を出した代りに、絵の中に顔を永遠に残すことになった。

田中久美子さんの文章の途中に挿入した写真は、田中さんのものではない。私が、田中さんの文章に合わせて挟んだもので了承されたい。
なお、堂内は撮影禁止であり、写真は撮れないから、掲出の堂内の写真はネット上から引いたものである。


少し文章を付け加えておきたい。
このフレスコ画制作中から藤田は下腹部痛を訴えていたが、「冷え」によるものと見られていたが、絵の完成後、病院で診察の結果「膀胱がん」が見つかる。
あちこち手を尽くしたが治療の見込みのつかないほど進行していて、パリの病院を転々としたあと、スイスのチューリッヒ州立病院に転院した。
チューリッヒ湖のほとりにある病院は静かで、窓辺にはよくカモメがやってきた。激しい痛みの伴う治療の中、カモメに餌を与えるときだけ心をなごませた。
1968年1月29日、凍てつくような寒さが続く日に、藤田は八十一歳の生涯を閉じた。
遺体はフランスへ運ばれ、かつて洗礼をうけたランスの大聖堂で葬儀が行われ、藤田が絵を描いたランスの「礼拝堂」に安置された後、
終の棲家となったヴィリエ・ル・バルクに葬られたが、今では礼拝堂の≪最後の晩餐≫の絵の下に夫婦ともに眠っている。
二か月後、日本政府は藤田の功績を称え、勲一等瑞宝章を授与する決定を下した。

DSC_2102フジタ礼拝堂
 ↑ フジタ礼拝堂への入口のアーチ・奥にチャペルが見える

フランスはカトリック信仰の強い国で、文化人なども若い頃にはカトリシスムに反抗したりしていても、死ぬときには、カトリックに和解を求めて死ぬという。
藤田も晩年には夫婦でカトリックの洗礼を受けて、聖母マリアに抱かれて安息に入ったということである。
田中さんの言うように、シャンパンで儲けた財力によって、このチャペルが成ったことは喜ばしいことである。

------------------------------------------------------------------------------
──新・読書ノート──として、下記に追記する。

フジタ①
 ↑ 「藤田嗣治エッセイ選─腕一本 巴里の横顔」近藤史人・編─講談社文芸文庫2008/12/01第八刷刊
フジタ②
 ↑ 近藤史人「藤田嗣治─異邦人の生涯」講談社文庫2008/01/15刊

この記事の関連で、ここに挙げた二冊の本を読んだ。
編者の近藤史人という人は

1956年愛媛県生まれ。1979年東京大学文学部独文科卒。同年NHKにディレクターとして入局。
教養番組部、スペシャル番組部などを経て現在NHKエデュケーショナル統括部長。
制作した主な番組は、NHKスペシャル「革命に消えた絵画──追跡ムソルグスキー『展覧会の絵』」。同「故宮」。
同「空白の自伝・藤田嗣治」など。

藤田夫人・君代さんなどにも信頼されて色々のエピソードなどを聴かせてもらうなど、貴重な裏付けに満ちている。
詳しくは引かないが、広く読まれるべき本である。


山椒の葉かげに卵を生みゐたる黒揚羽蝶わらわらと去る・・・・木村草弥
kuroageha-omoteクロアゲハ雌

    山椒の葉かげに卵(らん)を生みゐたる
        黒揚羽蝶わらわらと去る・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

掲出の写真①は黒揚羽蝶の雌の羽の表の様子である。裏側の模様は少し違うが省略する。写真映りは白っぽいが、色は真っ黒である。

ageha032クロアゲハ

黒揚羽蝶の成虫は葉っぱを食べているわけではない。写真②のように花の蜜を吸って生きているのである。
揚羽蝶には色々の種類があるが、概して卵を生む植物は「香り」の強い草木に限定されているが、その中でも黒揚羽蝶は山椒、金柑などの柑橘類の木、パセリなどのハーブ類に卵を生む。
ハーブと言っても種類は多いので、その中でもパセリ類に限定される。
揚羽蝶の種類も色々あり、羽の模様もみな違うように取り付く草木も、それぞれ違う。黒揚羽と並揚羽とは取り付く木も共通するものが多い。
ここでは要点を絞って黒揚羽蝶と、その幼虫に限定する。
kuroageha-youchu01クロアゲハ威嚇

気持が悪いかも知れないが、写真③は幼虫の蛹になる直前の終齢の頃のもので、頭の先に赤い角状のものを出して「威嚇」しているところ。
独特の臭気も発する。これも威嚇のためである。
この写真の一日後には、この幼虫は「蛹」(さなぎ)になった。
写真④に、その蛹の様子を載せる。
kuroageha4クロアゲハ蛹

糸を一本吐いて柑橘類の木の茎に体を固定して蛹の様態に入ったもの。
この段階で捕食者から襲われないように、周囲の木と同じ色になって保護色を採るというから、その知恵には恐れ入る。
幼虫は夏の間に何度も孵るが、晩秋に蛹になったものは、この蛹の状態で「越冬」して、翌年の春に「羽化」して黒揚羽蝶の成虫になり、
雄、雌が交尾して、雌が産卵して新しい年度の命が発生する。
卵は纏めては生まない。ちょうど鰊の「かずのこ」の一粒のような大きさの卵を木の葉っぱのあちこちに、ポツンポツンと産み付ける。
色は葉っぱに似せて緑色をしている。この卵の段階でつまんで取り去ることも出来る。
この卵から孵ったものは黒っぽいが、黒揚羽も普通の揚羽も、とてもよく似ている。
この段階では緑と黒の保護色なので、葉っぱに紛れて見つけにくい。
写真⑤は蛹になる直前の終齢の幼虫を角度を変えて撮ったもの。
kuroageha3クロアゲハ幼虫終齢

黒揚羽の幼虫は、ここまで来ると、写真③も同様だが、いかにも気味の悪い毒々しい姿になったところである。

「蝶」は春の季語だが、春以外の季節にも居るので、その時は季をつける。
夏の蝶の代表は揚羽蝶である。これには十種類ほど居るという。一番よく目に止まるのは黒と黄色の縦じまの普通の(並)揚羽蝶ということになる。
黒揚羽蝶は夏らしい強さ、激しさを持っていると言われている。
以下、それらを詠んだ句を少し引いて終わりたい。

 黒揚羽花魁草にかけり来る・・・・・・・・高浜虚子

 渓下る大揚羽蝶どこまでも・・・・・・・・飯田蛇笏

 夏の蝶仰いで空に搏たれけり・・・・・・・・日野草城

 碧揚羽通るを時の驕りとす・・・・・・・・山口誓子

 乱心のごとき真夏の蝶を見よ・・・・・・・・阿波野青畝

 山の子に翅きしきしと夏の蝶・・・・・・・・秋元不死男

 夏の蝶一族絶えし墓どころ・・・・・・・・柴田白葉女

 日蝕のはげしきときに揚羽とぶ・・・・・・・・百合山羽公

 賛美歌や揚羽の吻を蜜のぼる・・・・・・・・中島斌雄

 夏蝶の風なき刻を飛べりけり・・・・・・・・池上浩山人

 黒揚羽舞ひ来て樹下に風起す・・・・・・・・茂恵一郎

 好色の揚羽を湧かす西行墓・・・・・・・・安井浩司

 黒揚羽黒と交わる神の前・・・・・・・・出口善子

 熟睡なすまれびととあり黒揚羽・・・・・・・・久保純夫

 魔女めくは島に生まれし黒揚羽・・・・・・・・大竹朝子

 摩周湖の隅まで晴れて夏の蝶・・・・・・・・星野椿

 乱心のごとき真夏の蝶を見よ・・・・・・・・阿波野青畝

 磨崖仏おほむらさきを放ちけり・・・・・・・・黒田杏子

白炎天鉾の切尖深く許し・・・・・橋本多佳子
20080717113142.jpg

  白炎天鉾の切尖深く許し・・・・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

京都の「祇園祭」は7月17日の今日、三十数基の山鉾が巡幸する。
数年前からは旧例に戻して今日の「前祭」23基と、7月24日の「後祭」10基に分けて巡行されることになった。
この頃は梅雨末期で激しい雨が降ることもあり蒸し暑いが、京都では祇園祭が過ぎると梅雨が明けると言われているが、今年はどうだろうか。

「貞観大地震・大津波」についての朝廷による公式記録『日本三代実録』のことは歌集『昭和』にも載せたが、
町衆の祭である「祇園祭」も、同年は御霊鎮(みたましずめ)として催行されたと言われている


掲出の橋本多佳子の句は、スケールの大きい祇園祭を、思念ふかく描いて秀逸である。
丁度そのときは雨が上って夏の太陽が──つまり「白炎天」が照り付けていたのだろう。
だから炎帝が高い長刀鉾の切っ先が空に突き刺さるのを許している、と並の詠み方ではなく、描いているのである。

写真①は鉾の行列の先頭を切る長刀鉾である。

03s祇園祭外人

祇園祭も国際化して、写真②の「くじ改め」の塗り箱を指し出すのは外人である。
外人は、こういうイベントに参加できるのが大好きなので、選ばれたことに大感激である。
裃(かみしも)姿で正装して張り切っている。
お断りしておくが、写真は、いずれもネット上から拝借した過年度のものである。

ここで「祇園祭」のことを少し振り返ってみよう。
02s稚児

写真③は巡幸にあたり道路に張られた注連縄を太刀で切る「稚児」である。
この稚児の役は資産家の子供が選ばれ、約1ケ月間、家族と離れて精進潔斎して奉仕するが、家からの持ち出しは大変な金額にのぼるので、誰でもがなれるものではない。

祇園祭は「町衆」の祭と言われる。
この祭は八坂神社の祭礼の一環だが、貞観11年、陸奥では大地震・大津波が襲来し、各地で疫病が流行し都も荒れ果てていた時に町衆が中心になって催行したという。

詳しいことはネット上で検索してみてもらいたい。
IMG_1333-01s胴がけ

写真④は鉾や山の胴体を飾る「胴掛け」と呼ばれるタペストリーなどである。掲出した胴掛けは尾形光琳の有名な「かきつばた」図を忠実に織物にしたもので、これは最近の新作である。古いものではヨーロッパから渡来したタペストリーなども幾つかある。この辺にも当時の町衆の財力のすごさを示している。
祇園祭方向転換

写真⑤は四つ角に差し掛かった時に鉾の方向転換の引き綱の様子を上から見たものである。「辻まわし」という。
昔と比べると、巡幸のルートも大きく変わった。昔は四条通よりも南の松原通などを通っていたが、道が狭いので、道路の広い御池通(戦争末期に防火帯として道路を使用する目的で沿道の建物を強制的に引き倒した、いわゆる疎開道路で拡幅されたもの)を通るように、当時の高山義三市長が強引に替えたものだが、今では、これが正解だったと判るのである。

ここで「宵山」と当日の大きな写真を載せておく。
3987824.jpg

40717g33.jpg

終りに歳時記に載る句を少し引く。

 月鉾や児(ちご)の額の薄粧(けはひ)・・・・・・・・曾良

 祇園会や二階に顔のうづ高き・・・・・・・・正岡子規

 人形に倣ふといへど鉾の稚児・・・・・・・・後藤夜半

 鉾の灯のつくより囃子競ひぬる・・・・・・・・岸風三楼

 神妙に汗も拭はず鉾の児(ちご)・・・・・・・・・伊藤松宇

 大車輪ぎくりととまり鉾とまる・・・・・・・・山口波津女

 水打つてまだ日の高き鉾の街・・・・・・・・飯尾雅昭

 鉾の上の空も祭の星飾る・・・・・・・・樋口久兵

 鉾を見る肌美しき人と坐し・・・・・・・・緒方まさ子



桔梗や男も汚れてはならず・・・・石田波郷
yun_448桔梗本命

  桔梗や男も汚れてはならず・・・・・・・・・・・・・石田波郷

桔梗(ききょう)あるいは漢字の音読みにして「きちこう」とも発音される。
この波郷の句ではキチコウの読みである。

キキョウ科の多年草で「秋の七草」の一つであるから、俳句では秋の季語となるが、実際には六月中旬には咲きだすところが多い。
青みがかった紫のものが多いが、栽培種も多く、白、紫白色、二重咲きなどいろいろである。
矮性の小さな種類もあるが、在来の50センチくらいの高さで、紫色のものが一番ふさわしい。
kikyou4キキョウ白

この波郷の句の「男も汚れてはならず」というフレーズに、老いの境地に居る私としては、ピシリと鞭うたれるような気がして、とっさに頂いた。
老いても男は身ぎれいにして、シャキッとして居なければならぬ。
「万葉集」にいう「あさがお」は桔梗のこととされている。

小林一茶の句に

 きりきりしやんとしてさく桔梗かな

というのがあるが、きっぱりと、すがすがしい野性味のある花と言えるだろう。
私の歌にも桔梗を詠んだものがあるが、昨年に採り上げたので遠慮して、歳時記に載る句を引いて終わる。
yado33kikyouキキョウ矮性

 桔梗の紫さめし思ひかな・・・・・・・・高浜虚子

 仏性は白き桔梗にこそあらめ・・・・・・・・夏目漱石

 かたまりて咲きし桔梗のさびしさよ・・・・・・・・久保田万太郎

 桔梗の花の中よりくもの糸・・・・・・・・高野素十

 桔梗やまた雨かへす峠口・・・・・・・・飯田蛇笏

 桔梗には鳴る莟あり皇子の墓・・・・・・・・平畑静塔

 桔梗いまするどき露となりゐたり・・・・・・・・加藤楸邨

 桔梗一輪死なばゆく手の道通る・・・・・・・・飯田龍太

 桔梗挿す壺の暗さをのぞいてから・・・・・・・・桂信子

 桔梗やおのれ惜しめといふことぞ・・・・・・・・森澄雄

 おもかげをさだかにしたり白桔梗・・・・・・・・細見綾子

 技芸天桔梗花びら露むすび・・・・・・・・沢木欣一

 誰やらの死をたとふれば桔梗かな・・・・・・・・石原八束

 桔梗やきりりと辛き飛騨の酒・・・・・・・・草間時彦

 百本の桔梗束ねしゆめうつつ・・・・・・・・藤田湘子

 桔梗の色を見てゐる麻酔の前・・・・・・・・宮岡計次

 桔梗咲く母のいのちのあるかぎり・・・・・・・・小桧山繁子
-----------------------------------------------------------------
写真③は矮性のキキョウである。


むらさきにけぶる園生の遥けくてアガパンサスに恋の訪れ・・・・木村草弥
yagapanアガパンサス

──季節の歌鑑賞──夏の「花」三題──

   ■むらさきにけぶる園生の遥けくて
       アガパンサスに恋の訪れ・・・・・・・・・・・・木村草弥


今日は夏の花三題を採り上げることにする。
掲出する歌は、いずれも私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
「花言葉」の連作を作っていたときの作品だ。
写真①は「アガパンサス」で、このごろではあちこちに見られるようになった。
花言葉は「恋の訪れ」であるから、この言葉を元にして歌を作ってある。
ユリ科の多年草で、南アフリカ原産。強い性質で日本の風土にもよく合うらしく、各地の花壇や切花用に盛んに栽培されるようになった。
君子蘭に似ているのでムラサキクンシランの和名もある。

gabera4ガーベラ①

    ■ガーベラに照り翳(かげ)る日の神秘あり
      鷗外に若き日の恋ひとつ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


写真②のガーベラも花色はいくつもある。花言葉は「神秘」。
この花はキク科の多年草で、この花も南アフリカ・トランスバールが原産地。野生ではなく、はじめから園芸植物として開発されたらしい。
明治末にわが国に紹介されたが、今では公園などに広く植栽され、色とりどりの彩りを見せている。
花期は長く秋まで咲く。

yun_942ルピナス

    ■藤房の逆立つさまのルピナスは
       花のいのちを貪りゐたり・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「ルピナス」は、マメ科ハウチワマメ属の総称。ルーピンとも言う。
世界各地に300種類もあるという。原産地は南ヨーロッパ。
藤の花を立てたようなので和名は立藤草。
私の歌は藤色の花を詠んでいるが、ルピナスは2008年、北海道の富良野でたくさん見かけた。
ただし写真は私のものではなく、yun氏の撮ったものを拝借した。
生命力旺盛な草で、花言葉は「貪欲、空想」。私の歌は、その「貪欲」を詠み込んである。

俳句に詠まれるものは、横文字の花の名で字数も多く、詠みにくいのか作品数も多くないので、省略する。


昏梅雨をつきて盛れる火の祭たいまつの男は汗みどろなる・・・・木村草弥
img_1288966_38644592_0那智の火祭り

    昏(くれ)梅雨をつきて盛れる火の祭
       たいまつの男(を)は汗みどろなる・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載る「み熊野」と題する一連の中のものである。
毎年7月14日に行なわれる「那智の火祭」は熊野那智大社の例大祭である。
この祭は12体の熊野の神々が大滝の前の飛滝神社に年に一度の里帰りの様子を表したものである。12体の大松明の迫力と熱気に、みんな我を忘れての歓声である。
2004年に「熊野三山の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されて、観光客も大幅に増えて来たという。
参詣道として世界で二例目ということでスペインの「サンチアゴ巡礼の道」からの視察団も表敬訪問してくれたという。

himatsuri2那智大社

写真②が熊野三山のひとつ熊野那智大社だが、社殿の前に熊野三山の守り神、三本足の神鳥「八咫烏(やたがらす)」の像が建っている。
熊野三山というのは、この熊野那智大社のほかに熊野本宮大社、熊野速玉大社をいう。
熊野那智大社は、ご神体は那智の滝であり、自然信仰の原点のように考えられるところである。
この大社に隣接して青岸渡寺があるが、明治初期の廃仏棄釈までは、両社一体の神仏混交のものであった。
前に書いたが、この青岸渡寺は「西国三十三ケ所霊場」巡りの一番札所である。
himatsuri5那智火祭②

写真④は、この火祭で松明をかつぐ役を奉仕した男たちが勢ぞろいして役目の報告をするところである。
himatsuri7那智火祭③

中世には「熊野詣で」と称して天皇や法皇などが行列をしつらえて京の都から遥々と参詣したのである。
今それらの道程が日の目を浴びて復活してきたのであるが、「歴史遺産」というのは古いままで保存されているのが原則であるのに、
道を整備し直して批判を浴びているという笑えぬ事態も出てきているらしい。

写真⑤は、この祭の一環として、火祭の前に奉納される「稚児の舞」である。和歌山県の無形文化財に指定されている。
himatsuri1火祭稚児の舞

いま歳時記を調べてみたが、那智の火祭ないしは火祭という項目は出て来るが、例句は無い。
今でこそ「熊野那智」の地は脚光を浴びているが1980年代あるいは90年代は、ローカルな行事として採録されなかったものと考えられる。
私の持っているようなものではなく、もっと大部の歳時記であれば載っているかも知れないが、お許し願いたい。
そんなことで、この辺で終りにしたい。



木の椀に白粥さくと掬ひをり朝粥会の法話終りて・・・・・木村草弥
shiro_kayu.jpg

    木の椀に白粥さくと掬(すく)ひをり
        朝粥会の法話終りて・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

京都の夏は、盆地性の気候のため、とても暑い。
この夏の間を利用して各地の寺院などで暁天座禅会や緑蔭講座などが催される。
掲出の私の歌は、もう十数年も前のものであり、どこの寺のものか、などの詮索は止めて、一般的なものと受け取ってもらいたい。
掲出の「白粥」も、その場で写せるものではないので、あくまでもイメージであることを了承されたい。

hodo法堂

写真②は建仁寺の法堂(はっとう)であるが、ここ建仁寺でも毎年7月初・中旬に「暁天坐禅会と緑蔭講座」が催される。
もともと昔からの行事として「夏安居」という90日間の僧の修行の行事があったが、それを庶民にも開放したのが、暁天行事として定着したと言えるだろう。
建仁寺の場合に触れると、本年7月7日(金)~7月9日(日)の3日間に亘り開催された。

坐禅開始は6:30~、緑陰講座は7:10~。(終了 8:00前後)

※最終日7月9日の講座後には粥座(しゅくざ)[朝食]の接待があった。

◎各日程の緑陰講座の講師は下記の通り。

7月7日(金)

講  師  坂村真民先生 ご息女   西澤 真美子 先生

演  題 『坂村真民の詩魂』

7月8日(土)

講  師  花園大学仏教学科教授    佐々木 閑(しずか) 先生

演  題 『ブッダが教えたこの世の真実 ー諸行無常と諸法無我ー』

7月9日(日)

建仁寺派管長  小堀泰巖老大師

提  唱   碧巌録第七十九則
      『投子一切仏声』(とうすいっさいぶっしょう)』
-------------------------------------------------------------------------------
このような催しはあちこちで盛んであり、京都でもたくさんあるが、朝粥の接待のあるところは、後始末が面倒なので減ってきたらしく、
朝粥の出るのは、西本願寺の法話・朝粥、智積院の法話・朝粥などである。後は「おにぎり」「点心」「そーめん」などの接待が見える。
全国各地で朝粥会は行なわれ、毎週おこなわれるところも見られる。

ここでは「夏安居」を詠んだ句を引いて終りたい。

 まつさをな雨が降るなり雨安居・・・・・・・・藤後左右

 夏行とも又ただ日々の日課とも・・・・・・・・高浜虚子

 杉深くいかづちの居る夏行かな・・・・・・・・富安風生

 食堂(じきどう)も炷きこめられし安居かな・・・・・・・・皆吉爽雨

 夏に籠る山六月の椿かな・・・・・・・・・喜谷六花

 山門に山羊の仔あそぶ夏の始め・・・・・・・・中川宋淵

 夏行僧白粥に塩落しけり・・・・・・・・土居伸哉

 土性骨敲かれて居る安居僧・・・・・・・・河野静雲

 黒揚羽絶えず飛びゐる安居かな・・・・・・・・川上一郎



七月や雨脚を見て門司にあり・・・・藤田湘子
P2020052門司港夜景

   七月や雨脚を見て門司にあり・・・・・・・・・・・・・・・・藤田湘子

一読して何のあいまいさもなく納得される句である。
しかし、句の背景をなす情緒の中身については、読者の側で、さまざまに空想できるふくらみがある。
たとえば、作者名を消し、人物を女性だとしたら、急な夕立の雨脚を見ている情感には別な映像が結びつくだろう。
出会い、別れ、若い人、老いた人、あるいは、ごく日常的なすれ違いなど、さまざまな人生模様が想像できそうである。
短詩型では、常に「何を詠むか」と同時に「何を詠まないか」の選択が決め手となる。
この句は明瞭な事実だけを詠んで、あとは読者の想像に任せている。思い切りよく「捨てて」広がりを採ったのである。
昭和51年刊『狩人』所載。
掲出画像は「門司港夜景」である。七月の雨脚の写真を出したかったが、いい写真がない。

いまや七月半ばである。陰暦の七月は文月で秋に入るが、陽暦の七月は、最も夏らしい月である。
七月を詠んだ句を少し引いてみる。

 七月のつめたきスウプ澄み透り・・・・・・・・・・日野草城

 七月の鶏の筒ごゑ朝の杉・・・・・・・・・・森澄雄

 夕月に七月の蝶のぼりけり・・・・・・・・・・原石鼎

 七月の夕闇ちちもははもなし・・・・・・・・・・平井照敏

 七月の蝌蚪が居りけり山の池・・・・・・・・・・高浜虚子

 七月の青嶺まぢかく溶鉱炉・・・・・・・・・・山口誓子

 七月や銀のキリスト石の壁・・・・・・・・・・大野林火

 少年のつばさなす耳七月へ・・・・・・・・・・林邦彦

----------------------------------------------------------------------------
41co2x6KxlL__SS500_.jpg

藤田湘子の今の季節の句を引いて、終わりにする。

 柿若葉多忙を口実となすな

 口笛ひゆうとゴッホ死にたるは夏か

 蝿叩此処になければ何処にもなし

 干蒲団男の子がなくてふくらめり

 わが裸草木虫魚幽くあり

 真青な中より実梅落ちにけり

 朝顔の双葉に甲も乙もなし

 水草生ふ後朝(きぬぎぬ)のうた昔より

 巣立鳥明眸すでに岳を得つ

 山国のけぢめの色の青葡萄



己が花粉浴びまみれてや立葵・・・・三橋敏雄
aaootachia.jpg

     己(し)が花粉浴びまみれてや立葵・・・・・・・・・・・・・・・三橋敏雄

アオイ科の越年草で人間の背丈よりも高くまで伸びる。単にアオイという植物はなく、一般にタチアオイのことを葵という。
原産地は中国、小アジアで、日本には室町時代に渡来し、鑑賞用に、また薬用に植えられたという。

葵の名が日本で最初に現れるのは「万葉集」だが、これはフユアオイまたはフタバアオイ(写真②)であるらしい。
futaba-aoiフタバアオイ本命

京都の「葵祭」に用いられるのもフタバアオイで、花ではなく葉を「挿頭」(かざし)にされるのである。
この植物は葵の名はついていても全く別のものでウマノスズクサ科のものである。
徳川家の家紋に使われたのが、これで、葉を三枚組み合わせて使われた。
先に5/15付けの「葵祭」の記事を書いた時に牛車の脇に吊るされるのが「藤の花」かと書いたのは正解で、葵祭は挿頭にフタバアオイの葉をかざしたので、この名がついたことが判明した。
写真③にフタバアオイの花をお見せする。
futaba-aoi3フタバアオイ花

話は変わるが、ネアンデルタール人の埋葬骨と一緒にタチアオイの花粉が発見されているという。
中国の唐代に牡丹が台頭するまではタチアオイが花の代表選手だったという。
花言葉は「平安」「単純」。花の色には白、赤、紫などがある。中国美女の立ち姿に似ており、古い中国で花の代表だったのも頷ける。

俳句にもたくさん詠まれており、それを引いて終わる。

 ひともとの葵咲きつぎたのしけれ・・・・・・・・日野草城

 門に待つ母立葵より小さし・・・・・・・・岸風三楼

 峡深し暮をいろどる立葵・・・・・・・・沢木欣一

 立葵のぞき棚経僧来たる・・・・・・・・石原八束

 咲きのぼるばかり葵の咲きのぼる・・・・・・・・見学玄

 蜀葵人の世を過ぎしごとく過ぐ・・・・・・・・森澄雄

 呼鈴を押してしばらく立葵・・・・・・・・鷹羽狩行

 雨はゆめなり雨の夜は白蜀葵・・・・・・・・阿部完市

 立葵まつすぐに来て破顔せり・・・・・・・・金谷信夫

 呼ぶ子帰る子十二時の立葵・・・・・・・・広瀬直人

 立葵大きな雨が三日ほど・・・・・・・・矢島渚男




中沢新一『鳥の仏教』・・・・木村草弥
41ksUlTJmzL__SS500_.jpg

──新・読書ノート──

      中沢新一『鳥の仏教』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・・・新潮文庫2011/06/26刊・・・・・・・・・・・

鸚鵡が尋ねる。 カッコウが答える。 鳥たちの言葉から、ブッダの教えを伝える名著。 カラー挿絵多数収録。

カッコウに姿を変えた観音菩薩がブッダの最も貴い知恵について語り、鶴、セキレイ、ライチョウ、鳩、フクロウなどの鳥たちが、幸福へと続く言葉を紡ぐ。
20世紀初頭に存在が知られるようになったこの経典は、チベットで古くから読み継がれてきた、農民や牧畜民など一般の信者に向けられた書物。
はじめてチベット語から翻訳される、仏教思想のエッセンスに満ち溢れた貴重な一冊。

この文庫版は 2008/11/28に発売された単行本の文庫化である。
最初に出た際に新潮社の読書誌「波」2008年12月号に載る書評を引いておく。
---------------------------------------------------------------------
            『鳥の仏教』・・・・・・・・・・・・中沢新一

    「苦しみから私たちを解き放つ、正しい方法を教えてください」、鸚鵡は問いかける。
     カッコウに姿を変えた観音菩薩は答える、最も重要なブッダの知恵を。
     やがて森に集まった鶴、セキレイ、ライチョウ、鳩、フクロウ、
     様々な鳥たちが真の幸福へ続く言葉を歌い出す。
     チベットの仏典を訳し、仏教の核心にある教えを優しく伝える、貴重な一冊。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
        鳥たちが伝える仏教・・・・・・・・・・・・・・養老孟司

 鳥の仏教。
 表題がいいじゃないですか。『鳥の仏教』って。
中沢新一さんがこういうとっても「わかりやすい」ものを訳すようになるってことは、もう歳だっていうことじゃないですか。
まだまだ若いと思っていたのに。

 私自身の体験のなかにも、ネズミの仏教がある。
 東大医学部で解剖学教室の助手をしているときだった。
編集者に頼まれて、岩波書店の雑誌「科学」に、当時調べていたトガリネズミについて、自分の仕事の総説を書いたことがある。
 なんでわざわざ、そんな変なネズミを調べるのか。理屈をいえば、いくらだってある。
もう古稀を越えた現在の年齢になれば、なにをいおうと、要するにそんなものは理屈、後知恵だとわかっている。
でも当時は若かったから、マジメに書いた。でも最後のところでどうしても書きたくなった。
ヒトが本当に動物を「理解する」としたら、それはどういうことになるのか。むろん理屈にはならないはずである。
いくら素朴な科学主義者でも、どこまでも「理」でネズミがわかるとはいうまい。
 じつはそう考えたわけではない。ひとりでに筆が走った。
もし私が本当にトガリネズミを理解するとしたら、それはどういうことになるのか。最終的には「共鳴」というしかないであろう、と。
 出来上がった原稿は、恩師の中井準之助先生に目を通していただいた。なにしろ学術論文ではない、はじめての文章である。
こんなこと、発表していいのか。それもあって、読んでいただくつもりだった。
やがて帰ってきた原稿には、ただ「共鳴」の部分から線が引き出してあって、その線の先に、先生の字で「合掌」と赤字で書かれていた。
思えばこれが、私の最初の信仰告白だった。中井先生もそれをちゃんと「理解」しておられたことになる。
最後まで私にとっては頭が上がらない方だった。
 先生は若いときに両親を亡くされ、親戚の家で育てられたという。
家は建物自体も二百五十年続いた近江商人の旧家である。小さいときにはお題目をあげさせられて、閉口した思い出を語っておられた記憶がある。
 私も歳だから、自分が結局は仏教で育てられていることを、しばしば認識する。現代では大方の若者がそれに気づいていないであろう。
でもこういうものは、文化の根に入ってしまって、無意識になっているから、どちらにしても仕方がないのである。本音を語ればどこかで仏教が出てくるに違いない。
「鳥の仏教」は現代チベット仏教を一般人に親しみやすいように語ったものだという。
成立はたぶん十九世紀、でもその背景には古くからのチベット民話がある。
いろいろな種類の鳥が出てきて、それぞれの鳴き声で仏教の教えを語る。
こういう本って、いいですよね。あんまり説教臭くなく、説教をするからである。
 ダライ・ラマ14世がそうである。今年ダージリンのチベット難民センターに行った。
そうしたら壁にダライ・ラマの言葉の抜粋が貼ってある。
英語だけれど、韻を踏んで面白かったから、池田清彦との共著『正義で地球は救えない』(新潮社)の「あとがき」に盗用しておいた。
 チベット仏教は殺生戒が厳しいので、虫が採りにくい。タバコもダメ。そういうことについては、もっとだらしない宗派がいい。
でもまあ、私はお坊さんではないし、要は仏教のことだから、そうやかましいことはいわないだろう。
そう思いながら、欧米の病院で書類を書かされると、宗教の欄には「仏教」と胸を張って書くのである。  (ようろう・たけし 解剖学者)

中沢新一/ナカザワ・シンイチ
1950(昭和25)年山梨県生まれ。人類学者。
妻は翻訳家の川口恵子。日本史学者網野善彦は義理の叔父(叔母の夫)。作家の芹沢光治良は親戚。林真理子は小中学校の後輩。
2006年(平成18年)から多摩美術大学美術学部芸術学科教授・芸術人類学研究所所長。
著書に『チベットのモーツァルト』『森のバロック』『フィロソフィア・ヤポニカ』『カイエ・ソバージュ』シリーズ(全五巻)『精霊の王』『僕の叔父さん 網野善彦』『アースダイバー』『芸術人類学』『ミクロコスモスI~II』など多数。
-------------------------------------------------------------------------
中沢新一の本は難解で読みづらいものだが、この本はイラストなども多く、読みやすい。


アルル「サン・トロフィーム教会」・・・・木村草弥
800px-Arles_Eglise_Saint_Trophimeサントロフィーム
↑ サン・トロフィーム教会
450px-Arles_-_Trophime_8サントロアフィーム
 ↑ 回廊中庭から鐘楼を望む
 
──巡礼の旅──(13)─再掲載・初出2013/07/12

     アルル「サン・トロフィーム教会」・・・・・・・・・・・・木村草弥

サン=トロフィーム教会 (Cathédrale Saint-Trophime d'Arles)は、南フランスの都市アルルに存在するロマネスク様式の教会堂。
教会そのものもさることながら、美しい彫刻が刻まれた柱の並ぶ回廊も高く評価されており、「アルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物群」の一つとして世界遺産に登録されている。

もともとはこの教会の敷地に存在していたのは、聖ステファノ(サン=テチエンヌ)に献堂されたバシリカ式教会堂であった。
11世紀から、当時アリスカンに眠っていた聖トロフィムス(3世紀のアルルの聖人)の聖遺物(遺体)を、この教会に安置しなおそうという動きが持ち上がり、ロマネスク様式の現在の教会堂の原型が形成された。そして、1152年に聖トロフィムスの聖遺物が移されると、彼にちなんで「サン=トロフィーム大聖堂」となった。
15世紀にはゴシック様式の内陣が加えられた。
かつてこの教会は大聖堂(司教座聖堂)であったが、1801年に小教区教会に格下げされた。
この司教座教会はサンティアゴ・デ・コンポステーラへの4つの巡礼路の始点の一つにあたる。
この巡礼路は、現在のこの教会がつくられた11世紀頃からローマ(カトリック)教会が奨励したものであり、建物の建て直しと関連があるものと推察される。

この教会堂は、古代ローマ建築との共通性が特徴とされている。
確かに、アーキトレーヴ(開口部の回りに付けられる装飾用の枠組み)を埋める浮彫りとそれを支える円柱、その中に立つ彫像の組み合わせも古代ローマ神殿を思わせる。
特に見どころとされているのは、西正面(ファサード)と回廊である。

800px-Arles_St_Trophime_Kreuzgang_20040828-240サントロフィーム回廊
 ↑ 回廊

入り口のティンパヌムには、最後の審判をイメージした彫刻がある。
そこでは、イエスが中心に配され、マタイ、ルカ、マルコ、ヨハネらが黙示録の四つの獣に対応させられる形で描かれている。
またその周囲の壁面などにも、十二使徒、受胎告知、ステファノの石打ち等の聖書にゆかりのある諸情景、および諸聖人が刻まれている。
回廊の柱も様々な美しい彫刻に彩られている。ここには、イエスの生涯などのほか、地元プロヴァンスにゆかりのある聖トロフィムスや怪物タラスクなども描かれている。

この教会については → 「南仏ロマネスク訪問記」に詳しい写真などがある。アクセスされよ。(注・目下は見られない、ということである)
--------------------------------------------------------------------------------
ここで、先日来、「巡礼の旅」として書いてきたことだが、「プロヴァンス」という地名の由来について書いておきたい。
この「プロヴァンス」という名前は、古代ローマでの「属州」(プロヴィンキア)という普通名詞に由来する。
しかも、この地方は五世紀の蛮族侵入のあともローマに最後まで忠実であった「ゴール」の州だからである。そして、その中心がアルルであった。
後年、ローマ教皇庁がローマに居られなくなったときに、かなりの期間、ここアルルはアヴィニョンにローマ教皇庁が置かれたのも、そういう理由によるのである。
ここではローマの古代都市の俤が、闘技場、劇場、広場(フォラム)などに、もっとも典型として残っており、社会教育制度も八世紀までローマ風に維持されていたのである。
アルルは当時ローヌ川を遡ってくる港であり、地中海の貿易が盛んであったから、古代文明は衰退したとはいえ、それは人々の心性に残り、
それが一般民家や教会、修道院建築にまで大きな影響を及ぼした。その一つが、ここに採り上げたアルルのサン・トロフィーム教会なのである。
ここはギリシア出身のペテロの弟子で、46年、当地、プロヴァンス地方に布教した聖トロフィームを祀ったところであり、
一時は「司教座教会」としてプロヴァンス地方に重きをなしていたのもその故である。
詳しくは、リンクに貼ってある「南仏ロマネスク訪問記」を参照されたい。見事な写真や記事が見られる。(注・目下は見られない、ということである)

ここで、蛇足かも知れないが「カテドラル」という呼称の教会のことについて書いておく。
これはカトリックに限ることだが、「カテドラル」=「司教座教会」に限って呼ばれるのであって、建物の大きさとは関係がないから念のため。
よくガイドなんかも、でたらめな説明をする人が居るが、これは厳密な約束事であるから、よく覚えておいてもらいたい。
その地域を管轄する「司教」さんが駐在する教会ということである。


梅雨空へ天道虫が七ほしの背中を割りて翔びたつ朝・・・・・木村草弥
040505nanahositen1.jpg

    梅雨空へ天道虫が七ほしの
       背中を割りて翔びたつ朝(あした)・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、制作時期は、もう20年以上も前になるが、大阪、京都、奈良の30数人が出席した合同歌会が、奈良の談山神社で開かれたときの出詠歌で、
出席者の大半の票を獲得した、思い出ふかい歌である。
自選50首にも選んでいるので、Web上でも、ご覧いただける。

この談山神社は藤原鎌足を祀るが、蘇我氏の横暴を抑えようと、中大兄皇子と鎌足が蹴鞠をしながら談合したという故事のある所である。
ここに務める神官で、かつ歌人でもある二人の友人がいるところでもある。

「テントウムシ」には、益虫と害虫の二種類があって、この「ナナホシテントウムシ」は作物にたかるアブラムシなどを食べてくれる「益虫」である。
朱色の背中に黒い●が7個あることから、この名前になっている。
テントウムシには、ほかに「二星」などの種類があるが、これらはすべて「害虫」とされている。
つまり、作物の汁を吸ったり、食害を与えたりする、ということである。

今日、農業の世界でも農薬、除草剤などの薬害の影響が叫ばれ、できるだけ農薬を使用しないように、ということになっている。
こういう化学合成による農薬ではなく、この「七ほし天道虫」のように「天敵」を利用するとか、害虫の習性を利用して、
雌雄の引きあうホルモン(フェロモン)を突き止めて、それを発散する簡単な器具を作り、雄を誘引して一網打尽に捕える、などが実用化されている。

ここで歌集に載せた一連の歌を引いておきたい。

     天道虫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   菖蒲湯の一たば抱けばああ若き男のにほひ放つならずや

   梅雨空へ天道虫が七ほしの背中を割りて翔びたつ朝(あした)

   濡るるほど濃き緑陰にたたずめば風さわさわと松の芯にほふ

   夏草の被さる小川は目に見えず水音ばかり韻(ひび)かせゐたり

   散るよりは咲くをひそかに沙羅の木は一期の夢に昏るる寺庭

   野良びとが家路を辿る夕まぐれ野の刻しんとみどりに昏るる

   土鈴ふる響きおもはせ驟雨きて梅雨あけ近しと知らすこのごろ

   茄子の花うす紫に咲きいでて農夫の肌にひかりあふ夕

--------------------------------------------------------------------
談山神社に関していうと、私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に、次のような歌がある。

   談山の社に佇てば鞠を蹴る音のまぼろし「蘇我氏を討たむ」・・・・・・・・・木村草弥

この歌は、もちろん上に書いた鎌足と中大兄皇子の故事に因むものである。

天道虫は童謡にも登場する虫で、どこか人なつっこいところがある。
俳句にも、よく詠まれているので、それを引いて終わる。

 のぼりゆく草細りゆく天道虫・・・・・・・・・中村草田男

 旅づかれ天道虫の手にとまる・・・・・・・・阿波野青畝

 ほぐるる芽てんたう虫の朱をとどむ・・・・・・・・篠田悌二郎

 翅わつててんたう虫の飛びいづる・・・・・・・・高野素十

 天道虫だましの中の天道虫・・・・・・・・高野素十

 老松の下に天道虫と在り・・・・・・・・川端茅舎

 天道虫天の密書を翅裏に・・・・・・・・三橋鷹女

 てんと虫一兵われの死なざりし・・・・・・・・安住敦

 愛しきれぬ間に天道虫掌より翔つ・・・・・・・・加倉井秋を

 砂こぼし砂こぼし天道虫生る・・・・・・・・小林恵子

 天道虫羽をひらけばすでに無し・・・・・・・・立木いち子

 天道虫バイブルに来て珠となりぬ・・・・・・・・酒井鱒吉

 天道虫玻璃を登れり裏より見る・・・・・・・・津村貝刀


荒梅雨のその荒星が祭らるる・・・・相生垣瓜人
8261613320.jpg

    荒梅雨のその荒星が祭らるる・・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人

七夕(たなばた、しちせき)は、日本、台湾、中国、韓国、ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。五節句の一つにも数えられる。
旧暦の7月7日の夜のことであるが、日本では明治改暦以降、お盆が7月か8月に分かれるように、7月7日又は月遅れの8月7日に分かれて七夕祭りが行われる。
しかし今では、おおよそ新暦で行われることが多い。 だから掲出句のような詠み方がなされる。
新暦では、まだ梅雨の末期であり、大雨が降ることが多いからである。
しかし歳時記では「七夕」は「秋」の季語であるから注意が必要である。

古句には

   秋来ぬと妻恋ふ星や鹿の革・・・・・・・・芭蕉

   彦星やげにも今夜は七ひかり・・・・・・・・西鶴

   うき草のうかれありくや女七夕・・・・・・・・才麿

   かささぎやけふ久かたのあまの川・・・・・・・・守武

   七夕や野にもねがひの糸すすき・・・・・・・・一茶

などがある。

古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や「棚幡」と表記した。
これは、そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。
元来、中国での行事であったものが奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた言葉である。

そのほか今では、「牽牛織女の二星」の物語として行事が行われる。
もともとは、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある。

起源としては、日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆)に、中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)や佛教の盂蘭盆会(お盆)などが習合したものと考えられている。そもそも七夕は棚幡とも書いたが、現在でもお盆行事の一部でもあり、笹は精霊(祖先の霊)が宿る依代である。

七夕を特別な日とすることがいつから起こったかは定かではない。
この日の行事について書かれた最も古い文献は後漢時代の崔寔が書いた『四民月令』に書物を虫干しにしたことが記されているが、七夕の風俗を記したものとしては東晋時代の作と考えられる『西京雑記』に「漢彩女常以七月七日穿七孔針于襟褸、人倶習之」と記録されたものが初見である。

織女と牽牛の伝説は『文選』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出とされているが、まだ7月7日との関わりは明らかではない。
その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。
また六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている。

日本語「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。また、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。

日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲の節会)、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた。その後平城天皇が7月7日に亡くなると、826年(天長3年)相撲御覧が別の日に移され、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった。

乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは『荊楚歳時記』に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた。二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。

沖縄では、旧暦で行われ、盂蘭盆会の一環として位置づけられている。墓を掃除し、先祖に盂蘭盆会が近付いたことを報告する。また往時は洗骨をこの日に行った。

来歴にこだわり過ぎたので、七夕などを詠んだ句を引いて終る。

 月蝕の話などして星の妻・・・・・・・・正岡子規 

 七夕の女竹を伐るや裏の藪・・・・・・・・夏目漱石

 秘めごとのなき歳となり星祭る・・・・・・・・阿部みどり女

 七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ・・・・・・・・橋本多佳子

 七夕の竹となれずにやぶにゐる・・・・・・・・辻田克己

 シャガールの空翔ぶ二人星祭・・・・・・・・土肥典子

 大涛のとどろと星の契りかな・・・・・・・・飯田蛇笏

 星合の波の音する新羅の壺・・・・・・・・飯島晴子

 昧爽(まいさう)といふべき星の別れかな・・・・・・・・山田みずえ

 星合の雨の函館泊りかな・・・・・・・・富田郁子

 彦星を恋ふに憚りなかりけり・・・・・・・・渡辺恭子

 婚約やひときは光る織女星・・・・・・・・佐々木かつの

 七夕や大和をみなの翔ぶ宇宙・・・・・・・・荻田いさほ





蛸飯とコロッケで済ます昼ごはん乾電池が梅雨の湿気を帯びる・・・・・木村草弥
DSC06176たこめし
8100107_01L乾電池

      蛸飯とコロッケで済ます昼ごはん
           乾電池が梅雨の湿気を帯びる・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の最新刊の第六歌集『無冠の馬』(KADOKAWA刊)に載せたものである。
梅雨入りした今の時期の歌として出しておく。
この一連は「湿気」という項目名で載せたもので、この歌の前に、こんな歌がある。

  軽薄な明るさをいつか蔑んだ張りついた汗が乾かない午後

  些細な嘘が限りなく増殖する午後ぶあつい湿気にどつぷり巻かれ
・・・・・・・木村草弥

今となっては、いつの制作かは、はっきりしないが、さぞ湿気が多い憂鬱な梅雨どきだったのだろう。
「蛸飯」は、自分で作ったものではなく、誰かの瀬戸内の旅のみやげにもらったものだろう。
瀬戸内では明石のタコが有名で、それを干して作った蛸飯が美味で、よく売られている。

    章魚食つて路通はその忌知れずなり・・・・・・・・安住敦

という句が歳時記に載っている。

今回、この歌集を進呈した人の引用歌に、これらの作品が引かれていることがあった。
<軽薄な明るさをいつか蔑んだ>という個所を指摘する人もあったし、<些細な嘘が限りなく増殖する>というところを批評してもらったのもあった。
歌集を出して、こういう風に、よく読みこんで手紙をもらう、のが一番うれしいし、参考になる。
それらについては批評欄に引いておいた。

今度の歌集では、考えるところがあって「あとがき」を書かなかった。
歌集は通常「あとがき」が付いていることが多いが、詩集などでは「あさがき」が無い場合がある。
私は、いつも「あとがき」で喋り過ぎる、きらいがあるので、今回は敢えて、書かなかった。
来信には、そのことに触れて、訝る人もあったが、私が意図的にしたことである。

以下、「梅雨」または「梅雨湿り」に因む句を引いて終わりたい。

  大梅雨の茫茫と沼らしきもの・・・・・・・・高野素十

  家一つ沈むばかりや梅雨の沼・・・・・・・・田村木国

  梅雨ふかし戦没の子や恋もせで・・・・・・・・及川貞

  梅雨の崖富者は高きに住めりけり・・・・・・・・西島麦南

  ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき・・・・・・・・桂信子

  梅雨霧を見てゐていつか包まるる・・・・・・・稲畑汀子

  梅雨の星齢といふも茫々と・・・・・・・・広瀬直人

  かく降りて男梅雨とはいさぎよし・・・・・・・・沢村芳翆

  梅雨の底打ちのめされてより力・・・・・・・・毛塚静枝


シトー会修道院教会堂「プロヴァンスの三姉妹」・・・・木村草弥
800px-Senanqueセナンク修道院
↑ セナンク修道院
800px-Le_Thoronet_eglise_abbatialeル・トロネ修道院
 ↑ ル・トロネ修道院
800px-Church_of_Silvacane_Abbeyシルヴァカンヌ修道院
 ↑ シルヴァカンヌ修道院

──巡礼の旅──(12)─再掲載・初出2013/07/08

    シトー会修道院教会堂「プロヴァンスの三姉妹」・・・・・・・・・・・木村草弥

アヴィニョンから東へ50キロほど行くとセナンク修道院に着く。
途中、別荘の多いなだらかな丘にのぼり、ゴルドの町を通る。まるでイタリアの丘の上の町のような印象だ。
春には曲がりくねった露地の向こうに杏の花が咲き、夏には修道院を前にしてラヴェンダーの畑が広がり、谷一帯が匂い、強いプロヴァンスの光によって溢れている。
まるで「幸福の谷」とでも呼びたいほどである。
14世紀、アヴィニョンに教皇庁が出来たとき、教皇ベネディクトゥス十二世がシトー修道会出身であったため、この修道院の保護は厚かったという。

プロヴァンスの三姉妹(Trois sœurs provençales)とは、フランス南部のプロヴァンス地方にある三つのシトー会修道院教会堂の呼び名である。

12世紀から13世紀初頭にかけてほぼ同時期 に建設された、マザン修道院の娘修道院としての二つの修道院、ル・トロネ修道院、セナンク修道院そしてシルヴァカンヌ修道院の三つをさしてプロヴァンスの三姉妹と呼ぶ。
この呼び名は一般的に、これら三つの修道院が「よく似ている」という説明として使用され 、賛辞としてのニュアンスも含まれる。

1098年、ロベール・ド・モレーヌがブルゴーニュのシトーに創建したシトー修道院は12世紀以降急速に発展し、ヨーロッパ各地に支院(支部のこと)が創建されてゆく。
この支院のことを娘修道院と呼ぶ。
800px-Mazan_l_Abbayeマザン修道院の廃墟
 ↑ マザン修道院の廃墟
1120年、ヴィヴァレ地方にマザン修道院が創建され、そのさらに娘修道院として「三姉妹」のル・トロネ修道院とセナンク修道院が創建されることになるが、
13世紀を頂点として、以降はヴァルド派の異端勢力やフランス革命の影響により衰退してゆくことになる。
シルヴァカンヌにいたっては革命後には農場になっているという有様であった。 再発見されるのは19世紀中ごろになってからのことである。
セナンクにはこの時期に一旦は修道士たちが戻ってきたが長続きはせず、現在のような現役の修道院となるのは20世紀に入ってからであった。

なお、2002年現在でも、母修道院であるマザン修道院だけは廃墟のままであり 、2013年現在で修道院として使用されているのはセナンク修道院だけである。
Abbey-of-senanque-provence-gordesセナンク③
↑ セナンク修道院 俯瞰
Abbaye-senanque-diableセナンク
↑ セナンク修道院内部

三姉妹という呼び名
最初にこれらの修道院に対して「三姉妹」という語が使われた時期は判明していないが、「研究対象として」最初に「三姉妹」の呼称を用いたのは再発見の時期、1852年である。
これは当時、ヴァール県の記念物監査官であったルイ・ロスタンがその報告書の中で使用した時が「三姉妹」の初出であり、
現在でも一般的に使用されるようにその外見の類似性に力点を置いた記述であった。
この呼び名であるが、観光ガイドや一般の解説書向けの「非専門家」用語として使われるケースが主であり、逆に現在の研究書や専門書ではあまり用いられないと指摘される。
まず「三姉妹」はそれぞれの大体の外見や寸法は確かに似ているものの、細部においてはむしろ差異のほうが多いからである。
とはいえ、シトー会修道院の建築には一定の様式的な統一性があることも確かである。
母修道院のマザン修道院からル・トロネ、セナンクに受けつがれた側廊の傾斜尖頭トンネルヴォールトなど 、 たしかに類似性・影響はある。
あくまでもこの「プロヴァンスの三姉妹」という呼び名は「学術分野ではあまり使われない」、ということである。

 → 「女一人旅」 というサイトに写真などがある。


怒涛もて満ち来る潮や夾竹桃・・・・岡田貞峰
aaookyouch1夾竹桃赤

      怒涛もて満ち来る潮や夾竹桃・・・・・・・・・・・・・・・岡田貞峰

夾竹桃はインド原産という極めて強い、繁殖力旺盛で排気ガスなどにも強い木である。根や樹液に有毒な成分を含んでいるという。
インド原産というだけあって北国の寒いところには生育しないらしい。信州人に聞くと長野県には夾竹桃はない、という。

aaookyouch夾竹桃白

改良されたのか色々の色があり、赤、白のほかにピンク色の種類もあるようである。
私の住む京都では、冬も常緑のミドリがあざやかな木である。
夾竹桃は花期の長いことでも、花の少ない真夏には重宝するのではないか。単調な高速道路などでは、夏の景観を賑わすものとして貴重である。

kyoochikutou5夾竹桃実

三番目の写真は、夾竹桃の「実」というものである。
これは冬も加温する植物園のもので、私の家にも生垣に夾竹桃をたくさん植えていたが、こんな実は生ったことがない。
文字どおり熱帯的な環境ならば、実が生る、ということであろうか。

kyoochikutou9夾竹桃種子

四番目の写真は、その実が熟して「種子」が綿毛に包まれて、そよいでいるところ。もちろん植物園の環境下でのもの。

ここまでが夾竹桃の説明であり、本題の掲出した句に戻りたい。

掲出した岡田貞峰の句は、夾竹桃という極めて強い樹木と、怒涛という「荒い」現象とを対比させて非凡である。

以下、歳時記に載る夾竹桃の秀句を少し引く。

 画廊出て夾竹桃に磁榻(じたふ)濡る・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 夾竹桃荒れて台風圏なりけり・・・・・・・・・・山口誓子

 夾竹桃花なき墓を洗ひをり・・・・・・・・・・石田波郷

 白夾竹桃のたそがれながし予後の旅・・・・・・・・・・角川源義

 病人に夾竹桃の赤きこと・・・・・・・・・・高浜虚子

 夾竹桃戦車は青き油こぼす・・・・・・・・・・中村草田男

 夾竹桃しんかんたるに人をにくむ・・・・・・・・・・加藤楸邨

 しどけなく月下夾竹桃みだる・・・・・・・・・・篠田悌二郎

 火を焚くや夾竹桃の花の裏・・・・・・・・・・波多野爽波

 夾竹桃垣に潮の香があげて来る・・・・・・・・・・道部臥牛

 夾竹桃かかる真昼もひとうまる・・・・・・・・・・篠田悌二郎
--------------------------------------------------------------------------
一番はじめの飯田蛇笏句の「磁榻」(じとう)とは磁器製の長椅子のことである。雨に濡れてもいいように、庭園などに置かれるのであろう。



絹糸腺からだのうちに満ちみちて夏蚕は己をくるむ糸はく・・・・・木村草弥
p304.jpg

    絹糸腺からだのうちに満ちみちて
       夏蚕(なつご)は己をくるむ糸はく・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

「養蚕」(ようさん)という蚕を桑の葉で育てる仕事は、最近では急速に廃れ、見られなくなった。
一応、説明しておくと、蚕蛾(かいこが)という虫の幼虫が吐く糸から「絹糸」が出来る。
この「蚕(かいこ)」には春蚕(はるご)と夏蚕(なつご)とがあり、春蚕は四月中、下旬に掃き立てをし、五月下旬か六月上旬に繭になる。
夏蚕は夏秋蚕のことで、二番蚕とも言い、飼う時期が暑いので成長も速く七月には上簇するが、量も多くなく、収量も品質も劣るという。

sanken01蚕本命
写真②は蚕蛾の幼虫──俗に「蚕」と言う──の選り分け作業の様子。

写真③は蚕の口である。口は二つあり、下の小さな口が「吐き口」といって繭を作るとき糸を吐く口。上の大きな口には、アゴが一対あって桑の葉を噛み切る。
kuti蚕の口

蚕の幼虫の体は細長く13の体節からなり、体長は5齢盛食期で6、7センチ。頭部、胸部(第1~3節)、腹部(第4~13節)に分けられる。
蚕の雌は幼虫、蛹、蛾とも雄より大きい。
「上簇」(じょうぞく)というのは、いよいよ繭を作る段階に達した蚕を集めて繭を作るために専用の蚕簿に移す作業をいう。
蚕は四回眠り四回脱皮して、そのあと繭を作るが、その際、体が半透明になる。これが私の歌に詠んだ「絹糸腺」が肥大して体中に満たされるためである。
「蚕簿」というのは藁を加工して三角錐の空間が集合したようなもの。ここに蚕を移してゆく手間のかかる労働である。後は蚕が絹糸腺から糸を吐き「繭」を作る。
mayu2.jpg

この繭から絹糸を引き出すのだが、これは蚕が吐いた糸であるから、一つの繭から引き出した糸は一本である。
大きな釜に湯を沸かし、その中に繭を入れて中の蛹を茹で殺して糸を探り出して引き出す。
独特の臭気がして慣れないと不快なものである。
糸を取った後の蛹の死体は栄養豊富なので、ウナギの餌などに使われた。

繭をそのままに放置しておくと、繭の中の蛹が蚕蛾になり繭を溶かして孔を開けて出てくる。
mayu_seityu.jpg

写真⑤が蚕蛾である。繭の中で蛹は十日で羽化する。だから養蚕というのは、繭が完成したら、すばやく熱湯にひたして羽化を阻止しなければならない。
日数の計算も厳密な作業であり、忙しい。
羽化した雌は腹に卵を一杯もっており、雄と交尾すると産卵し、雄雌ともにすぐに死んでしまう。
この交尾の際に雌が特有の「フェロモン」を出し雄を誘引するのである。
ものの本によると、これを感知すると雄は狂ったように全身を震わせて匂いの元に寄ってくるという。
だから実験として蚕の雌が居なくても、このフェロモンを放射すれば雄は群がるように寄ってきて交尾しようとするらしい。
養蚕用には優秀な蚕に黒い紙の上に生ませた「蚕卵紙」というのが養蚕試験場などから交付され、それを養蚕家は買って蚕の幼虫を孵化させて桑の葉に移す。
これを「掃き立て」という。

昔は桑の葉を摘んで蚕に与えていた。これを桑摘みという。
この労働を簡素化するために桑の枝を切ってきて与える、というのが戦後に開発され、今日では桑の葉を含むペレット状の粒剤を与えているようであるが、
それよりも中国などから安価な絹糸が入ってくるようになり、今では絹布にした加工品が中国で最終製品として作られるようになり、
日本国内の養蚕業は壊滅したと言える。養蚕器具は資料館でしか見られず、養蚕の様子も学習のためか、デモンストレーションとして行なわれるに過ぎない。
私の子供の頃は、近所でも養蚕や糸の引き出し作業などもやられていたし、繭の集荷に小学校の講堂が使われていたものである。

掲出の歌の前後に載る歌を引いて終わりたい。

くちびるを紫に染め桑の実を食みしも昔いま過疎の村・・・・・・・・・・木村草弥

よき繭を産する村でありしゆゑ桑摘まずなりて喬木猛る

桑実る恋のほめきの夜に似て上簇の蚕の透きとほりゆく

桑の実を食みしもむかし兄妹(きやうだい)はみんなちりぢり都会に沈む


この歌の一連は、もちろん創作であるから舞台設定や兄妹というのも、事実そのものではない。文学作品中における「虚構」ということである。

もともと蛾類は自然環境で「繭」を作ることが知られて(その中でサナギになるためである)、人間は、これに着目して幼虫を捕らえて飼い、繭を作らせることを考案した。
そして立派な繭を作らせるために品種改良を加えて、今日の養蚕業となったのである。
今でも「天蚕てんさん」「山繭やままゆ」といって、自然環境で作られた「繭」を採取して布にしたものがあるが、極めて希少価値の高いもので高価であり、めったに手には入らない。

「養蚕」については、このWikipediaの記事に詳しい。参照してみられたい。
また越智 伸二「カイコの一生」養蚕、お蚕さま、カイコの生態、形態には蚕の飼育全般について判りやすく詳しく書いてある。
過程ごとの詳しい写真があるので、よく判る。未知の方には、目からウロコである。



卓上日記いま真二つ半夏生・・・・鈴木栄子
Hangesyo_06c1213cv.jpg

      卓上日記いま真二つ半夏生・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木栄子

今日7月2日は半夏生である。
半夏生(はんげしょう)は雑節の一つで、半夏(烏柄杓)という薬草が生えるころ(ハンゲショウ=カタシログサ)という草の葉が名前の通り半分白くなって化粧しているようになるころとも。

七十二候の一つ「半夏生」(はんげしょうず)から作られた暦日で、かつては夏至から数えて11日目としていたが、
現在では天球上の黄経100度の点を太陽が通過する日となっている。毎年7月2日頃にあたる。

農家にとっては大事な節目の日で、この日までに農作業を終え、この日から5日間は休みとする地方もある。
この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたりした。
また地方によってはハンゲという妖怪が徘徊するとされ、この時期に農作業を行う事に対する戒めともなっている。

関西ではこの日に蛸を、讃岐では饂飩を、福井県では大野市などで焼き鯖を食べる習慣がある。

この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)といい、大雨になることが多い。
この頃に咲く花を半夏生または半夏生草という。掲出した写真が、それである。
この花が咲くときに、花序に近い葉の数葉は下半部が白くなる。花穂は白い小さな花をたくさん付ける。
「片白草」とも呼ばれるが、この名前は開花の時期と、葉の様子を表している。
本格的に梅雨の時期に入って咲く印象的な草と花である。

以下、季節としての「半夏生」と、草としての「半夏生」(片白草)を詠んだ句を引く。

 汲まぬ井を娘のぞくな半夏生・・・・・・・・・・言水

 田から田へ水の伝言半夏生・・・・・・・・・・鈴木喜美子

 平凡な雨の一日半夏生・・・・・・・・・・宇多喜代子

 貝の砂噛んでむなしき半夏生・・・・・・・・・・羽田岳水

 笹山を虻と越えけり半夏生・・・・・・・・・・岡井省二

 半夏生点せば仔牛おどろきぬ・・・・・・・・・・宮田正和

 半夏生北は漁火あかりして・・・・・・・・・・千田一路

 塩入れて湯の立ち上がる半夏生・・・・・・・・・・正木ゆう子

 高原の風身に添へる半夏かな・・・・・・・・・・恩田秀子

 塔の空より半夏の雨の三粒ほど・・・・・・・・・・斉藤美規 

 生涯を素顔で通し半夏生・・・・・・・・・・出口善子

 朝の虹消えて一ト雨半夏生・・・・・・・・酒井黙禅

 夕虹に心洗はれ半夏生・・・・・・・・・・八島英子

 降りぬきし空のうつろや半夏生・・・・・・・・・・渡部杜羊子

 地球儀のどこが正面半夏生・・・・・・・・・・田中太津子

 木の揺れが魚に移れり半夏生・・・・・・・・・・大木あまり

 朝の戸に死者の音声半夏生・・・・・・・・・・山口都茂女

 水攻の野に咲くものに半夏生・・・・・・・・・・細川子生

 片白の何をたくらむ半夏生草・・・・・・・・・・松岡心実

 半夏生の白は化粧の白ならめ・・・・・・・・・・酒井土子

 一樹下にしののめ明り半夏生・・・・・・・・・・西坂三穂子






かたつむりの竹の一節越ゆるを見て人に会ふべき顔とりもどす・・・・木村草弥
sizen266カタツムリ

     かたつむりの竹の一節越ゆるを見て
        人に会ふべき顔とりもどす・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

カタツムリはどこにでも居る陸の巻貝だが、農業を営む人たちや園芸家たちには新芽を舐めて害するので嫌われている。
私は昆虫少年でもなかったが、内向的な性格の子供だったので、虫や昆虫、カタツムリなどの生態を、じっと見つめているのが好きだった。
この作品は、もちろん後年のものだが、少年期の、そういう記憶が歌に結実したものと言えるだろう。
カタツムリの這う速度は、文字通り遅々としていて、この歌に詠んである通り、竹の一節を越えるのに大層な時間がかかる。
そんなカタツムリの歩みをじっと見つめていて、ようやく竹の一節を越えたなぁ、と思っているうちに、
「そうだ、誰それさんに会う約束があるのだった」と、ハタと気がつく、という歌である。
私自身は、この歌が結構気に入っているのである。

梅雨のシーズンになるとカタツムリの大好きなじめじめした天気になる。
カタツムリを詠んだ句を引いて終る。

 蝸牛(ででむし)の頭もたげしにも似たり・・・・・・・・正岡子規

 雨の森恐ろし蝸牛早く動く・・・・・・・・高浜虚子

 蝸牛や降りしらみては降り冥み・・・・・・・阿波野青畝

 やさしさは殻透くばかり蝸牛・・・・・・・・山口誓子

 あかるさや蝸牛かたくかたくねむる・・・・・・・中村草田男

 蝸牛喪の暦日は過ぎ易し・・・・・・・・安住敦

 蝸牛いつか哀歓を子はかくす・・・・・・・・加藤楸邨

 蝸牛遊ぶ背に殻負ひしまま・・・・・・・・山口波津女

 蝸牛や岐れ合ふ枝もわかわかし・・・・・・・石田波郷

 かたつむり日月遠くねむりたる・・・・・・・・木下夕爾

 悲しみがこもるよ空(から)の蝸牛・・・・・・・・鷹羽狩行

 かたつむりつるめば肉の食ひ入るや・・・・・・・・永田耕衣

 かたつむり甲斐も信濃も雨の中・・・・・・・・飯田龍太

 妻の疲れ蝸牛はみな葉の裏に・・・・・・・・沢木欣一


白南風や裏木戸を開けて日輪・・・・・野崎憲子
5361062白南風
海程

      白南風や裏木戸を開けて日輪・・・・・・・・・野崎憲子

この句は、私の友人から貰った金子兜太・主宰「海程」誌に、秀句として、主宰が抽出したものである。
「白南風」の説明として、下記を引いておく。  ↓

< 鳥羽・伊豆の漁師は、梅雨始めの強い南風を黒南風、梅雨期間中の強い南風を荒南風(あらはえ)、梅雨明けを白南風と呼ぶという。
九州西北部では、今でもこのことばを使っているが、白や黒は、雲の色からの命名である。
すなわち、梅雨中の陰雲な日の南風が黒南風で、そよそよと吹く季節風である。ただし、荒南風は黒南風が強くなって、出漁などに好ましくない風のこと。
白南風は、梅雨が明けて黒雲が去り、空に巻雲や巻層雲が白くかかるころ、そよ吹く南からの季節風のことである。

歳時記では、黒南風は仲夏(六月六日~七月六日)、白南風は晩夏(七月七日~八月七日)の季語に配されている。
「おもろさうし」には、黒南風に相当する語は見当たらない。しかし、梅雨明けのころの南風のことをうらしろ(浦白)と言っている。
まはえ(真南風)という語もある。これも白南風と見て良い。唐・南蛮から富を運んだ風のことだろう。いわゆる夏至南風のことである。夏至南風という語は「おもろ語」にはない。
案外あたらしいことばなのかも知れない。
なお、久高島には、フシ・アギ(星上げ)という風に名がある。この風は黒南風に相当するだろう。 >

「黒南風」と「白南風」のことについては先日のブログで書いた。 「白南風」と言ってもイメージ化出来ないので、イメージとして掲出のような画像を出しておく。
----------------------------------------------------------------------------
ここに引かれている他の句を挙げておく。
もちろん引用は私の独断で、季節に合うものを引いたことを了承されたい。

   夏うぐいす自己陶酔のありにけり・・・・・・・・・平山圭子

   死後少し残る聴力夕かなかな・・・・・・・・・松本夕二

   熱帯夜言葉出て行く歯の透き間・・・・・・・・・水上啓治

   母の来て小鳥をつかむ仕草かな・・・・・・・・・水野真由美

   ぼーっと灯り一重瞼を閉じにけり・・・・・・・・・三井絹枝

   草いきれ皮虜は牢のようでもあり・・・・・・・・・茂里美絵

   猫が触れゆくしずかな柱夏の家・・・・・・・・・森央ミモザ

   撫でるごとトマト湯むきす子は遠し・・・・・・・・森岡佳子

   滝壺をやがて去る水青き真昼・・・・・・・・・山本勲

   遠さかる漢(をとこ)のごとく八月も・・・・・・・・柚木紀子
   
   逃げ水のどこにも逃げ場なき瓦礫・・・・・・・・・有村王志

   捨て犬を連れてジューンブライドや・・・・・・・・・石川義倫

   夏橙その手ざわりの過去(むかし)を言う・・・・・・・・・伊藤淳子

   ずぶ濡れの姉が桑の実くれしかな・・・・・・・・・大西健司

   屋根裏に蛇這う音の昭和かな・・・・・・・・・奥山津々子

   雨立ち込めて昆虫展の奥に人・・・・・・・・・小野裕三

   泡となる金魚のことば戦の匂い・・・・・・・・・狩野康子

   鬼百合やひとり欠伸は手を添えず・・・・・・・・・川崎千鶴子

   大ぶりの蜘蛛の巣いい仕事してるなあ・・・・・・・・佐々木香代子

   夏山に雨の襞なす無辺なり・・・・・・・・・佐藤紀生子



青蛙喉の白さを鳴きにけり・・・・松根東洋城
00164-1モリアオガエル

     青蛙喉の白さを鳴きにけり・・・・・・・・・・・・・・松根東洋城

厳密に言うと「青蛙」という種類はちゃんと居るのだが、この句の場合、そんな厳密な区別をして作ってあるとは思えない。
一般的に「緑色」の蛙ということだろう。
写真は「モリアオガエル」である。大きくなっても体長6~7センチくらいのカエルである。
「青蛙」という種類は緑色の体長7センチくらいのカエルで、シュレーゲルアオカエルという、れっきとした名前を持っている。
「モリアオガエル」は本州、四国、九州の平地の低い木や草に棲む。指先に吸盤がある。

00164-2モリアオガエル卵塊

写真②はモリアオガエルの卵塊である。
浅い池や沼のあるところで枝先が水面に張り出した低い木の葉の先に卵を産む。孵った蛙のオタマジャクシは水面に落ちるという工夫である。
写真のように枝先の白っぽい塊が卵塊である。

370742雨蛙

↑ 雨蛙は住宅地なんかの草や木にも繁殖する。
天気が雨模様になってくると、湿気を感知してキャクキャクキャクと鳴く。
私の家の辺りにもたくさん居るが、どこで卵、あるいはオタマジャクシになるのか、いまだに知らない。

 ↓ 上に書いた「青蛙」シュレーゲルアオガエルの写真
9395020シュレーゲル・アオガエル

「シュレーゲル」なんていう外国名がついているが、れっきとした日本の固有種である。
Wikipediaに載る記事を下記に引いておく。
----------------------------------------------------------------------
シュレーゲルアオガエル
Rhacophorus schlegelii

学名
Rhacophorus schlegelii
(Günther, 1858)
和名
シュレーゲルアオガエル
英名
Schlegel's green tree frog
シュレーゲルアオガエル(Rhacophorus schlegelii)は、両生綱無尾目アオガエル科に分類されるカエル。
名前はオランダのライデン王立自然史博物館館長だったヘルマン・シュレーゲルに由来する。
「シュレーケルアオガエル」とも言われる。

分布
日本の固有種で、本州・四国・九州とその周囲の島に分布するが、対馬にはいない。

形態
体長はオス3cm-4cm、メス4cm-5.5cmほど。体色は腹側は白く背中側は緑色をしているが、保護色で褐色を帯びることもある。虹彩は黄色。

外見はモリアオガエルの無斑型に似ているが、やや小型で、虹彩が黄色いことで区別できる。また別科のニホンアマガエルにも似ているが、より大型になること、鼻筋から目、耳にかけて褐色の線がないこと、褐色になってもまだら模様が出ないことなどで区別できる。

生態
水田や森林等に生息し、繁殖期には水田や湖沼に集まる。繁殖期はおもに4月から6月にかけてだが、地域によっては2月から8月までばらつきがある。

食性は肉食性で昆虫類、節足動物等を食べる。

繁殖期になるとオスは水辺の岸辺で鳴く。鳴き声はニホンアマガエルよりも小さくて高く、「コロロ・コロロ…」と聞こえる。卵は畦などの水辺の岸辺に、泡で包まれた3cm-10cmほどの卵塊を産卵する。泡の中には200個-300個ほどの卵が含まれるが、土中に産卵することも多くあまり目立たない。孵化したオタマジャクシは雨で泡が溶けるとともに水中へ流れ落ち、水中生活を始める。

なお、地域によってはタヌキがこの卵塊を襲うことが知られる。夜間に畦にあるこの種の卵塊の入った穴を掘り返し、中にある卵塊を食うという。翌朝に見ると、水田の縁に泡と少数の卵が残されて浮いているのが見かけられる。
-------------------------------------------------------------------------
以下、青蛙ないしは雨蛙を詠んだ句を引いて終わりたい。

 梢から立小便や青かへる・・・・・・・・小林一茶

 青蛙おのれもペンキぬりたてか・・・・・・・・・・芥川龍之介

 青蛙ばつちり金の瞼かな・・・・・・・・川端茅舎

 軒雫落つる重たさ青蛙・・・・・・・・菅裸馬

 青蛙影より出でて飛びにけり・・・・・・・・中川宋淵

 空腹や人の名忘れ青蛙・・・・・・・・井上末夫

 雨蛙人を恃みてうたがはず・・・・・・・・富安風生

 雨蛙ねむるもつともむ小さき相・・・・・・・・山口青邨

 枝蛙喜雨の緑にまぎれけり・・・・・・・・西島麦南

 掌にのせて冷たきものや雨蛙・・・・・・・・太田鴻村


をさなごのひとさしゆびにかかる虹・・・・・日野草城
990930a虹

     をさなごのひとさしゆびにかかる虹・・・・・・・・・・・・日野草城

この句は、幼子と虹を見ている情景を、微笑ましく描写して秀逸である。

ここで虹の句を歳時記から少し引く。

 虹立ちて忽ち君の在る如し・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 虹のもと童ゆき逢へりその真顔・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 虹といふ聖なる硝子透きゐたり・・・・・・・・・・・・山口誓子

 虹なにかしきりにこぼす海の上・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 野の虹と春田の虹と空に合ふ・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 天に跳ぶ金銀の鯉虹の下・・・・・・・・・・・・・山口青邨

 いづくにも虹のかけらを拾ひ得ず・・・・・・・・・・・・山口誓子

 虹消えて了へば還る人妻に・・・・・・・・・・三橋鷹女

 目をあげゆきさびしくなりて虹をくだる・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 虹を見し子の顔虹の跡もなし・・・・・・・・・・・・石田波郷

 虹が出るああ鼻先に軍艦・・・・・・・・・・・・秋元不死男

 虹二重神も恋愛したまへり・・・・・・・・・・・・津田清子

 海に何もなければ虹は悲壮にて・・・・・・・・・・・・佐野まもる

 別れ途や片虹さらに薄れゆく・・・・・・・・・・・・石川桂郎

 赤松も今濃き虹の中に入る・・・・・・・・・・・・・中村汀女

「虹」は、ギリシア神話では、女神イリスが天地を渡る橋とされるが、美しく幻想的であるゆえに、文学、詩歌で多くの描写の素材とされて来た。
終わりに私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せた「秘めごとめく吾」と題する<沓冠>15首のはじめの歌を下記する。

 げんげ田にまろべば空にしぶき降る 架かれる虹を渡るは馬齢・・・・・・木村草弥


ナオミ・シェメルの歌『黄金のエルサレム』・・・・・木村草弥
450px-Naomi_Shemer27s_graveナオミ・シェメルの墓
イスラエルの作詞・作曲家、ナオミ・シェメルの墓。ガリラヤ湖のほとりにあり、ユダヤ人の習慣で訪問者が小石を置いている。

  ──巡礼の旅──(1)─再掲載・初出2011/06/26(再掲載にあたり構成し直しました)

      ナオミ・シェメルの歌『黄金のエルサレム』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

今日はイスラエルの作詞・作曲家ナオミ・シェメルの忌日である。
ナオミ・シェメル(1930年7月13日 ~ 2004年6月26日、英文:Naomi Shemer)は現代イスラエルの最も有名な女性作詞・作曲者で、
イスラエル建国後の重要な場面で多くの歌を発表して、国民から愛唱され、特に「黄金のエルサレム」は第2のイスラエル国歌とまで言われている。

200px-Neomi_shemerナオミ・シェメル
ナオミ・シェメルは1930年に、ガリラヤ湖のほとりのキブツに生まれている。
両親は1920年代にリトアニアから第3次シオン帰還運動で移動してきたユダヤ人で、このキブツの創始者の一家族であり、ナオミは子供時代から特に母からきびしい音楽教育を受けた。
長じてイスラエル国防軍の慰問団で働き、この間にエルサレム音楽・舞踏アカデミー(Jerusalem Academy of Music and Dance)で学んでいる。
結婚して、2児を得ている。2004年、ガンのため73歳で亡くなった。

ナオミ・シェメルは自分で作詞・作曲しているが、女性詩人のラヘル・ブルーシュタイン(Rachel Bluwstein)などの有名な詩にも作曲をしたり、
ビートルズの曲にヘブライ語の作詞をしたりもしている。
イスラエル建国と発展の各過程で依頼されて作った歌も多く、人々の喜び・悲しみ・希望を歌い、多くの人々に愛唱されている。1983年、イスラエル国民栄誉賞を受賞している。

「黄金のエルサレム」 (英語字幕つき) ← クリックして聴いてください。

↑ 一番有名な歌は、1967年のイスラエル独立記念日の音楽祭の招待曲として作られた「黄金のエルサレム」(エルシャライム・シェル・ザハヴ、英文:Jerusalem of Gold)である。
歌の内容はイスラエルの歴史から現代の希望までをカバーしており、含蓄の深いものとなっている。
この歌が作られて直後に六日戦争(第三次中東戦争)が起きて、後でイスラエルがこの戦争で勝ち取った東エルサレムについて(そこにユダヤ人にとって大切な「神殿の丘」と「嘆きの壁」がある)についての4番目の歌詞が追加されている。
この歌があまりにも有名になったため、1968年に国会でイスラエル国歌「ハティクヴァ」に代わる国歌にしようとする動きもあったが、これは否決されている。

今年はイスラエル建国から六十九年。
ユダヤ人にとっては悲願の建国であったが、歴史的にみると、今から三千年も前に古代イスラエル王国は築かれた。
神殿の丘には、エルサレム神殿が建てられ、ユダヤ教の礼拝の中心地として栄えていた。
しかし、紀元66年に始まったローマとのユダヤ戦争で、エルサレムはローマ軍によって陥落し、神殿は壁一枚を残して完全に破壊されてしまった。
神殿の西側に位置するため「西壁」と呼ばれるが、これがいわゆる「嘆きの壁」である。

ユダヤ戦争は、最後の拠点だったマサダの要塞の陥落をもって終結する。
以降、ユダヤの民は世界に離散し流浪の歴史を辿ることになった。
二十世紀になり、第二次世界大戦後にはナチスに迫害されたユダヤ人国家の建国機運が高まり、1948年に国連はイスラエル建国を宣言した。
すると周囲のアラブ諸国は猛反発し、その後の中東戦争へと足を踏み入れることになる。

この歌が作られた1967年当時、エルサレム旧市街やエリコを含むヨルダン川西岸地域はヨルダン領であり、ユダヤ人は自らの聖地で祈りを捧げることも出来なかった。
故郷への想いが綴られた歌詞の一部を下記に紹介する。

      黄金のエルサレム

  1番
  山々の風はワインのように冷ややかで、松のにおいが
  夕方の風に乗って太鼓の音と共に漂っていく。
  そして木も石もまどろんで夢の中に休むとき、
  ただ一人立つこの町は城壁の中にある。
  (繰り返し)黄金のエルサレムよ、そして銅と光の町よ、
  貴方にとって私は竪琴でありたい。

   2番
  水ためはどこへ行ったのか、市場は廃墟のようだ。
  そして誰も古代の都市エルサレムにある神殿を散策しようとしない(できない)
  岩山の洞窟では風がうなりを揚げ(るだけ)、
  そしてジェリコを通って死海に下る者は誰も居ない。

   3番
  ああ、あなた(エルサレム)の歌を歌う日が来たときに、そしてあなたに王冠をかぶせるときに、
  私はあなたの子供の中でもっとも若い者よりも小さくなり、あなたの歌い手たちの最後尾につきたい。
  さもなくば、あなたの名前が、天使の口付けで私の唇を焼き尽くしてしまう
  もし私が、全てが金のあなた、エルサレムを忘れることがあるとしたら。

   4番
  我々は水ためへ、そして市場に、野原に帰ってきた
  つのぶえは神殿の丘に、古代の町(エルサレム)に、響き渡る。
  そして岩山の洞窟には、何千もの太陽が昇り輝き、
  私たちはジェリコの道を通って、死海へと戻り下っていく。

--------------------------------------------------------------------------------
この歌が発表された僅か三週間後、第三次中東戦争により、たった六日間でイスラエルは歴史的勝利を収めることになる。
この歌「黄金のエルサレム」は、まるで将来を予言していたかのようだった。
「嘆きの壁」が解放されると市民たちは、そこで真っ先に「黄金のエルサレム」を歌ったという。
↓ 「嘆きの壁」
FI2618510_3E.jpg
FI2618510_4E.jpg
------------------------------------------------------------------------
エジプトのムバラク政権が倒れて、イスラエルとの共存の模索は宙に浮いた形になってしまった。
ムバラクに徹底的に弾圧されてきたイスラム政党が息を吹き返すのは自明のことであり、彼らがイスラム原理主義に突き進むのかが気がかりである。
「アラブの春」ともてはやされた各国の革命も、その後の推移を見ると、期待外れの観が多い。
政権を取った為政者が強権的な支配を進めることが多く、化石燃料から来る収入も一般庶民には「富」として配分されず、一部の人が恣意的に独占している。
一般庶民は貧しいままで、物価だけが値上がりしているらしい。

イスラエルのユダヤ教徒の中にも対立があり、アラブとの「共存」をめざしていたレビン首相が二十世紀末に暗殺され、以後歴代首相は対アラブ強硬派が政権を占め、
国連決議を無視してヨルダン川西岸にユダヤ人入植地建設を強行してきた。
ナオミ・シェメルは決して無分別の人ではなかったので惜しい人を亡くしてしまった。
イスラエルの生きる道は周辺諸国との「共存」なくしては在り得ないことを認識すべきだろう。

イスラエルについては、後日、十月に記事を四回ほど載せる予定である。




枇杷の木の少年枇杷を一つ呉れる・・・・・秋篠光広
biwa004びわの実②

    枇杷の木の少年枇杷を一つ呉れる・・・・・・・・・・・・・・秋篠光広

これもウォーキングする道端の家の庭に、たわわに枇杷(びわ)の木に実が生っているのを見たので、載せる気になった。
ビワの実は、今が時期である。
販売用には、栽培種で「茂木」ビワが有名である。
ビワは種が大きくて、食べるところは周囲の果肉で、あんまり食べるところが多くなくて、人によって好き嫌いがあるようである。
高級品は薄い紙に包まれていたりする。

枇杷というのは、花が初冬の十二月頃に咲いて、果実は翌年の梅雨の頃に熟する。
写真②が枇杷の花。地味な、目立たない花である。
biwaびわの花12月

枇杷の葉はかなり大きめのもので、この葉は薬草としても珍重される。
ものの本によると、枇杷の花は白く小さいが、香りがよい、と書いてあるが、嗅いだことはない。
寒い時期だから、この花を仔細に観察した人は多くはない筈である。
栽培種でなく、庭木として植えられているのは写真③のような、小ぶりの実である。
biwa2びわの実

毎日通る道筋で、たわわに実っている庭木があるが、今日通ったら、その一部に紙袋が被せられていた。
肥料も、ろくに与えていない庭木だから、さほど美味しい枇杷が採れるとも思わなかったが、やはり果実として世話をしてみたいのであろうか、
と歩きながら考えたことである。

枇杷の実を詠った句を引いて終わりたい。

 枇杷の雨やはらかしうぶ毛ぬらしふる・・・・・・・・太田鴻村

 枇杷熟れて古き五月のあしたかな・・・・・・・・加藤楸邨

 やはらかな紙につつまれ枇杷のあり・・・・・・・・篠原梵

 枇杷の柔毛(にこげ)わが寝るときの平安に・・・・・・・・森澄雄

 枇杷買ひて夜の深さに枇杷匂ふ・・・・・・・・中村汀女

 枇杷の種つるりと二男一女かな・・・・・・・・橋間石

 枇杷を吸ふをとめまぶしき顔をする・・・・・・・・橋本多佳子

 船室の明るさに枇杷の種のこす・・・・・・・・横山白虹

 袋破れ一顆は天へ枇杷実る・・・・・・・・稲垣法城子

 枇杷たわわ朝寝たのしき女の旅・・・・・・・・近藤愛子

 菩提寺の枇杷一族のごとこぞる・・・・・・・・中田六郎

 枇杷山の眩しさ海に近ければ・・・・・・・・畠山譲二

 枇杷に点る色のはるばる着きしごとし・・・・・・・・宮津昭彦

 灯や明し独り浴後の枇杷剥けば・・・・・・・・石塚友二

 枇杷啜り土佐の黒潮したたらす・・・・・・・・渡辺恭子

 走り枇杷すでにひさげり火山灰の町・・・・・・・・大岳麗子



完全にわれを無視蛇の直線行・・・・・菅八万雄
aomuhan青大将

    完全にわれを無視蛇の直線行・・・・・・・・・・・・・菅八万雄

蛇には、いくつかの種類が居るが、掲出の写真は「青大将」である。
蛇は以前に私の歌を引いて書いたので、詳しくは書かない。
蛇は私の地方では「くちなわ」という。
語源は「朽ちた縄」の意味であり、古来「くちなは」として古語にもあるので、その古い表現が今でも残っているということである。
青大将は日本に居る蛇の中では一番長い。

写真②は「しまへび」「(縞蛇)である。青大将とは、ずっと小型で細い。
e0113053_2119718シマヘビ

蛇は野ネズミなどを食べるので有益な生き物なのだが、その姿から嫌われ、手ひどい仕打ちを受けることが多い。
日本に棲む蛇で有毒なのは「まむし」(蝮)、「やまかがし」である。 沖縄には「はぶ」が居る。

私の旧宅には大きな庭石が前栽にあり、その石の下に、わが家の「主」の青大将が棲んでいた。体の紋の記憶から、そうだとわかる。
この主が居たので、わが家に巣を作るツバメが何度も雛を呑まれたことがある。
雛が大きくなって巣立ち間際になる絶好のタイミングを知っていて、未明の薄暗い頃に呑み込むのである。
冬眠から「啓蟄」の頃に出てくるが、体の成長につれて「皮」を脱いで大きくなる。
蛇は「巳」(み)と言うが、「巳成金」と言って利殖の神様とされ、その「抜け殻」を財布の中に仕舞っている人が居るほどである。
だから私の家では、追っ払うことはあっても、決して打ち殺すようなことはしなかった。
「巳ぃさん」と敬称をつけて呼ばれていた。

以下、蛇を詠んだ句を引いて終わる。

 とぐろ巻く蛇に来てゐる夕日かな・・・・・・・・原石鼎

 尾のさきとなりつつもなほ蛇身なり・・・・・・・・山口誓子

 水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首・・・・・・・・阿波野青畝

 吾去ればみ仏の前蛇遊ぶ・・・・・・・・橋本多佳子

 見よ蛇を樹海に落し鷹舞へり・・・・・・・・及川貞

 蛇打つてなほまぼろしの蛇を打つ・・・・・・・・宮崎信太郎

 蛇去つて戸口をおそふ野の夕日・・・・・・・・吉田鴻司

 蛇逃げて我を見し眼の草に残る・・・・・・・・高浜虚子

 蛇の眼にさざなみだちて風の縞・・・・・・・・松林朝蒼

 蛇の衣傍にあり憩ひけり・・・・・・・・高浜虚子

 袈裟がけに花魁草に蛇の衣・・・・・・・・富安風生

 老斑の手にいま脱ぎし蛇の衣・・・・・・・・山口草堂

 平凡な往還かがやく蛇の殻・・・・・・・・沢木欣一

 蛇の衣いま脱ぎ捨てし温もりよ・・・・・・・・秋山卓三

-----------------------------------------------------------------------------------
f-yamakagasi04ヤマカガシ
 ↑ ヤマカガシ

「Wikipediaヤマカガシ」に詳しい。  写真で見る「赤い斑点」が不気味である。「まむし」と並んで毒蛇だと言われている。




ポン=タヴァン「トレマロ礼拝堂」・・・・・木村草弥
img_1602294_50211404_0ポンタヴァン トレマロ礼拝堂
 ↑ トレマロ礼拝堂
E38388E383ACE3839EE383ADE7A4BCE68B9DE5A082トレマロ礼拝堂
 ↑ 礼拝堂 背面から
lrg_10163633黄色いキリスト磔刑像
 ↑ 黄色いキリスト磔刑像

──巡礼の旅──(11)─再掲載・初出2013/06/27

     ポン=タヴァン「トレマロ礼拝堂」・・・・・・・・・・・・木村草弥

フランス北西部、ブルターニュ地方の小さな村ポン=タヴァン。
村はずれの山道を上りつめると、この地方独特のどっしりとした石造りの礼拝堂が見えてくる。
森の中でひっそりと佇む礼拝堂の中に、その「黄色いキリスト磔刑」像がある。

ポール・ゴーギャンが、辺境の地ブルターニュを初めて訪れたのは1886年。
産業革命で近代化著しい大都会パリに疲れた多くの芸術家たちは、対極的なものを求めてブルターニュにやってきた。
そこには昔ながらの田舎の風景があり、フランス人の起源─ケルトの文化が息づいていたのである。
女性は黒いスカートに「コワフ」という髪飾りをつけており、その姿は、いくつかゴーギャンの作品の中で見ることが出来る。
もともと株の仲買人をしていた彼は、印象派の影響を受けて画家への道に踏み出したのだが、彼の作品が三度にわたるブルターニュ滞在で徐々に印象派から脱してゆく。
そして太い輪郭線で区切った中に平坦な色合いで構成する独特の様式を確立してゆくことになる。
カトリック信仰が色濃く残るブルターニュで、ゴーギャンがキリストの受難や聖書の物語、そして「黄色いキリスト」を題材に描いたのも自然な選択だった。
gauguinゴーギャン 黄色のキリスト像といる自画像
 ↑ 「黄色いキリストと居る自画像」
lrg_10271563黄色いキリスト 拡大
 ↑ 別の「キリスト磔刑像」の絵

ブルターニュ滞在を含む四年間で、ゴーギャンはさまざまな画家と交流し、パナマへも旅をし、やがて未開の地への憧れを抱くようになる。
ここに引いた「黄色いキリストと居る自画像」はオルセー美術館所蔵のもので、1891年、終焉の地となるタヒチに旅立つ数か月前の作品である。

ここは今でも画家の村として有名なところ。
なお本によると「ポン・タヴエン」と書かれていることがあるが、ポン・タヴァン(Pont-Aven)がフランス語としては正確であることを指摘しておきたい。
この地の写真を載せておく。
061101_copyポンタバン①
061102_copyポンタバン②
061104_copyポンタバン③
紫陽花に置いたる五指の沈みけり・・・・・川崎展宏
ajisai40アジサイ

    紫陽花に置いたる五指の沈みけり・・・・・・・・・・・・・・川崎展宏

「紫陽花」の時期としては6月中旬が最盛期で、今日では少し時期を失しているかも知れない。
何といってもアジサイは梅雨の花である。
あじさいの「あず」は集まる、「さい」は真藍の語からきたもので、古語ではアズサイと呼んだ。
落葉低木で、もともとは日本の山野に自生していたガクアジサイから改良されたものという。
ajisai30アジサイ

ajisai7紫陽花③

庭園や寺院などの鑑賞植物として梅雨期の花として、おおらかに、みづみづしく咲くものとして目立つ存在である。
わりに花期が長くて、小さくて多い四弁の花を、毬状に群がって咲かす。花弁に見えているのは「萼(がく)」で、花はその中で細かな粒になっている。
白、淡緑、紫そして淡紅色と花の色が変化するので「七変化」と称される。
花の色が変わるのはフラポン系の物質が変化するためと言われている。
また植えられている土が酸性かアルカリ性かによって花の色が左右されるという。
日本の山野に自生していたガクアジサイを西洋に持って行ったのはシーボルトだと言われるが、
これが西洋で品種改良されて、こんにち我々が目にするさまざまの園芸種の西洋アジサイになったという。
今ではヨーロッパでもアジサイはすっかり定着してしまったらしい。
「万葉集」には、左大臣橘卿の

  あぢさゐの八重咲くごとく弥つ代にをいませわが背子見つつ偲ばむ

という歌の他に1首が載っている。

私の住む近くでは西国三十三ケ所霊場巡りの札所でもある宇治市の三室戸寺が広い庭園の木の下に何千本ものアジサイを植えて有名である。

俳句にもたくさん詠まれているので、少し引いて終わりたい。
写真④はガクアジサイである。
ajisai27ガクアジサイ
 
 紫陽花や帷子(かたびら)時の薄浅黄・・・・・・・・松尾芭蕉

 紫陽花に雨きらきらと蝿とべり・・・・・・・・飯田蛇笏

 ゆあみして来てあぢさゐの前を過ぐ・・・・・・・・山口誓子

 紫陽花やはかなしごとも言へば言ふ・・・・・・・・加藤楸邨

 あぢさゐの花より懈(たゆ)くみごもりぬ・・・・・・・・篠原鳳作

 あぢさゐや軽くすませる昼の蕎麦・・・・・・・・石川桂郎

 あぢさゐは初花のうすいろにこそ・・・・・・・・松村蒼石

 大仏の供華鎌倉の濃紫陽花・・・・・・・・百合山羽公

 紫陽花の真夜の変化はわれ知らず・・・・・・・・鈴木真砂女

 紫陽花の醸せる暗さよりの雨・・・・・・・・桂信子

 紫陽花や家居の腕に腕時計・・・・・・・・波多野爽波

 あぢさゐや逢はばすずしくもの言はむ・・・・・・・・細見綾子

 紫陽花を買ふ夕暮の河の色・・・・・・・・有馬朗人

 紫陽花や恋知らぬ間のうすみどり・・・・・・・・林翔

 紫陽花剪るなほ美(は)しきものあらば剪る・・・・・・・・津田清子

 絹の服着なじむ午後を日の四葩(ひら)・・・・・・・・鍵和田釉子

 父の日の紫陽花ふかく切られけり・・・・・・・・日下部宵三

 考へのまとまりかかり濃紫陽花・・・・・・・・成瀬正俊



どの谷も合歓のあかりや雨の中・・・・角川源義
img70合歓の花本命

     どの谷も合歓のあかりや雨の中・・・・・・・・・・・・角川源義

いつも散歩というかウオーキングというか、の道の途中に合歓の木が三本ある。
ネムの花は、これからが丁度、花どきである。
この木はマメ科ネムノキ属。本州、四国、九州および韓国、台湾、中国、さらに南アジアに広く分布するという。
落葉高木で高さ6~9メートルに達し、枝は斜めに張り出して、しなやか。葉は羽状に細かく分かれた複葉で、夜になるとぴたりと合わさる。
そのゆえに葉の睡眠として「ネム」の名がつけられた。この図鑑の説明を読んでから、実際の木を見てみると、まさにその説明の通りである。

この句の作者・角川源義も俳人だったが、「角川書店」の創業者として著名な人である。

芭蕉の句に

 象潟や雨に西施がねぶの花

というのがあるが、「合歓」の花は、そういう悲運の女性を象徴するもののようで、この二つのものの取り合わせが、この一句を情趣ふかいものにした。
合歓の花については多くの句が詠まれている。少し引いてみよう。
-------------------------------------------------------------------

 総毛だち花合歓紅をぼかしをり・・・・・・・・・・・・川端茅舎

 雲疾き砂上の影やねむの花・・・・・・・・・・・・三好達治

 銀漢やどこか濡れたる合歓の闇・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 花合歓や補陀落(ふだらく)といふ遠きもの・・・・・・・・・・・角川春樹

 合歓に来る蝶のいろいろ花煽・・・・・・・・・・・・・星野立子

 合歓咲いてゐしとのみ他は想起せず・・・・・・・・・・・・安住敦

 花合歓の下を睡りの覚めず過ぐ・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 合歓咲けりみな面長く越後人・・・・・・・・・・・・森澄雄

 合歓の花不在の椅子のこちら向く・・・・・・・・・・・・森賀まり

 合歓咲くや語りたきこと沖にあり・・・・・・・・・・・・橋間石

 風わたる合歓よあやふしその色も・・・・・・・・・・・・加藤知世子

 山に来て海を見てゐる合歓の花・・・・・・・・・・・・菊地一雄

 花合歓の夢みるによき高さかな・・・・・・・・・・・・大串章

 葉を閉ぢし合歓の花香に惑ひけり・・・・・・・・・・・・福田甲子雄

 霧ごめの二夜三夜経てねむの花・・・・・・・・・・・・・藤田湘子
----------------------------------------------------------------
私にも合歓を詠んだ歌がある。第二歌集『嘉木』(角川書店)に

 夕されば仄(ほの)と咲きいづる合歓の香に待つ人のゐる喜びがある・・・・・・・・木村草弥

この歌は、この歌集の「つぎねふ山城」の章の「夏」に載る。「待つ人」とは、もちろん妻のことである。
その妻が亡くなった今となっては、一層想いは深いものがある。
念のために、その一連を引用してみよう。

 若き日の恋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

咲き満ちて真夜も薔薇(さうび)のひかりあり老いぬればこそ愛(いと)しきものを

夕されば仄と咲きいづる合歓の香に待つ人のゐる喜びがある

はまなすの丘にピンクの香は満ちて海霧(じり)の岬に君と佇ちゐき

茎ほそき矢車草のゆれゐたる教会で得し恋いつまでも

むらさきのけぶる園生の遥けくてアガパンサスに恋の訪れ

幸せになれよと賜(た)びし鈴蘭の根が殖えをりぬ山城の地に

原爆を許すまじの歌ながれドームの廃墟に夾竹桃炎ゆ

ガーベラに照り翳る日の神秘あり鴎外に若き日の恋ひとつ

百日を咲きつぐ草に想ふなり離れゆきたる友ありしこと

藤房の逆立つさまのルピナスは花のいのちを貪りゐたり

しろじろと大きカラーの花咲きて帆を立てて呼ぶ湖の風

これらの歌は、それぞれの花の「花言葉」に因む歌作りに仕立ててある。それぞれの花の花言葉を子細に調べていただけば、お判りいただけよう。
もう十数年以上も前の歌集だが、こうして読み返してみると、感慨ふかいものがある。「合歓の花」からの回想である。


黒南風の岬に立ちて呼ぶ名なし・・・・・西東三鬼
kurohae練り切り黒南風

   ◆黒南風(くろはえ)の岬に立ちて呼ぶ名なし・・・・・・・・・・・西東三鬼

    ◆白南風(しろはえ)にかざしてまろし少女の掌・・・・・・・・・楠本憲吉


「黒南風」とは、梅雨に入り、空が暗く長雨がつづく陰鬱な頃に吹く南風で、柔らかい風だが、低気圧や梅雨前線が通り、荒い風が吹くときは「荒南風」となる。
「白南風」とは梅雨が明けて明るい空になり、晴れて吹く南風が、これである。
また梅雨の間でも、晴れようとする様子のときの南風も白南風という。
空や雲の様子から、白、黒を南風(はえ)にかぶせたもの。
ここでは「黒南風」と「白南風」の句を並列に並べて掲出してみた。

「風」というのは、視覚化できないので、ネット上から某菓子舗の「練り切り」の菓子を写真にする。
以下は、その「説明書」である。

<風は季節によって、ほぼ方向が定まっています。
春は東風、秋は西風、冬は北風で、
夏季の「南風」は、「みなみ」とか「はえ」とも読みます。
この「はえ」、中国・四国・九州地方など主に西日本の言葉で、
特に、梅雨時のどんよりと曇った日に吹く南風を、黒南風と呼ぶそうです。
梅雨入りの頃はこの風が吹いて空が暗くなる、というのがこの名の由来。
ちなみに梅雨明け頃の南風は、吹くと空が明るくなるので、「白南風(しらはえ)」と呼ばれています。
どんよりとした梅雨空を黒ゴマ入りの煉切で表し、一陣の風を、力強い一筆書きのように水色で描きました。
ジメジメと鬱陶しい季節ですが、まぁ、お茶とお菓子でも…。 >

掲出の西東三鬼の句は、私には亡妻に対する「レクイエム」のように受容できるもので 、「呼ぶ名なし」などと言われると、私のことのようで身に沁みるのである。

以下、「黒南風」「白南風」を詠んだ句を引いて終わる。

 黒南風や島山かけてうち暗み・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 黒南風に水汲み入るる戸口かな・・・・・・・・・・・・原石鼎

 黒南風は伏屋のものを染めつくす・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 黒南風や潮さゐに似て樹林鳴る・・・・・・・・・・・・占 魚

 沖通る帆に黒南風の鴎群る・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 和歌の浦あら南風鳶を雲にせり・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 あらはえや雲のちぎれに月さやか・・・・・・・・・・・・桂 居

 黒南風や屠所への羊紙食べつつ・・・・・・・・・・・・中村草田男

 黒南風に嫌人癖の亢ずる日・・・・・・・・・・・・相馬遷子

 白南風の夕浪高うなりにけり・・・・・・・・・・・・芥川龍之介

 白南風やきりきり鴎落ちゆけり・・・・・・・・・・・・角川源義

 白南風や永病めば土摑みたし・・・・・・・・・・・・香取哲郎

 いや白きは南風つよき帆ならむ・・・・・・・・・・・・大野林火

 海南風死に到るまで茶色の瞳・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

 クラリネット光のごとく南風(はえ)にきこゆ・・・・・・・・・・・・川島彷徨子

 汐満てりはえとなりゆく朝の岬・・・・・・・・・・・・及川貞

 のけぞれば吾が見えたる吾子に南風(みなみ)・・・・・・・・・・・・中村草田男



コンク「サント・フォア教会」・・・・・木村草弥
cq34コンク サント・フォア修道院
 ↑ フランス中部オーヴェルニュの南限にある「サント・フォア教会」
800px-Conques_doorway_carving_2003_IMG_6330サント・フォア修道院
 ↑ 「サント・フォア教会」半円形壁面

──巡礼の旅──(10)─再掲載・初出2013/06/21

     コンク「サント・フォア教会」・・・・・・・・・・・・木村草弥

フランス中部オーヴェルニュの南限にあるコンクの「サント・フォア教会」は、もともとは修道院として発足したもので、スペインのサンチアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路にあたる。

799px-Conques_JPG01コンク

コンク (Conques、オック語:Concas)は、フランス、ミディ=ピレネー地域圏、アヴェロン県のコミューン。
中世、コンクは聖アジャンのフォワの聖遺物を祀る地として巡礼地であった。

フランスのミディ・ピレネ地方のコンクはル・ピュイを出発地とするスペインのサンチアーゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の経由地として、
ここコンクは、サント=フォワ修道院教会とドゥルドゥ川に架かる橋がユネスコの世界遺産に登録されている。
また、フランスの最も美しい村にも選ばれている。

Conques_pont_romainコンク ローマ橋
 ↑ 14世紀に架けられたローマ橋

コミューンはドゥルドゥ川とウシュ川の合流地点にある。
この地形がホタテガイに似ていたため、コンク(ラテン語ではconcha、オック語ではconcas)という名称を与えられたとされる。
県都ロデーズの北にあり、サント=フォワ修道院周囲に密集する中世以来の町並みが、陽光差す山の中腹に現れる。
生け垣に囲まれた住宅は、正午頃にそのファサードに日が当たる。ホタテガイの意匠が目立つ。通りの舗装、屋根に至るまで石が使われている。
扉や窓の縁飾りのために切石が使われ、灰色やピンク色の砂岩、さらに花崗岩が使われることは非常にまれである。
cq14コンク
cq50コンク

歴史
一説によると、5世紀から、この地に聖ソヴールを祀った小修道院とそれを囲む定住地があったとされる。
この小修道院は、イスラム教徒の北進で壊され、730年以降にカール・マルテルの子ピピン3世の支援で再建された。
同時期、修道士ダドンが修道院を建て、819年にはベネディクト会の規則を採用した。
社会組織が非常によくできていたこの修道院は、重要な領地を次第に統合し、9世紀の経済減退期に繁栄する小島のような状態となった。

864年から875年のこの時期、コンクの修道士アリヴィスクスが、アジャンの教会に安置されていた聖フォワの聖遺物を盗み出すことに成功するという、歴史的な事件が起きた。
聖フォワは303年、アジャンにて12歳で殉教した少女である。 この敬虔なる移動が、すぐに奇跡を誘発し、多くの巡礼者をコンクへ引き寄せたのだった。

同時期、聖ヤコブの墓がサンティアゴ・デ・コンポステーラで発見されたとヨーロッパ各地に伝わった。
955年から960年の間、ルアルグ伯は使徒を敬い、ガリシアで報いの御礼を述べるべく最初の巡礼の一人となった。
30年あまり後、彼の息子レーモンはバルセロナにてイスラム教徒を撃退した。謝意の証として、彼は大規模な戦闘を物語る贈り物をコンクへ贈った。
銀に鞍の彫り物がされた祭壇飾りである。それを用いて修道士たちは大きな十字架をつくった。

11世紀の間、聖フォワは、スペインでのレコンキスタに赴く十字軍騎士たちの守護聖人であった。2人のコンクの聖職者が、ナバーラとアラゴンで司教となった。
1077年以降にパンプローナ司教となったピエール・ダンドック、1100年にバルバストロ司教となったポンスである。
アラゴン王ペドロ1世は、その後に聖フォワへ献堂した修道院を建てている。

コンクを出発後、クエルシーへ向かうものと、モワサックの修道院へ向かうそれぞれの道程をつなぐ巡礼路がある。
最短のものはオーバンへ向かう、ドゥルドゥ川に架かる古い橋である。しかし、グラン=ヴァブル村の小集落ヴァンズルと北西のフィジャックを通過する道程が主流であった。
13世紀、コンクのサント=フォワ修道院は強力になり、その経済力は頂点に達した。しかし14世紀から15世紀に衰え、1424年12月22日、ついに世俗化された。

フランス革命後に廃れていたコンクは、1837年、当時歴史文化財の検査官でもあったプロスペル・メリメによって再発見された。
宝物や教会の正門は住民の手で完全な状態で保存されていたが、教会には幾らかの補強が必要だった。

1873年、ロデーズ司教ブールは、プレモントレ修道会の再建者エドモン・ブルボンによって、聖フォワ信仰と巡礼地コンクの復活を依頼された。
1873年6月21日から、白い修道服をまとった6人の修道士たちが、ロデーズ司教の命令により厳かにかつての修道院に居住するようになった。
フランス第三共和政初期、コンクの住民たちは、既に失われた信仰の記憶が甦るのを目撃したのだった。

1911年、中世以来の宝物を保管する博物館が建設された。聖フォワの聖遺物は1875年に取り戻され、1878年から巡礼が敬意を表しに現れた。

サント=フォワ修道院と教会
この壮大なロマネスク様式の建物は、11世紀から12世紀にかけて建てられた。ファサード両側の2本の塔は、19世紀のものである。
ティンパヌムは特筆されるものである。修道院と教会には、カロリング朝美術の独特の美が保存されている。
内部はピエール・スーラージュによるステンドグラスで飾られている。

サント・フォアの名前を頂いた教会は巡礼路のあちこちに建てられている。
というのは、彼女こそそれらの巡礼路の「守護聖人」だからである。
この地についてはこのサイトに詳しい。アクセスされたい。

図版②に掲げた「半円形壁面」について少し触れておきたい。
「半円」という意味は神の「宇宙」であるから、いわば「円蓋」(ドーム)に対応するイメージであろう。
東方ビザンチンに多い「集中方式」(上から見て円が大きな円蓋を柱にして集まること)を水平軸から眺める場合、半円は砂漠をベースとした天空で、星をちりばめた形となる。
したがってそれは宇宙の像であり、神の支配する空間と見るのも不思議ではない。
そこに多様な主題が刻まれたり、描かれたりするのである。
ここコンクのサント・フォアの場合は「最後の審判」を主題とする。言うまでもなく「ロマネスク」期にはもっとも多いものである。
「世の終わり」が近づきつつあるという人々の心性の表現である。
中心に神が位置し、上部には天使が舞う。挙げた右手の側には「善き人々」が聖母マリアの先導にしたがって神を目指している。
その中にこの教会の設立に力があったというシャルルマーニュ大帝の姿も見える。
その反対側は地獄であり、いましめを受け、拷問にあっている罪人たちの中心には悪魔(サタン)が居る。
その左前には「淫乱」の罪を犯した男女が立っている。
一説によればオーヴェルニュ地方のクレルモン・フェランにあるノートル・ダム・デュ・ポール教会の柱頭の一つに刻まれた人名、ロベールなる職人の組合が、
この壁面を刻んだという。
ピレネー山脈に近いラングドック地方の流麗な様式と異なり、ずんぐりとして、しかもどこか童画的な印象である。
先に書いた「このサイト」には詳しい説明が載っているので参照されたい。
--------------------------------------------------------------------------
蛇足① 聖人・聖女たちは、名前の頭に「聖」をつけて呼ばれるが、男性の場合はフランス語などのラテン語系の場合には「Saint」であり、語尾の「t」は発音されないので「サン」だが、
女性名詞の場合には「Sainte」となり「サント」と発音される。今回の、この教会は聖女なので「Sainte-Foy」サント・フォアと発音される。
ただ、上にも書かれている「サンチアゴ・デ・コンポステーラ」Santiago de Compostela の場合は「男性」だが、名前の頭に母音があり、
本来なら無音の「Saint」の語尾の「t」と頭の母音とが「リエゾン」となってサンティアゴと発音されていいるのである。
ヤコブの名前はスペイン語では「iago」というので、聖ヤコブ=Santiago となる次第である。
蛇足② 上の記事の中で、聖フォアの表記が、「サント・フォア」や「サント=フォア」となっているのは、表記の仕方の違いで、間違いではないので念のため。
これらの単語は、本来一まとめのもので、それを日本語表記にする場合に「・」「=」を使ったりするからである。
多くの場合には「・」で済まされることが多いが、厳密に区別する人は「=」を使用するので、こんなことになる。
余計なことを書いてしまったが、ご了解をお願いしたい。


copyright © 2017 Powered By FC2ブログ allrights reserved.