K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出でたつ少女・・・・大伴家持
aaoomomo00桃の花
  
  春の苑(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花
    下照る道に出でたつ少女(をとめ)・・・・・・・・・・・・・大伴家持


大伴家持は天平18年から5年間、推定だが、29歳から34歳までの壮年期に、現在の富山県から能登半島を含む北国一帯の長官たる越中守として赴任していた。
この歌は34歳の年の三月一日、春の苑の桃と李(すもも)を眺めて詠った二首のうちの、桃の花の歌である。
「万葉集」巻19の巻頭を飾る歌である。
「にほふ」は本来、色が美しく照り映える意味。「下照る」の「した」は下の意とも、また赤く色づく意ともいう。
花の咲いている木の下が花の美しい色で照っていること。
と同時に下の句の木の下に立つ乙女の輝かしさをも暗示する効果がある。
満開の桃の花の下の乙女は、家持が呼び出した夢の精のようにも感じられる。

因みに、この歌につづく歌を、ここに挙げてみよう。

  わが園の李の花か庭に落(ち)るはだれの未だ遺りたるかも・・・・・・・・・・大伴家持

大伴家持は「万葉集」の編纂者ではないか、と推定されている程、歌の数が多い。
大伴一族は古代からの武門として有名な一族である。
父は大伴旅人(たびと)、叔母に大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)が居る。
「万葉集」巻6に、この二人の歌が二首並べて載っている。

    月立ちてただ三日月の眉根掻き日(け)長く恋ひし君に逢へるかも・・・・・・坂上郎女

    ふりさけて若月見れば一目見し人の眉引思ほゆるかも・・・・・・・・・・大伴家持

この時、家持16歳だったと言われている。どうやら、この頃は叔母に作歌の手ほどきを受けていたらしいと言われている。

後に成人してからは、都に在る時は、天皇の傍に侍る宮廷歌人としての役割を務めているが、時の権力をめぐって藤原一族と皇族派との紛争に巻き込まれて、時に左遷人事とも思えるような仕打ちを受けたらしい。
参考として、私が書いた「恭仁京と大伴家持」というエッセイの文章もお読み頂きたい。(注・「山城町」は合併して現在は「木津川市・山城町」となっている)
もう一人の柿本人麻呂と共に「万葉集」を支える大歌人であろう。
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以下、Web上に載る記事を転載しておく。

大伴家持
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大伴 家持(おおとも の やかもち、養老2年(718年)頃 ~ 延暦4年8月28日(785年10月5日))は奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。祖父は大伴安麻呂。父は大伴旅人。弟に大伴書持がいる。叔母には大伴坂上郎女がいる。鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父である可能性がある。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下となる。

天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。天平勝宝3年(751年)までに赴任。この間に220余首の歌を詠んだ。少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。

橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画に立案した。事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。

没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。

歌人としての家持
長歌・短歌などあわせて473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七~二十は、私家集の観もある。『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。正五位下になるのは、11年後のことである。『百人一首』の歌(かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)は、『万葉集』には載っていない。



東野翠れん『イスラエルに揺れる』・・・・・木村草弥
東野

──新・読書ノート──

     東野翠れん『イスラエルに揺れる』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・・㈱リトルモア2011/11/09刊・・・・・・・・・・

この本は東野翠れんのエッセイ集・写真集である。彼女は、写真家、ファッションモデル。日本人の父とイスラエル人の母を持つ。
私も2000年にイスラエルに行ったことがあるので親近感を持って、この本を買ってみた。
彼女の父や母、祖母など近親や友人たちを巡って、かの地の風土や習俗などを描いている。
写真家だけあって挿入写真も多い。
イスラエルの野に咲く花の写真が本のカバーの表裏にカラーで載せてある。
この本の表題の「イスラエルに揺れる」というのは、どういう意味なのだろうか。
この本の「はじめに」に、こんな個所がある。

<今わたしは日本にいます。2011年3月11日を経験してから、新しい目を、鼻を、耳を必要としている、そんな感覚があります。
それはもしかしたら、イスラエルを歩くときに必要とする、目や鼻や耳に、どことなく似ているかもしれない・・・・・と感じている。
イスラエルも、日本も、故郷という言葉のもつ輝きそのもののなかで揺れている。>

この彼女の繊細な感覚は鋭い。
東日本大震災の被災者に接するときに、大ざっぱな、横柄な、ぶしつけな態度が許されない、のと同じ意味で、イスラエルの民の辿ってきた道は尊重されねばならない。
もっとも、イスラエルも、何千年来の「怨念」ばかりに縋らないないで、周辺のアラブの国と「共存」する道を選んでほしいというのが私たちの願望なのだが。

この本のはじめにイスラエルの地図が載っている。
この本に登場する人たちは
「私」 日本人の父、イスラエル人の母のもと東京で生まれ育つ。幼少期に二年間イスラエルで暮らし、その後もたびたび訪れている。妹がいる。
「母」 私の母。イスラエル人。ポーランド出身の父と、イギリス出身の母のもとエルサレムで生まれる。ギブアタイム育ち。いまは東京に暮らす。
「サフタ」 私の祖母。サフタはヘブライ語でおばあちゃんという意味。名はグローリア。1949年にイスラエルへ渡った。国連で勤務したこともある。
「サバ」 私の祖父。サバはヘブライ語でおじいちゃんという意味。いまは二番目の奥さんとイスラエルに暮らす。
「タミ」 母の妹。イスラエルのテルアビブで暮している。空港まで私たちをいつも迎えに来てくれる。
「モシェ」 その夫。
「ガル」 その息子。ガルはヘブライ語で波という意味。
「ツィビ」 その犬るあわい茶色のたくましい犬。
「プレマ」 母の古い友人で、ハイファ近郊のマフラという小さな村に住む。ドイツ人。美しい機を織る。
「ニツァン」 その夫。イスラエル人。太極拳を教えている。
「ヨナタン」 その長男。
「ラファエロ」 その次男。サーフィンが好きでいつも海にいる。
「イタマール」 その三男。ラファエロと同じくらいサーフィンが好き。私の妹と年が近い。
「ローズ」 母のいちばん年上の友人。母が徴兵を終え放浪の途中ギリシャ行きの船で出会った。ロスアンジェルスに住む。
「イングリッド」 母の古い友人。紅海沿岸、ドルフィンリーフのあるエイラットに住む。
「ピナ」 サフタの古い友人。いまはテルアビブのはずれにある老人ホームに暮らす。私にイデッッシュ語の話をしてくれた。
「ツィガレ」 ゴラン高原でワイナリーを営む。よく働く三人の息子がいる。

長々と「この本に登場するおもな人びと」を書き写したが、皆さんにはわかり難いかも知れないが、かの地に行ったことのある私には大切なことである。
イスラエルでは男も女も平等に18歳になれば三年間の徴兵の義務があるのである。
休暇で家に帰るときも彼らは、いつも制服で「銃」を携行している。
その間、紛争、戦争が起これば命を落すこともある。だから、ここに書かれているように、徴兵が終った後は、彼らは世界中に「放浪」に出る。
その後に大学に入ったりする。
詳しくは、私のHPの「ダビデの星─イスラエル紀行」を参照されたい。 

以下、彼女の概略をWikipediaから引いておく。

1a8f783be31dcb8983eec4bcae08c212東野翠れん

東野翠れん
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

東野 翠れん(ひがしの すいれん 1983年8月25日 - )は、日本の写真家、ファッションモデル。日本人の父とイスラエル人の母を持つ。

14歳から写真を撮りはじめ、ミュージシャンのポートレートなどを撮影するようになる。現在は、雑誌連載や写真集の出版などの活動を行っている。友人である湯川潮音の音楽CDのジャケット写真は彼女が撮影している。

同時に雑誌のモデルをつとめたり、CMにも出演するなどした。

著作
写真集など
Lumi`ere (2005年2月 扶桑社) - 最初の写真集。詩集。
lopen (2005年6月29日) - 8mmフィルムで撮影されたオランダでのプライヴェート・フィルム & サウンドトラック。(CD + DVD)
縷縷日記 (2006年3月17日 リトルモア) - 市川実和子、eriとの交換日記。
風花空心 (2006年7月26日 リトルモア) - J-WAVEで湯川潮音とともに公開していたblogを書籍化。
光の滝-Cascads Of Lights-(2008年5月) CowBooksのリトルプレスフェア用に10部製作(販売は6部)
ひかりをあびて うかびあがる かがやく きらきらと やわらかく-(2011年9月) CowBooksのリトルプレスフェア用に25部製作(販売は15部)
イスラエルに揺れる (2011年10月27日 リトルモア) - エッセイ。
季刊誌「真夜中」の連載「イスラエルに揺れるペーラッフ」を改題し、加筆修正・書き下ろしを加え書籍化。

雑誌連載
PS - monthly best shot
リンカラン - suicology
季刊 真夜中 - イスラエルに揺れるペーラッフ

出演・掲載
写真集
きもののたび (2003年9月 / 白尾零二 吉場正和 工藤真衣子 渡邊安治 ほか / ワイレア出版)
アンティーク着物のスタイリングブック。他、蒼井優など9人。
豆千代の着物モダン (2003年11月 / 豆千代 / マーブルブックス)
豆千代による着物コーディネートなど。
アムール 翠れん (2005年1月 / ホンマタカシ / プチグラパブリッシング)
ホンマタカシによる東野翠れんの写真集。アムール川の旅行記。
a girl like you 君になりたい (2005年7月 / 渋谷直角 佐内正史 / マガジンハウス)
relax連載の未使用カットをまとめた普段着感覚の写真集。他、宮崎あおいなど40人。
青の時間―THROUGH THE LOOKING‐GIRL(2006年8月 / 永瀬沙世 / プチグラパブリッシング)
写真家・永瀬沙世による写真集。他、清水ゆみなど。

雑誌
Spoon.
relax
mini
Olive
SEDA
CUTiE

PV
フジファブリック (2005年) 「桜の季節」

CM
エプソン (2002年)
マシェリ (2003年) 「オシャレゴルフ篇」
カゴメデリ (2003年) 「うわさのお店 リゾット篇/ペンネ篇」
カルビー (2003年) 「さつまりこ」
ボーダフォン (2003年) 「メーターと女の子篇」
親和銀行 (2003年) 「うれしいニュース篇/散歩しながら篇」
日産自動車 (2006年10月5日~)「マーチ 私らしくRED篇」
ユニクロ(2011年)「暖パン 東野翠れん篇」

ラジオ
土曜の夜はケータイ短歌 (NHK)
ap bank radio! THE LAST WAVE (TOKYO-FM) - MCとして出演
その他
100万人のキャンドルナイト (2005summer)
外部リンク
テレビCMギャラリー(親和銀行)

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 ↑ イスラエルの野に咲く「アネモネ属」の花。 アネモネはイスラエルの「国花」になっている。
この写真は私のブログのページに載っている。


次に落つる椿がわかる一童女・・・・和田耕三郎
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  次に落つる椿がわかる一童女・・・・・・・・・・・・・和田耕三郎

この句は面白い。ある童女が「次は、あの椿が落ちるよ」と言えば、不思議に、その花が落ちる、という句であろうか。
この作者のことは何も判らない。
森澄雄編集の「花の大歳時記」という大部の本に載っているもの。
昨日も「椿」を採りあげたが、今日も続いて椿を載せる。
特定の作家ということではなく、出来るだけ多くの作家の句を採りあげて鑑賞する。

 腸(はらわた)のよろこんでゐる落椿・・・・・・・・・・・・飯島晴子

 あけぼのや陸(くが)の水泡の白椿・・・・・・・・・・・・林翔

 椿散るああなまぬるき昼の火事・・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男

 掃くは惜し掃かぬは憂しや落椿・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 落椿ふむ外はなき径かな・・・・・・・・・・・・・富安風生

 椿咲く出雲八重垣神の婚・・・・・・・・・・・・角川源義

 釘づけにさる神隠てふ椿見・・・・・・・・・・・・石川桂郎

 白椿老僧みずみずしく遊ぶ・・・・・・・・・・・・金子兜太

 濡れてゐし雨の椿をいま憶ふ・・・・・・・・・・・・橋本鶏二

 落椿くだく音して仔馬来ぬ・・・・・・・・・・・・石原八束

 椿落つ脈絡何もなかりけり・・・・・・・・・・・・岡本眸

 白椿みていて身の裡昏れはじむ・・・・・・・・・・・・杉本雷造

 橋すぎて椿ばかりの照りの中・・・・・・・・・・・・平井照敏

 牛角力の花道うづめ落椿・・・・・・・・・・・・下田稔

 一園の椿五衰に入りにけり・・・・・・・・・・・・石田勝彦

 はたと膝打ちたるごとく椿落つ・・・・・・・・・・・・須磨直俊

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飯島晴子、富沢赤黄男の句は前衛的な句で、人によっては好き嫌いがあろうが、面白い句である。
金子兜太の句は前衛的作家でありながら、それとはちょっと違って、諧謔性のある句と言えようか。
橋本鶏二の句は、さっき見た雨に濡れていた椿を、後になって思い出して感慨にふける、という内省的な佳い句である。
あとは皆さん、それぞれに鑑賞して頂きたい。


赤い椿白い椿と落ちにけり・・・・河東碧梧桐
t-kurowabi黒詫助(関西)

   赤い椿白い椿と落ちにけり・・・・・・・・・・・・・河東碧梧桐

碧梧桐は明治6年松山市生まれ。
中学生の頃から同郷の先輩正岡子規の影響で俳句をはじめ、高浜虚子とは当時から親友であり、かつ好敵手だった。

この句は明治29年の作と言われ、印象明瞭な新世代の秀作だと子規が絶賛、有名になったという、初期の代表作。
この句は、読みようによっては、まず赤い椿が落ち、ついで白い椿が落ちる、というようにも読めるが、作者自身は、紅白二本の椿の下に赤い花、白い花それぞれが散っている情景に感興を得たようである。

t-konoesiro近衛白(関西)

碧梧桐は虚子と競って句や文章に活躍したが、次第に虚子との確執が抜き差しならないものになり、その後、「新傾向」と言われる運動に突き進むことになる。
この面では、毀誉褒貶あい半ばする、というのが本当だろう。

ここでは、碧梧桐を論ずるのが本筋ではなく、季節の花として「椿」を語ることにする。
椿は「山茶」と書くのが正式らしく、その字の感覚からも、さざんか(山茶花と書く)や茶の木と同種である。
木扁に春と書くように、日本の春の代表的な花である。豊臣秀吉の椿好きがよく知られ、俳人では石田波郷がこの花を好んだ、と書いてある。
「玉椿」は椿の美称。「つらつら椿」は連なり生えた椿で、万葉集に出てくる。落ち椿の印象が、よく詠われる。
以下、歳時記にも載る代表的な椿の句を挙げておきたい。

 水入れて鉢に受けたる椿かな・・・・・・・・・・・・鬼貫

 落ちなむを葉にかかへたる椿かな・・・・・・・・・・・・召波

 落椿投げて暖炉の火の上に・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 落椿かかる地上に菓子のごとし・・・・・・・・・・・・西東三鬼

 御嶽の雲に真つ赤なおそ椿・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 人仰ぐ我家の椿仰ぎけり・・・・・・・・・・・・高野素十

 椿見て一日雨の加賀言葉・・・・・・・・・・・・森澄雄

 雪解けの底鳴り水に落椿・・・・・・・・・・・・石原八束



生きる途中土筆を摘んでゐる途中・・・・鳥居真理子
tukusikinokawa土筆

     生きる途中土筆を摘んでゐる途中・・・・・・・・・・鳥居真理子
 
掲出したこの句は「土筆を摘んでゐる途中」の描写の中に「生きる途中」という心象を盛って秀逸である。

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものに、こんな歌がある。
 
    夜の卓に土筆(つくし)の吐ける胞子とび我死なば土葬となせとは言へず・・・・・・・・・・木村草弥

川の堤防の土手などに「つくし」が頭を出す時期になってきた。
採ってきた「つくし」をテーブルの上などに置いておくと、未熟なものでは駄目だが、生長した茎が入っていると、
私の歌にあるように「胞子」が白く下に溜まってばら撒かれることがある。

この頃では季節の野草としてスーパーなどで「つくし」が売られるような時代になってきたが、本来は春の野にでて「摘草」を楽しむものであろう。
「つくし」は「スギナ」の若い芽(正しくは胞子茎)で、学名をEquisetum arvense という。
スギナは嫌われものの野草で深い根を持ち、畑などに侵入すると始末に負えないものである。
食料として「つくし」を見ると、子供には、苦くて、旨くなくて、なじめない野草だった。大人の、それも男の大人の酒の肴というところであろうか。

昔の人は、土の中から、あたかも「筆」先のような形で出てくるので、これを「土筆」(つくし)と呼んだのである。

tukusi土筆

私の歌は「国原」という長い一連の中のもので、この歌の前に

    土筆(つくし)生(お)ふ畝火山雄々し果せざる男の夢は蘇我物部の

    あり無しの時の過ぎゆく老い人にも村の掟ぞ 土筆闌(た)けゆく


という歌が載っている。
こうして一首あるいは二首を抜き出すと判りにくいかも知れない。一連の歌の中で、或る雰囲気を出そうとしたものだからである。
掲出した歌も上の句と下の句とが、ちょうど俳句の場合の「二物衝撃」のような歌作りになっていて、
この両者に直接的なつながりはなく、それを一首の中に融合させようとしたものである。
敗戦後しばらくまでは、私の地方では、伝統的に「土葬」だった。
私なども町内の手伝いとして何度も、土葬のために墓の穴掘りに出たものである。すでに埋葬された人の人骨などが出てくることもあった。
キリスト教では基本的に土葬であり、土葬が野蛮とか遅れているとかいうことは出来ない。風習の問題である。
「火葬」は仏教に特異な遺体の処理法であると知るべきである。今では、当地も、すっかり火葬一色になってしまった。
墓が石碑で固めた墓地になってしまったので、私だけ「土葬」にしてくれ、といっても出来ない相談である。

二番目の歌について少し解説しておくと「蘇我物部」(そが・もののべ)というのは、蘇我氏、物部氏とも滅びた氏族である。
ご存じのように蘇我氏は渡来人系であり、物部氏は日本古来の氏族であったが蘇我氏などとの抗争で滅ぼされた。
だから私の歌では、それを「果せざる男の夢」と表現してみたのである。

墓地にはスギナが、よく「はびこる」ものである。
私の歌の一連は、そういう墓地とスギナとの結びつきからの連想も歌作りに影響している、とも言えようか。
「つくし」を詠んだ句は大変多いので、少し引いておく。
写真③が土筆が生長した「スギナ」である。まだ遅生えの土筆も見える。

sugina-apスギナ

 土筆野やよろこぶ母に摘みあます・・・・・・・・・・長谷川かな女

 病子規の摘みたかりけむ土筆摘む・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 つくづくし筆一本の遅筆の父・・・・・・・・・・中村草田男

 土筆見て巡査かんがへ引返す・・・・・・・・・・加藤楸邨

 まま事の飯もおさいも土筆かな・・・・・・・・・・星野立子

 土をでしばかりの土筆鍋に煮る・・・・・・・・・・百合山羽公

 土筆折る音たまりける体かな・・・・・・・・・・飯島晴子

 生を祝ぐ脚長うしてつくしんぼ・・・・・・・・・・村越化石

 土筆の袴とりつつ話すほどのこと・・・・・・・・・・大橋敦子

 惜命や夜のつくしの胞子吐く・・・・・・・・・・神蔵器

 一行土筆を置けば隠れけり・・・・・・・・・・小桧山繁子

 土筆など摘むや本来無一物・・・・・・・・・・矢島渚男

 週刊新潮けふ発売の土筆かな・・・・・・・・・・中原道夫

 着ると暑く脱ぐと寒くてつくしんぼ・・・・・・・・・・池田澄子

 「はい」と言ふ「土筆摘んでるの」と聞くと・・・・・・・・・・小沢実

 生き死にの話に及び土筆和え・・・・・・・・・・増田斗志

 末黒野の中の無傷のつくづくし・・・・・・・・・・村上喜代子

 摘み溜めて母の遠さよつくづくし・・・・・・・・・・田部谷紫

 土筆たのし巨木のやうに児は描く・・・・・・・・・・国分章司



日高敏隆『春の数えかた』・・・・木村草弥
春

──新・読書ノート──

       日高敏隆『春の数えかた』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・・・・・新潮文庫・ 2005/02/01初版、2012/2/20十刷・・・・・・・・・・・

       著名な動物行動学者の、発見に充ちたエッセイ集。
       春が来れば虫が動く――
       でもどうやって彼らは春を知るのでしょう? 
       第50回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。

    春が来れば花が咲き虫が集う──当たり前? でもどうやって彼らは春を知るのでしょう?
    鳥も植物も虫も、生き物たちは皆それぞれの方法で三寒四温を積算し、季節を計っています。
    そして植物は毎年ほぼ同じ高さに花をつけ、虫は時期を合わせて目を覚まし、それを見つけます。
    自然界の不思議には驚くばかりです。
    日本を代表する動物行動学者による、発見に充ちたエッセイ集。

日高敏隆/ヒダカ・トシタカ

(1930-2009)東京生れ。東京大学理学部動物学科卒業。東京農工大学教授、京都大学教授、滋賀県立大学学長、総合地球環境学研究所所長などを歴任。京都大学名誉教授。動物行動学をいち早く日本に紹介し、日本動物行動学会を設立、初代会長。主な著書に『チョウはなぜ飛ぶか』『人間は遺伝か環境か?』『ネコはどうしてわがままか』『動物と人間の世界認識』『生きものの流儀』など。訳書に『利己的な遺伝子』『ソロモンの指環』『ファーブル植物記』などがある。2001(平成13)年『春の数えかた』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。

目次

春を探しに
赤の女王
動物行動学(エソロジー)としてのファッション ボディーガードを呼ぶ植物
カタクリとギフチョウ
ホタル
夏のコオロギ
植物と虫の闘い
八月のモンゴルにて
シャワー
スリッパ再論
街のハヤブサ
冬の花
鳥たちの合意
効率と忍耐
チョウの数
諫早で思ったこと
灯にくる虫
動物の予知能力
洞窟昆虫はどこから来たか
秋の蛾の朝
モンシロチョウの一年の計
幻想の標語
人里とエコトーン
暖冬と飛行機
わけのわからぬ昼の蛾たち
緑なら自然か?
チョウたちの夏
セミは誰がつくったか
おいわあねっか屋久島
ヴァヌアツでの数日
ハスの季節
ペンギンの泳ぎ
二月の思い
ヒキガエルの季節
春の数えかた
 あとがき
 文庫化にあたってのあとがき
  解説 椎名誠
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『春の数えかた』から、一番はじめのエッセイを引いておく。

春を探しに

 新年のことを新春というが、このことばは、子どものころのぼくにはどうしてもしっくりこなかった。
 その理由はじつに単純であった。こんなに寒いのに何が春なんだ? ということである。
 ぼくが子どものころといえば、第二次大戦のまっ最中。もともと隙間だらけで火鉢しかない日本家屋で、すべての物資が不足している状態では、正月は寒い。寒々とした飾りつけの正月用の部屋は、なおさらわびしい感じがする。けれどそこに置いてある新聞には、「新春を壽ぐ」などと大きな活字で書いてある。うそばっかり! 大人ってどうしてこんなうそを平気で信じられるんだろう? 子ども心にはそう思わざるを得なかった。
 ぼくにとって春といえば、せめて三月。暖かくなって、庭に植えたチューリップの芽が出る。外へ出れば、明るい日射しの中を、小さな虫がキラキラ光りながら飛んでいる。捕えてみると、冬を越してきたマグソコガネだ。小さなチョウチョがちらりと姿をあらわす。ルリシジミだ。そんなのを見てはじめて、ぼくは春だと思えるのだった。
 戦争が終わって、ぼくらの世界は広がった。クリスマス・カードなどというものも復活した。いや復活したというより、話にしか聞いていなかったクリスマスが現実のものとなり、ぼくらはそれに惹きつけられた。
 今から見ればずいぶん地味なものであったけれど、クリスマス・カードは色とりどりで華やかであった。筆で「新春」などと書かれた年賀状より、はるかに楽しかった。
 クリスマス・カードには二つのタイプがある。キリストの生まれたときの様子を描いたものと、現実の場でのものとである。
 ぼくは後者に興味をもった。ヨーロッパ風のものは、雪が積もっていたり、ヒイラギの赤い実が描いてあったりして、現実の冬を映している。そんなものがあまりポピュラーでないアメリカのは、赤いポインセチアが主流である。ポインセチアなどという植物をキリスト様が知っていたはずは絶対にないのだから、これはこっけいにも思えたが、とにかくその人々が現実に見ている世界を描いた、素直なものだと思った。「新春」とはまるでちがうなと思った。
 日本にはどうしてこんなにうそや約束ごとが多いのだろうと、いささかうんざりして、ぼくは現実の春を探して歩くようになった。
 それは意外に近いところにあった。
 正月には無理だが、それでも道ばたの枯れ草の根本をちょっとはぐってみると、何とそこには新しい芽が生えてきているではないか。二月ごろ、寒さにふるえながら、郊外の池のほとりを歩いてみると、ハンノキの花があの独特な風情でたくさん枝から下がっている。
 植物だけではなくて、虫もいた。
 そのころは東京でも、ちょっと郊外へいけば、あちこちに雑木林が残っていた。林の中を歩きまわっているうちに、ふと枯れ木にカワラタケがたくさん生えているのに気づく。サルノコシカケをうんと小さく扁たくしたような、乾いたキノコである。キノコの表面には上から落ちてきた粉のようなものがたくさんついている。もしやと思って目をこらすと、いる、いる、キノコムシと呼ばれる小さな甲虫が二、三匹、キノコの裏を歩いている。
 林の中に、一羽の小鳥が死んでいた。近づいてみると、またべつの小さな甲虫が十匹ほど、ぼくの気配に気づいたのか、小鳥の体の上をチョコチョコ走って逃げだした。チビシデムシだった。その日はどんより曇った寒い日であったが、この小さな虫たちの元気なこと! 彼らにはもう春だったのだろう。
 けれど、寒さをこらえながら春を感じるのはやっぱりむずかしい。ときには少し汗ばむくらい暖かくて、風も快く、心底から春だなあと思えるのはやはり四月になってからだ。
 四月下旬の山すそは本当に楽しい。花はそこにもここにも惜しげもなく咲いている。種によって思い思いの形と色をしたそれらの花たちには、それぞれにお目当ての虫がいるのだろう。
 歩いていくうちに、道は林の中へ入っていき、両側が崖になったほの暗い場所になる。そのほの暗い地上に、突如として明るい点々が広がる。ネコノメソウの密生だ。
 高さ一○センチほどの小さな草であるネコノメソウは、少し暗くて水のしたたっているような崖の下に好んで生える。いちばんてっぺんの対生の葉は、緑ではなく明るい黄色である。一つの平面の中で向きあった明るい色の二枚の葉の間にはさまれて、暗色の小さな花がある。これを上から見ると、いかにもネコの目ということばがぴったりだ。
 このネコの目はもちろん、何も見ていない。けれどそこにしばらく佇んで、地上に広がるたくさんのネコの目を見ていると、そのネコたちの目もぼくをじっとみつめているような気がしてくる。
 それはふしぎな感覚だった。ごく最近、植物に電極を差しこんで植物体の電流を記録していると、植物が人間のことばに反応して、電流の強さがいろいろに変わるというテレビを見た。そんなことがあるのかどうか、ぼくは知らない。ネコノメソウのネコの目がぼくを見ているなどということは、あくまでぼくの幻想にすぎない。けれど、動物も植物も、それぞれがそれぞれの論理で生きているということ、ネコノメソウがネコの目のような葉をつけることにも、ネコノメソウなりの理由があるのだということに、ぼくがおぼろげながら気づいたのは、このときであったような気がする。
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日高敏隆先生は、惜しくも先年亡くなられたが、私の敬愛するエッセイの書き手だった。
このブログでも採り上げたし、詩集『愛の寓意』でも散文詩に仕立てた。
このエッセイ集が再刊されたので、読んでみた。


連翹の花にとどろくむなぞこに浄く不断のわが泉あり・・・・山田あき
H11-PCD1116-014m山田あき

  連翹の花にとどろくむなぞこに
    浄(きよ)く不断のわが泉あり・・・・・・・・・・・・・・・・・山田あき


昨日、坪野哲久の歌を採りあげたので、その夫人である山田あきの歌をここで挙げてみたい。
いま気づいたのだが、哲久とあきは、あきの方が六つ年上である。
哲久、あき共に先年亡くなった。
二人は同じ文学的志を共有した夫婦で、終生かわることがなかった。
掲出の歌も連翹の花に言寄せながら、胸底に「浄く」湧き上がる「不断の」わが泉がある、という揚言である。
こういう勁い意思表示の出来る歌人は、そう居ない。

掲出した写真は、この歌を自筆した彼女の色紙である。彼女自身も、この歌が好きであったことが判る。

少し彼女の歌を引用してみよう。いずれも生前「自選アンソロジー」に収録されたものである。

 戦に子を死なしめてめざめたる母の命を否定してみよ

 すがすがと秋の古巣を落し去る蜂の集団われにまされり
 
 寒の鮒笊にみじろぎ光発(た)つかくしも冴ゆる命あるものよ

 みずからの選択重し貧病苦弾圧苦などわが財として

 縛されてきみ若かりし指先に茫々とあそぶ今日の煙草火

 古史伏せて声哭くものをきかんとすみじめに過ぎき人類の母

 新しき世紀をよぶは誰ならん拈華(ねんげ)微笑(みしょう)のアジアびとあり

 夜を徹し規(ただ)しあいたる若き日の一途は過ぎぬ黒き渦朱き渦

 原初くらく文字無き国の裔(すえ)われら漢字一字のめぐみ忘れず

 捨身飼虎この語のひびき聴くのみに魂ふるえつつ終らむおそれ

 一握の塩を出し合う誠あらばこの世明るくまた進むべし

 大いなる歴史を見よやうつくしく興るものあり滅び去るあり

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夫・坪野哲久とともに夫人の山田あきも「述志」の歌人と言えよう。最近は、こういう述志の歌人は、ほとんど居なくなった。
ここに引用した歌を見れば判るように、終始一貫して、戦前は侵略戦争に、戦後は原爆反対や、戦前の中国をはじめとするアジア人への残虐な日本の仕打ちへの謝罪など、首尾一貫した生を生きた夫婦である。



春潮のあらぶるきけば丘こゆる蝶のつばさもまだつよからず ・・・・坪野哲久
kityou4黄蝶

  春潮のあらぶるきけば丘こゆる
    蝶のつばさもまだつよからず ・・・・・・・・・・・・・・坪野哲久


この歌は敗戦翌年の春の歌。
かよわい蝶の翼と、荒らぶる春潮との対比の中には、単に自然界の描写にとどまらず、当時のきびしい時代相の、おのずからなる心象風景も含まれるように思われる。
「丘こゆる」という簡潔な描写が、この歌では、よく生きている。
重圧に耐えつつ、挑む生まれたばかりの小さな生命が、この飛びゆくものの描写の中に、可憐に、しかも雄々しく表現し尽されている。
能登生まれの作者は孤高詰屈の調べを持っているが、その中にも孤愁がにじみ、浪漫的な郷愁が流露するところに、独特の魅力がある。

知らない読者のために、坪野哲久の経歴を少し書いてみよう。

「アララギ」から出発し、「ポトナム」などで戦前活躍した人だが、昭和初年、新興歌人連盟に参加、プロレタリア短歌運動で活躍したが、第一歌集『九月一日』が発禁処分を受ける。
獄中生活など苦難を体験。夫人は、その頃知り合った山田あき、である。この夫人も名のある歌人。
こういう経歴の持ち主と知れば、さまざまな「くびき」から解放された作者の心象が、掲出した歌には、十全に表出されている、と知ることが出来よう。

坪野哲久の歌を少し引用してみよう。

  憂ふれば春の夜ぐもの流らふるたどたどとしてわれきらめかず

  春さむきかぜ一陣の花びらがわが頬をうち凝然と佇つ

  春のみづくぼめて落ちし遺響ありおもく静かに水は往きにき

  たんぽぽのはびこる青に犬は跳びきりきりと排糞の輪をかきはじむ

  にんげんのわれを朋とし犬の愛きわまるときにわが腓(こむら)噛む

  百姓の子に生れたるいちぶんを徹すねがいぞ論理にあらず

  ほら聞けよぶんぶん山から風がきて裏の蕪がただ太るぞえ

  残り生が一年刻みとなりしこと妻とわらえりあとさきいずれ

  死ぬるときああ爺ったんと呼びくれよわれの堕地獄いさぎよからん

  つまどいの猫のさわぎも生きもののうつくしさにて春ならんとす

  無名者の無念を継ぎて詠うこと詩のまことにて人なれば負う

  老人のぼくだけですね雨のなか生ごみという物を運ぶは



春さればしだり柳のとををにも妹は心に乗りにけるかも・・・・柿本人麻呂
2009022F252F462Fc0108146_234431887柳新芽

   春さればしだり柳のとををにも
     妹(いも)は心に乗りにけるかも・・・・・・・・・・・・・柿本人麻呂


この歌の意味は、春になると、しだれ柳がたわたわとしなう。そのように私の心もしなう。そのしなった私の心の上に、恋人よ、おまえは乗ってしまった。
「春されば」のサルは「移る」の意で、春が来ると、の意味。
「とをを」は「撓(とをを)」で、タワワの母音が変化した形、たわみしなうさま。
「妹は心に乗りにけるかも」という、現代でも新鮮な具象的映像による表現は、当時の古代人にも大変好まれたようで、『万葉集』には同工異曲の歌が散見される。
『万葉集』巻十所載。

『柿本人麻呂歌集』には、人麻呂自身の作と、当時民間で歌われた民謡を人麻呂が採集記録したものとが含まれていると考えられるが、広義には記録者としての人麻呂の作と考えてよいだろう、と言われている。

柿本人麻呂の忌日は陰暦3月18日とされている。新暦だが、その日に因んで載せる。

人麻呂は『万葉集』の代表歌人、歌聖と言われた。
彼の伝記はほとんど不明で、生没年も判らないが、『正徹物語』の説によって、この日を忌日とする。
3月18日は、小野小町や和泉式部の忌日でもあり、この日は民俗的に大切な日であったらしい。
人麻呂忌を詠った句を引いて終りにしたい。

 土佐が画の人丸兀(は)げし忌日かな・・・・・・・・正岡子規

 山の辺の赤人が好き人丸忌・・・・・・・・高浜虚子

 人丸忌わが俳諧をもて修す・・・・・・・・富安風生

 二三人薄月の夜や人丸忌・・・・・・・・飯田蛇笏

 いはみのくにいまも遠しや人丸忌・・・・・・・・山口青邨

 人麿忌野に立つ我もかぎろふか・・・・・・・・大庭雄三

 人麿とつたへし像をまつりけり・・・・・・・・水原秋桜子

 人丸忌歌を詠むにはあらねども・・・・・・・・大橋越央子

 顔知らぬ人々寄りぬ人麿忌・・・・・・・・阿部みどり女

 山国の川美しや人麿忌・・・・・・・・西本一都

 歌やめて太りし妻や人麿忌・・・・・・・・肥田埜勝美

 人麻呂忌砂にひろごる波の末・・・・・・・・長尾俊彦

 人麿忌旅の枕を返しけり・・・・・・・・細貝幸次郎

 謎の歌石見に残る人麻呂忌・・・・・・・・水津八重子



鮭ぶち切って菫ただようわが夕餉・・・・赤尾兜子
e0083820_12144715兜子色紙

     鮭ぶち切って菫ただようわが夕餉・・・・・・・・・・・・・・・赤尾兜子

今日3月17日は俳人・赤尾兜子(あかお・とうし)の忌日である。
彼は大正14年姫路市生まれ。京大文学部卒。毎日新聞に勤めた。俳句は大阪外語のときに始めた。
「太陽系」「薔薇」「俳句評論」などにかかわった。
昭和35年「渦」を創刊、主宰。昭和36年、現代俳句協会賞を受賞するが、選考をめぐり、協会の分裂をひきおこし「俳人協会」が発足することになった。
新興俳句系の俳人だったが、のち伝統俳句への回帰に進んだ。昭和56年歿。

以下はネット上に載る「zenmz」という人のサイトに載るものである。全文を引用する。
これを読めば、彼の「鬱」に陥っていたということなども、よく氷解して理解出来るのである。
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【6082】 赤尾兜子を偲ぶ
★ 去る者は日々に疎し、と言いますが、鬼籍に逝った親友はいつまでも我が心の中にあって、生きています。いつも3月になると、その人を想い起こすのは赤尾俊郎さん。その人の名を知る人は、もう少なくなりましたが、和歌、俳句等、短詩型文学に親しまれている方なら直ぐおわかりになる「兜子」(とうし)の俳号を持つ俳人でした。

★ エッ? あなたが俳人と交遊を??? 驚かないで下さい。赤尾さんと私は、毎日新聞記者時代の先輩・後輩の関係にあり、赤尾さんが5年先輩。晩年は共に新聞記者の第一線から離れ、大阪本社出版局で、赤尾さんは編集課長、「サンデー毎日」の大阪在勤次長職にあり、私は「点字毎日」編集長をし、文字通りに共に机を並べて仕事をしました。親交はその時に始まりました。

★ 当時、大阪・千里ニュータウンにあった我が家にもしょっちゅ遊びに来て,我が家族共々、お付き合いさせていただきました。達筆の人で、最初に夕食を共にした時、色紙に書いてくださったのがこの一句です。
多分、兜子句集2000句の中にも含まれているだろうと思います。

 鮭ぶち切って菫ただようわが夕餉 (掲出の写真①)
★ 当時、マイホーム主義を揶揄する風潮がありました。ある日、訪れて来た赤尾さんに、私は「マイホーム至上主義」をぶちまくりました。それを受けての一句。私たち家族にとってのみ特別の深みを味わえる句だと思って宝にしています。

★ ここでちょと、赤尾兜子の紹介をしておきます。今から半世紀以上も前、終戦直後の京大学生時代に伝統を打ち破る斬新な俳句を次々と発表して”前衛俳句”の新ジャンルを築いた鬼才です。
 代表作 音楽漂う岸侵してゆく蛇の飢
が打ち出す強烈なイメージでその作風をご想像下さい。

★ 大阪外語専門学校(旧制)時代の同級生に司馬遼太郎さん、陳舜臣さんなど著名作家がおり、赤尾兜子さんと合わせて「外語3鬼才」は大阪文壇の3重鎮として並び称せられていました。京大卒業と同時に毎日新聞記者になりましたが、前衛俳句運動は自ら創刊した俳句誌「渦」の結社を中心に展開されました。

★ 赤尾さんは大柄の人で、その外貌はいわゆる「厳(いか)つい」顔。ちょっと近寄りがたい雰囲気をいつも漂わせていました。妥協嫌いのまっしぐら。気むずかしい人と言われていました。が、私とは妙に気が合って親密なお付き合いをさせていただきました。

★ 多分、全くの門外漢であったことが良かったのでしょう。いつか一度、結社を覗かせてもらいましたが、門下生を前にその風格は絶対的な権威を思わせるものがありました。「あんなん、シンドイでしょう」と言うと、「それや、どうにもならん」と笑っていました。

★ しかし、つきあってみると、外見とは大違い。実は、繊細で細やかな心配りの人で、その立ち居振る舞いは実に雅やかでした。気品あるその雅やかな風格は、やはり彼の出自にあったように想います。隠れた才能・・・お茶のお点前などビックリしたことがあります。

★ 生家は兵庫県網干の旧家、何代か続いた材木問屋です。八人兄弟の次男。長兄の龍治氏は、著名な郷土史研究家で、『盤珪禅師全集』 を刊行して姫路市文化功労賞を受け、 次いで 『徳道上人』 を刊行して兵庫県文化功労賞を受けておられます。(因みに兜子も兄に続いて後に兵庫県文化功労賞を受けています)

★ 親交が深まるにつれ、私は、自分が編集長をしている週刊新聞「点字毎日」の俳句欄”点毎俳壇”の選者をお願いしました。盲人俳句を育てていただけないか? 恐る恐るお願いしたら即座に引き受けて下さいました。「極限から生を見つめる。スゴイ作品がいっぱいある」 初めての月の選評で、今も、心に残る選者・兜子の総評です。

★ そういう次第で、定年で新聞社を去った後も、毎月、”点毎俳壇”の選句をしていただくために新聞社に迎えていました。そんなある日、赤尾さんはいつにない真剣な表情で私を凝視しました。「オレ、芭蕉を超えられん」 咄嗟に私は理解しました。それまでの会話で赤尾さんは大きな苦悩を抱え込んでいる様子を察知していました。

★ 一言で言ってしまえば、それは彼の短詩型文学の行き詰まりだった、と想います。素人の私には分からない世界ですが、前衛俳句運動で俳壇を震撼させた鬼才も晩年には、伝統俳句への回帰を指摘されるようになっていました。他人には窺い知ることの出来ない大きな葛藤が兜子の内で始まっていたのです。

★ 折りも折り、兵庫県文化功労賞を受賞しました。当然、マスコミは長兄・龍治氏に続く「兄弟ダブル受賞」を称えました。傍目には大きな慶事、網干の名門一族にとっても喜ぶべき朗報のはずですが、ご本人にとっては逆だったようです。

★ 自らもその作風が伝統回帰を目指していることの意味を問い続け、悶々とそのナゾを密かに問いつめていた兜子にとっては大きなプレッシャーになりました。「これから芭蕉に挑戦や。えらいこっちゃ」 当時、喜びに訪れた私に赤尾さんはニコリともせず、そう語ったものでした。

★ それをずっと引っ張ってきていたのですね。「芭蕉を超えられん」とは、あまりに生真面目すぎます。そこで・・・「あんな、赤尾さん、芭蕉、芭蕉、言うけど、ボクなんか、俗人に言わせてもらえば乞食としか想えへんで。芭蕉超える、言うけど、赤尾さん、乞食にならんと・・・乞食の次元の話とチャウ?」 

★ 眉を顰めて私の前にいた赤尾さんは、突然、「ワッハッハー」 大声で笑い始めました。 「乞食か。そうやな、乞食。コジキや」 本当にこの時、私たちは、悪ガキに戻ってのはしゃぎぶりでした。赤尾さんは、来たときとは全く異なる明るい顔で帰って行きました。

★ それから間もなく。昭和56年(1981)3月17日のこと。「赤尾さんが交通事故で亡くなられました」 人事部から急ぎの連絡がありました。とりもなおさず阪急岡本の自宅に駆けつけました。

★ 奥様のお話では、「今朝、起きがけにタバコを買うと言うて出て行ったが踏切で電車にはねられて即死だった」とか。ただ集まった多くの人々は、「ひどい鬱状態だったからね・・・」と、咄嗟に自殺と見たようでした。

★ 当時、兜子は重度の鬱状態にあったのはたしかです。でも・・・私は、今なお、赤尾さんは自殺という積極的な自己否定に出るはずはなかった、それはきっと、鬱による事故だった、と信じています。赤尾家は急坂の中程にあります。下を走る阪急電車。だらだら坂を下る途中に踏切があります。物思いに深けていた赤尾さんが迷い込んだとしか想いようがありません。

★ 何故、そう断定するか。赤尾さんが残した一つの句があります。
    父として生きたし風花舞う日にも 
 赤尾さんにはたった一人の男の子がいました。その頃、高校に入ったばかり。「息子もこれで片付いた」と私にその喜びを語りました。その子を想う歌です。 赤尾兜子の記録を見ると、多くの解説はその偉大な功績を顕彰した後、昭和56年56歳で自殺、としています。だがこんな歌を残して自殺する人がいるでしょうか?

★ 兜子の現代俳句誌「渦」は妻の恵以さんが引き継ぎ、神戸に兜子館カルチャーサロンを運営して居られる、と仄聞します。是非、一度、訪れたいと思います。ご子息も40代になっておられるはず。出来れば、共々、亡友追善の語らいの機会を得たい、と願っています。
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uzuhyousi渦表紙

写真②は彼の結社「渦」誌の表紙である。

以下は、彼の代表作とされる句である。ここには、伝統俳句に回帰した時期の句は、余り引かれていない。

こおろぎに黒い汁ためるばかりの細民
ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥
たのむ洋傘に無数の泡溜め笑う盲人
ちびた鐘のまわり跳ねては骨となる魚
ねむれねば頭中に数ふ冬の滝
まなこ澄む男ひとりやいわし雲
ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう
ガソリンくさき屋上で眠る病身の鴎
マッチ擦る短い橋を蟹の怒り
唖(おし)ボタン殖える石の家ぬくい犬の受胎
愛する時獣皮のような苔の埴輪
悪地もなやむなまこのごとき火の鉄片
暗い河から渦巻く蛇と軽い墓
烏賊の甲羅鉛のごと澄む女眼の岸
嬰児泣く雪中の鉄橋白く塗られ
屋上照らす電光の雪記者も睡り
音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢
蛾がむしりあう駅の空椅子かたまる夜
海の空罐細り細りて疎(まば)らな葦
柿の木はみがかれすぎて山の国
乾ききる鳩舎寝顔の燃ゆるころ
巻舌よりパン光りおつ医大の傍(そば)
機関車の底まで月明か 馬盥
帰り花鶴折るうちに折り殺す
記者の朝ちぎれ靴噴く一刷(はけ)の血
記者ら突込む鉄傘朝の林檎満ち
空地で刺さる媚薬壜掘る墓掘人夫
空鬱々さくらは白く走るかな
広場に裂けた木 塩のまわりに塩軋み
硬く黒い島へわめく群集核(たね)を吐き
子の鼻血プールに交じり水となる
少女の足が研ぐ鯨のような繊維街
赤茶けたハムへ叫ぶ老人が寒い極点
葬の渦とはぐれた神父死鼠の発光
多毛の廃兵遠くで激しくつまづく驢馬
苔くさい雨に唇泳ぐ挽肉器
大雷雨鬱王と合ふあさの夢
朝発つ牝牛に異音流れる霰の丘
鉄階にいる蜘蛛智恵をかがやかす
独裁のけむりまきつく腰帯の発端黴び
破船に植えた血胤のいちぢく継ぐ
俳句思へば泪わき出づ朝の李花
白い唾で濯ぐ石斧の養老院
白い体操の折目正しく弱るキリン
白い牝牛の數藁を擦る薄明の門
薄皮の蝸牛白い営みを濯ぐ老婆
髪の毛ほどのスリ消え赤い蛭(ひる)かたまる
番人へ菌絶える溝のなかからの声
麻薬街の内部撫で了る鼠の孤児
未知の発音尖る陸橋の白い茸(たけ)
密漁地区抜け出た船長に鏡の広間
眠れぬ馬に釘打つ老いた霧の密室
名なき背に混みあう空家の青い石
夜は溜る鳩声惨劇するする刷られ
油でくびれた石白く笑いだす鉄道員
揺れる象のような海聾女の新聞ちぢむ
煉瓦の肉厚き月明疲れる記者
埃から埠頭吸い馬の眼馬の眼を怒る
煌々と渇き渚・渚をずりゆく艾(もぐさ)
膠(にかわ)のごとく雪呑み乾く髪の老人
鴉の咳ごとに嬰児の首洗う
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昨日付けで書いた「飴山実」もそうだが、京都大学出身の俳人は多い。
「京大俳句会」という会があって、戦前から俳句界革新のために活動してきたが、第二次大戦中の昭和十年代には「自由」とか「革新」ということが徹底的に弾圧されて、多くの俳人たちが獄に繋がれた。今日の赤尾兜子は、そういう戦前からの「俳句革新」の運動を戦後になって継承したと言えるだろう。現役で作品を発表している俳人で言えば「伊丹三樹彦」なんかはその系統に属するとも言える。
戦後になって「前衛俳句」として華々しく開花した運動にも、戦前からの、そういう伝統というか、「伏線」があるのである。
京都大学というのは、官僚養成を主目的として発足した東京大学とは違って、また対抗意識を抱いたものとして、時たま、こういう自由な運動が発生するのであった。
「京都」という土地が、そういう「自由」な雰囲気を湛えているとも言える。
京都は千年の間、「みやこ」のあった王城の地であったが、明治になって日本の首都が東京に移って、一時は寂れかけたが、西欧文明の取り込みにも先端を切り、文明開化に先んじた、自由なプライドを「京都人」は持っている。
そんなこんなの諸々が京都には底づいているのである。



花の芯すでに苺のかたちなす・・・飴山実
e88bbae381aee88ab111苺の花

   花の芯すでに苺のかたちなす・・・・・・・・・・・・・・・・飴山実

今日3月16日は俳人・飴山実の忌日である。

飴山実は俳人としても有名な人であるが、科学者としても高名な人である。
「日本農芸化学会功績賞」というのがあり、昭和63年 1988年 、 山口大学農学部教授のときに「 酢酸菌の生化学的研究 」という論文で、この賞を得ている。
昭和元年、石川県小松市生まれ。旧制四高の勤労動員中に芭蕉や蕪村の七部集を読んで作句。
家業が醤油醸造業だったので、昭和22年京都大学農学部に入学し、発酵醸造学を専攻した。
昭和25年卒業して、大阪府立大学農学部助手に就職。その後、静岡大学、山口大学教授を歴任し、応用微生物学研究の礎を築く。
先に書いたような学会の最高賞を得た。酢の研究では世界的権威。

俳句では、金沢大学教授で、かつ俳人の沢木欣一が戦後創刊した「風」に参加。
自らも「楕円律」を創刊し、戦後の俳壇で活躍したが、のち無所属となり、結社も持たず公平な俳句評論に定評があった。
安東次男の人と書に親しむ。
平成12年(2000年)3月16日、東京での選句会を翌日に控え、腎不全のために急逝した。
句集に『おりいぶ』『少長集』『辛酉小雪』『次の花』など。
現代俳壇の中堅として活躍する長谷川櫂も一時彼に師事した。

以下、彼の句を引いて終る。

 てのひらに葭切の卵のせてきぬ

 熱のからだはどこも脈うつ青林檎

 花林檎貧しき旅の教師たち

 授乳後の胸拭きてをり麦青し

img5efff1b0zikdzj飴山実色紙

 うつくしきあぎととあへり能登時雨

 柚子風呂に妻をりて音小止みなし

 春浅き海へおとすや風呂の水

 蚊を打つ我鬼忌の厠ひびきけり

 土堤刈つてより二日目の曼珠沙華

 奥能登や打てばとびちる新大豆

 手にのせて火だねのごとし一位の実

 比良ばかり雪をのせたり初諸子(もろこ)

 鮒二つ日たけて釣れし丈草忌

 花杏汽車を山から吐きにけり

 法隆寺白雨やみたる雫かな

 あをあをとこの世の雨のははきぐさ

 茄子の花こぼれて蜘蛛をおどろかす

 田雲雀の十(とを)も来てゐる夕日かな

 年酒して獅子身中の虫酔はす

 この峡の水を醸して桃の花

 酒唎(き)いてやや目のほてる初桜

 光琳忌きららかに紙魚(しみ)走りけり

 大雨のあと浜木綿に次の花

 花筏やぶつて鳰の顔のぞく

 山ふたつむかふから熊の肉とどく

 青竹に空ゆすらるる大暑かな

 かなかなのどこかで地獄草紙かな



深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失ふとあり・・・・堀口大学
2-5堀口大学

     深海魚光に遠く住むものは
        つひにまなこも失ふとあり・・・・・・・・・・・・・・・堀口大学


今日3月15日は詩人・堀口大学の忌日である。
先ず、彼のことをネット上から引いておく。
掲出歌に関しては、この引用記事の終りの方に書いてある。

堀口大學
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

堀口 大學(ほりぐち だいがく、1892年(明治25年)1月8日 ~ 1981年(昭和56年)3月15日)は、日本の詩人、フランス文学者。

略歴
1892年、東大生堀口九萬一(のち外交官となる)の長男として、東京・本郷に生まれる。大學という名前は、出生当時に父が大学生だったことと、出生地が東大の近所であることに由来する。幼児期から少年期にかけては、新潟県長岡で過ごす。旧制長岡中学校を卒業し、上京。

17歳のとき、吉井勇の短歌『夏のおもひで』に感動して新詩社に入門。歌人として出発する。

1910年、慶應義塾大学文学部予科に入学。この頃から、『スバル』『三田文学』などに詩歌の発表を始める。

19歳の夏に、父の任地メキシコに赴くため、慶大を中退。メキシコでフランス語を学んでいた時、メキシコ革命に遭遇。メキシコ大統領フランシスコ・マデロの姪と恋愛を経験。

この頃、肺結核を患う。以後も父の任地に従い、ベルギー、スペイン、スイス、ブラジル、ルーマニアと、青春期を日本と海外の間を往復して過ごす。

1919年、処女詩集『月光とピエロ』、処女歌集『パンの笛』を刊行。以後も多数の出版を手がける。その仕事は作詩、作歌にとどまらず、評論、エッセイ、随筆、研究、翻訳と多方面に及び、生涯に刊行された著訳書は、300点を超える。彼の斬新な訳文は当時の文学青年に多大な影響を与えた。三島由紀夫もまた、堀口の訳文から大きな影響を受けた一人である。

1957年に芸術院会員となり、1979年に文化勲章を受章。1981年、歿。享年89。

娘の堀口すみれ子も詩人でエッセイスト。

1967年、歌会始で(お題は「魚」)、「深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失ふとあり」と詠んだ。
生物学者である昭和天皇はたいそう喜んだというが、一部には天皇に対する、本人を目の前にしての批判であると解する向きもまたある。

著訳書
月光とピエロ(1919年)
パンの笛(1919年)
訳書・夜ひらく(1924年)
訳詩集・月下の一群(1925年)
砂の枕(1926年)
人間の歌(1947年)
夕の虹(1957年)
月かげの虹(1971年)
沖に立つ虹(1974年)
ルパン傑作集(翻訳年はかなり以前で近年再版されている。)
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はじめに、昭和25年、住んでいた高田を去るときに彼が詠った詩が詩碑として残っている写真をかかげておく。

hori2大学詩碑

高田に残す(堀口大学詩碑)

ひかるゝおもひうしろがみ
のこるこヽろの なぞ無けん
すめば都と いふさへや
高田よさらばさきくあれ
おほりのはすよ 清う咲け
雪とこしへに白妙に

堀口大学は父親が外交官であったために、家族として同行して海外生活が長かった。
外国語に堪能であったので、西欧詩の翻訳家として出発した。
引用したところにも書いてあるように「ミラボー橋の下セーヌは流れる」というのが有名だが、近年、詩の翻訳としては、その適否について、とやかく言われている。

人間よ

知らうとするな、自分が、

幸か不幸だか、

問題は今そこにはない。

在、不在、

これが焦眉の間題だ、

灼きつくやうな緊念事。

生きて在る、死なずに在る、

感謝し給ヘ、今日も一日、

調和ある宇宙の一點、

生きものとして在つたこと。

神にでもよい、自然にでもよい、

君の信じ得るそのものに。

知らうとするな、

知るにはまだ時が早い、

人聞よ、

墜落途上の隕石よ。

(人間の歌・隕石)の詩より。(詩集『人間の歌』昭和22年宝文館刊)

この堀口大学の詩は、人の世の愁色感と一種の軽快さ漂わせ、多くの人の青春を流れていった。
先に逝った詩兄弟・佐藤春夫に胸の張れる詩が出来たといった、辞世の詩

「水に浮んだ月かげです つかの間うかぶ魚影です 言葉の網でおいすがる 万に一つのチャンスです」

というのが知られている。

昭和56年、堀口大学は永い詩人生の最期を、春一番の風雨が去ったこの日正午、急性肺炎により葉山の自宅で妻の手を握りながら静かに迎えた。
89歳という長寿であったが、今は鎌倉霊園に眠っている。写真③が、その墓碑。

horigutidaigaku大学墓碑

以下は、この記事を書いた人のコメントである。

<ミラボー橋の下をセエヌ河が流れ われ等の戀が流れる わたしは思い出す 悩みのあとに楽みが来ると>アポリネール・ミラボー橋のこのあとにつづく、<日が暮れて鐘が鳴る 月日は流れわたしは残る>の一節は今になっても私の耳元に小波をうって渡ってくる。この高台の芝垣で囲まれた墓碑のある塋域には、広い谷から吹き上がってきた梅雨の風が抜けきれず、どことなく空しさを携えて残っていた。



花冷や箪笥の底の男帯・・・・鈴木真砂女
本山可久子

   花冷や箪笥の底の男帯・・・・・・・・・・・・・・・鈴木真砂女

今日3月14日は俳人・鈴木真砂女の忌日である。
彼女の長女で新劇俳優である本山可久子の本 『今生のいまが倖せ・・・・・・母、鈴木真砂女』(2005年講談社刊)というのをネット書店で買った。

unami12卯波
写真②は銀座にあった彼女の小料理屋「卯波」である。
彼女の孫・宗男(可久子の長男)が経営していた。

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写真③が「卯波」の厨房の様子で、左側に居るのが宗男らしい。
この店も再開発とかで2008/01に立ち退いた。寂しい限りである。元の店の写真など載せておく。

(追記)
俳句界に詳しいところからの情報によると

<卯波、再開です!(嬉)
以前の店のとなりのビルの地下になるけど、住所は前とおんなじ。オープンは、二月を予定しているらしい。
一家離散していた家族が、またおうちができて集まるような、そんな心境です。
いやー、本当にいいニュースやった 。>

という記事が載っていた。
その後の報道によると、2010年に「新・卯波」が開店したらしい。アクセスして見てもらいたい。

彼女の経歴については、可久子の「本」をはじめWeb上でも詳しく載っているので読んでもらいたいが、ここで簡単に載せておこう。

鈴木真砂女は明治39年11月24日に千葉県鴨川市の老舗旅館・吉田屋に生れる。
夫の出奔や再婚、自身の愛の出奔など波乱に富んだ人生を送ったあと、昭和32年銀座の路地奥に小料理屋「卯波」を開く。
句作は昭和10年からはじめたという。
その間、久保田万太郎に師事するなど文学者に愛され、石田波郷の定席が決まっていたなどの話がある。
写真④が「卯波」のくれたマッチに刷られた真砂女の句である。
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昭和38年久保田万太郎の急逝のあとは「春燈」の後継者・安住敦に師事。
句集は七冊出しているが、第四句集『夕蛍』で俳人協会賞を受賞。
第六句集『都鳥』で読売文学賞を受賞。
第七句集『紫木蓮』で蛇笏賞を受賞する。
平成15年3月14日死去。享年96歳。

可久子の本には瀬戸内寂聴が帯文を書いているが、彼女自身も愛の遍歴で家庭を捨てた人であるから、面白い。
この本は、真砂女の生涯を簡潔に、かつ娘として知る「本当の」話を描いていて情趣ふかい。

写真⑤は静岡県にある冨士霊園の彼女の墓。
suzukimasajyo墓
以下はWeb上に載る或る人の記事である。借用にお礼を申したい。
引かれている句も味わいがある。
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 羅(うすもの)や細腰にして不逞なり (卯浪)

 罪障のふかき寒紅濃かりけり (生簀籠)

 あはれ野火の草あるかぎり狂ひけり (夏帯)

 柚味噌練つて忽然と来る死なるべし (居待月)

 恋を得て蛍は草に沈みけり (都鳥)

 戒名は真砂女でよろし紫木蓮

 恋のこと語りつくして明易き (紫木蓮)

丙午うまれとはいえ恋の女は気性も激しい。2度結婚して2度離婚。51歳で不倫の恋を貫くため、鴨川の実家、「吉田屋旅館」の女将の座を捨て、女手一つで銀座に小料理屋「卯波」を開店するなどという離れ業をやってのける。以後の40年、「卯波」は立ち位置となり、句は「卯波」となった。「老いてますます華やいだ」生涯現役の俳人、腰痛のため療養生活を強いられてなお4年余り、96歳の春、強靱な生命力を持ち続けたさすがの真砂女も平成15年3月14日夕刻、東京・江戸川区の老人保健施設で老衰のため逝く。

 あるときは船より高き卯浪かな

紡ぎ綿を敷きつめたような空、梅雨の中休みにしてもとにかく暑い。何回目かの訪問で慣れているとはいえ、幹線道路のような広く長い坂道をのぼりきると汗がどっと噴き出てくる。眼下に大パノラマを展開する霊園の背後から、遙か前方の山稜に霞ゆく高圧鉄塔のつながりを何となく眺めながら、ふと、そういえばいつもはあのあたりには確信に満ちた冨士の顔が見えていたはずだがと、ぼんやり思い出していた。ゆるゆると深呼吸した足許に、湿気を含んで黒ずんだ火山灰土に据え置かれた碑

 芽木の空浮雲一つゆるしけり

亡くなる20年前、喜寿の年に建立した真砂女の墓。句碑ともいえる矩形の石塊に閉じこめられたのは、美しい思い出ばかりであろうはずもない。
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他人の引用ばかりでは芸がないので、私の選んだ句を少し引く。重複するのは除く。

 人のそしり知つての春の愁ひかな

 女三界に家なき雪のつもりけり

 男憎しされども恋し柳散る

 夏帯や運切りひらき切りひらき

 暖炉燃ゆわれにかへらぬものいくつ

 人もわれもその夜さびしきビールかな

 掌にぬくめやがて捨てたる木の実かな

 裏切るか裏切らるるか鵙高音

 亀鳴くや夢に通へと枕打ち

 風鈴や目覚めてけふのくらしあり

 ふぶく音を海鳴りとききねむらんか

 かくれ喪にあやめは花を落しけり

 老いまじや夏足袋指に食い込ませ

 限りあるいのちよわれよ降る雪よ

 住みつけば路地こそしたし夜の秋

 とほのくは愛のみならず夕蛍

 鴨引くや人生うしろふりむくな

 忌七たび七たび踏みぬ桜蘂

 水もさびし空もさびしと通し鴨

 隠しごと親子にもあり桜餅

 死なうかと囁かれしは蛍の夜

 怖いもの知らずに生きて冷汁

 今生のいまが倖せ衣被

 生国も育ちも上総冬鴉

 ふるさとは遂に他国か波の華

 かのことは夢まぼろしか秋の蝶

 捨てきれぬものにふるさと曼珠沙華

 人を泣かせ己も泣いて曼珠沙華

 如月や身を切る風に身を切らせ

 ふるさとの冬の渚が夢に出て

 白南風や漕ぎ馴れてきし車椅子
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「鈴木真砂女ミュージアム」というのが開設されているので、ご覧いただきたい。彼女の写真もある。

彼女の眠る冨士霊園には、彼女と親しかった中村苑子、秋元不死男、三谷昭、高柳重信などの俳人が葬られているという。
本山可久子の関係では杉村春子などの墓も建っているという。



なで肩のたをやかならむ真をとめがパットの肩をそびやかし過ぐ・・・・木村草弥
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    なで肩のたをやかならむ真をとめが
         パットの肩をそびやかし過ぐ・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』((角川書店)に載るものである。
この歌を作ったのは、もう十数年前になるので、いま女の人の服の肩がパットを入れた「いかり肩」の流行になっているのか、どうか知らない。
当時は「いかり肩」が全盛期だったので、「私は、なで肩の女らしい方が好きなのになぁ」という気持で作ったものである。
掲出写真は「アカプルコの海」という昔のエルヴィス・プレスリーの1963年の映画のマギー役のエルサ・カルデナスのものである。
彼女は典型的な「なで肩」の美人と言える。
対照するために、同じ映画の、マルガリータ役のウルスラ・アンドレスの典型的な「いかり肩」の写真を出しておく。
因みに、外国人に圧倒的に人気があったのは、後者のアンドレスだという。 ↓

e0123392_2355559いかり肩

日本の女の人には「なで肩」の人が多いと言われている。
外国人の場合は、どうなのだろうか。
私は、そういう日本人の女の人の「なで肩」が好きである。
なで肩の線が、何ともなく、艶めかしくて、見ていても、いい気分になる。
それを、わざわざパットを入れて「いかり肩」にどうしてするの、というのが、この歌の趣旨である。

この頃では余り「ウーマンリブ」というような言葉を聞かないが、ひところは盛んに主張されたことがある。
そのことの良し悪しを、私は言っているのではない。
なで肩が好きという、あくまでも私の個人的な感想に過ぎない。
女性の社会進出は年々ますます盛んで、女性がそれぞれの分野で重要なポストを占めるようになってきた。
そんな時代になっても、女の人には「ユニセックス」のような状態にはなってほしくない、と私は思うのである。
社会の重要なポストを占めながら、なお「女性」としての魅力を失ってほしくはない、のである。
女としての魅力を「売り物」にする人もあるだろうが、それでも、いいのではないか。

なで肩の歌というのではないが、女の後姿その他の歌を引いて終わる。

   後肩いまだ睡れり暁はまさにかなしく吾が妻なりけり・・・・・・・・千代国一

   泣くおまえ抱(いだ)けば髪に降る雪のこんこんとわが腕に眠れ・・・・・・・佐佐木幸綱

   たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき・・・・・・・・近藤芳美

   とことはにあはれあはれは尽すとも心にかなふものか命は・・・・・・・・和泉式部
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この記事の初出は2006/02/21のもので、当時、この記事をご覧になったFRANK LLOYD WRIGHTさんが、下記のコメントを寄せられた。

<なで肩は、
中国で言えば、華南とか上海とか海沿いの地域はなで肩ですね。
つまり、海から離れた北京とかはいかり肩が多い。満州も内陸部はそうですね。
日本・韓国は、島国・半島国家ですから言わずとしたなで肩。海沿いです。
東南アジアはおしなべてなで肩。海に関係するからですかね?
インドなんて、北インドはいかり肩で、南インドはなで肩。ドラビタ系はなで肩が多い。
スリランカは、同じ家族でいかり肩、なで肩がとびとびに。
インドからの移住と現住のドラビタとの血の現れでしょうか?>

私には新しい知識だが、面白いので、ご紹介しておく。

この記事は上にも書いた通りの初出のものがベースになっているが、写真なども替えたし、旧記事通りではないので念のため。



水取りや氷の僧の沓の音・・・・松尾芭蕉
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    水取りや氷の僧の沓(くつ)の音・・・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

この句には「二月堂に籠りて」の前書きがある。
奈良東大寺二月堂では、3月1日から14日まで修二会(しゅにえ)の行法が行われる。
2月21日から練行衆と言われる僧は精進潔斎をおこない、3月1日の夜から堂に参籠し、授戒、籠松明、お水取りなどの諸行を修し、達陀(だったん)の法で行が終り、15日の東大寺涅槃講を迎える。
二月堂の開祖・実忠和尚が始めたと言われる。修二会とは、2月に修するという意味で、旧暦の2月1日から14日間にわたって行われたもので、今の暦では、上に書いたように3月に行われる。「お水取り」は、そのうちの一つで、3月13日の午前2時頃から行われる。
二月堂で一年間仏事に用いる聖水を、堂の近くの閼伽井(あかい)で汲み、本堂に運んで五個の壺に納め、須弥壇の下に置くもので、この「あかい」の水は若狭国から地下でつながっていると伝えられる。この水で牛王(ごおう)の霊符を作り参詣の人々に分けるのである。

以上がお水取りの行法だが、これを拝観に人々が集まるのは、雅楽の響きの中、法螺貝を吹き鳴らし、杉の枯葉を篝火に焚き、僧が大松明を振りかざして回廊を駆け昇るのだが、クライマックスとなるのは3月12日午後8時頃に籠松明12本を次々に連ねて廻廊から揺りこぼす(関係者は「尻松明」と称するらしい)という壮観な行事である。
この大松明の振りこぼした「燃え残り」を拾って、家に持ち帰ると、ご利益があるというので、人々は競って拾うのである。写真は、その時の大松明の燃えさかる様子だが、どうして、お堂に火が移らないか、と不思議である。

関西では「水取りや瀬々のぬるみも此日より」の句にある通り、お水取りが終わらないと暖かくならないと言われ、事実、季節の推移は、そのようになるから不思議である。こういう感覚は、関東や西国の人には理解できないことかも知れない。

掲出した芭蕉の句だが、しんしんと冷える深夜、凍てついた氷さながらの僧の、森厳な修法の姿を端的に示す氷ついた沓音が響く。「氷」は「僧」にも「沓音」にもかかると見るべきだろう。
貞享元年から二年にかけての記念すべき関西への旅の体験である。出典は『野ざらし紀行』。
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修二会を詠った句を挙げて結びにする。

  廻廊の高さ修二会の火を降らし・・・・・・・・・岩根冬青

  修二会の赤き雪かな火の粉かな・・・・・・・・吉川陽子

  籠りの僧煙のごとしや走り行・・・・・・・・堀喬人

  女身われ修二会の火の粉いただくや・・・・・・・・斎藤芳枝

  修二会の奈良に夜来る水のごと・・・・・・・・角川源義

  修二会僧女人のわれの前通る・・・・・・・・橋本多佳子

  巨き闇降りて修二会にわれ沈む・・・・・・・・藤田湘子

  走る走る修二会わが恋ふ御僧も・・・・・・・・大石悦子

  法螺貝のあるときむせぶ修二会かな・・・・・・・・黒田杏子

  修二会果つ大楠の根を雨洗ひ・・・・・・・・針呆介

  雨音も修二会も鹿の寝(い)の中に・・・・・・・・志摩知子

  倶に寡婦修二会の火の粉喜々と浴び・・・・・・・・我妻草豊

  参籠の修二会に食ぶ茶粥かな・・・・・・・・大橋敦子

  ささささと火を掃く箒お水取り・・・・・・・・山田弘子

  火と走る僧も火となるお水取り・・・・・・・・銀林晴生

  お水取り青衣女人のまかり出る・・・・・・・・磯野充伯

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友人の井芹能一氏から提供頂いた、平成16年2月26日に行われた修二会のための「社参」という行事の写真があったのだが、ブログ移転の際に紛失してしまった。
写真は、先頭から和上、大導師、咒師、堂司とつづく行列であった。
場所は戒壇院前。「社参」は神仏習合そのもので、修二会が無事に遂行できるように、二月堂の守護神社を中心に八幡殿、天皇陵、開山堂を参詣するものという。
おわび申し上げる代りとして 「お水取り その1」というサイトをリンクに貼っておくので、ご覧ください。行事が写真入りで詳しく書かれており、文中から「その2」へと繋がって行く。
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(追記)3月15日に井芹氏からメールが届いて14日間の修二会の行が終わったことが書いてあった。
以下、井芹氏のメールを引用して紹介したい。

<行としては18日観音講の日を最後とするのですが、14日間の修二会が今朝方終わりました。 眠いというよりも、ある種の幸を感じる朝でもありました。 誰が名づけたか「名残の晨朝」、ここで聞く行中最後の観音経は「蛍の光」の曲と同じ感じ。大の大人が観音との別れを惜しみ唄ってもこうなるのでしょうか。名残の晨朝の時導師は総衆が勤めることに決っているそうですが、今年は名代の時導師で胸に迫りました。 東大寺では野ざらし紀行の「氷」と違って、「籠り」を採っているようです。これも東大寺の独自性を表わそうとしたものでしょうか。 二月堂と法華堂との間に行場の滝があり、その前に芭蕉の句碑が建っています。曰く「水取りや籠りの僧の沓の音」。 額に牛玉印を押し、達成した満足感を顔一杯に表わし、牛玉杖を抱え、満行下堂してくる練行衆を迎え、ああ!今年も終わったなと帰路についたのが、明け方の4時半。まさに堂内の和上が「よあけんたりや」と問うのに対して、堂童子が「暗し」と応えるのと同じ時刻です。>
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(以下は2004/03/12Doblog記事の再掲である。ご了承を。)
  
  東大寺修二会1253回お水取り
     ──参籠役のこと──井芹能一氏による──


東大寺修二会の行事について、井芹氏から資料を頂いた。井芹氏は京都府立山城郷土資料館の解説ボランティアを務める人だが、この近年、東大寺に日参し、もろもろの行事に精通しておられる。
井芹氏から頂いた資料により、平成十六年度の「東大寺修二会1253回お水取り」のことを、少し書いてみたい。

平成十六年修二会参籠役

 和上──森本公誠/清涼院・上院院長・東大寺学園理事長──参籠27回

和上は練行衆に戒を授ける。かつては四職の中で堂衆が勤めることが出来る唯一の役であった。

 大導師──上野道善/真言院・華厳宗宗務長・東大寺執事長──参籠29回

導師は修二会の最高責任者として法会を統括する。かつては学侶の所役であった。

 咒師──筒井寛昭/龍松院・大仏殿院主・福祉事業団理事長──参籠25回

咒師は呪禁師であり、結界勧請などの密教的修法を司り、神道的な作法も行う。かつては学侶の所役であった。

 堂司──平岡昇修/上之坊・勧学院院長──参籠19回

堂司は法会進行上の監督責任者。かつては学侶の所役であった。

以上が「四職」(ししき)という。
他に「北座衆之一」「南座衆之一」などの7役が居るが省略する。
これらの役割は、昨年12月16日に「良弁忌」の日に東大寺の名のもとに、二月堂に告知されたものという。

この資料を拝見していると、なかなか面白い。と申し上げては失礼かも知れないが、伝統的な行事というものは、なかなか大変な仕来りを経なければならないと思うのである。
例えば、「堂童子」という役割は、礼堂外陣閼伽井(あかい)屋などを掌握し、練行衆の勤行に付随する外縁作法を担当する、とある。
「駈士」とは湯屋を掌握し、雑法務にたずさわる。
「大炊」とは炊飯役であり、「院士」とは調菜役、「庄駈士」とは湯の番、のことという。
精進潔斎のご苦労も知らず、面白がっているのも、お許しいただきたい。
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3月18日付で新資料を頂いたので、参籠までの行事次第を以下に書き記す。

★2月末日の次第
2/29(28)
15:00 「追い出しの茶」を頂き、別火坊を出立。参籠宿所に向かう。
15:30 参籠「宿所入り」。「娑婆古練」と称し、東大寺の管長や修二会の四職を務めたことのある長老や、参籠経験のある僧の出迎えを受ける。
15:40 「内陣改め」。堂司が堂童子を伴い内陣の荘厳の具合を検分する。この後、内陣と外陣を分ける「戸帳」を設置。
16:40 「お湯布令」。「お湯屋にござれ」の掛け声で練行衆が湯屋に向かうが、新入りの参籠衆がいる時には別の作法あり。
18:00 「大中臣の祓」。咒師の意向を受けて、小綱の「お祓いにござろう!お祓いにござろう!」の掛け声で参籠衆を集め、咒師が登廊の下にある細殿の前で無言で行う「結界」作り。通称「天狗寄せ」。天狗も「何をしているのか」と興味を持って寄って来る、ということか。
3/1
00:45 「おめざ!」の掛け声で「お目覚」。
01:00 「受戒」。「小綱の房!小綱の房!大膳殿の出仕なら鐘をつきやれ!鐘をつきやれ!」の掛け声で食堂に参集。和上が自戒の後、参籠衆に沙弥の十戒の内、蓄金銀宝を除いた九カ条の戒を授けるが、その時、和上が「~を保つや否や」と問えば、参籠衆「よく保つ、よく保つ、よくたもーつ!」と応える。食堂内では、その他に七条袈裟の「袈裟給り(ケサタバリ)」が行われるようだ。
手松明に導かれ「開白上堂」。このとき練行衆が喜び勇んで、十一面観音に上堂を知らせる沓の音は、はじめて履いた沓を確かめるようでもある。
02:00 「一徳火」。真の闇の中で堂童子が火打石を打つ。代々この童子の名前が「一徳」であったために「一徳火」と言っているようで、後年には一発で火を得る童子を讃え、「一徳法師」の称号もあるらしい。ここで得た火を「常灯」に移し、行中および今後1年間の「火」とする。
この後、日中の行法に入り、修二会6時の行法が始まる。

★松明について
修二会では14種類の松明が使われるが、特に知られている松明は「上堂松明」「達陀松明」「蓮松明」かと思われる。
*「上堂松明」は練行衆が初夜上堂する時に先導する松明で、3月12日以外は10本で、3月12日の上堂のみ、一段と大きい11本の「籠松明」が上がる。通常上がる10本の松明の中でも、最後の日となる3月14日の松明は10本が間を置かずに上がるため「尻つけ松明」と言われている。
*「達陀松明」3月12・13・14日の「後夜」の途中、正確には13・14・15日の午前0時か午前3時に内陣で主役となる火天・水天をはじめ八天を勧請して行われる行法。火天が周りで吹かれる「ほら貝」に囃し立てられるがごとく、水天を相手に堂内を飛び跳ね、飛び回り、大人の火遊びにしても大き過ぎる松明を振り回す。通常の大きさではない。事実、寛文7年2月13日この火が原因と思われる火事により、天平勝宝4年以来のご本尊、経文、建物を消失している。それでも「行」を続けたとかで、凄いというかアホというか、「不退の行法」と言われる由来である。
*「蓮松明」は3月12日の「後夜」で「行」を中断して行われる「お水取り」に使われるもので、レンコンの一節に似ているところから、この名が出ているようだ。「お水取り」の最中には外陣の例時の間で雅楽の演奏が行われる。「お水取り」には咒師以下6人の練行衆が携わり、礼堂では行の途中のため五体板の上に片膝をついたままの総衆と、咒師を除く三役と「南座乃衆一」が待機している。
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以上が井芹氏から追加で頂いた資料であるが、古来からの仕来りで行われる「行」も大変である。
井芹氏から、折角貴重な資料をお送り頂いたので、その万分の一かの御礼に代えて、ここに記しておく。
私が書いた本文との異同の個所があれば、正しくは井芹氏の資料に拠られたい。




三月十一日の悲劇を忘れないために・・・・木村草弥
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↑ 東電・福島第一原発3号機の爆発の写真。当初は余りの惨状に政府は非公開にしていたもの─アメリカの新聞が公開。

──再掲載──

       三月十一日の悲劇を忘れないために・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

今日は東日本大震災が起こって、地震と大津波が襲来した日である。
地震の被害もさることながら、大津波によって大被害が起こり、あまつさえ「福島原発」が大爆発し、核燃料が溶けるメルトダウンを起こした悲劇は今に続いている。
この「メルトダウン」については、チェルノブイリ発電所での事故と同様であるが、日本では原発事故当初から、「影響は少ない」という「ウソ」の報道が政府などからなされている。
爆発した原子炉の片付けが進んできた昨今になって、メルトダウンの状況が予想以上に深刻であることが判ってきた。
チェルノブイリでは解けた燃料を取り出すのが不可能なので、建物全体をコンクリートで覆って、いわゆる「死の棺」として数十年経ったのだが、経年劣化でコンクリートが崩壊しだしたので、それを更に再び覆う工事が着手されようとしている。
溶けた原料の塊は「象の足」と呼ばれているが、フクシマの場合も、その象の足と同様の状態であるらしい。
放射線が強くてロボットのカメラも壊れて実情を写すことすら出来ない、ということである。
これらの真実に鑑みて、この悲劇を忘れないために、これに関連する過去記事を再掲載しておくので読んでみてください。  ↓

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佐藤

──新・読書ノート──

     いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め
            原子炉六基の白亜列(つら)なる・・・・・・・・・・・・・・・佐藤祐禎

         ・・・・・佐藤祐禎歌集『青白き光』2004年初版・短歌新聞社。2011年再版・文庫版いりの舎・・・・・・・・・

大熊町に在住され福島の原発を以前から告発し続けていた、歌集『青白き光』の佐藤祐禎(さとう・ゆうてい)さんは2013年3月12日に亡くなられた。 83歳であった。
初版の「あとがき」で
<七十五歳にして初めての歌集である>
と書いているように、遅くからの歌の出発であった。
「アララギ」から始まり、アララギ分裂後は宮地伸一の「新アララギ」に拠られた。序文も宮地氏が書いている。
「あとがき」にも書かれているが「先師」とあるように「未来短歌会」の近藤芳美の弟子を標榜されていて、桜井登世子さんと親しかったようである。
角川書店「短歌」六月号に、桜井さんが追悼文を書いておられる。

生前の佐藤さんのことは私は知らない。
原発の大事故のあと、事故前、それも十年ほども前に原発の事故を予測したような歌を発表されていると知って衝撃を受けた。
その歌集が『青白き光』である。
彼が短歌の道に入ったのは五十二歳のときで、遅い出発だった。
この歌集には昭和56年から平成14年までの歌511首が収録されている。
もちろん原発関連の歌ばかりではなく、羈旅の歌もあり、海外旅行の歌などもある。
ここでは、それらの歌には目をつぶり、原発関連の歌に集中する勝手を許されよ。

  いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列なる・・・・・・・佐藤祐禎

この歌は、この歌集の最後に置かれたものだが、題名も、この歌から採られているが、まるで「予言」のような歌ではないか。

彼・佐藤祐禎は再版に際して、別のところで、次のようなことを書いているので引いておく。 ↓      
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   『青白き光』を読んでくださる皆様へ    佐藤祐禎

私共の町は、新聞テレビで、充分世にまた世界にフクシマの名で知れ渡ってしまいましたが、福島県のチベットと蔑まれて来ました海岸の一寒村でした。
完全なる農村でして、一戸あたりの面積は比較的多かったのですが、殆ど米作りの純農村故に収入が少なく、農閑期には多くの農民が出稼ぎに出て、生活費を得た状態でした。

そこへ天から降って来たような感じで、原子力発電所が来ると知らされたのです。

この寒村に日本最大の大企業が来れば、一気に個人の収入も増え、当然町も豊かになるだろうと、多くの人は両手を挙げて賛成しました。
わずかに郡の教員組合などは反対したようですが、怒涛のような歓迎ムードの中では、表に出ることはありませんでした。
常識的に言って、これほどの大事業を興すには多くの問題が山積みするはずでしたが、ここでは全く問題は起きなかったのです。

先ず、用地ですが、ここには宇都宮航空隊の分教場があったのです。
敗戦となり、飛行場が撤収された跡には、面積92万坪つまり300ヘクタールの荒れ地が残っていました。
それが地元民の知らない内に、3分の2が、堤財閥の名義になっていました。
どのような経緯があったのかは未だわからないのですが、当時の衆議院の議長は西武財閥の祖、堤康次郎であったことを考えると、自ずから分かる気が致します。
あとの3分の1の殆どは、隣の双葉町7人の名義になっていました。

これらの土地は、全くの痩地で、生産性が殆どありませんでしたので、かつては、軍のために無償で提供した夫沢の地区の人らは顧みることもありませんでした。

当時、東京電力の社長・木川田は、福島県出身であり、建設省に絶大なる影響力を持っていた衆議院議員、天野は、ここ大熊町の隣の双葉町の出身だったのです。
そういう立場ですから、同県人として地元の為にと、木川田は考えたのだろうと思います。
そこに、天野は、俺の故郷には、うってつけの土地があると言いました。

立地条件として、第一に、相当広い土地。
第二に、1キロ以内に人家が全くないこと。
第三には、海水が充分確保できること。
第四に、土地取得に障害がないこと。
これらの条件が全て解決できるところが双葉郡大熊町夫沢地区だったのです。


東電の意志が県に伝えられ、双葉郡そして我が大熊町に伝えられ、トントン拍子に ことが運んだようです。
そんな訳で土地の価格が、驚くなかれ、一反歩「300坪」当時で5万円。
地上の樹木「矮小木」5万円。併せて10万円だったのです。
白河以北、一山百文といわれた東北でしたから、単に売買するとしたら一反歩5,000円か、1万円くらいにしか思っていませんでしたから、地権者は喜んで手放しました。
びっくりしたのは東電だったようで、後で聞きましたら、買収予算の4分の1で済んだとのことでした。
後に大きな増設問題が出ました7号炉、8号炉の建設予定地となった厖大な土地は、その余った予算で買った
ということです。

いよいよ工事が始まり、全てのものが大きく変わってゆきました。
数千人という作業員が入り、20キロ離れた山から岩石を切り出して、工事現場に骨材を運ぶトラックが延々と続きます。
労賃も飛躍的に上がりました。
今までは、小さい土木会社の手間賃が700~800円だったのが、数倍に跳ね上がったのです。
農家の人たちは早々と農事を済ませて、我がちに作業員として働き始めたのです。
年間の収入は飛躍的に増加したものですから、原発さまさまになって行きました。

それまでは収入が少なかったものですから、家を建てる時も村中総出で手伝い合い、屋根葺きなども「ゆい」という形で労力を出し合っていましたが、一日数千円の労賃が入るということで、助け合いなどすっかりなくなってしまったのです。
「町は富めども こころ貧しき」とも私は歌いました。

人口一万弱の町に、30軒以上の飲み屋、バーがあったといいます。
下戸の私などは一回か二回くらいしか行かなかったはずで、その実態などはよく分かりませんが大凡の見当はつきます。

原発に関する優遇税はどんと入りますし、原発に従事する人達の所得税は多くなりますし、何か箱物とか運動場とか施設を造る度に、原発からは協力費として多額の寄付金がありました。
いつの間にか県一の貧乏村が分配所得県一になってしまいました。

ここだけではありません。
となりの富岡町には、111万キロの原子炉が4基出来ましたし、そのとなりの楢葉町と広野町には、100万キロの火力発電所が4つ出来ました。
原発10基と火力4基から生み出される電力は、全て首都圏に送られ、地元ではすべて東北電力の電気を使ってまいりました。
東京の人達に、ここをよく理解してもらいたいと切に願うものです。

私の反原発の芽生えは、一号炉建設の頃、地区の仲間たちが皆そうであったように、どんな物だろうと好奇心を持って少しのあいだ働いた時です。
ある時、東芝の社員の方がこう言ったのを今でも覚えています。
「地元の皆さんは、こんな危険なものをよく認めましたね」という言葉でした。
その時は、変なことをいう人だなと思いましたが、だんだんと思い当たるようになったのです。

最初に気づいたのは、小さいけれども工事の杜撰さでした。
誤魔化しが方々にあったのです。
小さい傷も大きな災害にひろがることがあります。
それらは末端の下請け会社の利を生むためには、仕方がないというのが、この世界の常識だったらしいのですが、ただの工事ではないのです。
核という全く正体の分からない魔物を扱う施設としては、どんなに小さい傷でも大きな命取りになるはずです。
次第に疑念を持ち始めた私は、物理の本を本気になって読み始めました。
そして、それを短歌に詠みました。

   <この孫に未来のあれな抱きつつ窓より原発の夜の明り見す>・・・・・・・・・・佐藤祐禎
    
                                   (後略)
------------------------------------------------------------------
この文章を読むと、かの地に福島原発が、大した反発もなく建設し得たのかの疑問が氷解する。
上の文章の中のアンダーラインの部分は、私が引いたものである。

「資本の論理」と言われるが、まさに巨大財閥と巨大企業による「犯罪」とも言える行為である。
こんなことは、事前も事後も、日本のマスコミは一行も書かなかった。

さて、本論の佐藤さんの歌である。
多くの歌は引けないので、はじめに掲出した歌を含む巻末の平成十四年の歌の一連を引いておく。

     平成十四年    東電の組織的隠蔽

  三十六本の配管の罅(ひび)も運転には支障あらずと臆面もなし

  原発の商業主義も極まるか傷痕秘してつづくる稼働

  さし出されしマイクに原発の不信いふかつて見せざりし地元の人の

  破損また部品交換不要と言ひたるをいま原発のかくも脆弱

  原発などもはや要らぬとまで言へりマイクに向かひし地元の婦人

  原発の港の水の底深く巨大魚・奇形魚・魔魚らひそまむ

  「傷隠し」はすでにルール化してゐしと聞くのみにして言葉も出でず

  ひび割れを無修理に再開申請と言ふかかる傲慢の底にあるもの

  ひび割れを隠しつづくる果ての惨思ひ見ざるや飼はるる社員

  埋蔵量ウランは七十年分あるを十一兆かけるかプルサーマルに

  法令違反と知りつつ告発に踏み切れぬ保安院は同族と認識あらた

  面やつれ訪問つづくる原発の社員に言へりあはれと思へど

  組織的隠蔽工作といふ文字が紙面に踊る怖れしめつつ

  原発推進の国に一歩も引くことなき知事よ県民はひたすら推さむ

  いつ爆(は)ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列(つら)なる

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極めて不十分な鑑賞だが、この辺で終わりにする。 ぜひ取り寄せて読んでもらいたい。

この歌集の「初版」は短歌新聞社から刊行されたが、そのときに担当されたのが「玉城入野」氏であった。ちょうど、その頃、彼は短歌新聞社で編集者だった。
その後、短歌新聞社は社長の石黒氏の高齢のために解散されたので、初版本は絶版となった。
フクシマ原発事故の後、佐藤さんの「予言」のような歌を覚えていて、ぜひ再版をと働きかけて再版に至り、よく売れて、私が買ったものは第三刷である。
因みに、この玉城入野氏は、高名な玉城徹の息子さんであり、きょうだいに「塔」所属の歌人として有名な花山多佳子が居る。
玉城徹 ← については私の記事にあるので参照されたい。

指先をいつもより濃きくれなゐに染めてひとりの午後を楽しむ・・・・鈴木むつみ
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     指先をいつもより濃きくれなゐに
            染めてひとりの午後を楽しむ・・・・・・・・・・・・鈴木むつみ


この歌は角川書店・月刊誌「短歌」2013年2月号に載る「指」という題詠に採用されたものの一つである。

一人暮らしの女の人の心情を、よく表現している。
今しも春めいてきて、心も浮き立つ季節の到来と言える。
掲出歌とは違う趣の歌群だが、いくつか引いて終わりたい。

   節高き指は女の勲章と自ら思ひ主婦の座守る・・・・・・・・西村麗子

   幼子の指絵のために取り置かむ冬の朝の硝子の曇り・・・・・・・梶田有紀子

   さ、よ、う、な、ら、指の先から逃がしつつひとは手を振るまた会うために・・・・・・木原ねこ

   指先を想像させる優美さよ腕を失くしたミロのビーナス・・・・・・波多野浩子

   常務派と専務派とあり遊戯にはあらぬこの指とまれの誘ひ・・・・・・山崎公俊

   指貫をゆつくり外し夕食のメニュー考へてゐるらし妻は・・・・・・・・加藤英治

   うろこ雲遠く遠くへ押しやりて秋風のなか指笛を吹く・・・・・・・・・・木立徹

   絵本読む幼の指のつと止まるつかえし文字は一つとばせよ・・・・・・・・中村佐世子




   
賞味期限切れた顔ねと言ひながら鏡の中の妻は紅ひく・・・・・木村草弥
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   賞味期限切れた顔ねと言ひながら
     鏡の中の妻は紅(べに)ひく・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
亡妻は、この歌の頃、体調を崩して体重も激減してやつれが目立つようになっていた。
「賞味期限」とは食品に付けられている期限の数字であるが、今では、日常会話の中でも、よく言われるようになっている。
亡妻が実際に、この言葉を言ったのか、それとも私が作品化するときに採り入れたのか、今となっては判然としないが、いずれにしても面白い歌に仕上がっている。
掲出した写真は、もちろん妻のものではない。この写真の女の人などは、まさに「賞味期限」最中である。
化粧品会社のサイトから拝借したものである。

女の人が、お化粧しているのを、こっそり眺めるのは面白いものである。
私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)の中で「化粧」という一連10首を作ったことがある。その中に

   私は化粧する女が好きだ 虚構によって切り抜けるエネルギー

   お化粧はゲームだ 化粧の濃い女の「たかが人生じゃないの」という余裕

   化粧はエロチックだ 女のナルシスムだと決めつけてはいけない

   化粧する女は淋しがりやだ。 化粧なしの素肌では不安なのだ

   素顔の女がいる「化粧をしなくても生きていける」勁(つよ)い女だろうか

   化粧台にむかう女を見るのは面白い、目をむいたり口をひんまげたり百面相

というような歌がある。この歌集は「自由律」のものなので定型をはみ出た自由なリズムで作っている。
いかがだろうか。
もっとも、この頃では男も化粧に精を出すような時代になった。
着るものも「ユニセックス」の時代と言われ、男性、女性という区別が明確ではなくなり、「中性」の時代とも言われている。
男性と女性とが「結婚」するという時代でもなくなり、同性同士の結婚が、法的に認められるところも出てくる、という時勢なのである。
私などは時代に取り残された「骨董品」的な価値しかないかも知れない。
それでも、私でも女の人に「まぁ、おしゃれね」と言われたら嬉しいのだから、何をか言わんやである。
この辺で、退散しよう。チャオ!



春愁やくらりと海月くつがへる・・・・加藤楸邨
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    春愁やくらりと海月(くらげ)くつがへる・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

明るく、浮き立つ春ではあるが、ふっと哀愁を覚えることがある。はっきりした「憂鬱」ではなく、あてどない物思いのような気持ちを「春愁」という。
春ゆえに心をかすめる淡い、かなしい、孤独な、物思いである。

春愁を写真にしようとすると、難しい。
だから「クラゲ」の写真を出しておいた。

俳句には「春愁」を詠んだものがたくさんある。少し引いておきたい。

 春愁のまぼろしにたつ仏かな・・・・・・・・飯田蛇笏

 春愁や派手いとへども枕房・・・・・・・・飯田蛇笏

 白雲を出て春愁もなかりけり・・・・・・・・中川宋淵

 いつかまたポケットに手を春うれひ・・・・・・・・久保田万太郎

 春愁のかぎりを躑躅燃えにけり・・・・・・・・水原秋桜子

 髪ばさと垂れて春愁の額としぬ・・・・・・・・三橋鷹女

 春愁に堪ふる面輪に灯りけり・・・・・・・・日野草城

 春愁の一端に火が燃えてゐる・・・・・・・・野見山朱鳥

 春愁もなし梳く髪のみじかければ・・・・・・・・桂信子

 春愁やせんべいを歯にあててゐて・・・・・・・・大野林火

 春愁のいとまなければ無きごとし・・・・・・・・皆吉爽雨

 ハンカチに鏝(こて)あてて春愁ひかな・・・・・・・・安住敦

 山椒魚の春愁の顔見とどむる・・・・・・・・後藤秋邑

 春愁やかなめはづれし舞扇・・・・・・・・鷲谷七菜子

 春愁や夫あるうちは死ぬまじく・・・・・・・・末広千枝


丸まりて死をよそほへるだんご虫をいつ動くかと子らじつと待つ・・・・辰濃恵美子
無題ダンコムシ
1058607289ダンゴムシ脱皮
 ↑ ダンゴムシの脱皮

      丸まりて死をよそほへるだんご虫を
             いつ動くかと子らじつと待つ・・・・・・・・・・・辰濃恵美子


この歌は角川書店・月刊誌「短歌」2013年3月号の一般読者から「待つ」という題詠で募集されて採用された秀歌のひとつである。
この歌はダンゴムシの様子や、それを取り巻く子供たちの態様を、よく捉えている。
今しも、あたたかくなってきて、虫たちも動き出す頃である。
子供の頃は、こういう自然界の虫たちの様子を観察するのが面白いものである。
子供の頃には、彼らを外に連れ出して、動植物に触れさせるのが、よい。
掲出した写真はネット上から拝借したものだが、特に二番目の「脱皮」の瞬間を捉えたのは、秀逸である。
私も田舎暮らしだが、ダンゴムシが脱皮するとは知らなかった。 

ここに載る「待つ」歌のいくつかを引いておきたい。

   待て待てと追ひかけゆけば転ぶまで逃げて幼なの鈴ふる笑ひ・・・・・・・・野原東子

   その昔半ドンといふ土曜ありて待ち合はせ駅裏「青春書店」・・・・・・・・華野浩子

   公園のベンチで待っている君に近づけば先に影がつながる・・・・・・・・・本川克幸

   百年間待っていたと言うように百合がひらく朝霧のなか・・・・・・・・・・・・・浦野かすみ

   長くなる立ち話を待つ犬どうし顔見合わせて白い息吐く・・・・・・・・・・・・・飯坂友紀子

   百歳の祝いの宴に癌だとは告知できない 明日にしよう・・・・・・・・・・・・・・堀内和孝

   園児らのかけゆく先に母の手が大きく待てり光の中に・・・・・・・・・・・・・・小野崎幸子

   薬缶の湯ぴいと鳴るのを待つ間三人の死を伝えるラジオ・・・・・・・・・・・・・・ユキノ進



水あふれゐて啓蟄の最上川・・・・・森澄雄
03080027ヒキ抱接①

  水あふれゐて啓蟄の最上川・・・・・・・・・・・・・・・・・・森澄雄

今日は「啓蟄」(けいちつ)である。
「啓蟄」は24節気の一つである。
「啓」は開くの意味。「啓蒙」という言葉があるが、これは蒙を開くの意味からきた熟語である。
「蟄」は巣ごもり、のこと。土中に冬眠していた虫が、この頃になると、冬眠から醒め、地上に姿を現しはじめる。
啓蟄を更に具体的に言った言葉に「地虫穴を出づ」「蛇穴を出づ」「蜥蜴穴を出づ」「蟻穴を出づ」などの表現がある。
この頃鳴る雷を「虫出しの雷」というが、そういうと昨晩というか未明に雷鳴とともに激しい雨が降った。
今ごろは、冬から春への季節の変わり目で、こういう気象現象が起りがちなのであろう。
いずれにせよ、地下の虫も動き出してきたか、という一種の感慨とともに、使われる言葉であり、季節感を、よく表現していると言えるだろう。
掲出写真は「ヒキガエル」の抱接だが、この類は、この頃に地中から出てきて抱接し、雌は水溜りに卵を生んで、また冬眠を続けるために地中に戻るという。
「交尾」と「抱接」とは、ちょっと違う。言葉の定義としては厳密に区別されなければならぬ。
交尾というのは雄が生殖器を雌の生殖器に挿入して受精するが、カエルの類は抱きあって、雌が放出した卵に雄が精子を振りかけて受精する仕組みになっている。
ついでに書いておくと、これと対応する言葉として「射精」と「放精」という言葉も区別して厳密でなければならない。
昨年に或る未知の歌人から歌集が恵贈されてきたが、その中に「鮭の<射精>」という歌があって、この歌を今をときめく中堅の有名歌人が採り上げていた。
これは、上に述べたように言葉の使い方が間違っている。
魚類の生殖は交尾するのではなく、雌が産んだ卵に雄が精液をかける「放精」であるからである。
この有名歌人は大学の自然科学者であるから言葉には厳密であってもらいたい、と思ったことである。余談だが少し書いておく。

森澄雄は大正8年(1919年)兵庫県姫路市生まれ。昭和15年「寒雷」創刊と同時に加藤楸邨に師事。
彼は、戦後俳壇の社会性論議の域外にあって自分の生活に執し、清新な句境を拓く。
のち古典、中国詩、宗教書に親しみ、時間、空間の広がりの中に思索的な作品世界を構築した、と言われる。
晩年は体調を損ねておられたが、読売新聞の俳壇選者などを努めておられたが、2010/08/18に亡くなられた。
森澄雄の作品を少し抜きだしてみよう。

 チェホフを読むやしぐるる河明り・・・・・・・・・・・・森澄雄

 家に時計なければ雪はとめどなし

 明るくてまだ冷たくて流し雛

 雪夜にてことばより肌やはらかし

 雪国に子を生んでこの深まなざし

 田を植ゑて空も近江の水ぐもり

 春の野を持上(もた)げて伯耆大山を

 水入れて近江も田螺(たにし)鳴くころぞ

 火にのせて草のにほひす初諸子

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他の作家の啓蟄の句を少し挙げて結びにする。

 啓蟄の土洞然と開き・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 啓蟄や庭とも畠ともつかず・・・・・・・・・・・安住敦

 啓蟄の大地月下となりしかな・・・・・・・・・・・・大野林火

 啓蟄や解(ほぐ)すものなく縫ふものなく・・・・・・・・・・・・石川桂郎

 啓蟄を啣へて雀飛びにけり・・・・・・・・・・・・川端茅舎

一番あとの川端の句の啓蟄は、出てきた「虫」のことを指しているのである。


わが一生にいくたりの族葬りしや春の疾風はすさまじく吹く・・・・・木村草弥
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  わが一生(ひとよ)にいくたりの族(うから)葬(はふ)りしや
       春の疾風(はやち)はすさまじく吹く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌に詠んだように、私が物心つくようになってから何人の肉親を葬っただろうか。

はじまりは、昭和18年5月の長兄・庄助を22歳で送ったことである。
その同じ年の12月には庄助の名づけ主である祖父・木村庄之助が亡くなった。
そのお供に父の妹の婿養子・木村保次郎が亡くなった。この人は祖父と共にお茶の仕事をしていた人である。
引続いて母の兄・堀井東次郎が急死した。この人は小学校の校長だった。
その翌年昭和19年2月には私の長姉・登志子が亡くなった。このことは2月19日付けのBLOGで書いておいた。
そして敗戦後の昭和20年12月には私たちの末の妹・京子が結核性髄膜炎で亡くなった。小学校二年生だった。

このように親しい人々が短期間の間にバタバタと死んで、思春期の少年だった私には、この世は、一体どうなるのか、という「死」と向かい合う時期だった。
その後は少し肉親の死はなかったが、父と母を送った。父を昭和40年に送って51年。
一昨年、その五十回忌を命日の十月に営んだ。
また母が平成5年に死んで今年の四月は24回忌になる。
そして妻・弥生が先年亡くなって、この四月は満10年になる。

春の疾風は季節の変わり目で、すさまじく吹く。
普通「疾風」はハヤテと呼ばれるが、私の歌に使った呼び方「はやち」は、昔の古い呼び方なのである。
疾風というのは映像にならないので、プリズムの画像を出しておいた。

ここで春の季語「春疾風」の句を引いて終わりたい。「疾風」は秋の季語なので俳句では「春疾風」と書く約束である。

 春疾風すつぽん石となりにけり・・・・・・・・・・水原秋桜子

 春嵐奈翁は華奢な手なりしとか・・・・・・・・・・中村草田男

 春颷ききゐて沼へ下りゆかず・・・・・・・・・・加藤楸邨

 春疾風屍は敢て出でゆくも・・・・・・・・・・石田波郷

 春嵐鳩飛ぶ翅を張りづめに・・・・・・・・・・橋本多佳子

 春嵐足ゆびをみなひらくマリヤ・・・・・・・・・・飯島晴子

 春疾風吹つ飛んで来る一老女・・・・・・・・・・山田みづえ

 なびきつつ女あらがふ春疾風・・・・・・・・・・松尾隆信

 煮え切らぬ男撫で切る春疾風・・・・・・・・・・石田静




加山又造・前本ゆふ 画文集『ゆふ』・・・・木村草弥
ゆふ

──新・読書ノート・・・初出Doblog2006/10/07──

  加山又造・前本ゆふ 画文集『ゆふ』・・・・・・・・・・・・木村草弥

つい先年、他のBLOGから、ハンドルネーム「ゆふ」という人が訪問されて、一時交信していた。「ゆふ」というのは九州の九重連山の「由布」岳に由来するらしい。
そんな「ゆふ」という名前からの連想で、「そう言えば、むかし『ゆふ』という画文集を読んだっけ」と思い出して書架から引っ張りだしてきた。1993年中公文庫。

はじめにお断りしておくが、そんないきさつだから、今日書くことと、ハンドルネーム「ゆふ」さんとは何の関係もないことである。

加山又造は1927年京都生まれの画家で「新制作協会」「創画会」などに所属。東京芸術大学教授を勤めた。彼の筆致は一目みただけですぐにわかる独特なものである。
前本ゆふは1949年生まれ。多摩美術大学日本画科の「加山教室」で、後に夫となる前本利彦に出会いモデルを始める。1970年、同大学を中退。1976年より加山又造のモデルを務める。自身も日本画家として個展を中心に作品を発表している。

事典には、次のように載っている。
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加山 又造(かやま またぞう、男性、1927年9月24日~2004年4月6日)は、昭和~平成の日本画家。

1927年、京都府に西陣織の図案家の子として生まれる。京都市立美術工芸学校、東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業。山本丘人に師事。東京芸術大学名誉教授。日本画の伝統的な様式美を現代的な感覚で表現した。1997年文化功労者に選ばれ、2003年文化勲章を受章。

代表作品
「春秋波濤」(1966) 東京国立近代美術館
「雪」「月」「花」(1978) 東京国立近代美術館
「黄山霖雨・黄山湧雲」(1982) 京都国立近代美術館
「横たわる裸婦 '84(黒衣)」(1984)
「墨龍」 身延山久遠寺大本堂天井画
「濤と鶴」 ブリティッシュエアウェイズワールドイメージ尾翼デザイン
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学習研究社の出版で1983年に出た「裸婦」シリーズ全8巻というのがあり、第一回配本が加山又造だった。
名前の通り「裸婦」を描いた油彩、水彩、デッサンなど100ページほどのものである。
図版②は、その本から採った。

加山又造

話を画文集『ゆふ』に戻す。
この本の裏表紙に

<一人の女を描きつづけて十数年、選び抜いた素描150点と、画家とモデルの二人のエッセイによるユニークな画文集。裸婦画に独自の境地を拓いた加山又造氏とモデルをつとめるゆふさんが、互いの歩みと美の創造の過程を折々の心境をまじえて綴る>

というキャッチコピーが載っている。けだし的確な要約と言えるだろう。
図版③も「裸婦」シリーズからだが、下に引用する「ゆふ」さんの文章に関係するので、敢えて出しておく。

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この本のはじめの部分で「ゆふ」さんは書く。

<鶴見のアトリエ
 初めての仕事の日、私は丁寧にお化粧してでかけた。運転していった車の色や、着ていった青い服のこともはっきり覚えているのに鶴見のアトリエに着いてからのことはあまり覚えていない。・・・・・アトリエには、それまで先生が描いていたモデルのデッサンなどがあり、それらを見るにつけ私は不安になった。先生が描いていた女達のような、白く透きとおるパセティックなイメージを表現することは、マエモトサンのモデルをして養った「モデル術」を駆使しても難しいと思われた。私は、背も低く、女らしいやさしい体つきではなかったし、何より気になったのは健康的なことであった。夏と海だけを待ちつづけて残りの季節を過ごしていたような私の体には、十二月になってもくっきりと水着の跡がついていた。ちょうど、小麦色の肌に白い水着を着ているようだった。・・・・・先生はやっぱり少し驚いたように思えた。水着の跡を着た裸を珍しそうにみていたが、意外にもとても面白がって、さっそくスケッチに取りかかった。・・・・・三回だけの約束は延び延びになって、とうとう13年もたってしまった。仕事場は鶴見から藤沢に移り、あんなに焦がれた海沿いの道を通ってアトリエに通うようになったが、今では窓越しの太陽さえまぶしすぎる。私は、39歳になった。>

引いた文にも書かれているように、このデッサンにもはっきりと水着の跡が描かれている。
また違う個所の文を引いてみよう。

<アトリエの中
 自ら「屑屋の仕切り場」と称する先生のアトリエの中は、美大のときの「加山教室」そのままであったから、私には居心地が良かった。あらゆるものが雑然としている中で、私達もまとまりなく自由に仕事をした。先生はいつも京都弁独特のイントネーションで「自由にやろう」と言う。私達は仕事の合間にテレビを見たり、みどりさんが用意してくれるくだものやお菓子を食べながらお茶を飲んで話をする。しゃべってばかりでちっともはかどらないときもあるが、考えてみると話しているのは絵のことばかりである。・・・・・>

うらやましいような師弟として、またモデルとしての過ぎ行きが活写されている。
「ゆふ」さんとの交信から、むかし読んだ、ほのぼのとした本を再読させてもらった。




雛の唇紅ぬるるまま幾世経し・・・・山口青邨
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   雛の唇(くち)紅ぬるるまま幾世経し・・・・・・・・・・・山口青邨

雛祭は、もともとは旧暦の三月三日であったから、桃の花が麗しく咲き誇る季節であり、桃の花や白酒、菱餅などが供えられた。
九州の柳川では、この時期には「川くだり」の舟の中から見られるように家々が雛壇を飾るのが恒例である。
なお、男雛と女雛の置き位置が、京都と東京では逆であると言われる。調べられたい

今は太陽暦の新暦で祭るから植物的には違和感がある。
今でも女の子の居る家では「おひなさま」を飾るが、家の広さに制限があり、簡単な飾りで済ますところも多いらしい。
だから昔ほど、おひなさまを囲んでという光景は薄れたと言えようか。

雛祭の古い句としては

  とぼし灯の用意や雛の台所・・・・・・・・加賀千代女  

  雛祭る都はづれや桃の月・・・・・・・・与謝蕪村

  蝋燭のにほふ雛(ひひな)の雨夜かな・・・・・・・・加舎白雄

などが挙げられよう。
近代以後の句も歳時記にはたくさん載っているので、いくつか引いておく。
「雛」の字の読み方としては、前後の音数の関係から「ひな」と訓んだり「ひひな」と訓んだり区別する。

  いきいきとほそ目かがやく雛(ひひな)かな・・・・・・・・飯田蛇笏

  箱を出て初雛のまま照りたまふ・・・・・・・・渡辺水巴

  鎌倉の松風さむき雛かな・・・・・・・・久保田万太郎

  かんばせのひびのかなしき雛かな・・・・・・・・野村喜舟

  函を出てより添ふ雛の御契り・・・・・・・・杉田久女

  老いてこそなほなつかしや雛飾る・・・・・・・・及川貞

  雛の座を起つにも齢の骨鳴りて・・・・・・・・石川桂郎

  初雛の大き過ぎるを贈りけり・・・・・・・・草間時彦

  男(を)の雛の黛(まゆずみ)暈(かさ)をもちたまふ・・・・・・・・後藤夜半

  雛まつり薬缶も笛の音色して・・・・・・・・成田千空

  ひとり居の雛とぢこめて出勤す・・・・・・・・菖蒲あや

  木に彫つて寧楽七色の雛かな・・・・・・・・飴山實

  日の高きうちより点し雛の燭・・・・・・・・片山由美子

  灯すもの灯して寂か雛の間・・・・・・・・浜崎浜子

  雛壇を奥の一間に鮮魚店・・・・・・・・中間秀幸
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山口青邨は東京帝大工科採鉱学科卒で、のち母校の教授になるという経歴の持ち主。ホトトギス門下の逸材で、いわゆる「四S時代」の提唱者として知られる。
因みに、「四S」とは、東の秋桜子、素十。西の誓子、青畝を指す。

掲出の青邨の句は、雛祭の、雛出しの情景を彷彿とさせる佳い句である。
今の時期の青邨の句としては、

  本を読む菜の花明り本を読む

  啓蟄の蚯蚓の紅のすきとほる

  春の海一重の藪をもてへだつ

  白梅を怒涛と見れば日暮れたり

  森の中噴井は夜もかくあらむ

などの句が私は好きである。




水滴のひとつひとつが笑っている顔だ・・・住宅顕信
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   水滴のひとつひとつが笑っている顔だ・・・・・・・・・・・・・・・・・・住宅顕信

住宅顕信(すみたくけんしん)という自由律俳人の句である。
この句は彼の死後、1993年に岡山市内を流れる旭川のほとりに建てられた「句碑」に彫られたものである。
写真①がその句碑。
この句碑が建てられたとき、遺児である住宅春樹は僅か8歳──小学校二年生が健気にも挨拶したという。

写真②は『ずぶぬれて犬ころ』俳句=住宅顕信、版画=松林誠(2002年中央公論新社刊)。

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以下にネット上に載る記事を引いておく。

住宅顕信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

昭和36年(1961年)3月21日 - 昭和62年(1987年)2月7日)は、日本の俳人。
本名・春美(はるみ)。

経歴
岡山県岡山市に生まれる。
岡山市立石井中学校卒業後、昭和51年(1976年)4月、岡山市内の下田学園調理師学校に入学、同時に就職し、昼は勤務し夜は通学という生活に入る。4歳年上の女性と知り合い、同棲を始める。この頃より詩、宗教書、哲学書に親しみ始める。昭和53年(1978年)3月下田学園卒業。

昭和55年(1980年)父親の勤務先である岡山市役所に臨時職員で採用され清掃の仕事に従事。仏教に傾倒し、昭和57年(1982年)9月より中央仏教学院の通信教育を受講。翌昭和58年(1983年)4月、教育課程修了。7月西本願寺にて得度。浄土真宗本願寺派の僧侶となり、法名を釈顕信と名告る。10月同棲相手と結婚。両親の援助により自宅の一部を改造して仏間をつくり、浄土教の根本経典「無量寿経」に因み無量寿庵と名付ける。

昭和59年(1984年)2月急性骨髄性白血病を発病し岡山市民病院に入院。6月長男誕生。不治の病の夫に対し妻の実家が希望し離婚する。長男は顕信が引き取り病室にて育てる。10月自由律俳句雑誌「層雲」の誌友となり、層雲社事務室の池田実吉に師事する。この頃より自由律俳句に傾倒し句作に励むようになる。特に尾崎放哉に心酔。

昭和60年(1985年)には句集『試作帳』を自費出版。層雲に権威主義的な疑念を感じ、層雲の元編集者藤本一幸がこの年より主宰する自由律俳句誌「海市」に参加する。翌昭和61年(1986年)「海市」編集同人となる。病状が悪化し、この年12月からは代筆によらなければ投書できなくなる。

昭和62年2月7日23時23分、永眠。享年25。俳人としての創作期間はわずか3年で、生涯に残した俳句は281句だった。

昭和63年(1988年)句友であった岡山大学教授・池畑秀一らの尽力により弥生書房より句集『未完成』出版。
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写真③は、彼の死後、句友であった岡山大学教授・池畑秀一の監修で発行された『住宅顕信』全俳句集全実像(2003年小学館刊)である。

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冒頭に書いた「句碑」の序幕の際に挨拶した遺児・住宅春樹が、この本に次のように書いている。

 おわりに──父のように熱く生きたい・・・・・・・・・・・・住宅春樹

父、住宅春美が亡くなったのは私が三歳になる前でした。
「お父さんのことは覚えていますか?」と、新聞記者の方などから尋ねられますが、父と過ごしたころのことは、ほとんど憶えていません。
父との思い出は、1993年に父の句碑が建てられてからできてきたように思います。小学二年生のときでしたが、除幕式では祖父母ではなく私が挨拶をしました。
2002年には、中央公論新社から句集も二冊刊行され、さらに精神科医の香山リカ先生も本を書いてくださいました。そのほか、岡山市内にある吉備路文学館で「住宅顕信展」が七月から三か月間開催され、七月七日には「住宅顕信フォーラム」も行われました。
フォーラムには池畑秀一先生、香山先生、父のファンだとおっしゃってくださるプロレスラーの新崎人生さんらが参加してくださいました。テレビでしか見たことのない有名な方々が、父の生き方、作品について熱心に語ってくださる。改めて父の凄さを実感しました。
父は私にいくつかの句を遺してくれました。
その中で特に、《バイバイは幼いボクの掌の裏表》が好きです。私は病室から帰るとき、いつも父に「バイバイ」と手を振りました。それだけははっきり憶えていて、この句を読むと、とても懐かしい気持ちになります。
《夜が淋しくて誰かが笑いはじめた》。本書のサブタイトルに入れられたこの句も好きです。
父がどんな思いで私を病室で育て、句を詠み、治療を受けたのだろうか。父はなぜ得度して、俳句の道を選んだのだろうか。言葉ではうまく表現できませんが、父が発病した年齢に自分が近づいてきて、最近、父の気持ちがなんとなくわかってきました。
自分がこれだと信じたことに一生懸命打ち込んだ父。私はこの春から情報系の大学に進む予定ですが、父のように熱く生きたいと思っています。いつか父にあったとき、「ぼくはこんな生き方をしたんだよ」と胸を張れるように。
最後になりましたが、父を支え、応援してくださった池畑先生をはじめ、多くの皆様に御礼申し上げます。
 2003年1月15日
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このように書いた息子の住宅春樹だが、今は「川崎医療福祉大学」を出て、「ニチイ学館」に所属するようである。
Facebookを利用しているようで、そこには、経歴について、こう書かれている。 ↓
<現在、岡山で診療情報管理士の仕事をしております。>
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以下、これらの本から私の目に留まった句を引く。

 降りはじめた雨が夜の心音

 雨に仕事をとられて街が朝寝している

 朝はブラインドの影にしばられていた

 月明り、青い咳する

 秋が来たことをまず聴診器の冷たさ

 またオリオンにのぞかれている冬夜

 点滴と白い月とがぶらさがっている夜

 水たまりの我顔またいで歩く

 カガミの中のむくんだ顔をなでてみる

 何もないポケットに手がある

 だんだん寒くなる夜の黒い電話機

 看護婦らの声光りあう朝の回診

 頭剃ってもらうあたたかな陽がある

 水音、冬が来ている

 冬の定石窓にオリオンが置かれた

 赤ん坊の寝顔へそっと戸をしめる

 両手に星をつかみたい子のバンザイ

 バイバイは幼いボクの掌の裏表

 かあちゃんが言えて母のない子よ

 抱きあげてやれない子の高さに坐る

 夢にさえ付添いの妹のエプロン

 初夏を大きくバツタがとんだ

 合掌するその手が蚊をうつ

 薬を生涯の友として今朝の薬

 とんぼ、薄い羽の夏を病んでいる

 気の抜けたサイダーが僕の人生

 ずふぬれて犬ころ

 若さとはこんなに淋しい春なのか

 報恩の風の中に念仏

 夕陽の影が背を丸めたランドセル

 真夏の山がけずりとられた

 一つの墓を光らせ墓山夕やけ

 朝露をふんで秋風の墓がならぶ


たつぷりと/春は/小さな川々まで/あふれてゐる/あふれてゐる・・・・・山村暮鳥
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     春の河・・・・・・・・・・・・・・・・・・山村暮鳥

       たつぷりと

       春は

       小さな川々まで

       あふれてゐる

       あふれてゐる
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7-13_9879山村暮鳥

この詩は『雲』という大正14年刊行の詩集のはじめの「春の河」三篇のうちのものである。

山村暮鳥(1884-1924)は『三人の処女』『聖三稜玻璃』などで有名な人であるが、私の旧制中学4年の時の国語の先生から山村暮鳥の詩集を借りて、ひところむさぼるように読んだことがある。
山村調を気取って短詩を作ったりした。
詩集の題名でも明らかなように、暮鳥は宗教的ヒューマニストとしてキリスト者の人間的真実を追究するところに独自の詩風を展開した。
詩風は、かなり時期により異なり、ドストエフスキーの研究、翻訳に当っていた頃は、当然その影響を受けている。
いわゆる「白樺派」の影響を受けた第二期があり、詩集『風は草木にささやいた』(1920)などはヒューマニズムの時期である。
1924年に亡くなるが、萩原朔太郎が評しているように「虚淡時代」という第三期の東洋的な汎神論的世界に晩年はひたり込んだ。
静かに牧歌的な自然を観照し、その中に帰一し、明るい人生観が見られる時期である。
大正14年というと、もう晩年に近い頃で、掲出の詩は、そういう牧歌的な雰囲気のものである。

余談だが、彼の略歴(下記)を見ると「東京聖三一神学校」を出た、とあるが、別の記事を読むと、この神学校は「立教大学」の前身であるという。

1126505962-2山村暮鳥詩碑

写真③は彼の詩「風景 純銀もざいく」を刻んだ詩碑である。
この詩碑の建つ場所や写真などを ↑ のリンクで見られるので、アクセスしてみてください。

その詩句を下記に引いておく。

  風   景  
    純銀もざいく
・・・・・・・・・・・・山村暮鳥   詩集『聖三稜玻璃』(にんぎょ詩社、大正4年12月10日発行)所収

     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     かすかなるむぎぶえ
     いちめんのなのはな

     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     ひばりのおしやべり
     いちめんのなのはな

     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     やめるはひるのつき
     いちめんのなのはな。

同じ詩句を連ねた中に8行目にだけ異なった詩句を嵌めるというシンプルな構成になっている。

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ここで同じ詩集『雲』に載る短詩をひとつ紹介する。

   雲・・・・・・・・・・・・・・・山村暮鳥

      おうい雲よ
      ゆうゆうと
      馬鹿にのんきさうぢやないか
      どこまでゆくんだ
      ずつと磐城平の方までゆくんか
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また『月夜の牡丹』という詩集の作品──

      ある時・・・・・・・・・・・・・・山村暮鳥

      娘よ
      うんと力をいれて
      何がそんなにはづかしいのよ
      ほら、ぬけた
      なんといふ
      太いまつ白い大根だらう
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ネット上に載る「文車」というサイトの記事を下記に貼り付けておく。
この記事が一番よく書けていると思うからである。

山村暮鳥

[文車目次] 

思潮社 「山村暮鳥詩集」(1993年9月15日 初版第二刷)より
  『聖三稜玻璃』
彌生書房 「山村暮鳥全詩集」(1973年7月10日 第五版)より
『風は草木にささやいた』
筑摩書房 「現代日本文學大系41」(1973年12月20日 第一刷)より
『雲』
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ひとりごと
 山村暮鳥の詩をはじめて読んだのは、実はマンガの中でのことでした。多分、小学校の高学年か中学の1年生ぐらいだったと思うのですが、作家もストーリーも忘れてしまいましたが、一番最後のコマに「いちめんのなのはな」の繰り返しがあって、島村暮鳥《風景》というのが小さく書いてありました。とにかく、その繰り返しにもの凄くインパクトを感じて、曖昧な記憶の中で、次の日には紀ノ国屋書店に《風景》の詩を確認しに行った、ということだけは鮮明に覚えています。
 その後、暮鳥の詩で代表的のものは高校まででほぼ読み終えましたが、《風景》の収められた『聖三稜玻璃』の3年後に出版された『風は草木にささやいた』は、とても同じ人が書いているとは思えないぐらい穏やかな詩が並んでいて、かなり戸惑ったものでした。『聖三稜玻璃』が世に認められず悪評の中で一度壊れた暮鳥が、苦しみの中から自分を組み立て直して作り出したのだろう、力強いながらも平明な詩や、『雲』の中の穏やかな詩を読んでいると、時々泣きたくなるような気がしてくることがあります。
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山村暮鳥について
1884年(明治17年)~1924年(大正13年)。詩人。本名、土田八九十(つちだ・はつくじゅう)
群馬県生れ。貧しい家庭に育つ。1903年(20歳)東京聖三一神学校に入学。在学中は文学に傾倒し、詩や短歌の創作にふける。神学校卒業後、キリスト教日本聖公会伝道師として各地で布教活動を行いつつ、1913年(30歳)に詩集『三人の処女』を出して世に認められる。同年、萩原朔太郎、室生犀星らと人魚詩社を興す。このころから鋭角的で斬新な詩風の作品を書き、それらは『聖三稜玻璃』(1915)に結晶して朔太郎らに大きな影響を与えた。しかし自身は人道主義的作風に転じ、『風は草木にささやいた』(1918)『雲』(1925:死後一年後に出版)をまとめた。1924年、茨城県大洗町で結核により永眠。享年41歳。
明治大正期の新詩体から口語自由詩への変革期の中で、革新的な作風から人道主義的な作風まで、これほど短期間の間で己の詩質と詩風を何度も変容させた詩人はまれであり、日本近代史に類例のない軌跡を描いている
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『聖三稜玻璃(せいさんりょうはり)』について

1915(大正4)年、人魚詩社刊。
大正3年5月から4年6月までの1年余りの間に発表された詩35篇と序詩1篇からなる第2詩集。2年後に出版された萩原朔太郎の《月に吠える》が好評のうちに迎えられたのとは対照的に、当時の詩壇からは悪評を買うのみで、広く世に認められることがありませんでした。けれど、言葉をその意味から離して、詩人の鋭い感覚のみで自由に結合させた幻想的な詩法は、極めて実験的で独創的な世界を作り出しています。これらの詩は、萩原朔太郎や室生犀星などに大きな影響を与えましたが、暮鳥自身はこの形式を放棄し、以後は平明な詩法へと転換して行くことになります。

『風は草木にささやいた』について

1918(大正7)年、白日社刊。
大正6年1月から大正7年12月までに制作、発表された作品を集めた第3詩集。大正5年11月に雑誌『感情』第5号に、暮鳥が「無韻小詩」という題で発表した14篇の散文詩の翻訳は、山崎晴治の「不遜の言-暮鳥氏訳『無韻小詩』に就て-3」と題した文章によって、誤訳であると批判されます。『風は草木にささやいた』は、山崎晴治の批判文を読んで《卒倒》した暮鳥が、結核に冒されつつも旺盛な創作活動を続けた結果の、自然と人間への賛歌を歌いあげた人道主義的な作風の詩が納められています。

『雲』について

1925(大正14)年、イデア書院刊。
暮鳥の死の翌年に刊行された第6詩集。暮鳥自らが病床で編集したもので、大正13年7月に入稿し、11月に校了となったが、翌月の8日に暮鳥は永眠しました。その序文で「だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。」と書かれた『雲』に納められた詩には、平淡な自在さを持った宗教的、あるいは東洋的な哲学めいたおもむきを感じさせるものが多いような気がします。

いのち噴く季の木ぐさのささやきをききてねむり合ふ野の仏たち・・・・生方たつゑ
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    いのち噴く季(とき)の木ぐさのささやきを
         ききてねむり合ふ野の仏たち・・・・・・・・・・・・・・・生方たつゑ


冬の間の固い殻を破って、さまざまな木草が新たな命を噴きあげる春。
それを作者は「いのち噴く季」と表現する。
目覚めたのち、ささやき合う木草。その傍らに野仏が、風化して目鼻も定かでない顔だちで、うつらうつらと眠っている。
路傍に野仏をたてた昔の人は、悲しみや祈りをこめて石仏に手を合わせたことだろう。
野仏はそれらの時間を、すべて閉じ込めて、じっと動かずに立っている。
そこには、時の移ろいと、時の停止を同時に語るものがある。

この歌は生方たつゑさんの歌集『風化暦』(昭和49年刊)にあるもの。2000年1月18日に亡くなったが、歌集だけでも20冊に及ぶ。
少し歌を引用してみる。

  草の汁浸みてこはばる手をひたす清きまみづを犯すがごとく

  紅絹(もみ)裂けば紅絹のあやしさにほひ充つ透きとほるまでの嫉妬をもてば

  「平凡に生きよ」と母が言ひしこと朱の人参刻めば恋ふる

  北を指すものらよなべてかなしきにわれは狂はぬ磁石をもてり

  かかる夜ひそかに隕石の墜ちゐむかみづうみ濡らす冬の月かげ

  潮のいろ美しきかな痣のごとき珊瑚礁あるを原点として

  結氷の季も生きゐる魚(いを)のこと羨望しつつ雪の夜点(とも)す

作者は三重県宇治山田(今の伊勢市)生まれの人。「女人短歌」結成に参加した才媛。
家庭的にも育ちのよい境遇の人で、大らかな、女らしい情感のある歌を残す。

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私の住む南山城や奈良盆地は、大陸や朝鮮半島からの渡来人が、早くから住みついて、かの地の先進的な文化をもたらした。
掲出した写真のような野仏も多い。
こういう風物も、すっかり影をひそめて来たが、先人たちの、こういう自然に対する畏敬の念は尊っとんでゆきたいものである。

白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう・・・・斎藤史
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   白い手紙がとどいて明日は春となる
     うすいがらすも磨いて待たう・・・・・・・・・・・・・・・斎藤史


今日は2月26日である。昭和11年の、この日に、いわゆる2・26事件が起った。
掲出の歌は昭和15年刊行の第一歌集『魚歌』に載るものだが、初々しい感覚の春の歌である。

この『魚歌』の中に「二月廿六日、事あり、友ら、父、その事に関はる」の前書きで、次のような歌がある。

  春を断る白い弾道に飛び乗つて手など振つたがつひにかへらぬ

  濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ


これらの歌については後に

「意識してカモフラージュしたところがあるんです。そうしなきぁ発表できない情勢の中、苦しみを吐きたい。しかしリアリズムで書けば通るはずはありません。あの手法しかなかったのです」(「ひたくれなゐの生」樋口覚との対談)

という本人の談話がある。詩で多用する「暗喩」という手法である。
長くなるので、皆さんなりに読み解いて頂きたい。

2.26事件は陸軍の青年将校たち皇道派が、降りしきる豪雪の中、天皇親政を求めて決起して、歩兵第一、第三、近衛歩兵第三の各連隊の部下1400名を率い、内大臣斎藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡部錠太郎を殺し、侍従長鈴木貫太郎に重傷を負わせた事件である。
昭和天皇が激怒し、徹底的な鎮圧を命じたため、彼らは「反徒」となり、首謀者は碌な弁護もなく、逮捕から僅か3か月で結審して、首謀者は死刑となった。
事件そのものについては、色々の著書があるので、ここで詳しくは書かない。

ただ斎藤史の父・斎藤劉予備少将も、心情的に彼らを支持したとして「禁固5年」の判決をうけた。
その上、死刑となった栗原安秀中尉や坂井直中尉は、史とは同年輩で、旭川師団長として劉が赴任していた頃から兄妹のように親しくしていた間柄であり、そんな諸々の関係が、斎藤親子のめぐりには存在したのである。
したがって、史には昭和天皇に対する「恨み」のような感情があり、昭和天皇生存中は、史の心は解けることはなかった。
歌集『渉りかゆかむ』に

  ある日より現神(あらひとがみ)は人間となりたまひ年号長く続ける昭和

という歌があるが、これは戦争中は「あらひとがみ」とされていた天皇が、敗戦後マックアーサーとの会見などを経て、詔書を出して、これを否定し、いわゆる人間宣言をされたこと、などへの痛烈な皮肉とも言えよう。

昭和天皇没後、平成の代になって一月の「歌会始」に召人として招かれ、ようやく心の箍が取れたのか、出席したが、

  「おかしな男です」といふほかはなし天皇は和(にこ)やかに父の名を言ひませり

という歌が残っている。宮中の歌会始の会場で天皇から声をかけられた時の情景である。
因みに、父・斎藤劉も若い頃からの歌人で結社「短歌人」に拠って活躍した人である。史は戦後、短歌結社「原型」を起して多くの歌人を育てた。

斎藤史の歌は晩年には自在な境地に達し、たとえば

  ぐじやぐじやのおじやなんどを朝餉とし何で残生が美しからう

  携帯電話持たず終らむ死んでからまで便利に呼び出されてたまるか


のような歌がある。

記憶の茂み

『斎藤文歌集・記憶の茂み』(和英対訳)選歌・英訳 ジェイムズ・カーカップ 玉城周(2002/01/25三輪書店刊) という本があり、斎藤文の珠玉の700首の歌が収録されている。
この本の中に、今回掲出した、この<白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう>があり、その英訳として次のように載っている。

  With arrival of

  the white letter, tomorrow

   will surely turn to

  spring ─ so I wait, and meanwhile

  polish my windows' frail glass.


この英訳が技術的に、どの程度のものか知らないが、日本の大学で長らく教鞭をとり日本語の生理に通暁し、詩人としてまた多くの翻訳を手がけてきたジェイムズ・カーカップと、その良き協力者である玉城周の努力の賜物である。
この本のはじめの部分で「五行31音節という短歌の形式には特にこだわることにした」と書かれている。
この部分は、斎藤文の良き理解者であり、インタヴュアーでもあった樋口覚が翻訳している。
拙速ではなく長年にわたって準備されてきたものと言うべく、相当のレベルの域には達しているだろう。
この本は最近になって私も知って取り寄せたものであり、急遽ここに披露することにした。

松岡正剛の「千夜千冊」の中に彼女に触れたものがあるので参照されたい。
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なお、2・26事件に駆り出された下級兵士の、その後だが、懲罰的に戦地の最前線に送られ、殆どが悲惨な最期を遂げた、という。澤地久枝さんの本など見てもらいたい。






東風ふかばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ・・・・菅原道真
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     東風(こち)ふかばにほひおこせよ梅の花
         あるじなしとて春な忘れそ・・・・・・・・・・・・・・・・・菅原道真


今日は2月25日である。この日は菅原道真の命日として、古くは寺子屋などでも絵像を掲げて礼拝したという。
関西では、今も、この祥月命日だけでなく、毎月25日を「天神さん」の日として天満宮にお参りにゆくのは勿論、縁日が出て賑わうのである。
因みに、21日は「弘法さん」の日と言って、空海の忌日で京都の東寺境内ではお参りだけでなく、賑やかな縁日(露店)が出る。骨董品の掘り出し物があったりする。
毎年、1月には初天神、初弘法の日として、一段と混雑する。また12月は、終い(しまい)天神、終い弘法として、一年の無事を感謝し、来年への期待を願うのである。
しめ飾りなどの正月用品も、ここで買う人が多い。
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菅原道真は平安初期の詩人、文章博士。右大臣の位にまで昇ったが、摂関家藤原一族の讒言に遭い(901年天皇の廃位をはかったという無実の讒言)、太宰権帥に左遷され、配所で死んだ。(845年-903年)
道真が梅を愛したことは有名で、この歌は太宰府の地に赴くとき、庭の梅に詠みかけた歌として『大鏡』の藤原時平伝に語られる道真失脚悲話と共に伝承する。

道真の死後、「たたり」と称する異変が相次いで起り、923年罪を取り消して本官に復し、のち993年には正一位太政大臣を贈られた。
その前から民間では祠を北野に建て、天満天神として祭られ、文道の神として今日まで崇敬を受けている。
道真は、行路の危険、唐の戦乱の様子などから「遣唐使」の派遣中止を進言し、以後遣唐使は遣わされないことになったのは、有名な話である。
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ここは「梅」の名所としても有名で、神社の境内には何千本もの梅林がある。写真④は、その一例。
梅の花が盛りの時期は、ここ北野天満宮には多くの人が探梅に訪れる。
この梅園で採れた梅は梅干にされて来年の正月に「大福梅」の縁起物としてお参りの人に授けられる。
今日は「梅花祭」が催行され、野点などが楽しめる。

掲出の「東風(こち)」のことだが、日本の気象は、台風などの特殊な時期でない限り、西から変化する。
「春一番」「春二番」などの時期は、北にある低気圧に向かって東南風が吹き込むことがある。これが「こち」であり、この歌は気象学的にも正しいと言われている。

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京都北野の北野天満宮だけでなく、大阪北野の天満宮など、天満宮、天神社は全国に5000余社に及ぶ。私の住む青谷村にも中天満宮、市辺天満宮と2社もある。
天満宮は、牛が神のお使いとして社頭にうずくまる。
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この歌の結びの「春な忘れそ」のことだが、ご存じのない方のために解説しておく。
「な・・・・そ」という文章の構成法があって、この場合の意味は「春を忘れてくれるな」ということである。
「な」と「そ」で或る動詞を挟むと、その動作を「禁止する」意味を表す。「どうか・・・してくれるな」という意味の強い「結び」の詩句が出来上がるのである。
だから、この歌のように、強いメッセージ性あふれる詩句となるのであった。
「な・・・そ」に挟む動詞は連用形(カ変、サ変動詞は未然形)にする必要がある。
応用として一例を挙げる。「私の傍を離れずにいてほしい」という意味の場合「わが傍な離れそ」というような具合になる。
ただし、これは「文語」の場合だけであって、現代の口語には一切使わない。


菜の花や月は東に日は西に・・・・与謝蕪村
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     菜の花や月は東に日は西に・・・・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

日本は春夏秋冬の四季が、はっきり分かれていて、季節の推移が日本人の心に大きく投影している、と思う。
ここに採りあげた蕪村の句は、よく知られた句である。
菜の花の季節は、ちょうど今ころと言えるだろう。
日本列島は南北に長いから、九州では、もう過ぎたかも知れないし、北国では、まだ雪も深い。
ここに書く感覚は、あくまでも京都に住む私の感覚とお許し願いたい。

「菜の花や」と季語と切れ字を冒頭に置いて、見渡す限りの一面の菜の花の姿を読者に想像させる。
そして「月は東に日は西に」である。
ちょうど夕暮れどきで、西に落ち行く日と、東に上る月が、同時に見られる、という場面設定である。
こういうのは、いつも見られるわけではない。
調べてみたわけではないが、興味のある方は、日没と月の出の時刻を調べて頂くと有難い。おそらく、この季節の中で二、三日もあれば、よい方であろう。


現代の我々は、物質文明に毒されて、自然を、ゆっくり見つめるということがない。
田舎に住む私としても、微妙な季節の移り変わりを、自然の風物や風のそよぎに身を任せて感じるという機会が少ない。
どうしても、頭の中で何事も処理し勝ちである。
この句を読むと、春の夕暮れの、のんどりとした田舎の景を目の辺りに、するようではないか。

蕪村は摂津国東成郡毛馬村(現・大阪市)の生れだが、毛馬の閘門と言われる堰のある辺りの生れである。
絵にも才能を持っていて、いわゆる俳画の面でも優れた作品を残している。
故郷の毛馬の辺りを詠った「春風馬堤曲」という連作もあるが、この題名自体が、そのことを、よく物語っている。
蕪村とて裕福な生活をしていたわけではなく、常に「旦那」という「贔屓筋」が必要だった。
私の住むところから数キロ行った宇治田原にも、商家の旦那衆がいたらしく、蕪村筆の作品があるらしい。
蕪村の年譜を覗いてみると、1783年(天明3年)8月風雨のなかを「太祇十三回忌追善俳諧」に出席し、晩秋、宇治奥田原の門人毛条に招かれてキノコ狩りにゆき、初冬から病に倒れた。

 しら梅に明る夜ばかりとなりにけり・・・・・・・・・・・与謝蕪村

が最後の句と言われている。

池西言水という俳人に、

<菜の花や淀も桂も忘れ水>

という句があるが、「淀」というのは宇治川沿いの京都の南はずれ。現在、京都競馬場のあるところ。
「桂」というのは、どなたもご存知だろう。
京都の西郊外を流れて来た桂川と木津川と宇治川が三川合流して淀川となるが、その合流寸前の地が淀である。
豊臣秀吉の側室「淀君」の居城・淀城があったところである。

 菜の花の黄のひろごるにまかせけり・・・・・・・・・・・久保田万太郎

という句も、菜の花の咲く田園の様子を、よく観察して佳い句になっている。
私は久保田万太郎の句が好きである。
京都、滋賀の名産に「菜の花漬」というのがあり、菜の花を蕾のうちに摘み取り、浅い塩漬けにしたもの。
黄色の花の色と緑の葉や茎の配色が鮮やかで、見た目にも食欲をそそる。
季語では5音になるので「花菜漬」と詠まれることが多い。

 人の世をやさしと思ふ花菜漬・・・・・・・・・・・後藤比奈夫

という句もある。この漬物など、日本人の細やかな感性の賜物であろう。


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