K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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縷紅草みれば過ぎ来し半生にからむ情の傷つきやすき・・・・木村草弥
rukousou0111ルコウソウ
  
     縷紅草(るこうさう)みれば過ぎ来し半生に
          からむ情(こころ)の傷つきやすき・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、
この歌の前に

      父母ありし日々にからめる縷紅草ひともと残る崩(くえ)垣の辺に

という歌が載っている。
2003年10月に開いてもらった私の出版記念会で、光本恵子氏が、この歌について喋っていただいた。
これについてはリンクにしたWeb上の『嬬恋』の「出版記念会」のところで、お読みいただける。
その時、光本さんは「ルコウソウ」が消えかかっている草、のように仰言ったが、今回、これを入力するに当ってネットを検索してみたら、
ルコウソウというのは熱帯アメリカの原産で、今ではさまざまの改良種が出て園芸店でも蔓草として人気らしい、という。
写真②も、そういう色とりどりの改良種という。

rukonsouルコウソウとりどり

ルコウソウは、ひるがお科の一年草で、日本では6月から夏から秋にかけて次々に咲きつぐ。
本来は五角形の真紅または白の筒型の花であるが、丸葉ルコウソウというのがあり、それと本来のルコウソウとの交配で「はごろもルコウソウ」という新しい品種が、
アメリカのオハイオ州で作られたという。
この花は大げさな花ではなく、また今どきの住宅事情からもフェンスにからませたりして丁度時代に合うのだろう。
写真③以下、いろいろの色のルコウソウの写真を載せておく。

rukousouルコウソウ白

marubarukousouルコウソウ

掲出した私の歌2首は、光本さんが仰言ってくださったように(消えかかっている花、というのは別にして)私の心のうちをルコウソウにからめて表現したもので、
的確に言い当てて下さったと感謝している。
以下、俳句に詠まれた作品を引いておく。

 縷紅草のびては過去にこだはらず・・・・・・・・中村秋一

 縷紅草垣にはづれて吹かれ居り・・・・・・・・津田清子

 縷紅草のくれなゐともる昼の闇・・・・・・・・小金井欽二

 軽みとは哀しみのこと縷紅草・・・・・・・・瀧春一

 垣越すと揃ふ縷紅の花の向き・・・・・・・・堀葦男

 羚羊のごとき少女や縷紅草・・・・・・・・古賀まり子

 雀らの影ちらちらと縷紅草・・・・・・・・村沢夏風

 草市のをとこの提げる縷紅草・・・・・・・・吉田鴻二

 縷紅草文(あや)目にからむ情の罠・・・・・・・・田口一穂

稲刈つて飛鳥の道のさびしさよ・・・・日野草城
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      稲刈つて飛鳥の道のさびしさよ・・・・・・・・・・・・・日野草城

この頃は米の栽培も超早場米、早場米などが出てきて8月になると、もう新米が市場に出回るようになってしまった。
九州に行くと、たとえば宮崎県などではコシヒカリの品種ものの稲刈りが8月下旬には、みな済んでしまって一面稲を刈り取った後の風景が見られる。
日本の風土には「米作り」が一番合っているようで、農家の年間の稲作従事日数は、あらゆる作物の中で最短だという。
だから出来れば、みな米を作りたいのだが、米の消費量の減退などで米余りの状態で国として「減反」政策が取られている。
おそらく、殆どの人が稲の花の咲くのは見たことがないだろうと思うので、写真②に掲出しておく。
この写真から更に完全開花の状態に進む。
sum2稲の花
「陸稲」(おかぼ)という畑で栽培する米もあるが、おいしくないので、米といえば「水稲」のことをいう。
名前の通り水管理の出来る水田で栽培する。写真にはないが水を張った田に稲の苗を「田植え」する。
今では「田植え機」でやるのが普通。
米作りには、田に水を張ったり、水を遮断して田を干上がらせたり、と水の管理が大切で、「穂水」と言って出穂期には水をたっぷり張ることが必要である。
水管理も今は地下水をポンプで汲み上げたりするので楽である。

photo-2コンバイン
地域によって農家の栽培面積に違いがあるので一概には言えないが中程度の規模になれば写真③のようなコンバインを使用する。

もちろん「手刈り」にこだわる小規模の人もあるだろう。棚田などでは手刈りしか出来ない場合もある。写真④に「棚田」の稲刈り風景を紹介しておく。
47棚田

ついでに言うと、この頃では「棚田」の「景観」としての保存を主義としてボランティアで推進してゆこうという運動があり、一定の成果を収めているようだが、
棚田は急斜面に石垣を積んで狭い田をいくつも作るという重労働であって、採算面では全く割りに合わない農法である。
そういうボランティアの人々の意思と情熱がいつまで保てるかが「棚田」の運命を決めてしまうであろう。
こういう棚田では、ボランティアも年間を通じて労働に従事できるわけではないから、田植えとか稲刈りのシーズンに顔を出すくらいで、
後の年間の管理は地元の農家にお願いし、その代りに年間なにがしかのお金を拠出して経費に当てるという方法が採られている。
写真④の棚田の場合も刈り取りには手押しの「バインダー」という刈り取り機が使われている。
写真では、まだ刈っていない稲がS状に残っているが、周囲から、ぐるぐる廻るように刈ってきて、真ん中の部分がS状に残ったもので、
人がこちら向きに立っているのが、バインダーという刈り取り機を押して、こちら向きに刈ってくるのである。
ひと束分になると、麻紐で自動的に結束して、脇にバサッと投げる。結束された束が田の全面に見えている。そういう風景である。
写真④は、畦に彼岸花が赤く咲いているのも見てとれる。

rice19稲
写真⑤には、田に生えている稲の株をご覧に入れる。
この株も田植えをしたときは1~2本に過ぎなかったのが「分蘗(ぶんけつ)」して20~30本になるのである。
この辺のところに「物つくり」の面白さがあるのだが、現代人には、言ってもムダか。

以下に俳句に詠まれたものを紹介するが大半は今では農作業として見られないものである。
腰まで浸かるような湿田での稲刈りも今では灌漑施設が整備されて水管理が自由に出来るようになり、風景としても見られない。
句を読まれる前に一言申し上げておく。

 待ちかねて雁の下りたる刈田かな・・・・・・・・小林一茶

 順礼や稲刈るわざを見て過る・・・・・・・・正岡子規

 婆ひとり稲穂に沈む鎌の音・・・・・・・・石川桂郎
 
 水浸く稲陰(ほと)まで浸し農婦刈る・・・・・・・・沢木欣一

 稲を刈る夜はしらたまの女体にて・・・・・・・・平畑静塔

 太陽に泥手あげ稲刈り進む・・・・・・・・落合水尾

 孕れば腰立て勝ちに稲を刈る・・・・・・・・福田紀伊

 田より夕日を引き剥すごと稲を刈る・・・・・・・・細谷源二

 稲刈の海に出るまで雄物川・・・・・・・・森澄雄

 疲れ来て田舟にすがる深田刈・・・・・・・・吉良蘇月

 稲架の上に乳房ならびに故郷の山・・・・・・・・富安風生

 稲架の間に灯台ともる能登の果・・・・・・・・水原秋桜子

 稲架が立つ因幡の赫き土にして・・・・・・・・辻岡紀川

 架稲も橘寺も暮れにけり・・・・・・・・日野草城
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掲出句と引用の最後の句は共に草城のもので、おそらく同じ吟行の時期の作品であろうと思われる。




律儀にも今年も咲ける曼珠沙華一途なることふとうとましき・・・・木村草弥
aaoohiganb3ヒガンバナ大判

      律儀にも今年も咲ける曼珠沙華
          一途(いちづ)なることふとうとましき・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載せたものである。ただし自選の中には採っていないので、Web上ではご覧いただけない。
この花は「ひがんばな」とも言うが、秋のお彼岸の頃に咲き出すから、この名前がある。ヒガンバナ科の多年生草本。
地下に鱗茎があって、秋に花軸を伸ばし、その上に赤い花をいくつか輪状に開く。花弁が6片で反っており、雄しべ、雌しべが突き出している。
人によっては妖艶ということもあろう。葉は花が終ったあと、初冬の頃に線状に生えて、春には枯れる。

361白花ひがんばな
写真②は白花である。東京では皇居の堀の土手に密集して咲いているのを見たことがある。

写真③は、その冬に生える葉の様子である。
030118higan01ヒガンバナ冬

根に毒を持つ有毒植物であり、墓地の辺りに咲いたりするので、忌まわしいという人もある。
「曼珠沙華」というのは「法華経」から出た言葉で赤いという意味らしい。
古来、俳句や歌謡曲などにも、よく登場する花である。
蕪村の句に

   まんじゆさげ蘭に類ひて狐啼く

というのがあるが、そういうと、この花は蘭に似ていなくはない。鋭い観察である。
以下、歳時記からヒガンバナの句を引く。

 葬人の歯あらはに哭くや曼珠沙華・・・・・・・・飯田蛇笏

 曼珠沙華消えたる茎のならびけり・・・・・・・・後藤夜半

 考へて疲るるばかり曼珠沙華・・・・・・・・星野立子

 論理消え芸いま恐はし曼珠沙華・・・・・・・・池内友次郎

 つきぬけて天上の紺曼珠沙華・・・・・・・・山口誓子

 曼珠沙華南河内の明るさよ・・・・・・・・日野草城

 曼珠沙華落暉も蘂をひろげけり・・・・・・・・中村草田男

 四十路さながら雲多き午後曼珠沙華・・・・・・・・中村草田男

 まんじゆさげ暮れてそのさきもう見えぬ・・・・・・・・大野林火

 曼珠沙華抱くほどとれど母恋し・・・・・・・・中村汀女

 彼岸花鎮守の森の昏きより・・・・・・・・中川宋淵

 寂光といふあらば見せよ曼珠沙華・・・・・・・・細見綾子

 曼珠沙華逃るるごとく野の列車・・・・・・・・角川源義

 西国の畦曼珠沙華曼珠沙華・・・・・・・・森澄雄

 曼珠沙華忘れゐるとも野に赤し・・・・・・・・野沢節子

 曼珠沙華わが去りしあと消ゆるべし・・・・・・・・大野林火

 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子・・・・・・・・金子兜太

 五欲とも五衰とも見え曼珠沙華・・・・・・・・鷹羽狩行




ヴェズレー「サント・マドレーヌ聖堂」・・・・・木村草弥
20121206131023tpBAヴェズレーの丘と教会
 ↑ ヴェズレーの丘と教会
vezelay30ヴェズレー サント・マドレーヌ聖堂
↑ ヴェズレーの丘 サント・マドレーヌ聖堂
vezelay04サント・マドレーヌ聖堂ナルテックスの「聖霊降臨」1125年頃
 ↑ ナルテックスの「聖霊降臨」1125年頃
vezelay07柱頭彫刻①
 ↑ 柱頭彫刻①

──巡礼の旅──(19)再掲載・初出2013/09/19

     ヴェズレー「サント・マドレーヌ聖堂」・・・・・・・・・・・木村草弥

聖マドレーヌというのは「マグダラのマリア」のことである。
かつては娼婦であり、キリストの教えにより悔悛し、復活したキリストを最初に見た、という彼女の遺骨を納めているという。真偽のほどは置いておく。
人々がそれを信じたという事実が肝要なことなのである。
ここはスペイン西北端サンチアゴ・デ・コンポステーラへ続く大巡礼路の出発点のひとつであり、長い参道が修道院まで続く。
1146年には聖ベルナルドゥスが第二回十字軍を説いた場所でもある。西正面の外観は十九世紀の作なので大したものではない。

サント=マドレーヌ大聖堂 (Basilique Sainte-Madelaine) は、フランスの町ヴェズレーの中心的な丘の上にあるバシリカ式教会堂。
この教会と丘は、1979年にユネスコの世界遺産に登録された(登録名は「ヴェズレーの教会と丘」)。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の始点のひとつという歴史的重要性もさることながら、大聖堂のティンパヌムはロマネスク彫刻の傑作として知られている。

Wikipediaに載る記事を引いておく。 ↓
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861年にヴェズレーの丘の上にベネディクト会士たちが建立した。
その際に、修道士の一人がマグダラのマリア(サント=マドレーヌ)の聖遺物を持ち帰るためにプロヴァンス地方のサン=マクシマンに派遣された。

878年には、この初期カロリング様式の教会は、ローマ教皇ヨハネス8世によって、現存する地下納骨堂ともどもマグダラのマリアに捧げられた。
ジョフロワ修道院長 (l'abbé Geoffroy) はマグダラのマリアの聖遺物を公開し、それが様々な奇跡を起こしたとされる。
これによって、巡礼者が押し寄せ、ひいてはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路に組み込まれることになったのである。

こうした評価は村を都市へと発展させる原動力となった。
巡礼者たちは引きもきらず、その中にはブルゴーニュ公ユーグ2世(1084年)や、イングランド王リチャード1世(1190年に第3回十字軍遠征に先立って)、フランス王ルイ9世(1248年)なども含まれることとなる。

アルトー修道院長 (l'abbé Artaud) は、1096年から1104年に内陣も翼廊も新築した。
ただし、この新築にかかる費用の負担に反発した住民たちが暴動を起こし(1106年)、この時にアルトーは殺された。
なお、この時点では身廊はカロリング様式のままだったが、1120年7月25日に1127人の犠牲者を出した大火災に見舞われたことで、身廊も建て直された(1138年に完成)。
なお、今に残る正面扉上の美しいティンパヌムが彫られたのもこの頃のことである(1125年 - 1130年)。
1146年の復活祭の日(3月31日)に、クレルヴォーのベルナルドゥスは、丘の北斜面にて第二次十字軍を派遣すべきであると説いた。また、1166年にはカンタベリー大司教トマス・ベケットが、この教会で、イングランド王ヘンリー2世の破門を宣告した。
教会の人気は、1279年にヴェズレーへ持ち去られたはずの聖遺物と称するものがサン=マクシマンで発見されたことで、凋落の一途をたどった。
この教会は1162年にはクリュニー修道院から分離し、オータン司教からフランス王の監督下に移っていたが、1217年にはフランシスコ会に引き取られ、1537年に還俗した。
1569年にはユグノーによる略奪を受けた。その後、1790年にはフランス革命の中で小教区の一教会となった。この頃、教会参事会室だけは良好な状態で保たれた(現在も付属のチャペルとして残存している)ものの、ほかは建材調達のための石切り場と化し、自慢のティンパヌムも酷い有様だった。1819年にはサン=ミシェル塔に落雷があった。
こうした度重なる損壊に対し、プロスペル・メリメの発案に従って、ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュックに再建が委ねられた(1840年)。
この再建工事は1876年に完成し、1912年に再び巡礼の拠点となった。
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一連の教会群は、ヴェズレーのなだらかな丘の上に建っている。
vezelay26ホタテガイ
 ↑ だらだら坂の舗道に埋め込まれた巡礼路を示すホタテガイ

サント・マドレーヌ聖堂のもう一つの見所は、100点にもおよぶ身廊(正面から内陣へと向かう東西に細長い空間)と側廊(身廊の左右にある通路)を仕切る柱にある柱頭彫刻である。
建築と調和したロマネスク彫刻はこの時代の美術を代表するもので、各地の文化的素地の多様性、人々の想像力の豊かさ、深い宗教精神を伝えているという。
柱頭彫刻はギリシャ時代からあったが、ギリシャのものは主に植物的な文様であり、物語的な柱頭彫刻はロマネスク芸術から始まったそうである。
一、二引いて解説してみよう。
vezelay09エジプト人を殺すモーゼ
 ↑ エジプト人を殺すモーゼ
vezelay10ダビデとゴリアテ
 ↑ ダビデとゴリアテ

ダビデは植物の花弁にのっかかって切り込んでいる。これはダビデが小さい子供であることを強調している。
ダビデが少年の頃に巨人戦士ゴリアテを倒す聖書物語は、信仰の厚いダビデの勇気と、神を嘲って武力に頼る暴虐なゴリアテの決闘の結末から、
信仰の大切さを学ぶ教訓として語られる、欧米人にとってなじみの深い話だそうである。

800px-Vezelay_Tympan12サント・マドレーヌ教会ティンバヌム
↑ 「洗礼者志願室」入口上部のティンバヌム壁画
この壁画の主題は「使徒に布教の命令を伝えるキリスト」ということだが、中心にほぼ両手を広げたキリストが居て、その手の先から神の啓示である光線が出、それらを畏怖の念で受け取る使徒たちが取り巻く。
それらの使徒の下段と外側の半円には「地上」のローマ人、ユダヤ人、アラブ人、インド人、ギリシャ人、アルメニア人などが刻まれ、これらはすべて神の宇宙にある人間であり、キリスト教の「普遍性」を意味するという。
さらに、半円形壁画の外側は十二か月の仕事を具体的に描いている。
一月は農夫がパンを切り、二月は魚を食べ、三月は葡萄の木を手入れし、四月は木の芽で山羊を育てる。・・・・・
九月は麦を櫃に入れ、十月は葡萄を収穫し、十一月は豚を殺し、十二月は男が肩に老婆を背負う。
この最後は「過ぎてゆく年月」を象徴する。したがって、これらは自然の一年の円環的構造と人間との関わりを示すとされる。
この自然の時間を基底としながらも、直線的なキリスト教的時間、すなわち前世の原罪、現世の贖罪、来世の救済が展開される。

昔は字を読めない人が大半であり、しかも時代は中世であり、終末思想が強かった時代であり、キリストに救済を求める気分が支配していた。
だから信者や修道士を脅し、戒めるような主題が柱頭に並んでいる。
写真には一部しか出せなかったことも了承されたい。




比喩のやうに宙のかなたから飛んで来る君のEメール詩句の破片が・・・・木村草弥
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     比喩のやうに宙(そら)のかなたから飛んで来る
       君のEメール詩句の破片が・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。この歌だけ単独で取り出すと何のことやら判らないが、「ドメイン」というインターネットを詠んだ一連8首の中のものである。

この一連の最初の歌は

  野兎の耳がひらひらしてゐるね<草原の風に吹かれてるんだ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

というものである。
これは「詩」である。
この詩句のあとを受けて、掲出した歌がある、のである。
「君のEメール」というところに、インターネットで発信された詩句であることの存在証明をしていると言えるだろう。
「Eメール」という言葉を修飾するものとして「比喩のやうに宙(そら)のかなたから飛んで来る」というフレーズを、私は選択した。
「比喩」という語句を辞書で引くと①「たとえること」②「類似したものを使って印象深く説明する表現法」というようなことが書いてある。これは辞書によって文句に違いはあるが、ほぼ大同小異といえよう。
「詩」というものは、極論すると「比喩」表現に尽きる、と言える。
その「詩」が成功するかどうかは、その「比喩」がぴったりと収まって、読者に十全に受け入れられるかどうか、によって決まる。

ここに挙げた歌が成功しているかどうか、私には何とも言いようがない。いかがだろうか。


ほつこりとはぜてめでたしふかし藷・・・・富安風生
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     ほつこりとはぜてめでたしふかし藷(いも)・・・・・・・・・・・・・・・富安風生

昔、私の子供だった頃はこれからの時期のおやつというと必ず「ふかし藷」だった。
お腹をすかせて学校から帰ると、台所には、ほっかりとふかしたサツマイモが湯気を立てて待っているのだった。
私たちの辺りで栽培していた「赤いも」は皮膚は赤いが中身は白くて、甘くて、おいしい品種だった。
掲出の風生の句の風景そっくりだった。

サツマイモ──甘藷も原産地は中央アメリカだという。多年生の蔓草で、寛永年間に薩摩の前田利右衛門が琉球から持ち帰り、青木昆陽が享保年間に関東地方へ普及させた。
サツマイモというのは、渡来の順路を知らせる命名である。
蕃藷、唐藷、琉球藷、薩摩芋という各地の呼び名は、この藷の渡来の経路を知らせるもので「薩摩」では「琉球」藷と呼んでいた。
サツマイモも青木昆陽の普及により「救荒作物」として関東以西に広がり、飢饉から人々を救ったのである。
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都会人でも子供の頃に田舎に「イモ狩り」に出かけた記憶のある人があろうが、どういう栽培をするのか知らない人が大半だろう。
サツマイモは寒さに弱いので、昔は秋に収穫した種芋を地中に貯蔵して冬を越した。今は定温倉庫で20度くらいで保管する。
春になると、それを出して苗床に定植し保温しながら発芽させて育て、初夏になると伸びてきた蔓を長さ25~30センチに切り取り、畑に挿して定植する。
どんどん蔓が延びて畑一面を覆うようになり、根に新しい芋が出来る。

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写真③がサツマイモの葉である。先に言ったように、この蔓の茎を葉っぱもつけたまま、切り取って土に挿すのである。
苗は土に横たえる状態で土に植える。その挿した地中の部分から芋が生育するのである。種を蒔くというようなことはしない。
第一、本州ではサツマイモの花が咲くことは、ないのである。
植えた苗が生育すると畑一面を覆うので雑草などは余り生えないから、管理はどちらかというと楽である。
戦争中は食べるものがなくて、このサツマイモの蔓が貴重品として、よく食べられた。
写真④がサツマイモ畑の全体の様子である。
satsuma-1サツマイモ畑

サツマイモにもさまざまな品種があり、真っ赤なもの、ピンクのもの、白いものなど。
今どきはサツマイモというと「焼き芋」として一般的に知られていると思うがビタミンCなども豊富であり、
また食物繊維が多いのでダイエット食としても適しているという。
最近ではサツマイモの生産地は徳島県(鳴門金時という焼き芋専用種を開発した)、鹿児島県(昔はアルコール原料にサツマイモを広く栽培していたが、
醸造用アルコールの需要の衰退とともに減り、今は鹿児島茶産地として静岡県に次ぐ茶の大産地となった。
今は焼酎ブームとあって、芋焼酎の原料として広く栽培されている)が知られる。
1407im8白芋
↑ 写真⑤は芋焼酎の原料の「白芋」である。
白芋は昔からあったが、甘みの少ない、生食した場合には、おいしくない芋であった。
この芋焼酎原料専用の白芋も、おそらく甘みのない、澱粉質のみの品種だろう。なまじ甘みがあると製造工程で、うまくないのだろう。
澱粉だけだと酵素によって多くがアルコールに転換できるのであろうか。芋の名前も「サツマ・・・・」とついている。
今しもアルコール飲料の中で、空前の「しょうちゅう」ブームである。私の知っている人でも老齢者は皆しょうちゅうである。
年取ると糖尿病に罹る人が多く、さりとてアルコールは飲みたいということで、糖類を含んでいないから、焼酎が持て囃されるのであろう。
私は糖尿病っけは全くないので、ワイン、ビール、日本酒など「味」のある酒を少量たしなんでいるので、焼酎は旨いとは思わない。

以下、サツマイモ=甘藷を詠んだ句を挙げて終る。

 君去なば食はむ藷君に見られしや・・・・・・・・石田波郷

 藷たべてゐる子に何が好きかと問ふ・・・・・・・・京極杞陽

 甘藷穴より突き出て赤き農夫の首・・・・・・・・野沢節子

 甘藷掘りを牛はかなしき瞳もて待つ・・・・・・・・才記翔子

 八方へ逃げゆく藷を掘りあぐる・・・・・・・・神生彩史

 藷掘られ土と無縁のごと乾く・・・・・・・・津田清子

 新甘藷を一本置けり童子仏・・・・・・・・中山純子

 生きて会ひぬ彼のリュックも甘藷の形(な)り・・・・・・・・原田種茅

 甘藷穴のひとつは満ちて掃かれけり・・・・・・・・遠藤正年

 やはらかき土につまづく藷集め・・・・・・・・市村究一郎




几帳面な玉蜀黍だと思はないか・・・・櫂未知子
031deb50トウモロコシ畑

     几帳面な玉蜀黍だと思はないか・・・・・・・・・・・・・・・櫂未知子

トウモロコシは高さ2メートル程に伸び、夏の終りに茎の上に芒の穂のような雄花を咲かせ、葉腋に雌花穂をつける。
雌しべに花粉がつくと稔って、雌しべ穂は茶褐色の毛のように苞の先端に残る。
『和漢三才図会』には「蛮舶将来す。よつて南蛮黍と称す。その形状、上に説くところははなはだ詳らかなり。ただし、苞の上に鬚を出だす。赤黒色にして長さ四五寸、刻煙草に似たり。その子(み)、八月黄熟す」と記述しており、特徴をよく捉えている。
夏の終りの時期の北海道の名物で、実を焼いて露店などで売る秋の味覚の風物詩である。
写真①は畑の状態である。原産地はアメリカ大陸である。インカの民は、これを主要な食料源としている。
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写真③は畑の状態だが、実の鬚が上端からはみ出ているのが見られるだろう。
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この頃では実を採取するのが目的でなく、茎と葉を家畜の飼料として刈り込む品種のものもあるようだ。これを「デントコーン」という。
北海道に行くと、よく見られる。
家畜を養うには莫大な量の飼料が必要で、トウモロコシのほかに麦なども配合飼料として使われる。
日本は家畜用の配合飼料の完全な輸入国で、殆どをアメリカに依存している。
考えてみるとアメリカ大陸由来の植物が多い。ジャガイモ、トマトなどもアメリカ原産である。
昔はヨーロッパでは冷害による飢饉に瀕していたが、救荒作物としてのジャガイモの到来によって救われた、という。

掲出の櫂未知子の句は、きっちりと並んだ実の粒の様子を見事に捉えていて秀逸である。
以下、トウモロコシを詠んだ句を引いて終わりにする。

 もろこしを焼くひたすらになりてゐし・・・・・・・・中村汀女

 唐黍の影を横たふ舟路かな・・・・・・・・水原秋桜子

 唐黍の葉も横雲も吹き流れ・・・・・・・・富安風生

 唐黍やほどろと枯るる日のにほひ・・・・・・・・芥川龍之介

 もろこしを焼いて女房等おめえ、おら・・・・・・・・富安風生

 貧農の軒たうもろこし石の硬さ・・・・・・・・西東三鬼

 唐黍焼く母子わが亡き後の如し・・・・・・・・石田波郷

 海峡を焦がしとうもろこしを焼く・・・・・・・・三谷昭

 唐もろこし焼く火をあふり祭の夜・・・・・・・・菖蒲あや

 充実せる玉蜀黍を切に焼く・・・・・・・・本田青棗

 中腰の唐黍焼きに昔あり・・・・・・・・石川桂郎

 雷の遠く去りたる唐黍をもぐ・・・・・・・・横山丁々

 唐黍と学生帽と一つ釘・・・・・・・・上野鴻城

 


「インド文学散歩」・・・・木村草弥
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↑ カジュラホ──ミトゥーナ交合図群像

──エッセイ──初出・同人誌「鬼市」10号1999年6月掲載──
    
     「インド文学散歩」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

1999年の正月休みを利用して北インドを9日間旅した。もちろん短期間のことであり、
テーマのある旅ではなく単なるツーリストに過ぎないものであるが、以前から書物を通じ
て知っていたことを自分の目で確かめられてよかったと思っている。
少しインド文学について書いてみたい。
1913年にノーベル文学賞を受けた、ベンガル(東インド)の詩人タゴールの定型詩集『ギ
ータンジャリ』(歌の捧げ物、の意)の冒頭の詩は

わが頭(かうべ) 垂れさせたまへ 君がみ足の 塵のもと (渡辺照宏訳)

で始まる。この「君」と親しみと敬意をこめて呼びかけられるのは他ならぬ神である。
この神とは、古代インドの神秘的な教説ウパニシャット、中世インドのヴィシュヌ神信仰
に根ざす、と言われている。
この詩は、叙事詩ではない。分類すれば抒情詩と言うべきだろう。タゴールは神の姿を描
くのに、そのような伝統の継承にとどまらない。
彼は「このバアラタ(インドのこと。インドという命名は西欧人がつけたもので対外的に
はリパブリック・オブ・インディアのように使用されているが、今でもインドの正式名称
は、このバーラタとされる)
の人多(さわ)の海の岸辺へアアリア人もアナアリア人もドラ
ビタ人も------一つとなりぬ」(渡辺訳)と、インドの諸民族の融合のさまを確かめながら、
人はすなわち神だ、としている。そしてまた、インドを呪縛している身分制度のさまを
「痛ましわが国 人が人を侮るゆゑに汝侮らるべし 衆人(もろびと)とともに人並の扱ひ
を人々に拒み」と見据えて、近代インドの現実に強い批判を加えている。
だが現代のインドの現実は、身分カーストの上に職業カーストが二重に存在して、がんじ
がらめとなっている。このカーストの下には更に、アンタッチャブルと呼称される不可触
賎民も存在するのである。貧富の差は大きく、75%の人が住む農村は貧しい。農村と言
わず都市と言わず巷には人口9億と称する人間があふれている。
筆が脱線したが、タゴールの故郷シャーンティ・ニケータンはカルカッタの西へ列車で
4時間の地だが、この地名は「静寂の地」「平和郷」という意味らしい。インド人は宗教的
なめでたい時に「シャンティヒ」を三度唱えるという。この地はタゴールの父デーヴェン
ドラナートが1863年に、真理探究のためにアーシュラム(道場)を開設したのがはじまりで、
タゴールが小さな学校を作り、ノ-ベル賞の賞金で学校を拡充させた。この学校は1921年
にヴィシュヴァ・バーラティ大学に昇格、41年にはインドの五つの国立大学の一つに
なった。
すべての存在の中に神を認めるというタゴールの「汎神論」は自然愛、人類愛の思想と
一体であるとされる。日印の文化交流に貢献した岡倉天心とタゴールとの親交はよく
知られている。
また岡倉天心(覚三)と詩人プリヤンバダ・デーヴィー女史との「愛の手紙」は『宝石の声
なる人に』(大岡信訳)という本になっている。これはタゴールとの交遊の派生によるもの
だが、この「宝石の声なる人に」という呼びかけは1913年8月21日付の覚三の手紙のは
じめのイントロである。そして、この手紙が最後のものである。
この本が出版されたのは1982年10月平凡社刊であり、フランス装であるために本の
ページをペーパーナイフで切りながら読んだのを思い出す。
詩の一節は

いつ私に初めて関心を持ったのですか。カルカッタを出発した後、
それとも---------             (デーヴィー)
私は終日、浜辺に坐し、逆巻く海を見つめています-------------------
いつの日か、海霧の中から、あなたが立ち上がるかも知れないと
思いながら。                 (覚三)

タゴールの「汎神論」というのは何も彼一人のものではないことを、インドを旅すると、
実感させられる。
例えば、ヴィシュヌプールという町がある。これは先にも触れたヴィシュヌ神の住む町と
いう意味である。「プール」と語尾につくのはヒンズー教に由来する地名である。ほかに
「バード」と語尾につく地名はイスラム教に由来することを示す。(例えばハイデラバード
など)このことは旅の全行程を共にしたインド人ガイドのメーラ君に聞いた。
ヒンズー教は本質的に多神教である。神様の数は枚挙にいとまがないが、シヴァとヴィシ
ュヌとブラフマーが古来より三大神とされる。
シヴァ神は荒ぶる神である。しかし、恵み深い神でもあり、また踊りの名手で「ナタ・ラ
ージャ」と呼ばれ舞踊を志す人々は、この踊るシヴァ神を信仰する。
ヴィシュヌは太陽の光を神格化したものとされ、十あるいは二十四の化身を表すに至る。
仏教の開祖ゴーダマ・ブッダもその一つとされる。ヴィシュヌ信仰がインド全体に普及し
たのは、この化身の思想による。
ヒンズー教のバイブル『パガヴァット・ギーター』には、「道徳が衰え不道徳が栄えるた
びに余は自身を創出する」と説かれる。この考えによりヴィシュヌはさまざまな姿をとっ
て世の人々を救うのである。
インドを旅するとヒンズー教寺院の薄暗がりに、ぬっくと立つリンガに出会う。さらに目
をこらせば、リンガを包む丸いヨーニがある。
「リンガ」(またはリンガム)も「ヨーニ」(またはヨニ)も共にサンスクリット語でそ
れぞれ「男根」「女陰」を意味する。リンガはシヴァ神をシンボライズしたものであり、
すべての生きとし生くるものは男性原理と女性原理の合一によって万物の生成を見るから
である。
因みに私は、サンスクリット語というのは中世の言語で、現在は死語だと思っていたが、
西インドのプーナ大学で博士号を得られた阿部慈園氏の本を読むと、インド全土でサンス
クリット語を自由に会話、読み書き出来る人が五千人はいるという。1990年代の現在
の話である。だから同大学のサンスクリット学科では集会や行事はすべてサンスクリット
語で挙行されるという。ヨーロッパで公式行事の時、例えばイギリス議会の開会式でエリ
ザベス女王がラテン語で一席語るというよりも更に一歩実用性は深いというべきである。
この文章はインド文学を語るがテーマだから、ここで昨年亡くなった「地中海」代表の香
川進の歌集『印度の門』に収録の歌に触れる。

*革命は観念ならねばまだかれら貧し軒ばを蛍飛びゆく
*乾糞(ふん)の火があぐるけむりを透過して月萌ゆ氷の冷たさもちて
*しかばねは物質、川にうち沈むる時いたるべく祭らるるしじま
*この国に乞食なき日の必ず来ん聖ガンジーも死にて久しき

などである。彼は旅行者ではなく商社の駐在員であつたが、一首目三首目などは実景をと
らえて心象に迫っている。四首目の歌は楽観的過ぎるしガンジー死後五十年を経ても事態
は基本的に変わっていない。
また「近代化」というのがどういう意味を持つのか。「発展」ということが良いのか悪い
のか、などインドの現実は様々のことを突き付ける。
私の歌の中に出てくる「ミトゥーナ」というのは直訳すると「性交する人」という意味で
ある。それは先に書いたようにヒンズー教に由来するが、そんな、すべてを飲み込んだ教義
と芸術作品と現実生活との、まさに「混沌」と表現すべきものがインドの現実であることを
実感させられるのである。そこにはキリスト教にいうような「原罪」というようなものは
存在しない。
書店や高級ホテルのショップでは英文のカラー刷りの『カーマ・スートラ』や、インド古
来の表現様式である「細密画」のうちで日本の浮世絵の「春画」にあたる画集の美しい本
が売られている。性風俗の表現についてもインドには「禁忌」(タブー)は存在しないよ
うだ。これらも東アジアの、特に漢文化の「儒教」思想に侵されていない、したたかな文
化の「雑草」性をかいま見させてくれる。 (完)

この本の別項に私の歌が 載っているので下記に引いておく。
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     国原-----インド・日本、冬から春へ-----・・・・・・・・・・木村草弥

天霧らひ山たたなはる峡(かひ)村は畳々とつらねて冬の棚田の                      

ふたたびは逢はぬ人かも胞衣(えな)塚は石重ねたり 和讃こごゑせよ                   

叙事抒情これを創りしものを讃(ほ)むマハーバーラタ、ギーダ・ゴーヴィンダ
                              
男根(リンガム)に花輪を捧げ燭を供ふるサリーの女よ<道順は彼女に訊く>
                             
AD(アノ・ドミニ) その時代区分などしゃらくせぇBC二千年モエンジョ・ダーロだ
                              
人はみな自が守り神を持つと言ひ運転手はバスに香を焚きをり

象神(ガネーシャ )は富をもたらす神となる父シヴァ神に首すげ替へられて
                           
インド洋プレート押し来る亜大陸その地溝帯をガンガー流る

ガンガー地溝に堆積する土砂二千メートル平均勾配一キロメートル当り十四センチ

恒河(ガンガー)に死を待つ人が石階ゆ喜捨を待つなり乞食(こつじき )と紛ひ
                 
しづけさのひかりとどめて天竺葵(ゼラニウム )咲き男は不意に遺されゐたり
                          
薺(なづな)咲く道は土橋へ続きけりパールヴァティは花を抱へて
                         
コーダル川の畔にカジュラホー村ありぬ天女(アプサラ )ミトゥナの愛欲や濃き
                              
手放しにのろけてもみよマハーデーヴァ寺院の壁の女神の陰(ヨニ )は
                                 
数学は難解クローバーの園に編めるも愛(かな)しかの日のレイは
                             
ミトゥナのアクメのさまを彫りけるはシャクティ原理のタントラの道

背位ありクリニングスあり壁面に説かれてゐたるカーマ・スートラ

桜草(プリムラ)や男弟子けふ入門すそしらぬ顔の女弟子たち
                     
ガンジーの屍を焚ける火葬場(ガート)ゆこの国に暗殺(アサシン )多きは如何に
                
驢馬駱駝徒歩ゆき自転車のろきバスゆき警笛かしまし

<警笛をどうぞ>(ホーン・プリーズ)遅速緩速さまざまの人馬ゆき交ふ時速十五キロメートル
                        
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たまきはる命をここに節分会の真白き紙の人形(ひとがた)を截る
                     
白毫寺みち遠けれどこれやこの題辞(エピグラフ)に何をエピステーメー
                         
このあたりもと宇治郡(こほり )しろがねの衾(ふすま)の岡辺はこべ萌え出づ
                   
土筆(つくし)生ふ畝火雄々しも果たせざる男の夢は蘇我物部の
                          
あり無しの時の過ぎゆく老い人にも村の掟ぞ 土筆闌けゆく

野火止の焦げしはたてに生を祝(ほ)ぐ脚長うして土筆の出でし
                            
夜の卓に土筆の吐ける胞子とび我死なば土葬となせとは言へず

淋しさのあるとき惨め酸葉(すかんぽ )を噛めばことごとく指弾されゐて
                           
当麻道すかんぽを抜き噛みにつつ童女の眸(まみ )も春風のなか
                              
*固有名詞の解説*
『マハーバーラタ』はもう一つの『マーラーヤナ』と双璧をなすヴィーヤーサ仙の
作とされるBC数世紀からAD4世紀までに編まれたインドの叙事詩。
『ギータゴーヴィンダ』(牛飼いの歌)は最高神ヴィシュヌの十の化身の一つクリシュナと
牛飼い女ラーダーとの恋物語を書いた12世紀の詩人ジャデーヴァの抒情詩。
<道順は彼女に訊く>は片岡義男の長編ミステリーの題名から借用した。




新涼のいのちしづかに蝶交む・・・・松村蒼石
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     新涼のいのちしづかに蝶交(つる)む・・・・・・・・・・・・・松村蒼石

秋になって感ずる涼しさのことを「新涼」という。
「涼しさ」だけでは夏の暑さの中で味わう涼しさで、新涼とは別のもの。
本意としては「秋になりて涼しき心をいふなり」と『改正月令博物筌』にある。

  秋来ぬと思ひもあへず朝げより初めて涼し蝉の羽衣・・・・・・・・新拾遺集

の歌が知られている。また

  秋涼し手毎にむけや瓜茄子・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

の句が「新涼」「秋涼」「爽涼」「初涼」「涼新た」などの類語の季語の本意とされている。
心地よい涼しさの中に一抹の「寂しさ」「心細さ」をも伴う感覚である。
掲出の蒼石の句は、その「新涼」の季節の中で、ひそかな「生命力」の凄さを一句の中に凝縮した、みごとなものである。

以下、これらの類語の句を引いて終る。

 新涼の月こそかかれ槇柱・・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 爽涼と焼岳あらふ雲の渦・・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 新涼や白きてのひらあしのうら・・・・・・・・・・・・・・川端茅舎

 新涼の身にそふ灯かげありにけり・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

 新涼の咽喉透き通り水下る・・・・・・・・・・・・・・西東三鬼

 新涼やたしなまねでも洋酒の香・・・・・・・・・・・・・・中村汀女

 新涼の水の浮べしあひるかな・・・・・・・・・・・・・・安住敦

 新涼の剃刀触るる頬たかく・・・・・・・・・・・・・・西島麦南

 新涼の画を見る女画の女・・・・・・・・・・・・・・福田蓼汀

 新涼や尾にも塩ふる焼肴・・・・・・・・・・・・・・鈴木真砂女

 新涼や白粥を煮る塩加減・・・・・・・・・・・・・・久米はじめ

 新涼や相見て妻の首ながし・・・・・・・・・・・・・・細川加賀

 新涼や素肌といふは花瓶にも・・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 新涼の母国に時計合せけり・・・・・・・・・・・・・・有馬朗人

 新涼の山に対へる木椅子かな・・・・・・・・・・・・・・水田清子

 新涼や掌のくぼにある化粧水・・・・・・・・・・・・・・高山夕美

 新涼の道の集まる凱旋門・・・・・・・・・・・・・・村上喜代子

 新涼の豆腐を崩す木のスプーン・・・・・・・・・・・・・・浜田のぶ子

 新涼の水にこつんと鬼やんま・・・・・・・・・・・・・・中拓夫

 新涼の香ともハーブを刻みけり・・・・・・・・・・・・・・鈴木喜美恵

 灯を入れずおく新涼の青畳・・・・・・・・・・・・・・貝瀬久代


丈高く咲いて風よぶ紫苑には身をよぢるごとき追憶がある・・・・木村草弥
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     丈高く咲いて風よぶ紫苑(しをん)には
         身をよぢるごとき追憶がある・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「紫苑」の花言葉には追憶とか身をよじる思慕、とかがある。
この歌は第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものだが、ひところ花言葉を読み込んだ歌に集中していた時期があり、この歌は、その一つである。

紫苑はキク科の多年草で、日本の原産とある。紫色の頭状花をつける。風にも強い。
『古今集』に

  ふりはへていざ古里の花見むとこしを匂ぞうつろひにける

という歌があるが歌の中に「しをに」と紫苑を読み込んである。

私の方の菜園にも一群の紫苑が咲きかけてきたところである。

以下、紫苑を詠んだ句を引いておく。

 栖(すみか)より四五寸高きしをにかな・・・・・・・・小林一茶

 紫をん咲き静かなる日の過ぎやすし・・・・・・・・水原秋桜子

 野分して紫苑の蝶々けふはゐず・・・・・・・・星野立子

 この雨や紫苑の秋となりし雨・・・・・・・・加藤楸邨

 紫苑にはいつも風あり遠く見て・・・・・・・・山口青邨

 台風の紫苑もつともあはれなり・・・・・・・・石塚友二

 紫苑といふ花の古風を愛すかな・・・・・・・・富安風生

 頂きに蟷螂のをる紫苑かな・・・・・・・・上野泰

 山晴れが紫苑切るにもひびくほど・・・・・・・・細見綾子

 古妻も唄ふことあり紫苑咲き・・・・・・・・橋本花風

 露地の空優しくなりて紫苑咲く・・・・・・・・古賀まり子

 丈高きことが淋しく花紫苑・・・・・・・・遠藤梧逸


オータン「サン・ラザール大聖堂」・・・・木村草弥
Autun_Panoramic_Photoオータン・パノラマ
↑ オータンの街の俯瞰
img_1245225_39606459_1オータン サンラザール大聖堂
 ↑ オータン サンラザール大聖堂
103597188_624サンラザール大聖堂タンパン
 ↑ 西正面扉口のタンパン「最後の審判」1135年頃
m_bIMG_2724E79CA0E3828BE3839EE382AEE381B8E381AEE3818AE5918AE38192サンラザール大聖堂・展示室にある「眠るマギヘのお告げ」
 ↑ サンラザール大聖堂・展示室にある「眠るマギヘのお告げ」
10064864806今はロラン美術館にある「エヴァ」1120~1135年頃
 ↑ ロラン美術館にある「エヴァ」1120~1135年頃

──巡礼の旅──(18)再掲載・初出2013/09/12

     オータン「サン・ラザール大聖堂」・・・・・・・・・・・・・木村草弥

オータン(仏: Autun)はブルゴーニュ地域圏ソーヌ=エ=ロワール県にある都市。オータンの住民はオーチュノワ(仏: Autunois)と呼ばれる。

オータンは歴史ある都市で、紀元前1世紀ごろにローマ帝国の初代皇帝、アウグストゥスの勅許によって建設された。
当時の名称はアウグストドゥヌム(Augustodunum, アウグストゥスの砦、の意)であり、現在の市名はこれが転訛したものである。
ナポレオン・ボナパルトと兄ジョゼフはこの地のリセの出身である(そのリセは現存する)。
1788年-1790年にかけては、シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールがこの都市の司教であった。
2002年の2月にはユルスリーヌ国際文化センターが開設されている。

サン・ラザールとは、「マグダラのマリア」の兄弟で、キリストが蘇生させたラザロのことである。
ここは、そのラザロの遺骨を祀っている。
この遺骨はアヴァロンにある同名の聖堂から盗まれたもので、当時はよくあったことだと言われている。
オータンにはかつて古代ローマの都市があり、遺跡も多い。
大聖堂の建築も古代ローマの遺跡を参考にしたと言われている。
ここでは建物よりも「彫刻」に注目したい。 
主なものは冒頭に、続けて画像を出しておいた。

二番目に出した、西正面扉口のタンパン「最後の審判」1135年頃の彫刻だが、その中央に置かれる大きなキリストの足元に「ジルベルトゥスがこれを作った」という言葉が彫られている。
これは建築家であり彫刻家でもあった人物の署名と考えられている。
この世界の終わりにキリストが再び天から降臨し、すべての死者が蘇って裁きを受ける場面で、向かって左に天国、右に地獄が配される。
キリストのすぐ右では大きな天秤で死者の魂が計量され、天使と悪魔が「魂」を鑑定する。
賢明な読者であれば勘付かれると思うが、この「秤」というのは古代エジプト起源であり、それは十字架のイメージとともにキリスト教の中に入り込んできたものである。
また、それらの計量をめぐって聖ミカエルが悪魔と対峙しているが、後者の足首には蛇がまきついているのは「堕落の誘惑」を象徴する。

三番目に出した「眠るマギへのお告げ」では、クレープのような布団に包まれ一緒に裸で眠る東方からやってきた博士たちの一人の手に、天使が指先でそっと触れて、ヘロデ王のもとに帰らず別の道で帰るようにお告げをする。一人目覚めたマギの目は何を見ているのだろうか。

四番目の「エヴァ」の像は、かつて大聖堂の北扉口にあった浮彫の断片である。
左手で智恵の木の実をつかみ、右手を口に当て、今は失われたアダムに囁きかけている。智恵の木の枝には、これも失われた悪魔の爪が残る。
よく知られた『原罪』の場面である。エヴァの泳ぐような体勢は、横長の枠に彫られたというせいでもあるが、罪を犯した彼女が示す「悔い改め」の身振りでもある。
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私の短歌の作品の連作に「エッサイの樹」という一連があるが、これは、この教会の見聞を元にしている。
参照されたい。


桔梗の紫さける夕べにておもかげさだかに母の顕ちくる・・・・木村草弥
yun_448桔梗本命

     桔梗(きちかう)の紫さける夕べにて
        おもかげさだかに母の顕(た)ちくる・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


キキョウも秋の七草のひとつで、古来から詩歌によく詠まれてきた。
派手さはないが清楚な花である。もっとも秋の七草に数えられる草は、みな地味なものである。
『万葉集』にいう「あさがお」は、キキョウのこととされる。
この花は漢字の音読みをして「キチコウ」と呼ばれることも多い。
私の歌もキチコウと読んでいる。
小林一茶の句に

    きりきりしやんとしてさく桔梗かな

というのがあるが、キキョウの特色を見事に捉えている。
きっぱりと、すがすがしい感じの花である。
写真②は白いキキョウである。
kikyou4キキョウ白

掲出した私の歌は第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、母への思いを詠んでいる。
この歌のつづきに

   乳ごもる肉(いきみ)の背(せな)に吾(あ)は負はれ三十路の母はまだ若かりき

という歌が載っている。私は母の30歳のときの子である。そんな感慨を歌に込めてあるのである。

この頃では品種改良で、色々のキキョウがあるが、やはりキキョウは在来種のものが、よい。
以下、キキョウを詠んだ句を引いて終わりたい。

 桔梗の紫さめし思ひかな・・・・・・・・高浜虚子

 仏性は白き桔梗にこそあらめ・・・・・・・・夏目漱石

 かたまりて咲きし桔梗のさびしさよ・・・・・・・久保田万太郎

 桔梗や男も汚れてはならず・・・・・・・・石田波郷

 桔梗やおのれ惜しめといふことぞ・・・・・・・・森澄雄

 桔梗挿す壺の暗さをのぞいてから・・・・・・・・桂信子

 我が身いとしむ日の桔梗水換へる・・・・・・・・富田木歩

 桔梗の露きびきびとありにけり・・・・・・・・川端茅舎

 姨捨の畦の一本桔梗かな・・・・・・・・西本一都

 桔梗や信こそ人の絆なれ・・・・・・・・野見山朱鳥

 桔梗やいつより過去となりにけむ・・・・・・・・油布五線





病を癒す奇跡の泉「聖地ルルド」への旅・・・・木村草弥
Cathedral_in_Lourdes_Summerルルド大聖堂

  ──巡礼の旅──(5)再掲載・初出2013/09/10

      病を癒す奇跡の泉「聖地ルルド」への旅・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

先に2013/07/28付で聖女ベルナデッタゆかりのサン・ジルダール修道院教会の記事を載せたので、その彼関連として、再掲載だが、この記事を出しておく。

夜、蝋燭を手にした人々がルルドの「無原罪のお宿り聖堂」の周りに集まって来る。
その蝋燭の揺らめきとライトアップされた聖堂によって聖地に不思議な雰囲気が漂う。
ここに集う人々の中には、看護師に付き添われた車椅子の人、ベッドに寝たままの人も居る。
さまざまの国の、さまざまな人々が静かに時間の来るのを待つ。そして二十一時をまわる頃、神父がミサの始まりを告げる。
人々はアヴェマリアを唱えながら「無原罪のお宿り聖堂」の前までやって来る。
冬の寒い一定の時期を除き、多少の雨の中でも行われる蝋燭ミサ。参加する人の数は数十人のときもあれば数百人のこともある。
闇夜にひびく参列者のアヴェマリアの歌声を耳にすると、キリスト教徒か否かは問わず、心に沁みるものがある。

ルルド(Lourdes) は、フランスとスペインの国境になっているピレネー山脈のふもと、フランスの南西部のオート=ピレネー県の人口15000人ほどの小さな町。
聖母マリアの出現と「ルルドの泉」で知られ、カトリック教会の巡礼地ともなっている。

150px-Bernadette_Soubirousベルナデッタ・スビルー
1858年2月11日、村の14歳の少女ベルナデッタ・スビルーが郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしているとき、初めて聖母マリアが出現したといわれている。
ベルナデッタは当初、自分の前に現れた若い婦人を「あれ」と呼び、聖母とは思っていなかった。
しかし出現の噂が広まるにつれ、その姿かたちから聖母であると囁かれ始める。
ベルナデッタ・スビルー聖母出現の噂は、当然ながら教会関係者はじめ多くの人々から疑いの目を持って見られていた。
ベルナデッタが「あれ」がここに聖堂を建てるよう望んでいると伝えると、神父はその女性の名前を聞いて来るように命じる。
神父の望み通り、何度も名前を尋ねるベルナデッタに、ついに「あれ」は自分を「無原罪の御宿り」であると、ルルドの方言で告げた。
それは「ケ・ソイ・エラ・インマクラダ・クンセプシウ」(Que soy era Immaculada Councepciou=私は無原罪のやどりである(フランス語:Je suis l'Immaculée-Conception.))
という言葉であった。
これによって神父も周囲の人々も聖母の出現を信じるようになった。
「無原罪の御宿り」がカトリックの教義として公認されたのは聖母出現の4年前の1854年だが、家が貧しくて学校に通えず、読み書きも満足にできない田舎の少女が知り得るはずもない言葉だったからである。
以後、聖母がこの少女の前に18回にもわたって姿を現したといわれ評判になった。
1864年には聖母があらわれたという場所に聖母像が建てられた。
この話はすぐにヨーロッパ中に広まったため、はじめに建てられていた小さな聖堂はやがて巡礼者でにぎわう大聖堂になった。

ベルナデッタ自身は聖母の出現について積極的に語ることを好まず、1866年にヌヴェール愛徳修道会の修道院に入ってシスター・マリー・ベルナールとなり、外界から遮断された静かな一生を送った。
ベルナデッタは自分の見たものが聖母マリアであったことをはっきりと認めていた。
例えば1858年7月16日の最後の出現の後のコメントでも「私は、聖母マリア様を見るだけでした」とはっきり述べている。
1879年、肺結核により35歳で帰天(病没)し、1933年ベルナデットは教皇ピオ11世から聖人に列聖された。
彼女の遺体は腐敗を免れ、修道女の服装のまま眠るようにヌヴェールに安置されている。

lourdesiルルドの洞窟
ルルドの泉 ベルナデッタが見た「聖母」は、ルルドの泉に関して次のような発言をしている。
「聖母」はまずベルナデッタに「泉に行って水を飲んで顔を洗いなさい」と言った。
近くに水は無かったため、彼女は近くの川へ行こうとしたが、「聖母」が「洞窟の岩の下の方へ行くように指差した」ところ、泥水が少し湧いてきており、
次第にそれは清水になって飲めるようになった。これがルルドの泉の始まりである。

また、スタンデンというイギリス人が、町中の人々が情熱を持って話している洞窟での治癒の奇跡についてベルナデッタに話したが、
彼女が奇跡に関して無関心であったことに考えさせられたという記録がある。
行きすぎたことの嫌いな彼女は話を簡単にしてしまい、はじめ「この類の話に、本当のことは何一つありません」と言うのであった。
この後にも、ある訪問者に奇跡について聞かれた際、彼女は無関心な態度を示して次のように言ったとされる。「そういう話は聞かされたけど、私は知りません。」驚いた訪問者が真意を正すと、彼女はこう答えた。
「私はじかに見ていないので、知らないと言ったんです。」
泉に関連した治癒は当初から何件も報告され、医者がその奇跡性を認めざるを得ないケースもいくつもあったが、ベルナデッタはこれに関与していなかった。
しかし彼女がそれを信じていない、あるいは否定したという発言も残っていない。
彼女自身は、気管支喘息の持病があったが一度もルルドの泉に行くことはなく、より遠方の湯治場へ通っていた。

なお、ベルナデッタの遺体は1909年、1919年、1925年の3回にわたって公式に調査され、特別な防腐処理がなされていないにもかかわらず腐敗が見られないと言われている。
これは「目視では明確な腐敗の兆候が見られなかった」と言うことである(実際には腐敗が始まっていたという報告もある)。
遺体が腐敗しないことは列聖のための有力な材料となるが、それ自体は奇跡的な出来事ではない。通常死体は地上で温下では数ヶ月で崩壊、白骨化する。
1925年の調査では、ローマとルルドの修道院に送るため聖遺物(右側肋骨2本、両膝の皮膚組織、肝臓の一部)が摘出された。
また、過去の調査の際の洗浄の影響によって皮膚の黒ずみと黴・異物の沈着、ミイラ化したために鼻梁と眼窩が落ち窪むなど容姿が若干変異していたため、
顔と両手の精巧な蝋製マスクが作られ、かぶせられた。これは見る者に不快感を与えないために、遺物に関してフランスではよく行われる処理。

現在では、ルルドの聖母の大聖堂が建っており、気候のよい春から秋にかけてヨーロッパのみならず世界中から多くの巡礼者がおとずれる。
マッサビエルの洞窟から聖母マリアの言葉どおり湧き出したといわれる泉には治癒効果があると信じられている。
「奇跡的治癒」の報告は多いが、中にはカトリック教会の調査によっても公式に認められた「科学的・医学的に説明できない治癒」の記録さえ数例ある。
カトリック教会が「奇跡的治癒」を認めることは稀であり、認定までに厳密な調査と医学者たちの科学的証明を求めている。

泉の評判が広まってから現代まで1億人以上がこの泉を訪れたとされているが、そのうちカトリック教会に奇跡の申請をしたのは7,000人ほどである。
そのうちカトリック教会が認めた奇跡はわずか67件で、直近の40年に限れば10年に1件の割合でしかない。
20世紀前半に奇跡と認められたもののうち、いくつかは具体的な症状の記録が残されており、その中には奇跡とは呼べないものも含まれている。
これはカトリック教会が求める科学的証明の水準が当時は現代よりも低かったためと考えられる。
「奇跡」のうち、ほとんどは結核、眼炎、気管支炎など自然治癒あるいは近代医療で回復するもので、損傷した脊椎の回復など、重篤な障害、病気が治癒したという事実はない。
ルルドには医療局が存在し、ある治癒をカトリック教会が奇跡と認定するための基準は大変厳しい。
「医療不可能な難病であること、治療なしで突然に完全に治ること、再発しないこと、医学による説明が不可能であること」という科学的、医学的基準のほか、
さらに患者が教会において模範的な信仰者であることの人格が査定される。
このため、これまで2,500件が「説明不可能な治癒」とされ(つまり、奇跡的な治癒だが公式な「奇跡」とは認定されないケース。患者に離婚歴があるというだけでこれに相当する)、
医療局にカルテが保存されているにもかかわらず、奇跡と公式に認定される症例は大変少数(67件)となっている。
特に信仰の世俗化が危惧されている現代において、これらの基準を満たすことが大変難しくなっていることは想像に難くない。



赤まんま幼のあそぶままごとの赤飯なれどだあれも来ない・・・・・木村草弥
img548赤まんま本命

     赤まんま幼のあそぶままごとの
        赤飯なれどだあれも来ない・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、この歌のつづきに

   老いぬれば無性に親しき赤まんま路傍にひそと咲いてゐるゆゑ

という歌が載っている。この歌も愛着のある歌で、放しがたい。
「赤まんま」または「赤のまま」などと呼ばれるが、それは赤い実の形からきている。
植物名としては「イヌタデ」という蓼の仲間である。タデ科の一年草。いたるところに自生する。
花は夏から秋にかけて咲くが、どちらかというと秋の花と言った方がよい。紅紫色の穂になって咲くが、花びらが無く、萼だけである。
役にたたない蓼ということでイヌタデと名づけられたというが、赤飯のような花なので赤まんまという。
子供のままごとに使われるというので、それが俗称の名前になった。ややメルヘンチックな印象の花である。
子供のままごとと言っても、おおよそは女の子のすることで、お招待でままごとに呼ばれることはあっても、
お義理であって男の子は、もっと乱暴な、活発な遊びがあった。しかし、赤まんまが赤飯の代りであることは知っていた。
先に書いたように、この草は、どこにでもある、ありふれた草だった。
だから、二番目に掲出した歌のように「老いぬれば」こそ、この草の平凡さ、目立たなさ、に心が引かれてゆくのである。
『万葉集』に

  我が宿の穂蓼古韓(ふるから)摘みはやし実になるまでに君をし待たむ

という歌があるが、実になるまで待つと言って少女への恋の実りを待つに重ねて詠っている。
以下、赤まんまを詠んだ句を引いておく。

 日ねもすの埃のままの赤のまま・・・・・・・・高浜虚子

 手にしたる赤のまんまを手向草・・・・・・・・富安風生

 勝ち誇る子をみな逃げぬ赤のまま・・・・・・・・中村草田男

 赤のまま妻逝きて今日は何日目・・・・・・・・小川千賀

 山羊の貌朝日うけをり赤のまま・・・・・・・・坪野文子

 赤のまま此処を墳墓の地とせむか・・・・・・・・吉田週歩

 ここになほ昔のこれり赤のまま・・・・・・・・桜木俊晃

 出土土器散らばり乾き赤のまま・・・・・・・・水田三嬢

 縄汽車のぶつかり歩く赤のまま・・・・・・・・奥田可児

 犬蓼にある明るさよ野草園・・・・・・・・青柳志解樹


妻を恃むこころ深まる齢にて白萩紅萩みだれ散るなり・・・・木村草弥
aaoohagi001萩大判

     妻を恃(たの)むこころ深まる齢(よはひ)にて
        白萩紅萩みだれ散るなり・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので「牧神の午後」という項目の中の一つである。自選50首にも入っているのでWeb上でもご覧いただける。
萩にもいろいろの色があり、栽培種として品種改良されている。
昔は、一番美しいのは「みやぎのはぎ」ということで、紅紫色か白で、庭などに植えられた。
hagi_M2萩白

秋の七草の筆頭になる花で、字で書くと草かんむりに秋と書くように、秋を代表する花とされた。
古来、芭蕉の句に

    一家に遊女も寝たり萩と月

    しをらしき名や小松吹く萩すすき

    白露もこぼさぬ萩のうねりかな


などの名句もあり、また曽良の句の

    行き行きてたふれ伏すとも萩の原

なども有名である。

私の歌は、齢を取ってくると妻を恃む気持ちが、だんだんと強くなってくる心情を詠んでいる。若い時の愛情とは、また変った心境が生れるからである。
また、妻の病気が進行して介護の日々が殆どとなり、支えてやらなければならないという気持ちと、裏腹になったような微妙な気分をも含んでいる。
私たちは、そんな風にして、お互いを支えあって生きてきたのである。
妻亡き今となっては、懐かしい追憶の歌となってしまった。
今は、私は一人で生きてゆかなければならない。
同じ歌集に

  萩に蝶の風たつとしもなきものをこぼして急ぐいのちなりけり・・・・・・・・・・木村草弥

という歌も、すぐ後に載っている。
蝶が来るだけで、はらはらと花を散らす萩の姿を見て、そこに、はかない「いのち」を見たのである。
以下、歳時記から萩の句を引いて終わりにしたい。

 三日月やこの頃萩の咲きこぼれ・・・・・・・・河東碧梧桐

 日の暮は鶏とあそびつ萩の花・・・・・・・・福井艸公

 萩の花何か急かるる何ならむ・・・・・・・・水原秋桜子

 低く垂れその上に垂れ萩の花・・・・・・・・高野素十

 もつれ沿ふ萩の心をたづねけり・・・・・・・・阿波野青畝

 雨粒のひとつひとつが萩こぼす・・・・・・・・山口青邨

 せはしなき萩の雫となりにけり・・・・・・・・五十嵐播水

 ある日ひとり萩括ることしてをりぬ・・・・・・・・安住敦

 手に負へぬ萩の乱れとなりしかな・・・・・・・・安住敦

 萩の風一文字せせり総立ちに・・・・・・・・田村木国

 降り止めばすぐ美しき萩の風・・・・・・・・深川正一郎

 みごもりしか萩むらさわぎさわぐ中・・・・・・・・渡部ゆき子

 白萩のやさしき影を踏みゆけり・・・・・・・・山内きま女




はたはたのつるみてぬぎしもののなし・・・・秋元不死男
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    はたはたのつるみてぬぎしもののなし・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)にも

  小さき雄が背中に乗りてオンブバッタ交尾の様も秋空の下・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。

バッタ類の雄はみな雌よりも格段に体が小さい。交尾のために雄が雌の背中に乗っていると、まるで子供がおんぶしているように見える。
この虫はおんぶしている場面をよく見られるので、名前までオンブバッタとつけられてしまった。
この虫は畑といわず野っぱらにも、やたらにいる虫で、葉っぱを食べる害虫である。

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バッタの仲間には40種類くらいのものがいるらしいが、写真②は「いなご」の雌雄である。
これも雄は小さい。漢字では、蝗と書くが、これは稲につく害虫である。
掲出の歌のオンブバッタは別名「きちきち」ともいう。飛んで逃げるとき、きちきちという羽音をたてて飛ぶからである。
これも「聞きなし」のものである。また地方によっては「はたはた」と呼ぶらしい。これも飛ぶ音からの命名だろう。
私の地域ではオンブバッタのことを「おんめ」と呼ぶ。
これは交尾のオンブの姿勢でみられることが多いので「雄雌」がつづまって「おんめ」となつたと思われる。
この虫は後ろ足を持つと体を揺するので「機織バッタ」とも呼ぶ。私の住む地域では子供が「おんめ、機(はた)織れ」とはやして後ろ足を持ったりする。

この私の歌の収録されている一連の歌を引いておく。

  草 刈・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

田の平に立ちて眺むるふるさとは秋のさ中の青谷百町歩

わが盆地幅三里ほど南北長し右は生駒山系ひだりは笠置山系

草を刈るあとを追ひ来る鳥のむれ生きゆく知恵ぞ虫を啄む

めざとくも雲雀来たりて虫を食(は)む警戒しつつ鴉もくるよ

人が草を刈れば虫が食へるといふ生き物の知恵いぢらしきかも

小さき雄が背中に乗りてオンブバッタ交尾の様も秋空の下

草刈機の振動の余韻とどまりて腕(かひな)と指の揺るるを覚ゆ

湯浴みして洗ひたれども我の身に草の匂ひの残る宵なり
---------------------------------------------------------------------
歳時記から「おんぶばった」「いなご」の句を少し引いて終りにする。

 きちきちといはねばとべぬあはれなり・・・・・・・・富安風生

 はたはた飛ぶ地を離るるは愉しからむ・・・・・・・・橋本多佳子

 はたはたのゆくてのくらくなるばかり・・・・・・・・谷野予志

 はたはたのおろかな貌がとんで来る・・・・・・・・西本一都

 はたはたの脚美しく止りたる・・・・・・・・後藤比奈夫

 はたはたの空に機織りつづけつつ・・・・・・・・平井照敏

 ふみ外す蝗の顔の見ゆるかな・・・・・・・・高浜虚子

 一字(あざ)や蝗のとべる音ばかり・・・・・・・・水原秋桜子

 豊の稲をいだきて蝗人を怖づ・・・・・・・・山口青邨

 蝗の貌ほのぼのとして摑まるる・・・・・・・・原田種茅

 蝗とび蝗とび天どこまでも・・・・・・・・平井照敏




こほろぎや眼を見はれども闇は闇・・・・鈴木真砂女
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     こほろぎや眼を見はれども闇は闇・・・・・・・・・・・・・・・鈴木真砂女

秋に鳴く虫で人家近くで鳴くのは蟋蟀(こおろぎ)で、立秋頃から晩秋まで鳴く。
日本には10数種類いるそうで、掲出の写真はエンマコオロギで、鳴き声はコロコロと聞こえる。
その他にリーリーと鳴くツヅレサセコオロギ。
チ、チ、チと鳴くオカメコオロギなどがいる。
真砂女の句は、コオロギの、特にエンマコオロギの顔を見たときの、大きな眼の特徴を巧みに捉えている。

古今集時代から江戸時代まで、コオロギのことを「きりぎりす」と呼んでいたと言い、混同しやすい。
コオロギを「いとど」と呼ぶ地方もあるようだ。
コオロギの声はマツムシに次いで賞せられ、秋の虫の音の代表的なものとされてきた、という。
以下、コオロギの句を引いておく。

 蟋蟀や乳児が寝返り打つて力む・・・・・・・・森澄雄

 こほろぎや入る月早き寄席戻り・・・・・・・・渡辺水巴

 こほろぎの覗いて去りぬ膳の端・・・・・・・・吉川英治

 闇にして地の刻移るちちろ虫・・・・・・・・日野草城

 中尊寺うばたまの暗つづれさせ・・・・・・・山口青邨

 蟋蟀の無月に海のいなびかり・・・・・・・・山口誓子

 蟋蟀が深き地中を覗き込む・・・・・・・・山口誓子

 蟋蟀に覚めしや胸の手をほどく・・・・・・・・石田波郷

 こほろぎの真上の無言紅絹(もみ)を裂く・・・・・・・・平畑静塔

 こほろぎやいつもの午後のいつもの椅子・・・・・・・・木下夕爾

 こほろぎのこの一徹の貌(かほ)を見よ・・・・・・・・山口青邨

 地の闇となり蟋蟀の一途なる・・・・・・・・山口草堂

 つづれさせ身を折りて妻梳(くし)けづる・・・・・・・・長谷川双魚

 若くて俗物こおろぎの土塊草の中・・・・・・・・金子兜太


入りつ陽のひととき赫と照るときし猛々しく樹にのぼる白猫・・・・木村草弥
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     入りつ陽のひととき赫(かつ)と照るときし
        猛々しく樹にのぼる白猫(はくべう)・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

私は猫は好きではないが、黒猫とか白猫とかの作品がいくつかある。
それらは、猫を詠ったものというよりも、或る主題の引き立て役として使っているに過ぎないが、珍しく、この歌は白猫を正面から詠っている。

猫は暑いときは、ぐうたらに涼しい所を求めて寝そべっていたり、寒いときはコタツに潜り込んだりと、余り活動的な姿態を見ることは多くないが、発情期とか仲間と争う時、夜間などには違った一面を見せるようである。
私の歌に詠んだように、何のはずみか、何か獲物でも見つけたのか、猛々しく樹にのぼる光景を目の当たりにして、とっさに出来た歌と言えようか。
s011白猫

考えてみれば、人間に飼いならされているとは言え、もともと猫は猛獣の端に連なる種類ではないか。
そう考えると、この猫の行動も納得がゆくのである。

およそ世の中には「猫好き」という人は多い。世界的にみても、そうである。
ギリシアのエーゲ海のサロニコス湾一日クルーズの船に乗ると、猫がやたらに多い島に寄港する。
いま島の名が、とっさに出て来ないが、とにかく猫だらけで波止場に着くと、先ず猫の出迎えである。
だから、この島は「猫島」と仇名がついているらしい。
「猫島」として有名になったので、あちこちから要らなくなった猫もここに持ち込まれるのではないか。
そして何よりも、この島に来た観光客が餌を与えるので栄養が豊富で、ますます数が増えるのではないか。エーゲ海の島であるから、漁師たちも屑の魚を与えるかも知れない。
とにかく猫は人間に寄生しているという印象が、私には強い。
私が猫嫌いである最大の理由は、何度も書くが、臭い臭い糞を私の方の庭に垂れ流されるのに困り果てているからである。
いろんな駆除の手段をとっても猫のことであり、神出鬼没で恐れ入る。

以下、猫を詠んだ歌を引いておく。

  みちのくの夜空は垂れて電柱に身をすりつける黒猫ひとつ・・・・・・・・・・岡部桂一郎

  生みし仔の胎盤を食ひし飼猫がけさは白毛となりてそよげる・・・・・・・・・・葛原妙子

  目的は何もなきゆゑ野良猫の来て寝のべりぬわが窓の下・・・・・・・・・・安田章生

  飼猫にヒトラーと名づけ愛しゐるユダヤ少年もあらむ地の果て・・・・・・・・・・春日井建

  さびしきは老か命かかの小猫庭のおち葉を追ひてよろこぶ・・・・・・・・・・・松村英一

  やがて発光するかと思うまで夕べ追いつめられて白猫膨る・・・・・・・・・・永田和宏

  蜘蛛ひとつおりくる空の透明に爪ひからせて猫はうかがう・・・・・・・・・・上川原紀人

  負けて帰りし猫抱きをり手に触れてふぐりぬくきを哀れがりつつ・・・・・・・・・・青木ゆかり

  眠りつつ時にその耳動かせり猫といへども夢をみるらし・・・・・・・・・・大塚布見子

  まどろみて四肢弛む猫わが膝に防備を解けるものをいとしむ・・・・・・・・・・高旨清美

  歩みつつ小さき舌を出す猫も今日のさびしき生きものの眼か・・・・・・・・・・河野愛子

  一日に一度はみせ場をつくるまで猫一匹を飼いならしたる・・・・・・・・・・高瀬一誌

  ひそやかに猫の眠りのなかをゆく痙攣といふ肉の気配は・・・・・・・・・・斎藤佐知子

  引き寄せしわれを拒みて飼ひ猫が自らを抱く形に眠る・・・・・・・・・・村松秀代

  好きなのかあんなところが自転車のサドルにいつも乗っている猫・・・・・・・・・・池本一郎

  春幹に爪とぐ猫を笑ひ合へばこちらを見たりまじまじと見る・・・・・・・・・・花山多佳子

  肛門をさいごに嘗めて目を閉づる猫の生活をわれは愛する・・・・・・・・・・小池光

  出会ひ頭の猫を蹴飛ばす 老妻に言ひつのられし後の腹いせ・・・・・・・・・・米口実
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猫嫌いの私などと違って、猫好きの人がいかに多いか。こんな歌が、まだまだあるのである。


浴して我が身となりぬ盆の月・・・・小林一茶
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      浴(ゆあみ)して我が身となりぬ盆の月・・・・・・・・・・・・・・・小林一茶

今日は陰暦の7月15日、名月の前の満月である。これを「盆の月」とお盆の行事に因んで、こう呼ぶ。
まだ暑さ盛りであり、盂蘭盆の灯明も消えたばかりの時期で、独特の雰囲気の月である。
関西では、もう「地蔵盆」の行事も終わった。
今朝、いつもの早朝の散歩に4時50分ごろに出たら、西の空に、山の端ちかくに、うすい靄がかかっていたので、うすら赤い大きな満月がかかっていた。
これこそ「盆の月」なのであった。

掲出の一茶の句は、盂蘭盆でさまざまな祖霊供養の行事に明け暮れた一日を終り、湯浴みして、ようやく、うつしみの我が身に帰った、という哀感のともなう佳い句である。
以下、「盆の月」の句を引いておく。

 山里の盆の月夜の明るさよ・・・・・・・・高浜虚子

 うす雲のただなかにして盆の月・・・・・・・・長谷川かな女

 盆の月真夜中いつかくもりけり・・・・・・・・中村伸郎

 盆の月ひかりを雲にわかちけり・・・・・・・・久保田万太郎

 盆の月拝みて老妓座につきし・・・・・・・・高野素十

 むささびのとびし吉野の盆の月・・・・・・・・高野素十

 胡桃の葉透かし明るし盆の月・・・・・・・・山口青邨

 盆の月虧けゆき母の忌も過ぎぬ・・・・・・・・五十嵐播水

 盆の月遥けきことは子にも言はず・・・・・・・・松村蒼石

 生れたるのみのふるさと盆の月・・・・・・・・大橋敦子

 生くる二人に鬼灯ほどの盆の月・・・・・・・・村越化石

 盆の月父亡く母に遠く住む・・・・・・・・筒本れい子

 金泥を海に流せり盆の月・・・・・・・・沢木欣一

 膝頭老いゆく盆の月明り・・・・・・・・戸川稲村



諍ひて朝から妻にもの言はぬ暑い日なりき、月が赤いな・・・・木村草弥
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     諍(いさか)ひて朝から妻にもの言はぬ
        暑い日なりき、月が赤いな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載せた歌である。
「諍い」とは「口げんか」のことを言う。
この歌は上4句までは、すらすらと出来たが、結句の7音がなかなか出来なかったので、半年ばかり放置してあったが、何かの拍子に、
この言葉が見つかり、くっつけた。私自身でも気に入っている歌である。
この歌は『茶の四季』の「族の歌」でWeb上でもご覧いただける。

「赤い月」というのは、月が出始めの低い位置にあるとき、または月の入りで西の空低くにあるときに、地球の表層の汚れた空気層を通過するときに、
空気に含まれる塵の作用で、赤く見えることがある。
月が中空にあるときには、めったに赤い月にはならない。

この歌は、妻と口げんかして、お前なんかに口もきくものか、とカッカしている気分のときには頭に血がのぼっているから、
赤い月が見えたというのは、絶好の舞台設定で、ぴったりだった。
歌作りにおいては、こういう、時間を置くことも必要なことである。
一旦、作った歌でも、後になって推敲して作り直すということも、よくある。
妻亡き今となっては、懐かしい作品になった。 ここで、この歌を含む一連を引いておく。

     月が赤いな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  路地裏の畳屋にほふ鉾町へしとどに濡れて鉾もどりけり

  ガラスを透く守宮(やもり)の腹を見てをれば言ひたきことも言へず 雷鳴

  諍ひて朝から妻にもの言はぬ暑い日なりき、月が赤いな

  手花火が少し怖くて持ちたくて花の浴衣(ゆかた)の幼女寄り来る

  手花火の匂ひ残れる狭庭には風鈴の鳴るほど風は通らず

  機械音ふつと止みたる工場に赫、赫、赫と大西日照る

  季節の菓子ならべる京の老舗には紺ののれんに大西日照る

  秋季リーグ始まりにつつ球(たま)ひろふ明日の大器に大西日照る

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掲出の「赤い月」の写真はWeb上で拝借したものだが、撮影者の名前(市川雄一)や撮影日時が明記されており、著作権は撮影者にあることを言っておきたい。
この写真の場合の「赤い月」は皆既月蝕という特殊な環境下での赤い月である。





星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて。・・・・・清少納言
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      星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。
          尾だになからましかば、まいて。・・・・・・・・・・・・・・・・・・清少納言


これは『枕草子』236段に載るものである。
この文の意味については、下記の解説の中で書いてある。 ↓

日本ではプレアデス星団のことを「昴」すばる、と呼ぶ。
「昴」というと、谷村新司の曲が思い浮かぶ。
以下にネット上から記事を引いておく。  ↓
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プレアデス星団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

プレアデス星団 (M45) は、おうし座にある、散開星団である。 地球から400光年の距離にあり、肉眼でも輝く5~7個の星の集まりを見ることが出来る。
双眼鏡で観測すると数十個の青白い星が集まっているのが見える。
比較的近距離にある散開星団であるため狭い範囲に小さな星が密集した特異な景観を呈しており、このため昔から多くの記録に登場し、
各民族で星座神話が作られてきた。

1769年にメシエカタログの45番に加えられた。M45は、3回に分けて刊行されたメシエカタログの最初のカタログの最後の天体であった。

約6千万~1億歳と若い年齢の青白い高温の星の集団である。 多くの核融合の速度が速いため寿命は比較的短いと予想されている。
星団を構成する星の周囲には青白く輝くガスが広がっている。これは、星々とは元々関係のない星間ガス(IC349)が、星団の光を反射しているためである。

構成
プレアデス星団の構成プレアデス星団を構成する星のうち、以下の主要な明るい星にはギリシア神話での人物名がそれぞれに名付けられている。
(プレアデス星団にまつわるギリシア神話の内容については当該項目を参照されたし)

なお、名称後の括弧内は、それぞれの実視等級を示す。

アトラス(3.62) - 星団の左端に位置する明るい星。
プレイオネ(5.09) - アトラスの上に位置する星。
アルキオネ(2.86) - 星団中央の明るい星。星団の中では一番明るい。昔、トレミーやアル・ズーフィが記録した4個の星のうちに、この星がないため増光したのではないかとする説がある。
メローペ(4.17) - アルキオネの右下に位置する明るい星。
マイア(3.86) - アルキオネの右上(メローペの上)に位置する明るい星。
エレクトラ(3.70) - メローペの右上(マイアの右下)に位置する明るい星。
ケラエノ(5.44) - エレクトラの上、マイアの右に位置する星。
タイゲタ(4.29) - マイアの右上に位置する星。
アステローペ - マイアの上に位置する二連の星。
うち上側はアステローペI(5.64)、下側がアステローペII(6.41)。

観測
通常の視力の人が好条件のもとで、6~7個の星を数えることができる。大変視力が鋭い人が25個もの星を肉眼で見たとする記録が残されている。
昔イギリスのTV放送でアンケートを取ったところ、73%は6~8個だったという。
ホメロスは6個、トレミーは7個、アル・ズーフィは5~7個、ハイドンは7個見えたと記している。
望遠鏡を使えば飛躍的に星数も増し、ガリレオは36個の星を見ている。

双眼鏡で最も美しく見ることができる。
口径10cmの望遠鏡では星団としてのまとまりは無くなるが、代わりに星団の背後にある散光星雲が見えてくる。
メローペを囲む散光星雲(IC349)は、1859年にテンペルが口径10cmの望遠鏡で発見した。「鏡の上に息をかけたときにできるような、にじんだ光が見える。
大きさは約35'×20'で、メローペの南から広がっている。新彗星かと思ったが、次の日にも同じ所に見えていた」と記している。
1875年ミラノ天文台のスキャパレリは星雲がメローペからエレクトラ、ケレノまで広がっているのを確認した。
ウェップは「口径2インチで見え、11インチでは見えない。大口径では見えないが、時折どうにか見える。しかし、ファインダーではよく見える」としている。
通常は散光星雲IC349を見るためには口径20cm以上の望遠鏡を必要とする。

名称
プレアデス星団は肉眼でも見ることが出来る明るい星々の集まりであり、様々な文化で人々の興味を引き、聖書や伝説、民話、星座物語に登場し、数々の名称を持つ。

ギリシア神話
プレアデス星団の名前は、ギリシア神話に由来し、巨人アトラスとニンフのプレイオネの間に生まれたプレイアデス7人姉妹(アステロペ、メロペ、エレクトラ、マイア、タイゲタ、ケラエノ、アルキオネ)を指している。プレイアデスは女神アルテミスに仕えていた。

また、同じくおうし座にあるヒアデス星団のヒアデスの7姉妹は、アトラスとアエトラの娘たちであり、プレイアデス姉妹とは異母姉妹の関係である。

中国
中国では二十八宿から昴宿(ぼうしゅく)と呼んだ。

日本
日本では、プレアデス星団をすばる(昴)とも呼ぶ。
元々は、一つに集まっているという意味の「すまる」から転じて「統ばる(すばる)」と呼ばれていたとされる。
その後、中国でプレアデス星団を指す昴宿から「昴」を当てた。他にも地方によって、「六連星(むつらぼし)」や「羽子板星」などと呼ばれた。
奈良時代に成立したとされる『丹後国風土記』逸文に「其七豎子者(七人の童子)、昴星也。其八豎子者、畢星也」という記述があり、
それぞれ隣り合っているプレアデス星団、アルデバランとヒアデス星団の事と見られる。
日本でプレアデス星団について言及した最古の記録は、平安時代に醍醐天皇皇女勤子内親王の命で作成された百科事典『倭名類聚抄』だと考えられている。
この中で、昴星の和名は須八流と記されている。
清少納言は『枕草子』236段で「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて。」と書いている。
(星はすばる、ひこぼし、宵の明星が良い。流れ星も少し趣がある。尾を引かなければもっとよいのだけれど。)


マオリ
ニュージーランドのマオリ族は、プレアデス星団をマタリキ(Matariki)と呼ぶ。マタリキとは、"小さな目"との意味を持つ言葉である。
また、マオリ族の人々は、プレアデス星団が見えるようになる時期を新年の基準としており、マタリキには新年という意味もある。

その他
西欧では「七人の姉妹」あるいは「七人の乙女」の名が通っている。ギリシャでは「ぶどうの房」という名もある。
アラブでは「群衆」や「小さきもの」、フランスでは「雛箱」、ドイツでは「とやについた牝鶏」、イタリアでは「小さな牝鶏」、スペインでは「小さな牝山羊」、イギリスでは「七人の乙女」の他「ひよこと牝鶏」とも呼ばれている。
ハワイのマウナケア山頂にある国立天文台の光学赤外線望遠鏡の名称は一般公募の中から選ばれ、すばる望遠鏡と命名された。
ハワイ語では「マカリイ」と呼ばれる。1994年にハワイ島で建造された航海カヌーの船名ともなっている。
ヘシオドスは夏の間、40日も太陽の後ろ側に隠される事に注目した。
プレアデス星団が、太陽から離れ、初めて暁の東天の地平線に姿を現す天体現象は古代には重要な出来事であるとされた。
ユリウス・カエサルは5月の暦にこの日を記した。
プレアデス星団は、スバルのブランド名で日本車を生産している富士重工業のロゴマークに採用されている。
これは富士重工業の創業時に合併した6社の旧中島飛行機系の企業を表す。(ただし現在使用しているマークは実際のプレアデス星団とは形が異なる)。
またアルシオーネ・マイア・アステローぺなど車名に星の名前が用いられている。
ヨブ記38章31節には「あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるか。オリオンの綱を解くことができるか。」という文章がある。
ニューエイジ思想には、プレアデスに地球人と同等かそれ以上の知性・霊性を持つ地球外生命体がいると説くものがある。
そればかりでなくチャネリングの相手とされることもある。



藍布一反かなかな山からとりに来る・・・・飯島晴子
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  藍布一反かなかな山からとりに来る・・・・・・・・・・・・・・・・・飯島晴子

「ひぐらし」はカナカナカナと乾いた声で鳴く。だから、「かなかな」とも呼ぶ。夜明けと夕方に深い森で鳴く。
市街地や里山では聞かない。
この声を聞くと、いかにも秋らしい感じがするが、山間部に入ると7月から鳴いている。海抜の高度や気温に左右されることが多いようだ。

掲出した写真は、ひぐらしの雄である。
「蜩」ひぐらしは、その鳴き声が夏から秋への季節の移り変わりを象徴するようで、何となく寂しそうで、古来、日本人には愛されてきた。
『万葉集』巻十・夏雑に

  もだもあらむ時も鳴かなむひぐらしのものもふ時に鳴きつつもとな

同・秋雑に

  暮(ゆふ)影に来鳴くひぐらしここだくも日毎に聞けど飽かぬ声かも

『古今集』秋・上に

  ひぐらしの鳴く山里の夕暮は風よりほかに訪ふ人もなし

という歌があり、ひぐらしの特徴を巧く捉えている。『和漢三才図会』には「晩景に至りて鳴く声、寂寥たり」とあるのも的確な表現である。
掲出の飯島晴子の句は、並みの発想とちがって「藍布一反」を、かなかなが「山からとりに来る」と詠んで、前衛句らしい秀句である。

ひぐらしを詠った俳句も多いので、以下に引いて終りにする。

 蜩や机を圧す椎の影・・・・・・・・正岡子規

 面白う聞けば蜩夕日かな・・・・・・・・河東碧梧桐

 ひぐらしに灯火はやき一と間かな・・・・・・・・久保田万太郎

 かなかなの鳴きうつりけり夜明雲・・・・・・・・飯田蛇笏

 ひぐらしや熊野へしづむ山幾重・・・・・・・・水原秋桜子

 蜩やどの道も町へ下りてゐる・・・・・・・・臼田亞浪

 会へば兄弟(はらから)ひぐらしの声林立す・・・・・・・・中村草田男

 蜩や雲のとざせる伊達郡・・・・・・・・加藤楸邨

 ひぐらしや人びと帰る家もてり・・・・・・・・片山桃史

 川明りかなかなの声水に入る・・・・・・・・井本農一

 蜩や佐渡にあつまる雲熟るる・・・・・・・・沢木欣一

 蜩の与謝蕪村の匂ひかな・・・・・・・・平井照敏

 しろがねの蜩の翅 京ことば・・・・・・・・鈴木石夫

 ひぐらしに肩のあたりのさみしき日・・・・・・・・草間時彦




鰯雲人に告ぐべきことならず・・・・加藤楸邨
083鰯雲

      鰯雲人に告ぐべきことならず・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

夏の雲は山際にもくもくと立ち上がる「積乱雲」が特徴であるが、秋に入ってくると、写真のように、小さい雲片が小石のように並び集る「巻積雲」いわゆる「鰯雲」が季節の雲となる。
写真のように、規則的にさざ波のように並んでいることもあるが、はなればなれになっていることもある。
高空に出て、鰯が群れるように見えるので鰯雲、鱗のように見えるので鱗雲、鯖の斑紋のように見えるので鯖雲などと呼ぶ。
『栞草』には「秋天、鰯まづ寄らんとする時、一片の白雲あり。その雲、段々として、波のごとし。これを鰯雲といふ」と書かれていて、
鰯雲の特徴を見事に捉えている。
名前に味があり、俳句に愛用される季題のようである。

掲出の楸邨の句は、鰯雲という自然現象の中に「人に告ぐべきことならず」という私的な人事を詠みこんで、見事な主観俳句の秀句とした。
以下、歳時記から鰯雲の句を引く。

 鰯雲日和いよいよ定まりぬ・・・・・・・・高浜虚子

 いわし雲大いなる瀬をさかのぼる・・・・・・・・飯田蛇笏

 松島の上にひろごり鰯雲・・・・・・・・田村木国

 鰯雲昼のままなる月夜かな・・・・・・・・鈴木花蓑

 鰯雲こころの波の末消えて・・・・・・・・水原秋桜子

 鰯雲個々一切事地上にあり・・・・・・・・中村草田男

 妻がゐて子がゐて孤独いわし雲・・・・・・・・安住敦

 鰯雲ひろがりひろがり創痛む・・・・・・・・石田波郷

 鰯雲予感おほむねあざむかず・・・・・・・・軽部烏頭子

 葬られてしまひしものに鰯雲・・・・・・・・中川宋淵

 鰯雲動くよ塔を見てあれば・・・・・・・・山口波津女

 いわし雲城の石垣猫下り来・・・・・・・・森澄雄

 豆腐二丁はなれて沈みいわし雲・・・・・・・・酒井鱒吉

 鰯雲子は消しゴムで母を消す・・・・・・・・平井照敏






馬追がふかき闇より来て青き・・・・上林白草居
1347441569馬追

    馬追がふかき闇より来て青き・・・・・・・・・・・・・・・・上林白草居

スイッチヨは「馬追」のことである。キリギリスより少し小さく、体は緑色。翅はぴったりと烏帽子のように背中で合わされる。
7月末から鳴きだす初秋の虫。スイッチョ、スイッチョと鳴くのが普通である。
その鳴き声が馬を追う声に似ているというので「馬追」の名がある。この虫は、1カ所にとどまらず、移動して鳴く特徴がある。
掲出の句は、とっぷりと暮れた深い夜の闇の中から出現した青いスイッチョを捉えて巧みである。

以下、歳時記からスイッチョの句を引いておく。

 馬追や海より来たる夜の雨・・・・・・・・内藤吐天

 すいつちよや闇に人ゐて立去れり・・・・・・・・池内たけし

 馬追や更けてありたるひと夕立・・・・・・・・星野立子

 馬追の身めぐり責めてすさまじや・・・・・・・・角川源義

 馬追が機の縦糸切るといふ・・・・・・・・有本銘仙

 馬追や水の近江の夜は暗く・・・・・・・・小林七歩

 すいつちよのちよといふまでの間のありし・・・・・・・・下田実花

 すいつちよの髭ふりて夜ふかむらし・・・・・・・・加藤楸邨

 馬追のうしろ馬追来てゐたり・・・・・・・・波多野爽波

 馬追の見えゐて鳴かず短編集・・・・・・・・野沢節子

 すいつちよの酒呑童子となりにけり・・・・・・・・平井照敏



きりぎりす生き身に欲しきこと填まる・・・・野沢節子
kirigirisu0507063940ニシキリギリス


     きりぎりす生き身に欲しきこと填まる・・・・・・・・・・・・・・・野沢節子

キリギリス科の虫で体長は3.5センチほど。翅は腹部を包むようにたたむ。緑色で褐色の斑がある。
チョン、ギースを繰り返して鳴く。ギースチョンとも聞きなす。秋の半ばまで昼に鳴く。
翅脈は鋸の歯のようになっていて、こすりあわせて鳴く。
日本に棲むキリギリスには二種があると言い掲出画像は「ニシキリギリス」と称する虫である。

平安時代から江戸時代まで「コオロギ」のことを「キリギリス」と呼んでいた、らしい。
つまり古今集時代から江戸時代まで、コオロギのことを「きりぎりす」と呼んでいたと言い、混同しやすいので留意したい。
芭蕉の句の「むざんやな甲の下のきりぎりす」というのも、もちろん「コオロギ」のことである。

以下、キリギリスを詠んだ句を引く。

 スカートを敷寝の娘きりぎりす・・・・・・・・滝井孝作

 一湾の潮しづもるきりぎりす・・・・・・・・山口誓子

 きりぎりす時を刻みて限りなし・・・・・・・・中村草田男

 泥濘におどろが影やきりぎりす・・・・・・・・芝不器男

 わが胸の骨息づくやきりぎりす・・・・・・・・石田波郷

 曲らむと鉄路かがやききりぎりす・・・・・・・・軽部烏頭子

 崖下に道なし崖のきりぎりす・・・・・・・・山口波津女

 きりぎりす腸(わた)の底より真青なる・・・・・・・・高橋淡路女

 山の鉱泉に父の晩年きりぎりす・・・・・・・・高島茂

 夜の底に泣く貌もてりきりぎりす・・・・・・・・辛島睦子

 きりぎりす生あるかぎり紅をさす・・・・・・・・久米富美子

 きりぎりす胸に組まれる死者の指・・・・・・・・大井雅人

 きりぎりすチョンを忘るるときもあり・・・・・・・・岡本無漏子
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引用した一番はじめの句の「敷寝」の意味が判る人も少なくなっただろう。
女子学生が制服のスカートのヒダを、夜、蒲団の下にキチンと整えて寝ている間にヒダをきれいに圧し直すことをいう。
今ではベッドで寝る人が殆どであり、こういう光景には、お目にかかれないと思われる。
因みに、この作者の滝井孝作は小説家として有名な人。


サルビアを咲かせ老後の無計画・・・・菖蒲あや
aaoosarubiサルビア大判

──夏秋の花三題──サルビア・アスター・アベリア──

    ■サルビアを咲かせ老後の無計画・・・・・・・・・・・・・・・菖蒲あや

今日は夏から秋への花三題を採り上げることにする。
はじめは写真①のサルビアである。
サルビアというと、もう6月には咲き始めるので俳句では「夏」の季語になっているが、観賞用のものは、秋がもっとも美しいと言って「秋」に分類する歳時記もあるので、ややこしい。
語源はラテン語のサウルス(安全、健康)からという。西洋では葉に香気があるところから家庭薬や料理用の香味料として用いられた。
しかし、この鮮やかな朱色は「夏」の季節のものであろう。
俳句を少し引く。

 一涼のサルビア翳を深くせり・・・・・・・・角川照子

 サルビアの百日働くを疑はず・・・・・・・・山田みづえ

 サルビアや如何なる死をも遁れたし・・・・・・・・殿村莵糸

0917_2_6045アスター

写真②はアスターである。
学名のアスターはラテン語で「星」という意味だが、花の形から来ているのだろう。
もともとヨーロッパ産のアスターがあったが、北アメリカ原産のアスターを1637年に初めてヴァージニアから持ち込んだのはジョン・トラデスカント・ジュニアだったが、ヨーロッパ産のものと交配させるまで、注目はされなかった。英国では、その後、ミカエルマス・デージーと呼ばれるようになった。それはグレゴリオ暦を導入したとき、聖ミカエル祭(9月29日)とアスターの咲く時期がちょうど一致したからだという。
その後、中国原産のアスター(エゾギク)が導入され、さまざまに品種改良されて今日に至っているので、咲く時期も花の品種もさまざまである。
この花は、まだ歳時記には採用されていない。

aaooaveria1アベリア大判

写真③はアベリアである。
この花も暑くなりはじめると咲きはじめ10月一杯咲きつづける。
私の方の道路に面した垣に植えてある。道路の街路樹としても最近よく目にする低木で排気ガスなどの公害にも強い木である。
ピンク色の花もあるが、白い花が清楚である。
アベリアの名は医師で植物学者のクラーク・エーベル博士に因んでいる。1817年中国に赴いたアマースト卿の使節団の一員だったが、彼が持ち帰ったアベリア・シネンシス(タイワンツクバネウツギ)がイギリス本土にもたらされたのだった。
この花も、まだ歳時記には収録されていない。

これから下は②で採り上げたアスターの新品種のバラエティである。

img1040929831クジャクアスター

写真④はクジャクアスターという品種の花である。
何とも上品な藤色の花で高尚な感じがする。
アスターのところで参照したのは先日に採り上げたダイアナ・ウエルズの本によるが、ヨーロッパ産のアスターと北アメリカ産のアスターと中国由来のチャイニーズ・アスター(エゾギク)という三者のさまざまな交配によって、現在のアスター属の豊富な品種揃えが見られるのである。

20050405アスターシエナ

写真⑤はアスター・シエナという「サカタのタネ」が開発したアスターの新品種で耐病性のあるものである。
夏の切花として色もさまざまのものが改良された。
この花は、お盆の供花として私の知人の花卉栽培家のM氏からいただいたものの写真である。
先に紹介したダイアナ・ウエルズ『花の名物語100』の本にもアスターは載っているが、新品種の改良は日進月歩であり、本の記載を上回るペースで進んでゆくのである。
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今回の記事は文芸作品としては貧弱だが、写真としては、せめて花の美しさだけでも観賞してもらいたい。



告ぐることあるごとく肩に蜻蛉きて山城古地図の甦る秋・・・・木村草弥
dragonfly01アカトンボ本命

     告ぐることあるごとく肩に蜻蛉きて
       山城古地図の甦る秋・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、自選50首にも入れてあるのでWeb上でもご覧いただける。
この歌は歌会で「告ぐることあるごとく」という比喩と「山城古地図」の甦りとが巧みに照応して見事だと褒められて高点を得た思い出ふかい歌である。
とんぼは晩春から晩秋まで見られる虫だが、むかしから秋の季語とされている。
肉食で、昆虫を捕えて食べる。種類は日本で120、30種類棲息するが、均翅亞目の「かわとんぼ」「いととんぼ」は夏の季語となる。
これらは止まるとき翅を背中でたたむ。
不均翅亞目は止まるときも翅を平らにひろげ、後翅が前翅より広い。とんぼの多くは、こちらに属する。
図鑑の説明を読むと、なるほど、そうか、と納得する。
これから「赤とんぼ」の飛ぶ季節だが、古来、この赤とんぼ、あるいは「秋あかね」と呼ぶとんぼが、色も赤いく目立って多いので、秋の季語となったのではないか。
写真②は大型の「やんま」の種類である。
FI1703458_2Eケンスジヤンマ

掲出した歌の載る一連を引いておく。

 牧神の午後(抄)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

告ぐることあるごとく肩に蜻蛉きて山城古地図の甦る秋

黒猫が狭庭をよぎる夕べにてチベットの「死の書」を読み始む

妻の剥く梨の丸さを眩しめばけふの夕べの素肌ゆゆしき

サドを隠れ読みし罌粟(けし)畑均(なら)されて秋陽かがやく墓地となりたり

花野ゆく小径の果ての茶畑は墓を抱きをり古地図の里は

秋風に運ばれてゆく蜘蛛の子は空の青さの点となりゆく

秋蝿はぬくき光に陽を舐めて自(し)が死のかげを知らぬがにゐる

牧神の午後ならねわがうたた寝は白蛾の情事をまつぶさに見つ

おしろいばな狭庭に群れて咲き匂ふ妻の夕化粧いまだ終らず

一茎のサルビアの朱(あけ)もえてをり老後の計画など無きものを

つぎつぎに死ぬ人多く変らぬはあの山ばかり生駒嶺見ゆる




夾竹桃東京砂漠灼けはじむ・・・・千代田葛彦
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      夾竹桃東京砂漠灼けはじむ・・・・・・・・・・・・・・・千代田葛彦

夾竹桃は夏の花である。私の子供の頃には夾竹桃なんていう木は、そんなには生えていなかったが、今やあちこちに盛っている。
キョウチクトウは葉が狭く、花が桃に似ているという漢名をそのまま転用している。
夾竹桃は原産地はインドだが、江戸時代に中国から渡来して、当初は仏縁の木として寺院に植えられたが、後に一般に植栽されるようになった。
花は6月頃から咲きはじめ9月一杯咲きつづける。
とにかく炎暑が好きな木であり、強健な木なので公害にも強く、高速道路や工場地帯の隔離壁の作用をする木として多用されている。
花の色は紅色、赤色、白色などさまざまである。
aaookyouch夾竹桃白

炎天下に咲く花というのは限られており、夾竹桃は夏の花として欠かすことの出来ない花となった。
日本人には八月の原爆記念日、敗戦記念日など炎暑の時期に重い、辛い記憶の日々がめぐって来るが、
それらの折々の風景として夾竹桃が強く脳裏に焼きつくのである。
生命力の強さに励まされるという人も居る。ただ毒を持っているので敬遠される向きもある。
明治維新の後の「西南戦役」の際に兵士が、この木で箸を作って十数人が死亡したということが伝えられている。
私の歌にも夾竹桃を詠んだものはあるが、今回は遠慮して、歳時記に載る俳句を引いて終わる。
句に詠まれるのも多く、俳人には好まれる花のようだ。

 夾竹桃戦車は青き油こぼす・・・・・・・・中村草田男

 夾竹桃旅は南へばかりかな・・・・・・・・福永耕二

 夾竹桃花のをはりの海荒るる・・・・・・・・桂信子

 夾竹桃昼は衰へ睡りけり・・・・・・・・草間時彦

 白は目に涼し夾竹桃さへも・・・・・・・・稲畑汀子

 うらごゑのどこからかして夾竹桃・・・・・・・・高島茂

 歯を抜きてちから抜けたり夾竹桃・・・・・・・・角川照子

 夾竹桃河は疲れを溜めて流れ・・・・・・・・有働亨

 夾竹桃燃ゆる揺れざま終戦日・・・・・・・・松崎鉄之介

 夾竹桃しんかんたるに人をにくむ・・・・・・・・加藤楸邨

 夾竹桃奈良のほとけの雀いろ・・・・・・・・角川春樹

 夾竹桃造船の音ぶつかり来・・・・・・・・矢島渚男

 夾竹桃直線の道空港へ・・・・・・・・宮川杵名男

 鬱勃たる夾竹桃の夜明けかな・・・・・・・・平井照敏


浅間曇れば小諸は雨よ蕎麦の花・・・杉田久女
sobaソバの花

      浅間曇れば小諸は雨よ蕎麦の花・・・・・・・・・・・・・・・杉田久女

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)にも

  粟谷は山より暮れてゆく辺り夜目にも白く蕎麦(そば)の花咲く

  窯元へぬかるむ道のつづきけり蕎麦の畑は白とうす紅

  風かるき一と日のをはり陶土練る周囲ぐるりと蕎麦の畑ぞ
・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌群が載っている。
私の住む辺りは大都会の近郊農村で、平地で、蕎麦は昔から栽培されるのを見たことがない。
ということは都会にも近く、かつ温暖で水の便もよく救荒作物である「ソバ」のようなものの世話になる必要のない土地だったということになろうか。

写真①は蕎麦の草を接写したものだが、蕎麦畑の全体像は写真②のようなものである。
buckwheat-6ソバ畑

ソバは夏蒔きと秋蒔きと2回時期があるが、いずれにしても稔るのが早く、2~3カ月で収穫できる。
荒地を厭わないので救荒作物として高冷地では広く栽培されたという。
写真③で「ソバの実」をお見せする。
buckwheat-5ソバの実

この写真は、まだ脱穀したばかりで色が白いが時間が経つと皮が黒っぽくなる。
この実を臼で挽いて出来るのが「ソバ粉」で、粉に少し黒っぽい色がついているのは、皮が混ざっているためである。

 蕎麦はまだ花でもてなす山路かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 山畑や煙りのうへのそばの花・・・・・・・・与謝蕪村

 道のべや手よりこぼれて蕎麦の花・・・・・・・・与謝蕪村

 山畑やそばの白さもぞつとする・・・・・・・・小林一茶

というような昔の句にも詠まれているように、そのさりげない蕎麦の花の風景が愛(め)でられていたのである。
写真④はソバの花を接写したものである。
buckwheat-7ソバの花

今では「そば」と言えば食べるソバがもてはやされて、どこそこの蕎麦が旨いとか、かまびすしいことである。
しかし文芸の世界では「蕎麦の花」がもてはやされる。
食べる「そば」では実態を描きようがないからである。食べる「そば」は味覚の問題であって、文学、文芸上で描写する対象にはなり得ない。
仮に描写することが出来ても、そこから広がる世界、連想、想像を推し量ることには限界がある。

img_22ソバの草

以下、俳句に詠まれた作品を引用しておく。

そばの花山傾けて白かりき・・・・・・・・・山口青邨

 花蕎麦のひかり縹渺天に抜け・・・・・・・・大野林火

 蕎麦の花下北半島なほ北あり・・・・・・・・加藤楸邨

 蕎麦畑のなだれし空の高さかな・・・・・・・・沢木欣一

 山脈の濃くさだまりてそばの花・・・・・・・・長谷川双魚

 蕎麦咲きて牛のふぐりの小暗しや・・・・・・・・中条明

 山村といふも四五戸や蕎麦の花・・・・・・・・長沢青樹

 月光の満ちゆくかぎり蕎麦の花・・・・・・・・古賀まり子

 母にまだとる齢あり蕎麦の花・・・・・・・・村松ひろし


這ひながら根の消えてをり浜昼顔・・・・高橋沐石
hamahiru021浜昼がお

     這ひながら根の消えてをり浜昼顔・・・・・・・・・・・・・・・・高橋沐石

「昼顔」は、およそ野生のもので、よく目にするものとしては「浜昼顔」であろうか。
ヒルガオ科の蔓性多年草で、各地の海岸の砂地に自生する。
砂の中に地下茎が横に走り、地上茎も長く伸びて砂の上を這い、丸くて厚く、光沢のある葉を互生する。
旺盛な繁殖力で、ときに広い面積に群生しているのを見かけることがある。
地域によって異なるが5、6月ごろ葉腋に長い柄を出し、淡い紅色の花を上向きに開く。

この句は、浜昼顔の生態をよく観察したもので、海辺に咲く浜昼顔を過不足なく描写して秀逸である。

私には昼顔や浜昼顔を詠んだ歌はないので、歳時記から句を引いて終わる。

 きらきらと浜昼顔が先んじぬ・・・・・・・・中村汀女

 浜昼顔咲き揃ひみな揺れちがふ・・・・・・・・山口草堂

 浜昼顔風に囁きやすく咲く・・・・・・・・野見山朱鳥

 はまひるがほ空が帽子におりてきて・・・・・・・・川崎展宏

 浜昼顔タンカー白く過ぎゆける・・・・・・・・滝春一

 浜ひるがほ砂が捧ぐる頂きに・・・・・・・・沢木欣一

 昼顔のあれは途方に暮るる色・・・・・・・・飯島晴子

 海高し浜昼顔に跼む吾に・・・・・・・・森田峠

 浜昼顔鳶が落とせし魚光り・・・・・・・宮下翠舟

 浜昼顔廃舟錨錆び果てぬ・・・・・・・・小林康治

 潮泡の音なく崩れ浜昼顔・・・・・・・・稲垣法城子

 天日は浜昼顔に鬱(ふさ)ぎつつ・・・・・・・・中村苑子

 浜昼顔島の空港影もたず・・・・・・・・古賀まり子

 風筋は浜昼顔を駈け去りし・・・・・・・・加藤三七子

 つつつつと浜昼顔の吹かるるよ・・・・・・・・・清崎敏郎

 海鳴りや浜昼顔の引けば寄り・・・・・・・・下鉢清子

 浜昼顔に坐すやさしさの何処より・・・・・・・・向笠和子


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