K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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虚国の尻無川や夏霞・・・・・芝不器男
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      虚国(むなくに)の尻無川や夏霞・・・・・・・・・・・・・・・・・芝不器男

芝不器男は、大学生時代の望郷の句・・・・・  

    あなたなる夜雨の葛のあなたかな

が虚子に激賞されたが、昭和5年、26歳で病没。
俳壇を彗星のごとく横切った俳人と惜しまれた。
作品わずか200句ほど、中に珠玉作を数多く持つ。

この句は日光中禅寺湖北方の乾燥湿原である「戦場ケ原」を尋ねたときのものである。
「虚国」(むなぐに)はまた「空国」、痩せた不毛の地をいう。
そのような原野を流れる川は、いつのまにか先が消えてしまう尻無川。あたり一面夏霞が茫々とかかっている。
句全体に一種の虚無感がただよい、時空を越えて古代世界に誘われるような情緒の感じられる句である。

不器男は明治36年愛媛県生まれ。東京大学林学科、東北大学機械工学科を出た。
独特の語感を持ち、古語を交えて、幽艶な調べをかもし出す。時間空間の捉え方も個性的だった。
昭和9年刊『芝不器男句集』所載。
以下、不器男の句を少し引く。

 汽車見えてやがて失せたる田打かな

 人入つて門のこりたる暮春かな

 向ふ家にかがやき入りぬ石鹸玉

 国原の水満ちたらふ蛙かな

 麦車馬におくれて動き出づ

 南風の蟻吹きこぼす畳かな

 井にとどく釣瓶の音や夏木立

 川蟹のしろきむくろや秋磧(かはら)

 浸りゐて水馴れぬ葛やけさの秋

 みじろぎにきしむ木椅子や秋日和

 野分してしづかにも熱いでにけり

 草市や夜雨となりし地の匂ひ

 大年やおのづからなる梁響

 寒鴉己(し)が影の上におりたちぬ

掲出の写真①は、新緑が芽生えはじめたばかりの頃の日光戦場ケ原のものである。
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芝不器男 写真②は旧制松山高等学校時代のもの。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

芝不器男(しば ふきお、1903年(明治36年)4月18日 ~ 1930年(昭和5年)2月24日)は、日本の俳人。本名は太宰不器男(結婚後)。

 生涯
1903年(明治36年)愛媛県北宇和郡明治村(現・松野町)で生まれる。父・来三郎、母・キチの4男。
不器男の名は、論語の「子曰、君子不器」から命名された。1920年(大正9年)宇和島中学校を卒業し、松山高等学校に入学。

1923年(大正12年)東京帝国大学農学部林学科に入学。夏期休暇で愛媛に帰省中に関東大震災が起こり、以後、東京へは行かなかった。
姉の誘いで長谷川零余子が主宰する『枯野』句会に出席し句作を始める。当初、号を芙樹雄または不狂としていた。
1925年(大正14年)東京帝大を中退し、東北帝国大学工学部機械工学科に入学。
兄の勧めで吉岡禅寺洞の主宰する『天の川』に投句。禅寺洞に勧められ、本名の不器男に改号。
『天の川』で頭角を現し俳誌の巻頭を占めるようになる。

1926年(大正15年)『ホトトギス』にも投稿を始め、高浜虚子より名鑑賞を受け注目を浴びる。
冬季休暇で帰省して以後は仙台に行かなかった。1927年(昭和2年)東北帝大より授業料の滞納を理由に除籍処分を受ける。

1928年(昭和3年)伊予鉄道電気副社長・太宰孫九の長女・文江と結婚し太宰家の養嗣子となる。
1929年(昭和4年)睾丸炎を発病し福岡市の九州帝国大学附属病院後藤外科に妻を伴い入院。この時に初めて禅寺洞と対面した。
12月に退院し福岡市薬院庄に仮寓。主治医・横山白虹の治療を受ける。
1930年(昭和5年)1月になると病状が悪化し、2月24日午前2時15分永眠、享年26。

生涯に残した俳句は僅か175句である。句風は古語を交えて、近代的な抒情味の中に幽艶を感じさせた。
主治医で俳人の横山白虹は「彗星の如く俳壇の空を通過した」と評した。

郷里の松野町では毎年命日に「不器男忌俳句大会」が開催されている。
1988年(昭和63年)松野町が生家を改装し、「芝不器男記念館」が開館した。
また、2002年(平成14年)生誕100年を記念して愛媛県文化振興財団により「芝不器男俳句新人賞」が設けられた。

作品集
不器男全句集(1934年)
定本芝不器男句集(1970年)



谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな・・・・金子兜太
yun_2642鯉
 
   谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな・・・・・・・・・・・・金子兜太

昭和30年代、いわゆる前衛俳句が俳句界を席捲したが、作者はその旗手だった。
この句は、その後の時期の作品。
「無季」の定型句だが、夜、狭い谷あいで鯉がもみ合っている情景を詠んでいるが、性的なほのめかしも感じられる生命のざわめきがある。
無季句ではあっても、この句が喚起する生命力の盛んなほとばしりは、季節なら夏に通じるものに違いない。
「鯉」というのが季語にないので<非>季節の作品として分類したが、鯉が盛んに群れて、もみ合うというのは繁殖行動以外にはないのではないか。
ネット上で見てみると、鯉の繁殖期は地域によって異なるが4~6月に水深の浅い川岸に群れて産卵、放精するという。
それこそ、兜太の言う「歓喜」でなくて何であろうか。
昭和48年刊『暗緑地誌』に載るもの。

無季俳句の関連で一句挙げると

 しんしんと肺蒼きまで海の旅・・・・・・・・・・・・・篠原鳳作

という句は、戦前の新興俳句時代の秀作で、南国の青海原を彷彿と思い出させるもので秀逸である。

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ここらで兜太の句を少し。下記のものはアンソロジーに載る彼の自選である。

 木曾のなあ木曾の炭馬並び糞(ま)る

 魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ──トラック島にて3句

 海に青雲生き死に言わず生きんとのみ

 水脈の果炎天の墓標を置きて去る

作者は戦争中はトラック島に海軍主計将校として駐在していて敗戦に遭う。

 青年鹿を愛せり嵐の斜面にて

 銀行員等(ら)朝より蛍光す烏賊のごとく

作者は東京大学出。日本銀行行員であった。いわゆる「出世」はしなかった。

 どれも口美し晩夏のジャズ一団

 鶴の本読むヒマラヤ杉にシャツを干し

 男鹿の荒波黒きは耕す男の眼

 林間を人ごうごうと過ぎゆけり

 犬一猫二われら三人被爆せず

 馬遠し藻で陰(ほと)洗う幼な妻

 富士たらたら流れるよ月白にめりこむよ

 梅咲いて庭中に青鮫が来ている

 遊牧のごとし十二輌編成列車

 麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人

 酒止めようかどの本能と遊ぼうか
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ネット上に載る「埼玉の文学─現代篇─」の記事を転載しておく。

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写真②は「ぎらぎらの朝日子照らす自然かな」の句碑。

文中に記事あり。

金子兜太 (1919~)

前衛の円熟 

 金子兜太は昭和30年代に前衛俳句運動の旗手として、戦後俳壇に大きな旋風を巻き起こした。現在は俳壇の重鎮として、もっとも活躍している俳人のひとりである。現代俳句協会会長、俳誌「海程」主宰、「朝日俳壇」 選者として、あるいはカルチャーセンターの講師、テレビの俳句講座、毎月の俳誌での活躍などで、その名はひろく知られている。

 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子

 昭和30年の第1句集『少年』より、郷里を詠んだ作品である。
 金子兜太は大正8年に小川町竹沢の母の実家で生まれた。当時父元春は上海にいたので、兜太は小学校入学までの大部分を竹沢で過ごしたが、2歳からの2年間は父のいる上海で過ごした。元春は15年に帰国して郷里秩 父の皆野町で開業。兜太は皆野の実家から皆野小学校へ通う。父元春は、伊昔紅と号する秋桜子門下の俳人でもあった。昭和6年に秋桜子が高浜虚 子の「ホトトギス」を離脱したとき、獨協中時代の友人としていちはやく 歩みをともにした。秋桜子の「馬酔木」の秩父支部を自認して毎月句会を開き、20年には自らも 「雁坂」を主宰した。また、卑俗な内容だった秩父豊年踊りの歌詞や踊りを、「秩父音頭」として現在の形にしたことでも 知られている。いくつかの句碑のほか、美の山公園にはその業績を顕彰して銅像が建てられている。兜太は、医師であり俳人であった父から生き方や俳句面で大きな影響を受けており、多くの回想を書いている。
 秩父の長瀞町の総持寺に、金子兜太の句碑がある。最寄りの駅は秩父鉄道の野上駅である。総持寺は秩父七福神のひとつ、福禄寿を祠っている寺。句碑は本堂の右後ろ手にある。どうだんツツジが植えられた斜面の下に 位置していて、碑の近くにある大きな泰山木と椿の木が印象的だ。秩父の自然石に兜太自筆の、

 ぎらぎらの朝日子照らす自然かな

という句が刻まれている。平成元年7月に建てられたもので、碑陰には、 「海程秩父俳句道場十周年を記念し併せて金子兜太師の紫綬褒章受賞を祝い師の菩提寺である当寺境内にこの句碑を建てる」とある。総持寺は兜太の妻皆子の実家の菩提寺でもある。
 熊谷中学を卒業したあと、兜太は昭和12年に水戸高校文科に入学する。 俳句は18歳のとき、出沢珊太郎に誘われて校内句会に出たのが機縁で初めて作った。「白梅や老子無心の旅に住む」という句である。翌13年には全国学生俳誌「成層圏」に加わり、竹下しづの女、加藤楸邨、中村草田男の作品に親しんで「俳句の可能性」を感じたという。16年に東京帝大経済学 部に入学。このころから加藤楸邨主宰「寒雷」に投句を始めた。草田男の 「内面的な新しさ」と、楸邨の「人柄」に惹かれたが、結局楸邨に師事することとなった。
 昭和18年9月に、大学を半年繰り上げで卒業し日本銀行に入行したが3日で退職、海軍経理学校で訓練を受けて、翌年3月に主計中尉として南方のトラック島に赴任した。敗色濃厚の時期の戦争体験と米軍捕虜としての 体験は、のちの金子兜太の人間観や俳句観に大きな影響を与えることになる。21年11月、最後の復員船で帰国した。そのときのことを詠んだ句に「水脈の果炎天の墓碑を置きて去る」「北へ帰る船窓雲伏し雲行くなど」がある。 
 22年2月に日銀に復職、4月には塩谷みな子(金子皆子、「海程」同人 )と結婚した。この年、沢木欣一の「風」にも参加。24年には日銀の従業 員組合の初代事務局長(専従)をつとめた。このことについて兜太は「私 はトラック島から引き揚げる駆逐艦の上で、これからは反戦平和に生きる と腹を固めていました。組合活動も、それを実行に移したにすぎません」 (『二度生きる』)と述べている。その後、組合は切り崩しにあって、活動は封じ込められることになる。金子兜太は、福島支店を皮切りに、神戸 、長崎と10年に及ぶ支店勤務生活を送った。この時期に兜太は俳句専念を決意し、次々と話題作を発表する。

 きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中
 路上に拾う蛍論理を身に刻み
 夜の果汁喉で吸う日本列島若し
 少年一人秋浜に空気銃打込む
 ガスタンクが夜の目標メーデー来る
 原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ
 青年鹿を愛せり嵐の斜面にて
 朝はじまる海へ突込む鴎の死
 銀行員ら朝より蛍光す烏賊のごとく
 湾曲し火傷し爆心地のマラソン
 華麗な墓原女陰あらわに村眠り
 殉教の島薄明に錆びゆく斧

 この時期、佐藤鬼房、鈴木六林男らと出会い、神戸では西東三鬼、永田耕衣らと親交を深める。また持論にもとづく俳論を意欲的に発表して俳壇に議論を呼んだ。それらの一部を題だけ引いてみると、「俳句における 社会性」(昭28)、「二つの急務」(昭29)、「俳句における思想性と社会性」「社会性と季の問題」(昭30)、「新しい俳句について」「破調は時代精神の要求か」(昭31)、「俳句の造形について」(昭32)、「三たび造形について」「前衛をさぐる」(昭35)、「造形俳句六章」「前衛の渦の中」(昭36)など。
 短歌の前衛運動に少し遅れて俳句の前衛運動は起こったかたちだが、引 いた題からもうかがえるように、金子兜太の考える前衛とは、俳句におけ る「社会性」と「造形」ということであった。その論旨は一言でいうと、 社会的存在としての自己を明確に認識し、態度や思想を肉体化、日常化した作品を詠むことと言える。そのために、定型(リズム)は守るが、季語にはこだわらないという考えであった。その実践として第1句集『少年』 を昭和30年に刊行し、翌年第7回現代俳句協会賞を受賞した。金子兜太を 中心にしたこの俳句における社会性論議は、戦後の俳句のひとつの流れを つくったと言える。
 金子兜太が支店勤務から東京に戻ったのは35年、折りしも安保闘争の最中であった。現代俳句協会は36年に前衛的な考えに依拠する現代俳句協会 と有季定型派の俳人協会に分裂する。翌37年に、金子兜太は「海程」を創刊して同人代表(昭和60年から結社誌になり主宰)となり、「古き良きものに現代を生かす」をスローガンとして掲げて活動の拠点とした。昭和47年には熊谷市に居を構え、49年に日銀を定年退職、円熟した活動を今日まで続けている。
 金子兜太の句碑は、熊谷の上中条にある天台宗別格本山常光院の境内にもある。静寂につつまれて落ち着いた雰囲気の寺である。山門を進んで行くと正面が本堂だが、その右手の庭に、

 たつぷりと鳴くやつもいる夕ひぐらし

の句が、やはり自筆の力強い字で刻まれている。平成4年に建立された。 碑の高さは1.2 メートルほどで、宇咲冬男の碑陰によると、名工として労働大臣賞を受けた野口大作の手彫りである。同寺はひぐらしの名所で、金子兜太の散歩コースだったとのこと。俳句の盛んな県北の地らしく、境内には宇咲冬男の句碑のほか、投句箱や熊谷俳句連盟20周年を記念した大き な句碑もある。 
 金子兜太には、埼玉の地にちなんだタイトルをつけた句集として『暗緑地誌』(熊谷)、『皆之』(皆野)、『両神』の3冊がある。また、エッセイ集『熊猫荘点景』や俳論『熊猫荘俳話』の「熊猫荘」は熊谷の自宅の 呼称である。その他、たくさんのエッセイ集があるが、どれにも折に触れて秩父や皆野、熊谷について語った文章が収められている。庶民としての 一茶や、魂の漂泊者山頭火へのつよい共感とともに、郷里秩父は、金子兜 太に自身の原点を確かめる「分厚い領域」(「第二のふるさと」)として 存在している。金子兜太の前衛俳句が、一方では土着的で人間臭いのはこのためである。著書は句集、俳論、一茶論や山頭火論、エッセイなど多数 。

 人体冷えて東北白い花盛り
 暗黒や関東平野に火事一つ
 梅咲いて庭中に青鮫がきている
 夏の山国母いてわれを与太と言う



POSTE aux MEMORANDUM(5月)月次掲示板
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東日本大震災から六年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
17193df6b1fe081e4228eb7991140605d5c8e997_87_1_12_2宇治新茶
 ↑ 「宇治新茶」摘み取りイベント

新緑の五月になりました。
新人は五月病にならないようにストレスに気をつけましょう。 旧人はのんびりと。

 手に摘みしやはらかき葉よ軒先に新茶一服いただいてゐる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・内藤明
 あけぼののいろにもみづる楓の時間しづかに熟れてゐるなり・・・・・・・・・・・・・・・・春日真木子
 亡きひとが作りし薔薇の乾燥花崩るるときのおとのかそけさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池光
 シャガールの「サーカス」のごとく浮遊する 船の上なるこのひとときは・・・・・・・・・中川佐和子
 にんげんに尾があったなら性愛はもっとさびしい 風を梳く草・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大森静佳
 きみからの手紙はいつも遠浅の海が展けてゆくようだ 夏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小島なお
 行く春のひかりとなりて 柿稚葉。標なき終焉へ 皆、ひた向かふ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 成瀬有
 黒糖のようなる鬱がひろがりてからまる髪をほどいておりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 野口あや子
 なまぐさく馬酔木花の匂ふころだらう生きてゐた犬は公園を駆く・・・・・・・・・・・・・・ 河野美砂子
 みづからが飛べざる高さを空と呼び夕陽のさきへ鳥もゆくのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・光森裕樹
 横穴墓掘られた頃の野やいかに田んぼの水に映る青空・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 武藤ゆかり
 ひとが死にあきたる穴に嵌めらるるひとつのピース くちをつぐみな・・・・・・・・・・・・ 久我田鶴子
 透明な振り子をしまふ野生馬の体内時計鳴り出づれ朝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阪森郁代
 急傾斜地崩壊危険蒲公英黄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 高島茂
 近づくほどにブラジャーは紫陽花だな・・・・・・・・・・・・・・北大路翼
 行春や涙をつまむ指のうら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 八田木枯
 行き先の違う雨を帰っていく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高木架京
 あをあをと山きらきらと鮎の川・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 高田正子
 田楽の跡の皿掻く串の先・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阪西敦子
 青葉より澄みたる精の飛沫たる・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 赤野四羽
 初夏の口笛で呼ぶ言葉たち・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・生駒大祐
 かしはもち天気予報は雷雨とも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 上田信治
 黄昏の夢
コカコーラ飲みほしぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・大中博篤
 眠りへの入口しれず春逝きぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池康生
 晩春や猫のかたちに猫の影・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤御影
 細胞の隅々にまで新茶汲む・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・栗山麻衣
 表札のなき門柱に青蛙・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・倉田有希
 形なきもの萬緑の海に乗る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・きしゆみこ
 飛び出せず川に一列鯉のぼり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・工藤定治
 葉桜や葬儀あるらし人の寄る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・片岡義順
 蛍烏賊地上に住んでゐて不快・・・・・・・・・・・・・・・・・・さわだかずや
 地平線まで麦秋の丘うねる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉原祐之
 ひきがえる歩む素股を光らせつ・・・・・・・・・・・・・・・・・すずきみのる
 目に青葉電源を切るタブレット・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・津野利行
 三階のジムへ柏餅飲み込んで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷口鳥子
 あかるくつて誰もゐなくてでんでん虫・・・・・・・・・・・・・・・・・・高梨章
 眼帯に葉桜の影染みてきし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・滝川直広
 移り気を蝶に誘はれふはふはす・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中塚健太
 雑草のひようと伸びたる風薫る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 岬光世
 ハンカチはチェックが好きで色々と・・・・・・・・・・・・・・・・ハードエッジ
 より苦きクレソン添へる銀の皿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三嶋ちとせ
 日おもてに三色菫植ゑ分けて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前北かおる
 粉を吹いて祖父は微睡む花林檎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 吉川千早
 木には木の歓びあらむしやぼん玉・・・・・・・・・・・・・・・・ 利普苑るな
 学舎を巣立ちゆく子や竹の秋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西村恭子
 腕を組むただそれだけの春の宵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・盛蓉子
 空袋空箱ためて四月馬鹿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桑田佳穂
 イタリアンパセリが胸毛見せている・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子
 リラ冷えや鏡を廻り在帰宅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


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著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
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佐伯泰英「新・古着屋総兵衛14・にらみ」・・・・・木村草弥
にらみ_NEW

──新・読書ノート──

     佐伯泰英「新・古着屋総兵衛14・にらみ」・・・・・・・・・・・・木村草弥
                     ・・・・・新潮文庫2017/06/01刊・・・・・・・

   大黒屋に脅迫状が届いた。
   古着太市を取りやめぬと客を殺戮するという。
   影・九条文女との接見との帰途,総兵衛一行は怪しい靄に包まれ、南蛮鎧兜の集団により奇妙な飛び道具で襲撃される。
   総兵衛は諜報網のすべてを使って情報を集める。
   やがて、坊城麻子から有力な情報が届いた。
   禁裏と公儀の狭間に蠢く鵺のような役割があるという。
   総兵衛は一計を案じ読売を使って敵を誘き出すことにした。・・・・・・・

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いつもながらの泰英ぶし、である。
この文庫版は六月と十二月という半年に一度づつ刊行される。

この本の「あとがき」で、伊勢の勢田川沿いにある河崎の町と、ベトナムの「ホイアン」の町との風景が一緒であることに触れている。
この町は、十代目総兵衛勝臣が生まれ育った土地である。
これからの、この小説の進展にとって、これは貴重な示唆であるように思えるので、一筆しておく。
ぜひ、ご一読を。


堀井令以知『言語文化の深層をたずねて』・・・・・木村草弥
堀井

──新・読書ノート──(再掲載・初出2015/05/30)

     堀井令以知『言語文化の深層をたずねて』・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・ミネルヴァ書房2013/05/30刊・・・・・・・・

先に「エッセイ」として堀井令以知の死去にまつわるエピソードなどを載せたが、彼の「自伝」の本である。
先のエッセイと一緒に読んでもらいたい。
さっそくアマゾンから取り寄せたのが、画像に出した本である。
このシリーズの本としては2012年に日本史学者・上田正昭の本を買って読んだことがある。 
堀井令以知の本は、もっと分厚くて詳細な索引も付く学術的な体裁である。

この本に入る前に、ネット上で「京都流・古都技」というサイトに堀井令以知のインタヴュー記事が三回にわけて載っていたので紹介する。
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2007年1月17日水曜日

≪特別編≫関西外国語大学 堀井令以知教授 <前編>
今月の京師は≪特別編≫でお送りします。
特別編第二回目は『関西外国語大学 堀井令以知教授』です。

幼い頃から言語学者を目指し、現在フランス語と京ことばと共に教壇に55年立っておられる堀井先生に身近に使われている“京ことば”の意外に知られていない裏話をじっくりと三話に分けて掲載いたします。お楽しみ下さい。
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教壇に立って55年
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―― 京都出身とお伺いしたのですが、幼い頃はどのようなお子さんだったのでしょうか。
“言語”には興味がおありでしたか?

私は大学の教壇に立って55年になります。非常勤なども含め、全部で11大学で教えてきました。
1925年生まれで、中学校1年生の時の志望欄に夢は『言語学者』と書きました。幼い頃から『言葉』には興味がありましたし、関心を持っておりました。

子どもの頃も今と変わりません。終始そんなに目立つところもなければ、それほど引っ込むこともなく、普通の子でした(笑)。

私の住んでいた京都の家は、今ではもう建築150年経っております。古い家ですが、今でもまだ残っており、親戚の者が守ってくれています。

うなぎの寝床、間口が狭い割には奥行きがある家、いわゆる町家で暮らしていたので、当然京都の伝統ともふれあい、京都御所によく散歩に行きました。

現在、私は関西外国語大学で言語学とフランス語も教えています。戦前、私の家が『欧文の印刷屋』をやっていたことと関係があります。
東一条に関西日仏学館があるのですが、初代の学館長ルイ・マルシャン氏は印刷の用事で自宅に来られました。テキストを作ったり、学館の仕事を請けていたのです。
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言語学者
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―― どうして言語学者になろうと思われたのですか?

中学生の頃、私が言語学者になろうと思っていたのには、新村出先生という広辞苑の著者でもある先生の影響があります。

広辞苑はその当時はまだ前の辞苑の段階でした。印刷屋の父は、その辞典に非常に敬意をはらっており、父も私を言語学者にするつもりだったようです。

そんな中、私が旧制中学4年の時に太平洋戦争が始まりました。印刷屋の仕事も、欧文の仕事が出来なくなり、日本語の印刷に切り替えたのです。

そして私も軍隊へ行きました。昭和20年の6月18日まで広島の部隊でした。
原爆投下前、運よく京都の部隊へ転属になり、私は京都で「忍び難きを忍び」という終戦の詔書を聞きました。

それから、大阪外大の前身、大阪外専に復学しました。そして、言語学を勉強するために京大に行き、そこで勉強をして今日に至っているのです。
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ふるさとの言葉
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―― どのような経緯で言語を研究されるようになったのですか

大学で始めはヨーロッパ系の言語に関心を持っていました。
しかし、1950年(昭和25年)に、当時の言語学会、社会学会、民俗学会など8つの学会が連合しまして、第1回長崎県対馬の総合調査を行ったとき、『言語学会』から、一番若かったのですが、私がメンバーに加えてもらい調査に行き、全島をまわり方言を調べました。

今も元気ですが、その当時はもっと元気でしたので、上島から下島までのほとんどを周ったことが、日本語を研究しなければと思ったきっかけなのです。

私の知っている方言と言うと、何といっても、『京ことば』です。当時は京ことばの字引が一つもありませんでした。

他の地域の方言集は出版されていたのですが、肝心の京都が空白地帯だったのです。それは、研究の上で不思議なことでした。
地元のこともわからないなんて、と思い、それから少しずつ調査を始めたことが、京ことばを研究するようになったきっかけなのです。

まず考えたのは、小さい頃から、一番近くて、よく散歩をしていた御所のこともわからない、ということでした。

そこで、御所の中では、どのような言葉が話されていたか、と疑問に思ったのです。そして京都の御所のことを調べだしました。

≪特別編≫関西外国語大学 堀井令以知教授 <中編>
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京ことば
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―― 京ことばの地域の範囲はどこからどこまでなのですか?

「上がる」「下がる」

「上がる」「下がる」という地域ですね。
東入(イル)、西入という所が、おおよそ京ことばの範囲だと思ってください。ほとんど間違いありません。
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いろいろな京ことば
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私は、祇園の舞妓さんがよく使う「京ことば」は3つあると考えています。

「おたのもうします」・「すんまへん」それから、「おおきに」この3つが一番よく使われるのです。
フランスのパリで生活していても、この3つに当たることばをよく使います。おたのもうします「シルブプレ」、すんまへん「パルドン」、おおきに「メルシー」。
京都では、その3つの言葉を祇園の花街でよく使っています。おもしろいでしょ?

室町の問屋街でも使われている、いわゆる商人の言葉。ちょっと独特なのですが、これがおおよそ京ことばの典型的な町家のことばです。

もう1つは西陣のことばです。織屋さんのことば。室町ことばと共通性はありますが、ちょっとまた違います。

京都には伝統産業というのが50種類程あります。扇屋さんは扇屋さんの。そこで使われている職人ことばは他の人ではわからないような言葉です。
他には、友禅染、清水焼、竹細工、京漆器、和菓子屋、京料理などの職人ことばがあります。だから、一概に京ことばと言っても、総合的に見なければならないのです。
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はんなり
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『京都の雅びなことば』の代表のひとつは「はんなり」という言葉。元々「はんなり」というのはどういう気持ちを表すかというと、色彩について言うことが多いのです。
だから「まぁ、奥さん、ええ帯しめといやすなぁ。はんなりしたええ帯どすなぁ」と使います。

『明るい、上品、雅び、すきっとしている』という意味をかね合わせたのが「はんなり」です。
部屋がスキッと綺麗になっていることも「あぁこの部屋ははんなりしてますな」と使います。

まったり「まったりする」というのも使われ方が変わってきているんですよね。
元々は“料理用語”だったのです。またい(全)の語幹に接尾語「り」を付け、「まったり」と言ったのが起源なのですが、料理用語での使われ方は「梅酒も、数年つけますと、まったりした味やな」というふうに使うのです。とろっとしてコクがある、穏やかな味のことです。

京都は正月の雑煮は白味噌ですね。白いお味噌、御所ことばではしろのおむしと言います。しろのおむしでね、とろけるようなとろっとした味が出てくるでしょ。
そういうときの味加減のことを、「まったり」と言うのです。

ところが、その意味を若者が変えだしたんです。日曜なんかに「明日家でまったりしよう」と、そういう風に使うようになったのです。

だから、たぶん料理用語が全国区の地位を占めてきて、料理用語として、テレビなんかで放映されたんですね。
それを原宿か新宿か、あの辺の若者たちが使い出して、逆輸入されてきてしまったのです。それでこの辺にも広がってのんびりする意味になりました。
だからその意味は広辞苑には載っていません。そういう風に若者の使うことばが変遷している。
さまざまな京ことばが、若者ことばの意味に代わりつつある。急にここ数年の現象なのです。

≪特別編≫関西外国語大学 堀井令以知教授 <後編>
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言葉は常に『揺れている』
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―― 言語は変わっていきますが、言語が乱れているのをどうお考えですか?

意外とどんな言語も乱れているのです。だから私は「乱れている」という言葉は使いません。「揺れている」といっているのです。
日本語が生きている限り、動いている、揺れているのです。

そんな今の時代に、奈良時代の人が来ても平安朝時代の人が来ても何を言っているのかわからないはずです。

例えば、「つらら」と言う語がありますよね。「つらら」と言ったら、平安時代には氷のことだったのです。
当時は「つらら」のことを「たるひ」と言っていました。氷が垂れるから「たるひ」なのです。

現在でもそれは東北地方に残っていて、そこでは「たるひ」とか「たろひ」と言われています。平安時代の使い方が各地に残っていて、面白い現象ですね。

では、何故「つらら」と言うかというと、元来氷はつるつるしているから「つらら」というのです。

英語にも意味が大きく変わる語がありますよ。「ナイス」というのも、今ではいい意味で使っていますが、元々は「ばかな」という意味でした。
このように、どの言語も揺れているのです。
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「たこ」と「いか」
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普通に言うとお正月にあげるのは「たこ」ですよね。ところが、私どもが小さい時は「いか」と言っていました。
「いか」といったらみんな笑うのですが、本来このあたりは「いか地帯」なのです。

江戸時代の文献を見ると、江戸は「たこ」、上方は「いか」と言うと書いてあるのです。江戸と京都を比較して並べて記載されています。

うちの祖母は文久元年生まれなのですが、「いか」と言っていました。私の小さい時は「いか」と「たこ」どちらも知っていましたね。

何故「たこ」になってしまったかというと、『お正月』の歌が原因だと思います。
「もういくつ寝るとお正月、お正月にはたこあげて」と歌いますよね。「いかあげて」とは言わないでしょ。(笑)

京都学研都市付近を調べると「いーか」と言ったり、洛北でも、「いかのぼり」とか「いかのぼし」と言います。どうやら京都市を跨いだ南北には残っているようです。
まだ他の名称もあるのです。面白いでしょ、京都では「いか」というと逆に笑われてしまいますね。

こんなことを話し出したら、何時間あっても足らへんよ(笑)
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『おおきに』
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―― 変わってくるのが当たり前でこれは残さなあかんって言う言葉はありますか?

全国広しと言えども、京都で使われる言葉だけは京都弁・京都方言ではなく、「京都語」や「京ことば」と言い、私の著作の中でも「京ことば」・「京都語」と書きます。
それほど京都というのはプライドが高いということなのです。

京都の人が一番残したい言葉のトップは何だと思いますか?大阪の人と偶然にも一致したのです。

―― 「おおきに」ですか?

そうやね。「おおきに」がトップなのです。この頃、若い人は使わないようになっています。「ありがとう」と言うようになっていますね。

『おおきに』は江戸時代後期の後半から使い出されはじめました。
元は「おおきに」は「はなはだ・大いに」ということだったので「おおきに、お世話さん」とか、他のことばに付けられていました。
ありがとうだけでは物足りなくなって「おおきに」を付け出し、「おおきにありがとう」といった。それでは長いので省略して、「おおきに」が残ったのです。
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『ほっこり』
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『ほっこり」は本来疲れて帰ってきた時に、「やっと会議が済んでほっこりしたわ」と疲れを休める時に使います。

昔はそういう時も使ったのですが、今は使わなくなりました。今の人は「あそこの喫茶店へいってほっこりしよう」という意味で使っています。
このように、時代によって意味が変わった京ことばがいろいろあるのです。

―― 今の学生さんと先生が学生さんだったころとどう教育は変わっていますか?

それは違いますね。「先生かわいいね」と言われることがあります(笑)。でも、『かわいい』というのが始めは理解できなかったのです。
何故かわいいと言われているのか、もう言葉の感覚が違っているのです。私は常に学生と喋っていても、言葉の動態をキャッチしています。  ―終わり―
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なぜ、このようなインタヴュー記事を長々のせたかというと、本書にも同様のことが書かれていて重複するからである。
先の「エッセイ」に引いた記事にも書かれていたが、彼・堀井令以知は、この本の校正「初校」を済ませて亡くなったという。
だから、この本のはじめに書房の編集部からの「添書き」が載せられている。 
普通、校正というのは二校、三校あたりまで行うのだが、著者が亡くなったので、あとは書房の編集部が責任をもって校正したということである。

46堀井令以知
 ↑ 晩年の堀井令以知

この本の「はしがき」をスキャナで引いておく。 (文字化けがあれば指摘されたい。直します)

     はしがき
本書は私が言語学者として、幼少のころから、どのようにことばについて関心を抱き、ことばを学
習し、研究してきたかを自伝としてまとめたものである。
老齢になった私は、今では語彙論の分野で、京ことばの研究、特に御所ことばの研究において上げ
た業績によって一般に知られている。また、言語学の視点から本格的な語源研究を行い、ことばの由
来を解明するなど、日本語の研究を促進していることによっても、多くの人から評価を得ている。
ヨー口ツバの諸言語について若いころから関心があったことも、本書によつて理解していただけるで
あろう。
今までのささやかな業績は次の三分野に大別される。
第一に、京ことばについて『京都のことば』『京都府ことば辞典』『京都語を学ぶ人のために』『お
公家さんの日本語』など多くの著書・論文を執筆した。特に御所ことばは、明治維新まで京都御所で
使用され、日本語の研究に重要な位置を占めるにもかかわらず、従来、理解する人は少なかった。皇
室の御所ことば使用が減少している現今、御所ことばの研究は貴重であろうとおもう。
第二に、私は語源研究についても多くの書物を残している。『日本語の由来』のような啓蒙書をは
じめ、本格的な『語源大辞典』を作成し、『日常語の意味変化辞典』 『上方ことば語源辞典』を著し、
『決まり文句語源辞典』 『外来語語源辞典』を刊行した。
語彙論の分野において、多くの人々に日本語への関心を喚起するのに役立つように努力したつもり
である。
第三に、私は若いころから、フランス語の意味論を研究し、フランス文化の発展に尽した功績によ
り、昭和四九年(一九七四)にはフランス政府からパルム•アカデミック勲章、昭和五一年には功労
国家勲章を受けた。その成果の一郤も本書に収めることにした。
私の言語学研究の態度は、言語と人間・社会•文化を結ぶ絆を大切にする方針に基づいている。著
者独自の言語一般理論の探究は今も続けている。
深く広い視点から言語研究を促進し、『一般言語学と日本言語学』 『ことばの不思議』『比較言語学
を学ぶ人のために』などの著書にみられるように、ョ—ロッパ諸言語についても言及し、日本語と諸
言語との意味の対照比較研究も行ってきた。
NHKの大河ドラマやスペシャルドラマでは多くのシーンで言語指導を行い、かっては「クイズ日
本人の質問」に出演して、ことばのルーツを解説し,民改にもことばの問題で出演の機会に恵まれた。
朝日新聞には「ことばの周辺」と題して三年間毎週執筆し、平成二○年度は「折々の京ことば」を京
都新聞に毎日執筆掲載して好評を得た。
自分のたどってきた言語研究の道筋を述べることは、いかに困難な仕事であるかを痛感している。
幸い、幼少のころからの資料を保存しておいたので、忘れられようとする記憶をたどりながら、ここ
に大正・昭和・平成を生きてきた私の、ことばの研究を通じての自叙伝をまとめることができた。失
われた言語生活の時を求めようとする人達の参考にしていただければ幸いである。
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この本は
第一章 少年のことば
第二章 言語学習期
第三章 言語研究を始める
第四章 西ヨーロッパの言語生活
第五章 フランス語と印欧語
第六章 語源をさぐる
第七章 京都語の研究
第八章 言語一般の理論
第九章 方言の研究
第十章 「わたくし」について         という構成になっている。

第二章には、学徒出陣のため繰り上げ卒業となり「豊橋第一陸軍予備士官学校」に入る頃のことが詳しく書かれている。
古い資料が保存されており、その周到さには感心するばかりである。
巻末には「年譜」も載っているが、これを見ると彼・堀井令以知は、私の次兄・木村重信と同年であり、「豊橋第一陸軍予備士官学校」も同期であることが判る。
彼らは「特甲幹」と称する身分で、入校した時点で「伍長」に任官している。戦争で一般兵のみならず、将校も消耗が激しく、即戦力化が急がれたのである。
面識があったかどうかは判らない。私の兄もポツダム少尉である。 機会があれば聞いてみたい。
この豊橋陸軍士官学校の跡地は「愛知大学」になり、後日、彼・令以知が勤務することになるが、その奇縁についても書かれている。
第三章の中に「自由間接話法」というところがあり、私も教えてもらった大阪外語の和田誠三郎先生の名前も出てきて、その和田先生から「自由間接叙法」について教わった記憶が戻った。

「年譜」によると、彼の父は堀井二郎といって明治32年生まれ、とある。私の母は33年(1900年)生まれである。
父親は、伯父さんの経営する京都の弘文社という印刷所に勤めて印刷技術を覚え、昭和11年に独立して「堀井欧文印刷所」を起すことになる。
ここに「伯父」とあるから、父親の兄ということになるが、父親の兄というのも早くから京都に出て、印刷屋を営んでいたことになる。
主な得意先が関西日仏学館だったことなどは先のエッセイに書いた通りである。
結婚は遅く、35歳になってからだと判る。

大部の本であり、詳しく引くことは出来ないが、私も「ことば」に関わることをやっているので、彼の言語学などについての専門的なことも関心があり、面白い。
これからも折々にひもといて読んでみたい。
不完全ながら、今日は、このくらいにする。


万緑やおどろきやすき仔鹿ゐて・・・・橋本多佳子
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    万緑やおどろきやすき仔鹿ゐて・・・・・・・・橋本多佳子

       ■雄鹿の前吾もあらあらしき息す

       ■女(め)の鹿は驚きやすし吾のみかは


今日5月29日は橋本多佳子の忌日である。
生まれは東京の本郷。杉田久女に会い、はじめて俳句を作った。のち山口誓子に師事し「天狼」同人だった。昭和38年大阪で没する。64歳だった。
彼女の句は命に触れたものを的確な構成によって詠いあげた、情熱的で抒情性のある豊麗の句境だった。

掲出した句は奈良の鹿に因むものを三つ並べてみた。
上に書いたように「命に触れた」みづみづしい、生命に関する「いじらしい一途さ」に満ちている。
私は彼女の句が好きで、今までに何句引いただろうか。
以下、ネット上の正津勉「恋唄 恋句」から当該記事を引いておく。  ↓
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2橋本多佳子

20. 橋本多佳子

    雪はげし抱かれて息のつまりしこと

橋本多佳子。美女の誉れたかい高貴の未亡人。大輪の花。ゆくところ座はどこもが華やいだという。
 明治三十二年、東京本郷に生まれる。祖父は琴の山田流家元。父は役人。四十四年、菊坂女子美術学校日本画科に入学するも病弱のために中退。
大正三年、琴の「奥許」を受ける。
 六年、十八歳で橋本豊次郎と結婚。豊次郎は大阪船場の商家の次男で若くして渡米し、土木建築学を学んで帰国、財を成した実業家。
ロマンチストで、芸術にも深い造詣があった。結婚記念に大分農場(十万坪)を拓き経営。
九年、小倉市中原(現、北九州市小倉北区)に豊次郎設計の三階建て、和洋折衷の西洋館「櫓山荘」を新築。
山荘は小倉の文化サロンとなり、中央から著名な文化人が多く訪れる。
 十一年、高浜虚子を迎えて俳句会を開催。このとき接待役の多佳子が、暖炉の上の花瓶から落ちた椿の花を拾い、焔に投げ入れた。
それを目にした虚子はすかさず一句を作って示すのだ。「落椿投げて暖炉の火の上に」。この一事で俳句に興味を覚える。
これより同句会に参加していた小倉在住の杉田久女の指導を受けて、やがて「アララギ」他の雑詠に投稿する。
 昭和四年、小倉より大阪帝塚山に移住。終生の師山口誓子に出会い、作句に励む。
私生活では理解ある夫との間に四人の娘に恵まれる。まったく絵に描いたような幸せな暮らしぶり。しかし突然である。

    月光にいのち死にゆくひとと寝る

 十二年九月、病弱で寝込みがちだった豊次郎が急逝。享年五十。「運命は私を結婚に導きました」(「朝日新聞」昭和36・4)。
その愛する夫はもう呼んでも応えぬ。これもまた運命であろうか。多佳子三十八歳。葬後、ノイローゼによる心臓発作つづく。
「忌籠り」と題する一句にある。

    曼珠沙華咲くとつぶやきひとり堪ゆ

 日支事変から太平洋戦争へ。十九年、戦火を逃れ奈良の菅原に疎開。美貌の人が空地を拓き、モンペをはき、鍬を振るい畑仕事に精を出す。
 敗戦。二十一年、関西在住の西東三鬼、平畑静塔らと「奈良俳句会」を始める(二十七年まで)。奈良の日吉館に米二合ずつ持ち寄り夜を徹して句作する。
この荒稽古で多佳子は鍛えられる。「何しろ冬は三人が三方から炬燵に足を入れて句作をする。疲れればそのまま睡り、覚めて又作ると云ふ有様である。
夏は三鬼氏も静塔氏も半裸である。……奥様時代の私の世界は完全に吹き飛ばされてしまつた」(「日吉館時代」昭和31・9)
 はじけた多佳子は生々しい感情を句作ぶっつけた。

    息あらき雄鹿が立つは切なけれ

 秋、交尾期になると雄鹿は雌を求めもの悲しく啼く。「息あらき雄鹿」とは雌を得るために角を合わせて激しく戦う姿。多佳子はその猛々しさに目見開く。
「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」「寝姿の夫恋ふ鹿か後肢抱き」。雄鹿にことよせて内奥をあらわにする。それがいよいよ艶めいてくるのだ。
 ここに掲げる句をみよ。二十四年、寡婦になって十二年、五十歳のときの作。
降り止まぬ雪を額にして、疼く身体の奥から、夫の激しい腕の力を蘇らせた。亡夫へこの恋情。連作にある。

    雪はげし夫の手のほか知らず死ぬ

 物狂おしいまでの夫恋。「夫の手のほか知らず死ぬ」。微塵たりも二心はない。そうにちがいない。

だがしかしである。
 ここに多佳子をモデルにした小説がある。松本清張の「花衣」がそれだ。主人公の悠紀女が多佳子。清張は小倉生まれだ。
「自分も幼時からK市に育った人間である。……彼女がその街にいたときの微かな記憶がある。
それはおぼろげだが、美しい記憶である」として書くのだが、いかにも推理作家らしい。
なんとあのドンファン不昂(三鬼)が彼女を口説きひどい肘鉄砲を喰らわされたとか。
それらしい面白おかしいお話があって、ちょっと驚くような記述がみえる。
「……悠紀女は癌を患って病院で死んだ。……その後になって、自分は悠紀女と親しかった人の話を聞いた。彼女には恋人がいたという。
/対手は京都のある大学の助教授だった。年は彼女より下だが、むろん、妻子がある。
……よく聞いてみると、その恋のはじまったあとあたりが、悠紀女の官能的な句が現れたころであった」
 でもってこの助教授が下世話なやからなのだ。それがだけど彼女は別れるに別れられなかったと。そんなこれがぜんぶガセネタ、デッチアゲだけでもなかろう。
とするとこの夫恋の句をどう読んだらいいものやら。ふしぎな味の句も残っている。

    夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟

 しかしやはり多佳子はひたすら豊次郎ひとりを一筋恋いつづけた。ここはそのように思っておくことにする。
美しい人は厳しく身を持して美しく老いた。年譜に二十七、三十一、三十三年と「心臓発作」の記録がみえる。

    深裂けの石榴一粒だにこぼれず

 三十五年七月、胆嚢炎を病み入院。年末、退院するも、これが命取りとなる。じつにこの石榴は病巣であって、はたまた命の塊そのもの。

    雪の日の浴身一指一趾愛し

 三十八年二月、入院前日、この句と「雪はげし書き遺すこと何ぞ多き」の二句を短冊にしたためる。
指は手の指、趾は足の指。美しい四肢と美しい容貌を持つ人の最期の句。
 五月、永眠。享年六十四。

いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め子炉六基の白亜列なる・・・・・佐藤祐禎
佐藤

──新・読書ノート──

     いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め
            原子炉六基の白亜列(つら)なる・・・・・・・・・・・・・・・佐藤祐禎

         ・・・・・佐藤祐禎歌集『青白き光』2004年初版・短歌新聞社。2011年再版・文庫版いりの舎・・・・・・・・・

大熊町に在住され福島の原発を以前から告発し続けていた、歌集『青白き光』の佐藤祐禎(さとう・ゆうてい)さんは2013年3月12日に亡くなられた。 83歳であった。
初版の「あとがき」で
<七十五歳にして初めての歌集である>
と書いているように、遅くからの歌の出発であった。
「アララギ」から始まり、アララギ分裂後は宮地伸一の「新アララギ」に拠られた。序文も宮地氏が書いている。
「あとがき」にも書かれているが「先師」とあるように「未来短歌会」の近藤芳美の弟子を標榜されていて、桜井登世子さんと親しかったようである。
角川書店「短歌」六月号に、桜井さんが追悼文を書いておられる。

生前の佐藤さんのことは私は知らない。
原発の大事故のあと、事故前、それも十年ほども前に原発の事故を予測したような歌を発表されていると知って衝撃を受けた。
その歌集が『青白き光』である。
彼が短歌の道に入ったのは五十二歳のときで、遅い出発だった。
この歌集には昭和56年から平成14年までの歌511首が収録されている。
もちろん原発関連の歌ばかりではなく、羈旅の歌もあり、海外旅行の歌などもある。
ここでは、それらの歌には目をつぶり、原発関連の歌に集中する勝手を許されよ。

  いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列なる・・・・・・・佐藤祐禎

この歌は、この歌集の最後に置かれたものだが、題名も、この歌から採られているが、まるで「予言」のような歌ではないか。

彼・佐藤祐禎は再版に際して、別のところで、次のようなことを書いているので引いておく。 ↓      
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   『青白き光』を読んでくださる皆様へ    佐藤祐禎

私共の町は、新聞テレビで、充分世にまた世界にフクシマの名で知れ渡ってしまいましたが、福島県のチベットと蔑まれて来ました海岸の一寒村でした。
完全なる農村でして、一戸あたりの面積は比較的多かったのですが、殆ど米作りの純農村故に収入が少なく、農閑期には多くの農民が出稼ぎに出て、生活費を得た状態でした。

そこへ天から降って来たような感じで、原子力発電所が来ると知らされたのです。

この寒村に日本最大の大企業が来れば、一気に個人の収入も増え、当然町も豊かになるだろうと、多くの人は両手を挙げて賛成しました。
わずかに郡の教員組合などは反対したようですが、怒涛のような歓迎ムードの中では、表に出ることはありませんでした。
常識的に言って、これほどの大事業を興すには多くの問題が山積みするはずでしたが、ここでは全く問題は起きなかったのです。

先ず、用地ですが、ここには宇都宮航空隊の分教場があったのです。
敗戦となり、飛行場が撤収された跡には、面積92万坪つまり300ヘクタールの荒れ地が残っていました。
それが地元民の知らない内に、3分の2が、堤財閥の名義になっていました。
どのような経緯があったのかは未だわからないのですが、当時の衆議院の議長は西武財閥の祖、堤康次郎であったことを考えると、自ずから分かる気が致します。
あとの3分の1の殆どは、隣の双葉町7人の名義になっていました。

これらの土地は、全くの痩地で、生産性が殆どありませんでしたので、かつては、軍のために無償で提供した夫沢の地区の人らは顧みることもありませんでした。

当時、東京電力の社長・木川田は、福島県出身であり、建設省に絶大なる影響力を持っていた衆議院議員、天野は、ここ大熊町の隣の双葉町の出身だったのです。
そういう立場ですから、同県人として地元の為にと、木川田は考えたのだろうと思います。
そこに、天野は、俺の故郷には、うってつけの土地があると言いました。

立地条件として、第一に、相当広い土地。
第二に、1キロ以内に人家が全くないこと。
第三には、海水が充分確保できること。
第四に、土地取得に障害がないこと。
これらの条件が全て解決できるところが双葉郡大熊町夫沢地区だったのです。


東電の意志が県に伝えられ、双葉郡そして我が大熊町に伝えられ、トントン拍子に ことが運んだようです。
そんな訳で土地の価格が、驚くなかれ、一反歩「300坪」当時で5万円。
地上の樹木「矮小木」5万円。併せて10万円だったのです。
白河以北、一山百文といわれた東北でしたから、単に売買するとしたら一反歩5,000円か、1万円くらいにしか思っていませんでしたから、地権者は喜んで手放しました。
びっくりしたのは東電だったようで、後で聞きましたら、買収予算の4分の1で済んだとのことでした。
後に大きな増設問題が出ました7号炉、8号炉の建設予定地となった厖大な土地は、その余った予算で買った
ということです。

いよいよ工事が始まり、全てのものが大きく変わってゆきました。
数千人という作業員が入り、20キロ離れた山から岩石を切り出して、工事現場に骨材を運ぶトラックが延々と続きます。
労賃も飛躍的に上がりました。
今までは、小さい土木会社の手間賃が700~800円だったのが、数倍に跳ね上がったのです。
農家の人たちは早々と農事を済ませて、我がちに作業員として働き始めたのです。
年間の収入は飛躍的に増加したものですから、原発さまさまになって行きました。

それまでは収入が少なかったものですから、家を建てる時も村中総出で手伝い合い、屋根葺きなども「ゆい」という形で労力を出し合っていましたが、一日数千円の労賃が入るということで、助け合いなどすっかりなくなってしまったのです。
「町は富めども こころ貧しき」とも私は歌いました。

人口一万弱の町に、30軒以上の飲み屋、バーがあったといいます。
下戸の私などは一回か二回くらいしか行かなかったはずで、その実態などはよく分かりませんが大凡の見当はつきます。

原発に関する優遇税はどんと入りますし、原発に従事する人達の所得税は多くなりますし、何か箱物とか運動場とか施設を造る度に、原発からは協力費として多額の寄付金がありました。
いつの間にか県一の貧乏村が分配所得県一になってしまいました。

ここだけではありません。
となりの富岡町には、111万キロの原子炉が4基出来ましたし、そのとなりの楢葉町と広野町には、100万キロの火力発電所が4つ出来ました。
原発10基と火力4基から生み出される電力は、全て首都圏に送られ、地元ではすべて東北電力の電気を使ってまいりました。
東京の人達に、ここをよく理解してもらいたいと切に願うものです。

私の反原発の芽生えは、一号炉建設の頃、地区の仲間たちが皆そうであったように、どんな物だろうと好奇心を持って少しのあいだ働いた時です。
ある時、東芝の社員の方がこう言ったのを今でも覚えています。
「地元の皆さんは、こんな危険なものをよく認めましたね」という言葉でした。
その時は、変なことをいう人だなと思いましたが、だんだんと思い当たるようになったのです。

最初に気づいたのは、小さいけれども工事の杜撰さでした。
誤魔化しが方々にあったのです。
小さい傷も大きな災害にひろがることがあります。
それらは末端の下請け会社の利を生むためには、仕方がないというのが、この世界の常識だったらしいのですが、ただの工事ではないのです。
核という全く正体の分からない魔物を扱う施設としては、どんなに小さい傷でも大きな命取りになるはずです。
次第に疑念を持ち始めた私は、物理の本を本気になって読み始めました。
そして、それを短歌に詠みました。

   <この孫に未来のあれな抱きつつ窓より原発の夜の明り見す>・・・・・・・・・・佐藤祐禎
    
                                   (後略)
----------------------------------------------------------------------------
この文章を読むと、かの地に福島原発が、大した反発もなく建設し得たのかの疑問が氷解する。
上の文章の中のアンダーラインの部分は、私が引いたものである。

「資本の論理」と言われるが、まさに巨大財閥と巨大企業による「犯罪」とも言える行為である。
こんなことは、事前も事後も、日本のマスコミは一行も書かなかった。

さて、本論の佐藤さんの歌である。
多くの歌は引けないので、はじめに掲出した歌を含む巻末の平成十四年の歌の一連を引いておく。

     平成十四年    東電の組織的隠蔽

  三十六本の配管の罅(ひび)も運転には支障あらずと臆面もなし

  原発の商業主義も極まるか傷痕秘してつづくる稼働

  さし出されしマイクに原発の不信いふかつて見せざりし地元の人の

  破損また部品交換不要と言ひたるをいま原発のかくも脆弱

  原発などもはや要らぬとまで言へりマイクに向かひし地元の婦人

  原発の港の水の底深く巨大魚・奇形魚・魔魚らひそまむ

  「傷隠し」はすでにルール化してゐしと聞くのみにして言葉も出でず

  ひび割れを無修理に再開申請と言ふかかる傲慢の底にあるもの

  ひび割れを隠しつづくる果ての惨思ひ見ざるや飼はるる社員

  埋蔵量ウランは七十年分あるを十一兆かけるかプルサーマルに

  法令違反と知りつつ告発に踏み切れぬ保安院は同族と認識あらた

  面やつれ訪問つづくる原発の社員に言へりあはれと思へど

  組織的隠蔽工作といふ文字が紙面に踊る怖れしめつつ

  原発推進の国に一歩も引くことなき知事よ県民はひたすら推さむ

  いつ爆(は)ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列(つら)なる

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極めて不十分な鑑賞だが、この辺で終わりにする。 ぜひ取り寄せて読んでもらいたい。

この歌集の「初版」は短歌新聞社から刊行されたが、そのときに担当されたのが「玉城入野」氏であった。ちょうど、その頃、彼は短歌新聞社で編集者だった。
その後、短歌新聞社は社長の石黒氏の高齢のために解散されたので、初版本は絶版となった。
フクシマ原発事故の後、佐藤さんの「予言」のような歌を覚えていて、ぜひ再版をと働きかけて再版に至り、よく売れて、私が買ったものは第三刷である。
因みに、この玉城入野氏は、高名な玉城徹の息子さんであり、きょうだいに「塔」所属の歌人として有名な花山多佳子が居る。
玉城徹 ← については私の記事にあるので参照されたい。

閑さや岩にしみ入る蝉の声・・・・松尾芭蕉
蝉

   閑(しづか)さや岩にしみ入る蝉の声・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人」という有名な言葉で始まる『おくのほそ道』の旅は元禄2年5月27日に山形の立石寺に到達する。
この句は、そこで詠まれたものである。
もちろんこの日付は旧暦であるから今の暦では7月となるが敢えて今日の日付で載せることにする。
地元では「りっしゃくじ」と発音するとのことで、それに倣いたい。

今の所在地は山形市大字山寺という。
山寺駅の鄙びた駅舎を出ると、目の前にいきなり突兀たる山寺の山容が迫ってくる。別名・雨呼山、標高906メートル。長い石段をあえぎながら登る。
岩峰の一つ一つに堂塔が配され、壮観とも絶景とも言えよう。立谷川を渡るとまもなく根本中堂がある。
本尊は薬師如来で、貞観2年(860年)慈覚大師円仁の開山と伝えられる。
現在の根本中堂は天文12年(1543年)の再建とあるから、芭蕉が山寺を訪れた元禄2年(1689年)には、この建物は建っていたわけである。
『おくのほそ道』は、

<岩に巌を重て山とし、松柏年旧(としふり)、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。
岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。/閑さや岩にしみ入蝉の声>

と描きしるしている。

芭蕉の頃は、今のように「送り仮名」が統一されておらず、読みにくいが、おおよその意味は通じるだろう。
この「蝉の声」の句碑は、境内慈覚大師お手植えの公孫樹の木陰をくぐると、芭蕉の銅像と並んで立っている。
この山寺は恐山、早池峰山、蔵王山、月山、羽黒山などと共に東北における山岳信仰の代表的な山とされ、何よりも、この山の特徴は、
死後魂の帰る霊山と考えられていることである。
「開北霊窟」の扁額を掲げる山門をくぐると、奥の院までの石段は実に千数百段、中腹に芭蕉の短冊を埋めたという「蝉塚」がある。
もちろん書かれた句は「閑さや」であろう。
「奥の院」まで登る人は多くない。一般的には「山門」までで、私も、そうした。

ところで、芭蕉が訪れた時に、果たして「蝉」が鳴いていたか、という論議が古くから盛んである。
曾良『随行日記』には長梅雨の最中だったが、山寺の一日だけ晴れた、と書かれているが、晴れたからといって、その日だけ蝉が鳴いたというのも不自然である。

では、なぜ芭蕉は、此処で蝉の句を詠んだのか。

芭蕉は若き日、故郷の伊賀上野で藤堂主計良忠(俳号・蝉吟)に仕えた。
元禄2年は、旧主・蝉吟の23回忌追善の年にも当る

「岩にしみ入る」と詠まれた山寺の岩は、普通の岩塊ではなく、岩肌に戒名が彫られ、板塔婆が供えられ、桃の種子で作った舎利器が納められる。
つまり、あの世とこの世を隔てる入口なのである。
俗に「奥の高野」と言われ、死者の霊魂が帰る山に分け入り、死の世界に向き合った芭蕉が、
自分を俳諧の道に導いてくれた蝉吟を悼み、冥福を祈って「象徴的」に詠んだ句
──それが、この「閑さや」の句だ、という説がある

私は、この説に納得するものである。

100520basyou_douzou.jpg
↑芭蕉と曽良の銅像(曽良は芭蕉の弟子で「奥の細道」の旅の同行者で日記を残している)
画面奥の銅像が芭蕉の像。両者の間に、芭蕉の句碑が立っている ↓
100520basyou_kuhi.jpg
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「山寺・立石寺」については、このサイトが写真で詳しい。
このサイトに芭蕉句碑の鮮明な写真があるので拝借したいと思ったが有料とのことで断念し、リンクをするにとどめた。ぜひアクセスしてみられよ。


楢の木の樹液もとめて這ふ百足 足一本も遊ばさず来る・・・・木村草弥
020522mukadeトビズムカデ本命

   楢の木の樹液もとめて這ふ百足(むかで)
        足一本も遊ばさず来る・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

百足(むかで)というのは噛まれるとひどく痛い害虫で、気持の悪い虫だが、樹木の茂る辺りから梅雨から夏にかけて住宅の中にまで侵入してくるから始末が悪い。
朝起きると枕元に大きなムカデが居て、ギョッとして大騒ぎになることがある。噛まれなかってよかった、ということになる。
以前住んでいた家は雑木林がすぐ近くにあったので夏にはムカデがよく家の中に入って来たものだ。
ムカデは節足動物だが、ムカデ綱に属する種類のうち、ゲジ目を除いた種類の総称で、日本には1300種類も居るという。
写真はトビズムカデという名前の百足である。写真を見て「おぞましい」と思う人は見ないでもらいたい。卒倒されたら困る。

このように気持の悪い虫だが、私の歌にある通り、ナラやクヌギなどの里山には、カブトムシなどと争って木の樹液を求めて出てきたりするのである。
ムカデにも肉食と、樹液などを吸いに来るものと二種類いるそうである。
私の歌は、そういう樹液に群がるムカデを詠んでいる。
ムカデの動きを観察していると、私の歌の通り、あの多くの足をからませることもなく、すすすすと進んで来るのである。だから私は「足一本も遊ばさず来る」と表現してみた。

先に「害虫」だと書いたが、昔から、ものの本によるとムカデは「益虫」だと書いてあるという。
ムカデは百足虫とも、また難しい字で「蜈蚣」とも書いて、いずれもムカデと訓(よ)ませる。

 蜈蚣をも書は益虫となしをれり・・・・・・・・相生垣瓜人

という句にもある通りである。
以下、歳時記に載るムカデの句を引いて終わりたい。

 小百足を打つたる朱(あけ)の枕かな・・・・・・・・日野草城

 硬き声聞ゆ蜈蚣を殺すなり・・・・・・・・相生垣瓜人

 夕刊におさへて殺す百足虫の子・・・・・・・・富安風生

 百足虫出づ海荒るる夜に堪へがたく・・・・・・・・山口誓子

 ひげを剃り百足虫を殺し外出す・・・・・・・・西東三鬼

 殺さんとすれば百足も動顚す・・・・・・・・百合山羽公

 壁走る百足虫殺さむ蝋燭火・・・・・・・・石塚友二

 なにもせぬ百足虫の赤き頭をつぶす・・・・・・・・古屋秀雄

 三四日ぐづつく雨に百足虫出づ・・・・・・・・上村占魚

 殺したる百足虫を更に寸断す・・・・・・・・山口波津女

 百足虫出て父荒縄のごと老いし・・・・・・・・大隈チサ子


みづからを思ひいださむ朝涼しかたつむり暗き緑に泳ぐ・・・・山中智恵子
403otomおとめまいまい

     みづからを思ひいださむ朝涼し
         かたつむり暗き緑に泳ぐ・・・・・・・・・・・山中智恵子


いま二行に分けて書いてみたが、もちろん原歌は、ひと連なりの歌であるが、二行に分けて書いてみると、その感じが一層強くするのが判った。
この歌の上の句と下の句は、まるで連句の付け合いのような呼吸をもって結びついている。
事実、作者は一時期、連句、連歌に凝っていた時期がある。
この歌の両者は微妙なずれ、あるいは疎遠さを保って結びついているので、却って、結びつきが新鮮なのである。
この歌は字句を追って解釈してみても、それだけでは理解したことにはならないだろう。
叙述の飛躍そのものの中に詩美があるからである。
「みずからを思い出す」という表現は、それだけで充分瞑想的な世界を暗示するので、下の句が一層なまなましい生命を感じさせる。
大正14年名古屋市生まれの、独自の歌境を持つ、もと前衛歌人であったが平成18年3月9日に亡くなられた。
この歌は昭和38年刊『紡錘』所載。

先に、永田耕衣の「かたつむり」の句を挙げたので、それに対応してこの歌を掲出した。 掲出の画像は「ヒメマイマイ」というかたつむり。
以下、山中智恵子の歌を少し引く。
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   道の辺に人はささめき立春の朝目しづかに炎えやすくゐる

   わが戦後花眼を隔てみるときのいかにおぼろに痛めるものか

   ああ船首 人は美し霜月のすばるすまろう夜半めぐるらう

   さやさやと竹の葉の鳴る星肆(くら)にきみいまさねば誰に告げむか

   淡き酒ふくみてあれば夕夕(ゆふべゆふべ)の沐浴ありときみしらざらむ

   この世にぞ駅てふありてひとふたりあひにしものをみずかありなむ

   未然より未亡にいたるかなしみの骨にひびきてひとはなきかな

   秋はざくろの割れる音して神の棲む遊星といふ地球いとしき

   こととへば秋の日は濃きことばにてわれより若きガルシア・マルケス

   こもりくの名張小波多の宇流布志弥(うるぶしね) 黒尉ひとり出でて舞ふとぞ

   ああ愛弟(いろせ)鶺鴒のなくきりぎしに水をゆあみていくよ経ぬらむ

   ながらへて詩歌の終みむことのなにぞさびしき夕茜鳥

   意思よりも遠く歩める筆墨のあそびを思ひめざめがたしも

   きみとわれいかなる雲の末ならむ夢の切口春吹きとぢよ

   その前夜組みし活字を弾丸とせし革命よわが日本になきか

   くれなゐの火を焚く男ありにける怪士(あやかし)の顔ふりむけよいざ

   ポケットに<魅惑>(シャルム)秋の夕風よ高原に棲む白きくちなは



みほとけの千手犇く五月闇・・・・能村登四郎
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 ↑ 京都・三十三間堂の千手観音の一部

    みほとけの千手犇く五月(さつき)闇・・・・・・・・・・能村登四郎

今日5月24日は能村登四郎の忌日である。
それに因んで記事を載せる。

昼なお暗い五月雨(さみだれ)どき。大寺の御堂の中にたたずんでいると、不意に眼前に立つ千手観音の手がひしめくような気配を感じたのである。
この観音は多分大きな仏像であろう。
五月闇と言われるほど陰鬱な梅雨時の薄暗がりの中で、長い歳月を経た仏像に秘められている魔性が、ふとざわめいたような思いのする肌寒さ。
「千手犇く」が次の「五月闇」と重なって、仏像のある意味では不思議に官能的な側面を引き出している。
千手観音像は普通40本の手で表わされる。
掌中にはそれぞれ一眼を備え、一本の手毎に二十五有(う)を救うとされているところから、25×40=1000で「千手」と言われる。

昭和59年刊『天上華』に載る。

能村登四郎は明治44年東京生まれ。国学院大学卒。水原秋桜子に師事。「沖」主宰。
第8句集『天上華』で1984年「蛇笏賞」受賞。第11句集『長嘯』で1993年第8回「詩歌文学館賞」受賞。
平成13年没。

↓ 写真②は、石川県七尾市和倉温泉に建つ能村の句碑である。 <春潮の遠鳴る能登を母郷とす  登四郎>
略歴には、みな「東京生まれ」と書かれているが、この句のように、彼は石川県の「能登」を母郷としている、と言う。
この句碑の説明文によると、祖父が、ここの出身だという。

FI2618382_2E.jpg
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すこし能村の句を引く。

 くちびるを出て朝寒のこゑとなる

 ぬばたまの黒飴さはに良寛忌

 寡作なる人の二月の畑仕事

 妻のほかの黒髪知らず夜の梅

 白鳥の翅もぐごとくキャベツもぐ

 梅漬けてあかき妻の手夜は愛す

 白川村夕霧すでに湖底めく

 優曇華や寂と組まれし父祖の梁

 秋蚊帳に寝返りて血を傾かす

 花冷えや老いても着たき紺絣

 夢の世と思ひてゐしが辛夷咲く

 男梅雨かな三日目は蘆伏して

 朴散りしのち妻が咲く天上華

 墓洗ふみとりの頃のしぐさにて

 秋蒔きの種子とてかくもこまかなる

 ほうたるの火と離れたき夜もあらむ

 今思へば遠火事のごとくなり

 ゆつくりと来て老鶴の凍て支度
----------------------------------
あたらしき声出すための酢牡蠣かな
おぼろ夜の霊のごとくに薄着して
きのふてふ遥かな昔種子を蒔く
すぐ帰る若き賀客を惜しみけり
たわいなき春夢なれども汗すこし
てのひらの艶をたのめる初湯かな
ひだり腕すこし長くて昼寝せり
べつたりと掌につく春の樹液かな
むばたまの黒飴さはに良寛忌
ゆつくりと光が通る牡丹の芽
よき教師たりや星透く鰯雲
ガニ股に歩いて今日は父の日か
一雁の列をそれたる羽音かな
一撃の皺が皺よぶ夏氷
一度だけの妻の世終る露の中
羽蟻ふり峽のラジオは悲歌に似て
煙管たたきて水洟漁夫の不漁(しけ)ばなし
遠い木が見えてくる夕十二月
夏つばめ同齡者みな一家なす
火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ
火取虫男の夢は瞑るまで
花冷えや老いても着たき紺絣
潟人の大長靴が枯るゝ戸に
葛の花遠つ江(あふみ)へ怨み文
気に入りの春服を出す心当て
去年よりも自愛濃くなる懐手
教師に一夜東をどりの椅子紅し
教師やめしその後知らず芙蓉の實
隙間入る雪四十なる平教師
月明に我立つ他は箒草
己が糞踏み馬たちに冬長からむ
吾子すがる手力つよし露無量
今思へば皆遠火事のごとくなり
今日の授業誤ちありし青葉木萸
紺の厚司で魚賣る水産高校生
妻死後を覚えし足袋のしまひ場所
削るほど紅さす板や十二月
鮭の切身の鮮紅に足止むる旅
子とみれば雪ゆたかなり童話劇
子にみやげなき秋の夜の肩車
子等に試驗なき菊月のわれ愉し
紙魚ならば棲みてもみたき一書あり
秋づきし母の嶺負ひし檜挽き
秋燕をくらきが吸ふ遠山家
秋風に突き当りけり首だせば
春ひとり槍投げて槍に歩み寄る
初あかりそのまま命あかりかな
身にしみて一つぐらいは傷もよし
甚平を着て今にして見ゆるもの
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明治44年に東京に生まれる。
国学院大卒。市川高校に40年勤務し、俳人として活躍する。戦前から水原秋桜子の「馬酔木」に投句し昭和24年に同人となる。
昭和45年俳誌「沖」を創刊し平成13年春まで主宰。
昭和31年句集『咀嚼音』で現代俳句協会賞、昭和60年句集『天上華』で蛇笏賞、平成4年『長嚼』で詩歌文学館賞を受賞し、俳壇の賞を総なめにした。
身辺の日常の中に幻想や心象を見るイメージ俳句を追求し評論もおこなっていた。
代表句に「春ひとり槍投げて槍に歩み寄る」がある。
平成13年5月24日八幡にて逝去。

かたつむりつるめば肉の食い入るや・・・・永田耕衣
sizen266カタツムリ

     かたつむりつるめば肉の食い入るや・・・・・・・・・・永田耕衣

永田耕衣は明治33年兵庫県生まれの現代俳壇の長老の一人だった。
戦後、東洋的無の立場を裏づけにもつ「根源俳句」の主張で注目を浴びたが、仏教とくに禅への関心が深く、現代俳句における俳味と禅味の合体、
その探求者と言えば、先ずこの作者をあげる必要があるという。
この「かたつむり」の句は、そのような俳人の面目躍如とした作で、清澄な心境と混沌たる性的世界への凝視とが一体化したような力強さと、一面、面妖な迫力がある。
「つるめば肉の食い入るや」という観察は、対象がかたつむりであるだけに、何とも粘着力のある、一読忘れ難い印象を与える。
性を詠んで性を突き抜けているのだ。昭和27年刊『驢鳴集』所載。

永田耕衣は「阪神大震災」に遭遇し、これを題材にした秀句があるが、いま手元にないので引くことが出来ない。それまでの時期の句を引きたい。
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 夢の世に葱を作りて寂しさよ

 夏蜜柑いづこも遠く思はるる

 野遊びの児等の一人が飛翔せり

 厄介や紅梅の咲き満ちたるは

 梅雨に入りて細かに笑ふ鯰かな

 近海に鯛睦み居る涅槃像

 蛍火を愛して口を開く人

 泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む

 野を穴と思い跳ぶ春純老人

 白桃を今虚無が泣き滴れり

 夢みて老いて色塗れば野菊である

 淫乱や僧形となる魚のむれ

 生き身こそ蹤跡無かれ桃の花

 我が頭穴にあらずや落椿

 男老いて男を愛す葛の花

 薄氷や我を出で入る美少年

 いづこにも我居てや春むづかしき

 桃の花道在ることに飽きてけり

 空蝉に肉残り居る山河かな

 強秋や我に残んの一死在り

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ネット上から「もう一つの仏教学・禅学 」という記事を転載しておく。
永田耕衣のことが詳しく書いてある。写真②は「耕衣自伝」(1992年沖積舎刊)
024kouijiden耕衣自伝

根源俳句、永田耕衣
根源俳句 人間を探求した俳人
永 田 耕 衣 の 生 涯


参考文献
(A)『永田耕衣』    俳句文庫 春陽堂
(B)『生死』 「永田耕衣句集]  ふらんす堂
(C)『部長の大晩年』 城山三郎  朝日新聞社
(D)雑誌『俳句』平成10年2月(永田耕衣特集) 角川書店

「 」は、参考文献からの引用。例えば(C28)は上の参考文献Cの28頁を表す。

幸福とは言えない幼少時代
明治三十三年(1900) 1月21日、兵庫県加古郡尾上村(現在、加古川市尾上町)に生まれる。本名軍二。父岩崎林蔵は村役場収入役。
明治三十九年(1906)[6歳]父母と同居のまま母系永田家を継ぐ。 父母の仲は悪かった。母親が家を出て長く帰らぬこともあった。母が家出するころには、兄や姉も家を離れており、家には耕衣ひとり残された。
大正三年(1814)[14]兵庫県立工業学校入学。文学誌を発行。 俳句に関心を持つほか映画・演劇にも興味を持つ。
大正八年(1919)[19]勤務の三菱製紙高砂工場にて抄紙機で右指組織潰滅の負傷。

禅との出会い
このころ、禅哲学に興味を抱く。
「最初は禅そのものを求めてというより、縁を生かし、好奇心につられてのこと。この大怪我のため静養中、実家が檀家でもある祥福寺で、新住職を迎えての晋山式(しんざんしき)があり、そこで法戦が行われると聞いて出かけて行った。」(C37)
「禅に親しみ始めたのは二十歳位の頃でしたな。生まれ故郷のお寺で禅問答が公開されたのを見聞に言ったときからです。その師家に雲水が、「青島」(チンタオ)へ行ってこられたそうですが、何か珍しいことがありましたか」と問う。師僧がその雲水を説き伏せる意味で「雀はチュウチュウ、カラスはカアカア」と答えるが早いか、その雲水の肩をシッペイでパ-ンと打ったんです。そういうことが実に印象的でしたね。何となく禅というものは面白いと思いました。」(A20)
「このことがおもしろくて、耕衣は高僧の法話や座禅の催しがあると知ると出かけ、ときには、これはと思う禅寺を一人で訪問した。 秋の夕暮れ、訪ねて行った臨済宗の寺の老師は、闇の迫る中で、灯火もつけず、「禅というのは、厄介なものや」
禅修行で悟りを開いたはずなのに、一歩退いたところから、そんな風に眺める「ユトリ」といったものがあり、耕衣はさらに興味をかきたてられたりし、以後、生涯にわたって禅への関心は消えなかった。 もっとも、それはあくまで気ままに、高僧を訪ねたり、道元や西田幾多郎の著作を通じて学ぶということであって、荒行や修行の類とは無縁。その時間がないというより、それらが一つの型式、一つの型に人間をはめこみ、その中での自己陶酔になりかねぬ、と感じたからである。」(C37)

文芸活動
大正九年(1920)[20]右腕負傷のため兵役免除。結婚。毎日新聞兵庫県版付録俳句欄に初投句。 このころ大阪の俳誌『山茶花』に投句。
昭和三年(1928)[28]武者小路実篤の文学に心酔。「新しき村」入村を志すが、手の障害では農作業は無理だと断念、村外会員となる。 村の機関紙「新しき村」昭和3年6月号に短編小説『秋風』が掲載される。
昭和四年(1929)[29]このころ俳誌『山茶花』から『鹿火屋』(原石鼎主催)にのりかえる。 「鶏頭陣」(小野撫子主催)にも投句。古陶趣味の影響を撫子より受ける。このころ原石鼎敬慕。
昭和十年(1935)[35]主宰俳誌「蓑虫」を創刊。(十六号で休刊)

地元の俳誌加入を拒否される
「地元で新たな俳誌ができ、加入を申し込んだところ、耕衣が「ホトトギス」系でない「鹿火屋」誌などに関係していたという理由で拒絶された。」(中略) (原石鼎の句「淋しさにまた銅鑼(どら)打つや鹿火屋守」はーー) 「孤独の深さをうたう美しい句だが、写生中心のホトトギス系の世界からは遠いとされ、ついでに耕衣も敬遠された。

自ら、句誌「蓑虫」を創刊
俳句の世界にも、派閥や縄張り意識があるのかと、耕衣は興ざめしたが、そこでくさることなく、それならそれでと、工場内で関心のありそうな仲間に声をかけ、四十人を集めて、句誌「蓑虫」を創刊、その中の何人かを撫子の「鶏頭陣」誌にも紹介した。」(C55)
昭和十二年(1937)[37]文化趣味の会「白泥会」を結成。棟方志功・河井寛次郎らに接し、民芸の精神を養う。白泥会は、高砂の工楽(くらく)長三郎(造船、海運で財をなした)邸で行われた。

<棟方志功とのつきあい>
「長三郎は芸術や文化への関心が強く、若手の芸術家や学者を招いて、土地の同期の人々と共に話を聞く集いを持つようになった。会の名は「白泥会」。」(C22)
「耕衣は、この白泥会で志功の話を聞くだけでなく、会が無い日でも志功が工楽邸に泊まるときには、欠かさず訪ねて話こんだ。(中略) 二人には、禅や謡曲といった共通の話題もあったが、何より「もう一つの仏教学・禅学 」も創作への姿勢という面で共鳴し合った。「根源」とか「第一義」とかを問題にし、写生よりも、自己主張や観念を打ち出す。泥くさく見られたりすることなど、念頭にない。」(C22)
昭和十五年(1940)[40]「鶴」に投句、のち同人。思想弾圧下の時勢下で小野撫子より警告を受ける。

写生とは違う俳句へ
「俳壇で主流を占めてきたのは、高浜虚子が主催する「ホトトギス」派で、正岡子規の写生説を忠実に守り、花鳥諷詠を中心に置いた俳句づくりをというものであったが、一部の俳人たちはそれにあきたらず、昭和に入ってからの社会不安や軍国主義のひろがりの中で、人生や社会をも見つめ、また写生にとらわれぬ句をと、「ホトトギス」から脱退、「京大俳句」「旗艦」「馬酔木」(あしび)などの句誌を出し、俳句革新運動をはじめた。季語のない句をつくるなどもし、「新興俳句」の名で呼ばれた。
人間として爆発するように生きたいとする耕衣は、花鳥諷詠の「ホトトギス」派とはもともと波長が合わなかったが、といって「革新運動」などという組織的な活動に加わるのもにが手。
しかし、その新しい運動の中で、自分の句がどう評価されるかには興味があり、日野草城主催の「旗艦」に投句してみた。だが、思ったほどの反応がないため、一年ほどでやめ、今度は石田波郷主催の「鶴」に投句したところ、三ケ月で同人に推された。」(C63)

新興の俳人の思想弾圧
昭和15年2月「京大俳句」の平畑静塔ら8人が、治安維持法違反で検挙される。
 5月、東京の同人四人も逮捕。
 8月、西東三鬼が逮捕される。
昭和16年2月、秋元不死男が逮捕される。
 逮捕者15名中3名起訴され、残りの人は数カ月から一年拘置され、釈放されたが、「執筆禁止」を言い渡された。 こういう状況にあって、小野撫子が体制側にあって俳句を検閲していたらしく、小野から耕衣に警告の知らせが届いた。耕衣は上京し、小野にあい、しばらく句作を中断する旨、伝えた。だが、しばらくして小野に無断で、名前を変えて石田波郷の俳誌「鶴」に投句。

戦争中参禅
「早く禅の道へ踏みこんでいた彼は、俳句に注いでいた時間の一部を禅にふり向け、時間をつくっては、神戸祥福寺の臥牛軒老師を訪ね、年末の臘八接心(ろうはつせっしん)に参禅したりした。
動き出してしまうと止まらなくなるのが、耕衣の常である。祥福寺だけでなく、近くの明石や加古川の禅寺へも出かけた。また、禅に明るい哲学者西田幾多郎の著作を人にすすめられ、読みはじめると、これまた夢中になり、次々に読みふけった。 こうして禅への親しみが深まると、彼は自分一人がその法悦に浸っていては申し訳ない、という気がしてきた。
このため、会社でのクラブ活動の一つとして座禅会をつくり、加古川の寺の和尚を招いて提唱を聞くことにしたところ、工場長はじめ三十人ほどが参加するようになった。」(C77)

戦後、独自の道へ
昭和二十二年(1947)[47]石田波郷・西東三鬼が来て一泊。三鬼が耕衣の句を激賞。「現代俳句協会」会員に推される。
昭和二十三年(1948)[48]西東が中心の「天狼」同人となる。「根源探求論」を展開する。
「天狼」が「他の結社との重籍を認めず」という規約があったため、「鶴」「風」同人を辞退。

自由を縛る「天狼」に嫌気
「その句が純ホトトギス系でないという理由で、播磨の俳誌グループへの入会を断られことが戦前にはあったが、戦後、また似たようなことが始まったのか、と。

「マルマル人間」
結社があって俳人があるわけでなく、俳人たちが「マルマル人間」として自由に集まる組織が結社のはずであり、それ以上のものでも、それ以下のものでもないはずではないか -。 三鬼との間に、こうして思いがけぬ隙間風が吹くようになった。」(C100)
昭和二十四年(1949)[49]「琴座」(リラザ)創刊、主宰となる。 (「琴」のギリシャ語から、リラ座と呼ぶ。)
昭和二十七年(1952)[52]三菱製紙高砂工場製造部長となる。
昭和二十八年(1953)[53]「天狼」を脱会。「鶴」同人に復帰。

孤高の道
禅僧との交わり

「耕衣は志功を訪ねたが、当時、逆に耕衣との議論を好み、須磨の家まで訪ねてきた別世界の人が居る。
神戸祥福寺の師家、山田無文。
たまたま耕衣とは同年だが、その説法は評判が高く、後に臨済宗妙心寺派管長となる。花園大学学長もつとめ、国際的にも知られた高僧だが、生活は質朴。文化勲章も拒否する気骨の人であった。」(C25) 《(注)昭和28年から祥福寺の師家。》
「手の障害のせいもあって、耕衣は旅を苦手としたが、東京出張の機会を活かし、社用が終わると、朝比奈宗源などの禅僧や、俳人たちを訪ねたが、それは耕衣がそのときどきに興味や関心を持った相手ということであって、このため、「天狼」以外の俳人とばかり接触していると、うわさする声もあった。
このため、耕衣は「天狼」を去った。
戦前、大結社の「ホトトギス系」に拒まれたため、結果的に新興俳句の流れとして扱われた耕衣だが、その流れの延長上に在る「天狼」からも離れることで、耕衣はいわゆる結社らしい結社とは無縁の生き方をすることになった。」(C116)
昭和三十年(1955)[55]定年退職。赤尾兜子・橋門石らと研鑽のため「半箇の会」を結成。 毎日新聞神戸版俳句欄選者となる。

退職後、読書に時間をさく。詩人の西脇順三郎、歌人、斎藤茂吉に傾倒。 禅に造詣の深い詩人、高橋信吉にも。
昭和三十一年(1956)[56]神戸在住の金子兜子を知る。
昭和三十三年(1958)[58]「俳句評論」創刊とともに同人となる。
昭和三十七年(1962)[62]「現代俳句協会賞」審査員。
昭和三十八年(1963)[63]初の書作展を神戸新聞会館で開く。
昭和四十四年(1969)[69]東京三越本店で「書と絵による永田耕衣展」を開催。
敬慕の西脇順三郎と初対面のほか多くの出会いを得る。津高和一展(西宮)で須田剋太と初対面。

<棟方志功が祝辞>
「昭和四十四年には、東京の三越本店美術サロンで、「書と絵による永田耕衣展」を。このときには、そのカタログに西脇順三郎らの跋(ばつ)とともに、棟方志功がいかにも志功らしい次のような祝辞を寄せた。
<禅機ということを聞く。永田耕衣氏の書は同意から生まれていると機す。書くというよりも「機す」とその意を介した方がよくまた解した事でもよい。ヨロコンダリ。ワラッタリ。ベソカイタリ。アカンベイヲ、シタリ。ナキヤマナイヨウ、ダッタリ。ダダヲコネタリ。お終いにはスヤスヤねむって仕舞って、ひとり笑いしている様な書を生むのを得意としているこの人の書は、滅多に他に無いようだ。羨ましい。>」(C139)
昭和四十六年(1971)[71]「銀花」第7号で耕衣の書画が特集される。須永朝彦・高橋睦郎来訪。
昭和四十七年(1972)[72]ラジオ関西で「山頭火について」4回放送。
昭和四十九年(1974)[74]舞子ビラにて全句集「非佛」出版記念会が開かれる。神戸市文化賞受賞。
昭和五十年(1975)[75]「琴座」300号で俳句的信条<陸沈の掟>十一ケ条を提示。
昭和五十一年(1976)[76]吉岡実編「耕衣百句」に対する丸谷才一の評文が朝日新聞に掲載される。
昭和五十六年(1981)[81]神戸新聞社「平和賞」受賞。
昭和五十九年(1984)[84]兵庫県文化賞受賞。
昭和六十一年(1986)[86]妻ユキエ死去。
平成二年(1990)[90]第2回「現代俳句協会大賞」受賞。
平成三年(1991)[91]第6回「詩歌文学館賞」受賞。

遅すぎる受賞
「長い長い積み上げがあって、耕衣句はようやく世間の目に触れるようになった。
昭和六十年には、朝日文庫の「現代俳句の世界」シリーズで、『永田耕衣 秋元不死男 平畑静塔集』が刊行され、平成三年には薄く小型の選句集『生死』(ふらんす堂)、その翌年には『永田耕衣』が春陽堂俳句文庫の一冊として出た。」(C199)
「俳句関係には早くから大小さまざまな賞があったが、耕衣に対する全国版の賞は、はじめてのことであった。
句歴が長いだけでなく、耕衣はたしかにここ数年も力作、異色作を発表し続けてきた。(中略)
あまりにもおそい受賞ともいえた。
俳壇から孤立というか、異端視されてきた耕衣としては、手放しでよろこぶという具合には行かない。
そこで、次の一句。
「褒貶(ほうへん)をひねり上げたり鏡餅」」(C193)
平成七年 [95歳] 一月、阪神大震災によって自宅全壊。2階のトイレに閉じ込められたが救出され、天理教の講堂に避難。
2日後、市内の同人の家に避難
半月後、寝屋川の特別養護老人ホームへ移る。車椅子が必要になる。
同人が、自宅から書籍を発掘して姫路文学館に収める。
六月、大阪で「耕衣大晩年の会」を開催、150人集まる。
平成八年 [96歳] 五月、神戸で「大晩年耕衣書画展」
朝食に向かう途中、ころんで、左上腕骨を折り、書けなくなる。
平成九年 [97歳] 『琴座一・二月合併号』で廃刊。
八月25日、死亡。泉福寺に墓地がある。(ここには埋葬されていないという


ネウマ譜の起伏のごとき午睡かな・・・・島本融
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──再掲載──初出2004/04/29 Doblog──「島本融の詩と句」(再掲載にあたり編集し直しました)

     ネウマ譜の起伏のごとき午睡かな・・・・・・・・・・・・・島本融

「午睡」というのは夏の季語だが、もう夏日の気温の日がつづく昨今であるので、もう夏「仕様」で行きたい思う。
ところで「ネウマ譜」については ← Wikipediaに詳しい。
ネウマ譜というのは一般的にはグレグリオ聖歌の表示法として知られるが、「ネウマ」とは中世の単旋律歌曲の記譜で使われた記号。
旋律の動きや演奏上のニュアンスを視覚的に示そうとしたものが基本。
ネウマ譜とは、上に述べたネウマを使った記譜法。
9世紀頃現われ、高音を明示しないネウマ、高音ネウマ(ダイアステマ記譜法)を経て、やがて11世紀から「譜線ネウマ」へ移行する。
ネウマ譜は先に述べたようにグレゴリオ聖歌の表示法として知られるが、中世の世俗的歌曲も、貴族の館を中心に「吟遊詩人」の歌として流行した。
単声で、譜線ネウマ譜で表わしていた。
最初は、歌詞の上に記号をつけただけだったが、10世紀頃イタリアやイギリスで譜線が登場する。
譜線の数は1本から4本まで増え、線と線の間隔は3度間隔を示すようになり、「譜線ネウマ」と呼ばれるようになる。
後には近代5線譜で古い楽譜が写本されることもあるらしい。期間的には9世紀から14世紀にかけて、ということになる。

実は私はネウマ譜の実物か写本というものを見たことがない。
本で、その存在を知っていたに過ぎないが、2004/04/20付けの新聞で大阪の女性がネウマ譜の装飾的な美しさに引かれて写本を手掛けている、
という記事に触発されて、島本氏の、この句を採り上げる気になった。
昔のヨーロッパの本は、小説でも神学の本でもページの文頭の字は、大きく、しかも色彩的にも極彩色に装飾した「飾り文字」になっているが、
このネウマ譜も、そういう装飾文字で始まるらしい。
装飾的ということからは、この大阪の女性の写本のモデルになっているのは14世紀イタリア式譜面の装飾かも知れない。
ネウマ譜の画像をいくつか出しておいた。
GregorienA4グレゴリオ聖歌17世紀楽譜
 ↑ グレゴリオ聖歌17世紀楽譜

島本融氏については、私のWeb上のHPで一章を設けて句集『午後のメニスカス』の抄出をしてある。
島本融氏は河井酔茗、島本久恵氏のご次男で群馬県立女子大教授などを勤められた美学者である。
美学者としての教養から横文字が多いが、知的な雰囲気に満ちている。以下、句を抄出する。
------------------------------------------------------------------------

 母は闇に坐して涼しき銀河系

 吾亦紅野辺のアウラというべきか

 くすぐられてしなやかな子の夏合宿

 すこやかになまあしやはりさむいという

 てふてふの旧かなめきし羽根づかひ

 秋灯に偽書ほどほどの読みごたえ

 様式とはめだかみごとに散るごとく

 二河白道一輻だけの花の寺

 ミネルヴァの梟を言い冬学期

 十代連はチアののりにて阿波踊り

 謝恩会のゼミ学生の抜き衣紋

 青嵐におののきやめずメニスカス

 酔漢がハモってゆくや歳の暮

 波奈理児のすはだに生絹(すずし)添えまほし

 ビリティスの偽書も編みたし蔦の花


内藤恵子『詩・エッセイ・評論集成』・・・・・木村草弥
内藤_NEW

──新・読書ノート──

       内藤恵子『詩・エッセイ・評論集成』・・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・エディット・パルク2017/02/04刊・・・・・・・

この本は先に紹介した詩誌「Messier」同人の内藤氏の近刊である。
先日、紹介した件の返礼として恵贈されてきたものである。
この本の奥付に載る「著者略歴」を引いておく。

1936年 東京生まれ
1959年 学習院大学独語・独文学科卒業
1964年 京都大学文学部研究科博士課程入学
1971年 シュトットガルト工科大学マスターコース終了
1986年 京都大学教育学部教育学専攻卒業
1988年 京都工芸繊維大学非常勤講師ドイツ語担当
2010年        〃      退職
著書・翻訳・評論など多数

はじめに、「献詩」として「メシエ」誌主宰者・香山雅代あての作品があるが、その一節に

<高踏
 美的
 難解たれ
 強い衝撃に突き上げられる
 魂の叫びに
 忠実たれ>

というフレーズがある。 
これは、まさに香山氏の詩の特徴を言い当てて的確であるが、翻って内藤氏の詩は、それとは反対の平易な、わかりやすいものである。
この本の題名にもなっている巻頭の詩「遠望」を引いてみる。

         遠望           内藤恵子
            母には買うことを禁じられていた駄菓子屋

  ボックス型の乳母車
  掴り立ちして
  外を眺める
  頭の上から落ちてくる
  急な坂
  上から下へ
  下から上へ
  人が歩いている
  麓には駄菓子屋
  背後には人の気配
  京都言葉がふんわり
  手に握らせてくれる温もり
  重曹の苦みの残る
  パン菓子
  甘食
  記憶の果てから
  蘇った急な坂
  刻印された
  舌の上の甘食の痕跡

  店頭で飽くことなく
  甘食を探し
  衝動買いをおさえることが
  出来ない大人の私

  食べるたび
  ふくれ上がった
  山の割れ目から
  隠れた祖父が
  姿を現す
----------------------------------------------------------------------------
この詩「遠望」は内藤氏の郷愁を綴ったものだろう。
この一篇の詩が、内藤氏の作品のすべてを代表している、と言っても過言ではないだろう。

続く「揺れる」と題する詩に

<・・・・・
  庇護され
  未来への何の不安も
  持たぬ
  幸せな時代
  ものうげな時間の記憶
 
  いくつもの苦楽を
  重ねて
  ひとり身になった今も
  爽やかな風に
  踊る葉影が
  心を揺らす
  ・・・・・>

というフレーズがある。
これこそ、先に私が書いたことの証左と言えるだろう。

Ⅱ エッセイについて触れておくと、「ゴブラン織り」「おやつの思い出」などに年少期のことが書かれていて、山の手のインテリ家庭に不自由なく育った環境が、かいま見える。
それらのことと、先に引いた詩作品とは完全にリンクしているようである。

著者には『境界の詩歌』という「独と和の異色の評論集」と題される「詩歌は言葉の壁を超え得るのか 翻訳の可能性と不可能性」に触れた評論などがあるが、ここでは触れない。

誠に不十分ながら、この本の紹介を終わりたい。
ご恵贈有難うございました。


泰山木の巨き白花さく下にマタイ受難曲ひびく夕ぐれ・・・・木村草弥
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     泰山木の巨き白花さく下に
        マタイ受難曲ひびく夕ぐれ・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)にのるものである。
この歌の一つ前には

  おほどかに泰山木の咲きいでていきなり管楽器鳴りいづるなり

という歌が載っているので、これと一体として鑑賞してもらいたい。

泰山木の木は葉も花も大きいもので、葉は肉厚で落葉は昔の大判の貨幣のようである。
この頃には「青嵐」という季語もあるように季節の変わり目で突風が吹くことが多いが、そんな風に吹かれて泰山木の大きな落葉が新芽にとって代られて、
からからと転がってゆく様子は季節ならではのものである。
モクレン科の常緑高木であって、高いものは17、8メートルにもなる。
北アメリカの原産で明治のはじめに日本に渡来し公園などに植えられた。葉はシャクナゲに似、花はモクレンに似ている。
花は葉の上に出て、大きさは15センチもある。木が大きく、葉も花も大きいので「泰山木」という命名がいかにも相応しい感じがする。
花の雄大さと白い色、高い香りが焦点である。

私の歌は、そういう、いかにも西洋風な花と木に触発されて、「管弦楽」ないしは「マタイ受難曲」という洋楽を配してみたが、いかがであろうか。

YouTube 「マタイ受難曲」 ← いい演奏なので聴いてみてください。

「マタイ受難曲」 出典:Wikipedia
「マタイ受難曲」(Matthäus-Passion)とは、新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にした受難曲で、
多くの場合独唱・合唱・オーケストラを伴う大規模な音楽作品である。
このうち最も有名なものはヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下バッハ)の作品である。
ここではこのバッハの作品について述べる。

バッハのマタイ受難曲(Matthäus-Passion)は新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にし、
聖句、伴奏付きレチタティーヴォ、アリア、コラールによって構成された音楽作品である。
BWV244。
台本はピカンダー(Picanderは「かささぎ男」という意味の筆名であり、本名クリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーツィ、あるいはヘンリーキ)による。
正式なタイトルは「福音史家聖マタイによる我らの主イェス・キリストの受難Passion unseres herrn Jesu Christi nach dem Evangelisten Matthäus」となる。

バッハのライプツィヒ時代(1723年-1750年)を代表する作品であるとともに、その全作品中の最高峰に位置づけられる。
宗教作品であるが、様々な人間的に普遍的なドラマが描かれており、その音楽の壮大さ、精緻さ、大胆さ、精神性は、しばしばクラシック音楽、西洋音楽作品中の最高傑作とさえ評されるほどである。 バッハが作曲したとされる受難曲は、マタイ受難曲(2作あったとされるが、「2作目は合唱が2組に分けて配置される」という記述の目録があるので現在伝わっているのは2作目あるいは何らかの改作後の方であることがわかる)のほか、音楽的にはマタイほどの完成度ではないもののより劇的とされるヨハネ受難曲(BWV245、1724年)、ルカ受難曲(BWV246)、マルコ受難曲(BWV247、1731年)の計4つが数えられるが、ルカ受難曲は真作と見なされておらず、マルコ受難曲は台本のみが現存し、他は消失している。これらのなかで、マタイ受難曲は内容的にも規模的にも最も重要かつ画期的である。

初演および復活上演
初演 1727年4月11日、ライプツィヒの聖トーマス教会において初演。その後改訂が加えられ、1736年に最終的な自筆稿が浄書されている。かつては1729年4月11日の初演と伝えられ、未だに古典派・ロマン派の愛聴者の中に支持する者もいるが、完全に否定されている。この勘違いは、メンデルスゾーンの初演に用いた楽譜が1729年稿であったこと、蘇演の広告が「100年ぶりの復活演奏」と銘打ったこと、1728年に没したケーテン侯レオポルトに捧げた追悼カンタータがマタイ受難曲のパロディだったこと(教会音楽を世俗音楽に書き換えることはありえないと信じられていた)など、非科学的な思い込みによって誘発されたものである。

復活上演 バッハの死後、長く忘れられていたが、1829年3月11日、フェリックス・メンデルスゾーンによって歴史的な復活上演がなされ、バッハの再評価につながった。

この復活上演はいくつかのカットが伴われ、また古楽管楽器オーボエ・ダ・カッチャを、同じ音域のオーボエ属楽器であるイングリッシュホルンではなくバスクラリネットで代用するなど、メンデルスゾーンの時代により一般的であった、より現代に近いオーケストラの編成によって演奏された。この編成の演奏を再現した録音CDも存在する。当時の新聞評は芳しいものではなく、無理解な批評家によって「遁走曲(フーガ)とはひとつの声部が他の声部から逃げていくものであるが、この場合第一に逃げ出すのは聴衆である」と批判された。しかしこれを期に、当時は一部の鍵盤楽器練習曲などを除いて忘れ去られていたバッハの中・大規模作品をはじめとする音楽が再評価されることになったのである。
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「泰山木」は俳句にも詠まれているので、それを引いて終わりたい。

 壺に咲いて奉書の白さ泰山木・・・・・・・・渡辺水巴

 磔像や泰山木は花終んぬ・・・・・・・・山口誓子

 太陽と泰山木と讃へたり・・・・・・・・阿波野青畝

 泰山木天にひらきて雨を受く・・・・・・・・山口青邨

 泰山木巨らかに息安らかに・・・・・・・・石田波郷

 泰山木樹頭の花を日に捧ぐ・・・・・・・・福田寥汀

 ロダンの首泰山木は花得たり・・・・・・・・角川源義

 泰山木開くに見入る仏像ほし・・・・・・・・加藤知世子

 泰山木君臨し咲く波郷居は・・・・・・・・及川貞

 初咲きの泰山木に晴れつづく・・・・・・・・武内夏子


さゐさゐと鳥遊ばせて一山は楢の若葉に夏きざし初む・・・・木村草弥
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     さゐさゐと鳥遊ばせて一山は
         楢の若葉に夏きざし初む・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
この歌の次に

     初夏の明けの小鳥の囀りにぼそと人語をさしはさむ野暮

という歌が載っているが、これも一体として鑑賞してもらいたい。

歌について少し説明しておくと「さゐさゐ」というのは漢字で書けば「騒騒」である。
先に書いたかと思うが、楢の木というのは「里山」の木であって、結構いろいろな昆虫なども豊富で、
それらの虫は小鳥たちの絶好の餌になるのであった。
だから小鳥たちが寄ってきて「騒騒」と賑やかなのであった。
こういう鳥たちとの交歓というのは杉、桧のような針葉樹の林では見られない。
針葉樹は人間にとって有用な木材としては最適であるかも知れないが、広くいろんな生物との共生という意味では、貧弱な生態系にしか過ぎないと思われる。
虫や昆虫、小鳥の多いのは広葉樹の林である。
上に挙げた歌につづいて

     みづうみを茜に染めて日の射せばひしめき芽ぶく楢の林は

というのが載っている。
これらの歌の三部作を含む項目の題は「鳥語」と私はつけた。
やはり楢などの雑木林には小鳥が豊富であり、したがって鳥の声に満ちている──つまり「鳥語」が特徴であろう。

虫が居れば成虫である蝶も居るということである。「蝶」の句を引いて終わる。
なお、ただ単に「蝶」と言えば春の季語であるが、揚羽蝶など盛夏に居る夏の蝶は、もちろん夏の季語の題材になる。「夏の蝶」「斑蝶」「セセリ蝶」など。

 ほろほろと蝶こぼれ来る木下闇・・・・・・・・富安風生

 木の暗を音なくて出づ揚羽蝶・・・・・・・・山口誓子

 夏蝶や歯朶揺りてまた雨来る・・・・・・・・飯田蛇笏

 弱弱しみかど揚羽といふ蝶は・・・・・・・・高野素十

 夏蝶の放ちしごとく高くとぶ・・・・・・・・阿部みどり女

 下闇に遊べる蝶の久しさよ・・・・・・・・松本たかし

 磨崖仏おほむらさきを放ちけり・・・・・・・・黒田杏子

 一途なる蝶に身かはす木下闇・・・・・・・・佐野まもる

 下闇や揚羽の蝶の二つの眼・・・・・・・・松尾静子

 奥の院八丁とあり黒揚羽・・・・・・・・近藤笑香

 首塚の湿りを出でて揚羽蝶・・・・・・・・長田群青


今度こそ筒鳥を聞きとめし貌・・・・飯島晴子
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     今度こそ筒鳥を聞きとめし貌・・・・・・・・・・・・・・・飯島晴子

「ツツドリ」は、人間の住むような里山には近づかず、林間に居て、鳴き声だけが遠くから聞こえてくる。
この句は、そういう筒鳥の生態を、よく捉えている。
私の歌にも、こんなものがある。

  筒鳥の遠音きこゆる木の下に九十の母はのど飴舐むる・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。

筒鳥は郭公やほととぎすと同じ仲間で姿、形が似ている。これらの鳥は鳴声は田舎なら、よく聞くことがあるが、姿を見ることはめったにない。
この種類の鳥は子育ての際に、独特の「托卵」という習性があることが共通している。

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)にも

   み熊野の出で湯に宿るあかときにぽぽろぽぽろと筒鳥の声

という歌を載せている。
掲出の歌のことだが、私の母は93歳で亡くなったが、この歌は90歳の頃のことを詠んでいる。母には曾孫も出来ていたから文字通り悠々自適の晩年だった。
初夏のむせかえるような陽気の日には大きな木の蔭でのんびりと過ごしていた。
「のど飴」を舐める母、というところに私の歌作りの工夫を込めたつもりである。

以下、歳時記に載る句を少し引いて終わりたい。

 つつ鳥や木曽の裏山木曽に似て・・・・・・・・加舎白雄

 筒鳥を幽かにすなる木のふかさ・・・・・・・水原秋桜子

 筒鳥なく泣かんばかりの裾野の火・・・・・・・・加藤楸邨

 筒鳥や楢の下草片敷けば・・・・・・・・石田波郷

 筒鳥鳴けり腕を撫でつつ歩むとき・・・・・・・・大野林火

 旅にして聴く筒鳥も辰雄の忌・・・・・・・安住敦

 筒鳥やひとの名彫られ一樹立つ・・・・・・・・中島斌雄

 筒鳥や涙あふれて失語症・・・・・・・・相馬遷子

 筒鳥や分れて道は火山灰ふかく・・・・・・・・皆吉爽雨

 筒鳥や思はぬ尾根に牛群れて・・・・・・・・堀口星眠

 筒鳥や山に居て身を山に向け・・・・・・・・村越化石

 筒鳥の遠音近づくことのなし・・・・・・・・森田峠

 筒鳥の風の遠音となりにけり・・・・・・・・三村純也

 筒鳥やこんにやく村はすぐ陰る・・・・・・・・茂木連葉子

 筒鳥や豆が双葉となりし朝・・・・・・・・矢上万理江



高階杞一『詩歌の植物 アカシアはアカシアか』・・・・・木村草弥
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──高階杞一の詩──(9)

       高階杞一『詩歌の植物 アカシアはアカシアか』・・・・・木村草弥
                      ・・・・・澪標2017/05/20刊・・・・・・・

この本は詩誌「びーぐる」に連載されたものを纏めて上梓された、詩歌に出てくる植物について書かれたエッセイである。
「あとがき」に書いておられるが、高階先生は大学の農学部を出て、造園技師として勤めておられたことがあり、植物の専門家である。
そんな立場から、蘊蓄を傾けて、こんな本が誕生したということである。 少し「あとがき」を引いてみる。

<こうした植物にまつわる文章を書く最初のきっかけとなったのは、四十年近くも前、ニセネムノキなる樹木が出てくる詩を読んだことだった。
 何だこりゃ? こんな名前の木があるのかと疑問に思い、その正体を解き明かす文章を当時発行していた同人誌に書いた。それが本書第一章の「アカシアはアカシアか?」の元になっている。・・・・・ >

紹介したからには、もっと詳しく引く必要があるが長い文章なので、お許しいただきたい。
代わりに「目次」を引いて、お茶を濁したい。

「目次」
⒈ アカシアはアカシアか?
⒉ あれは菜の花?
⒊ 春にはなぜ白と黄色の花が多いのか?
⒋ 白いコウホネ?─『海潮音』の植物
⒌ バラもあれこれ─夢見る薔薇やもののけの薔薇
⒍ 小出新道の謎
⒎ 種はなくてもタネはある
⒏ 中也の植物 道造の植物
⒐ なぜ葉は散っていくのだろう?
⒑ ツバキは唾の木?─ツバキとサザンカ
⒒ ネズミもいればブタもいる─植物名の中の動物
⒓ はっかけはばあにくっつき虫─植物の異称あれこれ
⒔ 王と宰相─ボタンとシャクヤク
⒕ 屋根の上のアイリス─アヤメ科の植物あれこれ
⒖ 蓮喰いびとの<蓮>とは何か
⒗ アジアの足跡─踏まれても忍ぶ草
⒘ 植物もヘンシーン!

詩歌と植物とに「執拗に」拘って、ものされた珠玉のエッセイである。 ぜひ、ご一読を。

Wikipedia─高階杞一

まことに不十分で申し訳ない。 ご恵贈に感謝して終わる。有難うございました。


目には青葉/山時鳥/初鰹・・・・・山口素堂
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     目には青葉/山時鳥(ほととぎす)/初鰹・・・・・・・・・・・・・山口素堂

この句は作者名を知らなくても、多くの人に愛誦されている代表格のものだろう。
元の句には区切りなど無いが、意味をはっきりさせるために敢えて区切りを入れてみた。了承されたい。
なぜ「山時鳥」というのかについては ← のところで書いたので参照されたい。
「目に青葉」と読む人があるが、正しくは、字余りになっても「目に青葉」と読んでもらいたい。

山口素堂は芭蕉と親交のあった江戸の俳人。句は「鎌倉にて」という前書きがある。
目のためには一帯の山の青葉。耳のためにはほととぎす。鎌倉の初夏はすばらしい。
その上に、相模の海の名物の初鰹とは、何とよい土地柄だろう、というのである。初物好きの江戸っ子の美意識が強く感じられる。

大島蓼太の句にも

    鎌倉は波風もなし鰹つり

というのがあるが、相模湾は、その昔、マグロやカツオの漁でも有名だった。
同じ江戸中期の国学者で歌人の賀茂真淵には

    大魚(おほな)釣る相模の海の夕なぎに乱れて出づる海士(あま)小舟かも

という爽快な漁場風景を詠んだ歌がある。
なお、念のために申し添えておくが、「青葉」「ほととぎす」「初鰹」ともに俳句の世界では「夏」の季語である。つまり一句の中に季語が三つあることになる。
今は一句の中に複数の季語を入れることを喧しく指摘する宗匠もあるらしいが、そんなことに拘らない「大らかさ」が、この句にはあり微笑ましい。
旧暦の四月(卯月)、新暦の五月からは「夏」になる。
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d0080223_19245841ホトトギス

ここでは、「ほととぎす」にまつわる句歌を少し引いておく。

    谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま・・・・・・・・・・杉田久女

結句の「ほしいまま」というのが鳥の自由奔放な命の発露を言いとめている。
この句の前書きには「英彦山」とある。福岡、大分両県にまたがる修験道の霊山である。
久女は昭和5年高浜虚子選で行われた全国新名勝俳句に応募のため、英彦山に登ってこの句を得、金賞を獲得した。
しかし同じ句を「ホトトギス」に投句した時には没だったという話もある。
久女の浪漫的で大胆な句風は女流俳人中で異彩を放ったが、なぜか昭和11年理由不明のままホトトギスから除名された。悲運の閨秀作家である。

    ほととぎすそのかみ山の旅枕ほのかたらひし空ぞわすれぬ・・・・・・・・式子内親王

詞書には「いつきの昔を思ひ出でて」とある。
「いつき(斎)の昔」というのは、式子内親王が賀茂神社の斎院として青春の十年間を神に奉仕する身であった時代を回想してという意味である。
「そのかみ」と「かみ山」とは掛け詞で、後者は賀茂神社のある森のことを神山(こうやま)と今でも言う。
「旅枕」は賀茂の祭礼のとき、社殿の脇の神館に斎院が一夜泊るしきたりを、旅になぞらえたのである。
ほととぎすよ、その昔、賀茂の神館に旅寝した夜明け、お前がほのかに鳴いて過ぎた、あの時のことが忘れられない、という意味である。
口ずさめば歌は縹渺たる時間と空間を呼び起し、恋歌のような情緒さえ刺激する。
現在では「上賀茂神社」と一般的に呼称する。
「神山」の辺りには今は京都産業大学のキャンパスが広がっている。
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山口素堂についてネット上から転載しておく。

山口素堂(やまぐち そどう)

(寛永19年(1642)5月5日~享保元年(1716)8月15日、享年75歳)

 甲州白州巨摩郡教来石山口(現山梨県北杜市白州町。現在では、近くにサントリー白州ディストラリーがある)の人と言われている。
父山口市右衛門の長男として誕生し、甲府魚町で家業の酒造業を営んでいたが、向学心に燃えて家督を弟にゆずり江戸に出て、漢学を林春斎に学ぶ。
芭蕉とは2歳ほど年上だが、相互に信頼しあって兄弟のような交わりをした。儒学・書道・漢詩・能楽・和歌にも通じた当時稀有な教養人であった。(以上『甲斐国史』による)
 名は信章<しんしょう>、字は子晋<ししん>、通称は勘兵衛。
俳号素仙堂・其日庵・来雪・松子・蓮池翁など多数。子晋・公商は字。趣味も多彩で、蓮を好んだことから「蓮池翁」などと呼ばれた。
延宝4年には『江戸両吟集』を、延宝6年には『江戸三吟』を芭蕉との合作で発表。75歳で死去。
「四山の瓢」参照。

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素堂の代表作

目には青葉山ほとゝぎす初がつを (『あら野』)

池に鵞なし假名書習ふ柳陰 (『あら野』)

綿の花たまたま蘭に似たるかな (『あら野』)

名もしらぬ小草花咲野菊哉 (『あら野』)

唐土に富士あらばけふの月もみよ (『あら野』)

麥をわすれ華におぼれぬ鴈ならし (『あら野』)

髭宗祇池に蓮ある心かな (『炭俵』)

三か月の隠にてすヾむ哀かな (『炭俵』)

うるしせぬ琴や作らぬ菊の友 (『續炭俵』)


まざまざと夢の逃げゆく若葉かな・・・・寺田寅彦
konara小楢本命

     まざまざと夢の逃げゆく若葉かな・・・・・・・・・・・・・・寺田寅彦

今や見渡すかぎり、みどり一色の若葉である。 この句は、そんな季節感を巧く作品化している。
作者の寺田寅彦 ← というのは、こんな人である。物理学者だが夏目漱石に師事し俳句やエッセイなどをよくした。

私の歌にも、若葉を詠んだ、こんなものがある。

   日が照ればエーテルのごとく香を放つ楢の若葉よ午前六時だ・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

写真は小楢の若葉である。ちょうど開花期で雄花序が垂れ下がっている。
ナラ、クヌギの類は人家に近い、いわゆる「里山」の木で、薪にされてきたもので、伐採した後には株元から次の新芽が出てきて林が更新するのである。

konara4コナラ青

写真②はナラの実、いわゆるドングリである。ナラの実は細長い。クヌギの実は、もっと丸い形をしている。

里山は薪などに加工して、伐採して世代更新をしないと木は大きくなりすぎて逆に荒廃する。
この頃では農村でも台所では電気やプロパンガスを使うので薪の使い場所がない。
ようやくシイタケ栽培のホダ木としてシイタケの菌を打つ位であるが、そのシイタケが中国産に押されて価格が下がり日本産は採算が合わないとかで、栽培は減っている。
五月に入ると里山も気温がぐんぐんあがり、天気のよい、湿気の多い日には林はむっとむせかえるような様子になる。
yun_1079白糸の滝

私の歌は、そういう楢の林が新緑に満ちた朝六時の光景を詠っている。
新芽からはツンとする新緑特有の香りが立ち、太陽が中天にさしかかると、むせかえるような空気に包まれる。
「森林浴」というのは本来、ロシアで言われてきたことで、針葉樹の木から出る「フィトンチッド」というエーテル系の成分が体によいことを指したのだが、
今では広葉樹の森の森林浴も含めて言われるようになってしまった。しかし、いずれにせよ森林浴というのは、いいものである。

俳句にも「新緑」「新樹」など多く詠まれているので、それを引いて終わりたい。

 大風に湧き立つてをる新樹かな・・・・・・・・高浜虚子

 夕風の一刻づつの新樹濃し・・・・・・・・中村汀女

 阿蘇も火を噴くと新樹のきのふけふ・・・・・・・・百合山羽公

 夜の新樹詩の行間をゆくごとし・・・・・・・・鷹羽狩行

 若葉して御目の雫拭はばや・・・・・・・・松尾芭蕉

 若葉して手のひらほどの山の寺・・・・・・・・夏目漱石

 動くもの皆緑なり風わたる・・・・・・・・五百木瓢亭

 槻若葉雫しやまずいつまでも・・・・・・・・加藤楸邨

 青葉若葉しかすがに逝く月日かな・・・・・・・・中川宋淵

 青葉満ちまなこばかりの稚魚誕生・・・・・・・・加藤一夫

 新緑やうつくしかりしひとの老い・・・・・・・・日野草城

 新緑の天にのこれりピアノの音・・・・・・・・目迫秩父

 摩天楼より新緑がパセリほど・・・・・・・・鷹羽狩行

 水筒の茶がのど通る深みどり・・・・・・・・辻田克己

 まぶたみどりに乳吸ふ力満ち眠る・・・・・・・・沖田佐久子


金雀枝や基督に抱かると思へ・・・・・石田波郷
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       金雀枝(えにしだ)や基督に抱かると思へ・・・・・・・・・・・・・・・・・石田波郷

エニシダの咲き誇る季節になった。
もともとエニシダはヨーロッパ原産の植物である。
私にはキリスト教と深く結びついている木のように思える。
私の歌に次のような作品がある。

    金雀枝(えにしだ)は黄に盛れどもカタリ派が暴虐うけしアルビの野なる・・・・・・・・・・・木村草弥

エニシダは地中海原産で、ヨーロッパに広く野生化している。日本には中国を経て、延宝年間に入ってきたと言われる。
オランダ語ではゲニスタやヘニスタと呼ばれていたが、日本ではエニスタと言われるようになり、今のエニシダになったという。マメ科の落葉低木。

この歌は1998年5月に南フランスに旅した時にボルドーの内陸部のアルビに立ち寄った時の歌である。
アルビというと、画家ロートレック(日本では慣習的に「ロートレック」で呼ばれるが、正しくは「トゥルーズ=ロートレック(ロトレック)」でひとつの姓である)の故郷で、
その美術館も見たが、ガイドがさりげなく説明した「異端審問」で、この地でカタリ派が受けた暴虐を思い出して歌にしたものである。
アルビの野は、それらのカタリ派の無惨な血の記憶が染み付いているのである。


エニシダは初夏の花である。この歌は第二歌集『嘉木』(角川書店)に載っている。
この歌のすぐ後には

   まつすぐにふらんすの野を割ける道金雀枝の黄が南(ミディ)へつづく

が載っている。高速道路の路傍には、文字通り「エニシダ」の黄色が果てしなく続くのであった。

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「異端審問」あるいは「魔女狩り」というのは、キリスト教の歴史の中でも「負」の遺産として語り継がれているが、旅の中でも、こうした心にひびく体験をしたいものである。
そして、深く「人間とは」「神の名のもとに」という愚かな蛮行を思い出したい。

そんな意味からも、掲出した石田波郷の句は、私には関連づけて読みたい作品だったので、引いてみた。

「カタリ派」については、← ここにリンクした「世界宗教大辞典」の記事に詳しい。長いものだが参照されたい。


以下、エニシダを詠んだ句を少し引く。

 えにしだの黄色は雨もさまし得ず・・・・・・・・高浜虚子

 えにしだの夕べは白き別れかな・・・・・・・・臼田亜浪

 エニシダの花にも空の青さかな・・・・・・・・京極杞陽

 金雀枝(えにしだ)や基督に抱かると思へ・・・・・・・石田波郷

 金雀枝やわが貧の詩こそばゆし・・・・・・・・森澄雄

 金雀枝の咲きそめて地に翳りあり・・・・・・・・鈴木東州

 金雀枝の黄金焦げつつ夏に入る・・・・・・・松本たかし



香山雅代編集・詩誌「messier」49号から・・・・・木村草弥
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      香山雅代編集・詩誌「messier」49号から・・・・・・・・・・・木村草弥

          羽音を聴いた日       香山雅代

  宙を 歩んでいる風(ふう)だった
  ふたりは
  ひろい階段の上から 半ばまで
  夢みるように
  手を 携え
  ほとんど 宙に浮かんでいるといった具合に 軽く ふぅわり 風を摑んで
  降りてゆくのだ
  消えゆくように こころに微笑を浮かべながら その微笑で いっそう軽くなって
  透けた翼に 風圧を 孕んでゆく
  祝祭の 気風が あたりに立ちこめ
  振り返り みあげると
  段上のそこに 現れた幻像こそ
  頭部の欠けた 大理石の 考古の憂い
  かの サモトラケのニケの
  渦巻く 息吹き 芬芳の乱れ

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          金継教室        佐伯圭子

    (前略)
  それぞれが
  ひび割れたもの欠けたものを
  胸に抱いて辿りつき
  前にならべている
  
  落とされ 当てられ
  ほうり投げられ
  ぶつかり損なわれた
  器たちが
  今 待っている

     (中略)
  整えられて 
  塗られ付けられ
  磨かれたあと
  金粉をふりかけられて
  そっと待っている

  ひと晩 風呂の端に置いて
  眠らせてと 教えられ
  携えて帰る
  ふと見るとわたしの躰も
  繋がって ヒトに返っている

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          色彩幻想      安部由子

  ヴァイオリンを弾きながら
  昏い舗道に
  あなたは立ち尽くす
  放射する遠心力を指先に集め
  眩い光のなかに疾走する感性を
  そこだけ明るく溶かして
  あなたがある
  色彩は退嬰する街を投影して
  日々の祭りが続く

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          好日     内藤恵子

  天空に
  火星の笑窪をつけた
  新月が浮ぶ

  茜色の残照に
  斜形のシルエット
  深紫を深め
  波うつ鋭角の稜線も
  眼下に引きつれて
  浮ぶ雲を手繰り寄せ
  胸に抱き
  頭にかざし
  裾を覆い
  姿を隠す

  だが あけぼの
  すっぱり全身を曝け出す
  白色の潔さが
  紺碧の空にそびえ立つ

    (後略)
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佐伯圭子の「金継教室」が、言いたいことと選択した言葉との調和という点で秀逸である。
内藤恵子の作品の最終連「今日日是好日」は蛇足であるから (後略)とした。

これらは、もとより私の独断であるが、もっと厳しい批評会があったことを書いて、終わりたい。
ご恵贈ありがとうございました。



   

茶師なれば見る機もなき鴨祭むらさき匂ふ牛車ゆくさま・・・・木村草弥
g08葵祭

   茶師なれば見る機(をり)もなき鴨祭
     むらさき匂ふ牛車(ぎつしや)ゆくさま・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。
この歌は塚本邦雄氏が読売新聞の「短歌時評」で採り上げて下さった2首のうちの一つである。
葵祭5月15日(雨天順延)に行われるが、この歌の主旨は、私が「茶」を生業としていたので、丁度その頃には新茶の製造時期であり、
それどころではない忙しい日々を過ごしていたので、じっくりと祭を見物する機会もなかった、ということである。
この祭は古来、俳句などでは五音に収まるというので「鴨祭」と通称されてきたのである。
京都には三大祭といって、葵祭、祇園祭、時代祭のことだが、一番古いのが、この葵祭である。もともと京の先住民とも言える賀茂氏の祭だった。
現在の上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社(賀茂御祖神社)という賀茂氏の神社で五穀豊穣を祈願する祭が、平安遷都を境に国家的な祭になって行った。
さわやかな新緑匂う皐月の頃、藤の花で飾られた牛車(ぎっしゃ)や輿に乗った「斎王代」を中心にした行列が、
御所を出て下鴨神社から上賀茂神社を巡幸する祭の光景は、
平安の昔をそのままに、都の雅(みやび)そのものを展開すると言える。

写真の説明をしておくと写真①が御所をでる行列、写っているのは牛車。写真②は、牛車の側面──藤の花の房で飾られている。写真③は輿に乗る斎王代。
hyosi牛車

saio-03輿に乗る斎王代

現在の祭の主役は「斎王代」だが、この斎王代が主役となっての祭の歴史は新しい。
斎王代とは、その名の示すように、斎王に代わるもの、代理である。
斎王は伊勢神宮や賀茂の神社に奉仕した未婚の内親王、女王のことである。
平安の昔、この祭が国の祭であった頃、賀茂の宮には斎王が居られ葵祭に奉仕しておられた。
お住いを斎院と言い、祭のときに出御し、勅使の行列と一条大宮で合流する習いだったという。
写真④は下鴨神社のみたらし川での斎王代の禊の様子。祭の数日前に行われる。
saio-01斎王代みそぎ

葵祭の始まりは平安時代初期、弘仁元年(810年)、嵯峨天皇が伊勢神宮にならって、賀茂社にも斎宮を置いた。
この初代斎王─有智子内親王から鎌倉時代はじめの礼子内親王(後鳥羽院皇女)まで、約400年にわたって続いたが、後鳥羽院と鎌倉幕府との政変、承久の変で途絶する。
以後、葵祭は勅使は出るものの、斎王が復活することはなかった。
saio-02女人行列

それを昭和28年に葵祭復活後、行列を華やかに盛り上げるために、葵祭行列協賛会などの努力で「斎王代」を中心にした女人行列(写真⑤)などを加えて、今日に至るのである。
斎王代は民間の未婚の女性が選ばれることになっている。
これに選ばれることは名誉なことであるが、選ばれることによる持ち出しも大変なもので一千万円にも及ぶ出費を覚悟しなければならず、
高額所得のある社長令嬢しか、なれない役目である。

参考までに申し上げると、三大祭の他の二つは、
「祇園祭」は中世に京の都が荒れ果て、病気が蔓延していた頃、「町衆」が立ち上がり世の平穏と病魔退散を願って立ち上げたのが祇園祭であり、別名を町衆の祭と言われている。
だから、この祭には勅使なども一切参ることはない。昨年にも書いたが「大文字の送り火」も町衆の発起したものである。
もう一つの「時代祭」は、明治になって平安神宮が郊外の岡崎の地に造営されたのを機会にはじめられた時代行列である。まったく新しい祭である。
都が東京に遷都して京都の町が疲弊していたのを立て直すイベントとして考案されたもの。

以下、葵祭を詠んだ句を引いて終わりたい。

 草の雨祭の車過ぎてのち・・・・・・・・与謝蕪村

 賀茂衆の御所に紛るる祭かな・・・・・・・・召波

 地に落ちし葵踏みゆく祭かな・・・・・・・・正岡子規

 しづしづと馬の足掻きや加茂祭・・・・・・・高浜虚子

 懸葵しなびて戻る舎人かな・・・・・・・・野村泊月

 うちゑみて葵祭の老勅使・・・・・・・・阿波野青畝

 牛の眼のかくるるばかり懸葵・・・・・・・・粟津松彩子

 賀茂祭り駄馬も神馬の貌をして・・・・・・・・伊藤昌子
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「葵祭」の名前の由来は、この儀式全体を通じて「葵」─フタバアオイの葉っぱを延一万本も飾ったり掲げたりすることによる。これを「挿頭」(かざし)という。
写真⑥がフタバアオイの葉っぱである。
今までは、この葵は神社の境内に自生しているものから摘み取って使ってきたが、枯渇してきたので神社奉賛会などの努力で、苗を各地で栽培してもらって提供していただいているという。
牛車の脇に垂らされるのが「葵」の花なのか「藤」の花なのか。フタバアオイの花は写真に写るようなものとは全然別のものであるからフタバアオイの花である筈がないのである。
だから今の季節の華やかな花である「藤」の花が垂らされているようである。
フタバアオイの花の咲くのは一ヶ月も後であり、そのフタバアオイの花の写真⑦もつづいてお目にかける。
断定はいたしかねるが、私の文章では、だから「藤」の花としておいた。ご了承願いたい。
なお掲出した写真は、いずれも過年度のものである。


藤目俊郎撮影「富士山・田貫湖~本栖湖と野の花」・・・・木村草弥
田貫湖の富士2
 ↑ 田貫湖の富士
本栖湖畔のハルリンドウ
 ↑ 本栖湖畔のハルリンドウ
路傍のニリンソウ
 ↑ 路傍のニリンソウ

──藤目俊郎画像集──(3 )

      藤目俊郎撮影「富士山・田貫湖~本栖湖と野の花」・・・・・・・・・・木村草弥


藤目俊郎氏から画像が送られてきた。 ご紹介する。 以下は藤目氏のメール文 ↓

<富士山麓一周ウォーク第二回田貫湖~本栖湖に行ってきました。
雨は免れて二日とも晴れでしたが、初日山頂見えず二日目春霞でコントラストなしというわけで富士山は散々でした。>




昨夜の雨二上山を洗ひ練供養・・・・石垣青葙子
taima-oneri1練供養

    昨夜の雨二上山を洗ひ練供養・・・・・・・・・・・・・・石垣青葙子

奈良県の二上山麓の当麻寺(たいまでら)では5月14日16時から「中将姫」ゆかりの「練供養」行列が催行される。
この日は、この寺に当麻曼荼羅をもたらした中将姫の忌日にあたる。

中将姫(写真②の坐像)とは、どういう人なのだろうか。
187中将姫坐像

当麻寺境内の「中将姫」説明板によると、姫は奈良時代の右大臣・藤原豊成の娘で、幼くして母を失い、継母に育てられが嫌われ、ひばり山に捨てられた。
その後父に再会し都に戻ったが、姫の意向を無視して当麻寺に入れられたが、称賛浄土経一千巻の写経をなしとげ、17歳で中将法如として仏門に入り、
曼荼羅を織ることを決意した。
百駄の蓮茎を集めて蓮糸を繰り、これを井戸にひたすと糸は5色に染まった。そして、その蓮糸を、一夜にして一丈五尺もの蓮糸曼荼羅を織り上げた。
姫が29歳の春、雲間から一条の光明とともに、阿弥陀如来をはじめとする25菩薩が来迎され、姫は現身のまま成仏して西方極楽浄土へ向かわれたと伝える。

03当麻曼荼羅

写真③は曼荼羅堂の曼荼羅だが、公開されているのは1502年に作られたレプリカで、原本は国宝で痛みがひどく非公開。

練供養の25菩薩は当番の人が面をかむり、娑婆堂から曼荼羅堂まで高い引摂橋が組まれ、観音、勢至が中将姫の像を守り、25菩薩を先導する。
これは弥陀来迎のさまを表現したもので、恵心僧都がはじめたという。中将姫の曼荼羅の奇跡に弥陀来迎の信仰を、目で見る信仰とした昔の芝居けたっぷりの行事と言える。

関西では有名な行事だが、俳句に詠まれるものは多くはない。それを引いて終わる。

 練供養二つの塔を望み来し・・・・・・・・青木月斗

 一役のかなひし父や練供養・・・・・・・・松岡汀月

 葉ばかりとなりし牡丹や練供養・・・・・・・森田木亭

 雨雲の塔に振り来し練供養・・・・・・・・徳岡洋子

 練供養待ちくたぶれし久米の子ら・・・・・・・民井とほる

 附き人が菩薩を煽ぐ練供養・・・・・・・・右城暮石

 日は西に二十五菩薩練りにけり・・・・・・・・山口峰玉

 脚長き菩薩増えたる練供養・・・・・・・・高松早基子

 もの言うて菩薩親しも練供養・・・・・・・・今井妙子

 菩薩みな頭でつかち練供養・・・・・・・・成瀬桜桃子



母ありといふなしといふ母の日に・・・・小坂順子
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     母ありといふなしといふ母の日に・・・・・・・・・・・・・・小坂順子

今日5月14日は第二日曜日で「母の日」である。
母に感謝を捧げる日とされ、カーネーションの花を贈ったり、胸につけたりする。
花言葉は「婦人の愛」ということになっている。母のない人は白を、母のある人は赤をつける。
この日が選ばれた起源はアメリカのウェブスター在住のアンナ・ジャーヴィスが
1908年、この日に白いカーネーションを教会の友人たちに分けたことに由来する。
1914年5月9日、ウイルソン大統領により「母の日」として制定された。
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この花は2000年以上も前の古代ギリシアから鑑賞がはじまった。
「冠飾の花」coronation flower が変化してカーネーションになったとか、原種の花の色(濃いピンク)からラテン語のincarnation(肉色) が語源との説もある。
学名は Dianthus caryophyllus というが、これはギリシア語の dios(神、ゼウス)+anthus(花)が語源。
花言葉は先に書いたものの他に「あらゆる試練に耐えた誠実」「純粋な愛情」「貞節」など。
この花を「国花」にしているのは、スペイン、モナコ、ホンジュラスなど。

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カーネーションを詠んだ句を引いて終わりたい。

 母の日や大きな星がやや下位に・・・・・・・・中村草田男

 母の日の花を身につけ駅に入る・・・・・・・・横山白虹

 母の日やそのありし日の裁ち鋏・・・・・・・・菅裸馬

 母の日や忙を楽しむ母にして・・・・・・・・徳永山冬子

 母の日のひばりのあがる麦畑・・・・・・・・轡田進

 母の日の母包紙大切に・・・・・・・・安良岡昭一

 母の日が母の日傘の中にある・・・・・・・・有馬朗人

 母の日のてのひらの味塩むすび・・・・・・・・鷹羽狩行

 母の日の母の記憶やめくら縞・・・・・・・・矢ケ崎雅雲

 母の日や童女のごとき母連れて・・・・・・・・恩田秀子

 母の日や病み臥すこともなく八十路・・・・・・・・高村寿山

 宅急便来て母の日に誰も来ず・・・・・・・・畑中律子

 母の日や母恋ふことに終りなし・・・・・・・・山崎泰世



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夏草や兵共がゆめの跡・・・・松尾芭蕉
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       夏草や兵共(つはものども)がゆめの跡・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

夏草の一句を挙げよ、と言われれば、余程のことがないかぎり、芭蕉の上の一句をあげる人が多いだろう。

元禄2年5月13日、芭蕉の『おくのほそ道』の旅は、この日平泉に到達する
今日の日に拘ってBLOGをアップする所以である。
もっとも、この日付は旧暦であるから、新暦では六月中旬であり、年によって前後するので、敢えて旧暦の日付のままに載せた。

平泉で繰り広げられた奥州藤原氏三代の栄華もはかなく消えて、華美を尽した秀衡の館も田や野に変わっていた。
芭蕉は、衣川が、その下流で北上川に合流する、もと源義経の館だった高館(たかだち)にのぼる。
辺りは夏草が生い茂り、その昔、ここで討ち死にした義経主従の奮戦も一場の夢と化していた。
芭蕉は「国敗れて山河あり、城春にして草青みたり」という杜甫の詩『春望』を思い出し、栄枯盛衰に涙して、この句を作ったと『おくのほそ道』は記述する。

以下、少し、かの地に触れて書いてみる。
岩手県西磐井郡平泉町だが、平泉駅から西へ500メートルの毛越寺(もうつうじ)の山門をくぐると、
境内の右手の植え込みの中に「夏草や兵どもが夢の跡」の新旧2基の句碑がある。
はじめに掲出した画像は、その左側の句碑である。
この句碑は明和6年(1769年)、碓花坊也寥が建立。
彫られている筆跡は芭蕉の字から起こしたもので、芭蕉の真筆といわれる。
碓花坊也寥とは、宮城県柴田郡柴田町の大高寺第十四世環中道一和尚のこと。
ここに画像は載せないが、右側の石碑は、それから後、文化3年(1806年)、慈眼庵素鳥建立のもので芭蕉の筆跡ではないという。

医王山毛越寺は本尊が薬師如来、平安時代末期の東北に覇を唱えた藤原氏二代目・基衡の建立で、
盛時には堂塔40、僧坊500を数える大伽藍だったと言われ『吾妻鏡』が「わが朝無双」と讃えたほどであったらしい。

義経の館跡という高館にのぼると、小高い丘の上には、正面に義経堂があり、中には義経像が祀られる。
また東側は断崖で、芭蕉の「高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也」という『おくのほそ道』の一文のように、くろぐろと流れ、
彼方には束稲山(たばしねやま)が裾を引いている。
二度平泉を訪れた西行は、

  聞きもせず束稲山の桜花吉野のほかにかかるべしやは(山家集)

の歌を残しているが、当時この山は京都東山を模して1万本の桜が植えられ、花の名所だった。
芭蕉が平泉に足跡を印したのは、西行が建久元年(1190年)河内の弘川寺で亡くなって丁度500年後の元禄2年(1689年)のことで、
芭蕉の『おくのほそ道』紀行の目的には、その生涯を通じて畏敬した西行への500回忌追善や、
この高館で悲運の最期を遂げた義経への追悼が含まれていたという。


そのことを裏付けるように、

「さても義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ」

という記述に芭蕉の感動がうかがえる。さらに文末に据えられた「夏草や」の句は絶唱である。

高館を下り、北進して中尊寺の山内に入る。
初代・清衡が関山中尊寺の建立に着手したのは長治2年(1105年)、その規模は堂塔40余宇、禅坊300余宇と『吾妻鏡』は誌している。
21年の歳月を費やし、竣工から2年後、清衡は権勢の永続を念じながら73歳で没した。

konnziki2金色堂覆堂
↑金色堂覆堂   ↓金色堂
dab912046829718bf54019a977e38eef_2金色堂

芭蕉が、

  五月雨の降のこしてや光堂

 と詠んだ金色堂は、本坊から200メートルほど奥になる。
覆堂(さやどう)に納められた内陣の須弥壇は三段あり、それぞれに金色の阿弥陀如来を本尊として、観音・勢至菩薩が脇に従い、
さらに三体づつ、これも金色の六地蔵、壇の前には持国天・増長天が仏界を守護するように、破邪の形相で立っている。
そして中央の壇には初代・清衡、左が二代・基衡、右が三代・秀衡の遺体と四代・泰衡の首級が安置され、
昭和25年の学術調査では、三代ともミイラ化していたことが判明し、内外に大きな感動を与えたという。
泰衡だけが首級だったのは頼朝の奥州征伐のためであるが、藤原氏が滅んだ文治5年(1189年)奥州の旅から戻った西行は、河内の弘川寺に草庵を結んでいた。
弟の義経を庇護したことが仇になり、頼朝に滅ぼされた藤原氏の悲運を、源氏嫌いの西行が、どんな想いで聞いたであろうか。
西行が平泉を訪れた頃は、まだ覆堂はなく、自然の中にじかに建つ金色堂を目のあたりにした筈なのに、彼は一字一句もその印象を残していない。

500年後、金色堂を訪れた芭蕉の「光堂」の句には、覆堂を取り払ってみたいもどかしさが感じられる。
同時代人として悲劇を直視せざるを得なかった西行と、追善の涙に身をゆだねた芭蕉との違いであろうか。

5/09付けで、那須の原で、芭蕉が西行ゆかりの「遊行柳」の傍の田で詠んだ句を載せたが、そこにも書いたように四月中、下旬のことであり、
支援者の家に世話になったりして北上して、芭蕉一行は、この日に平泉に着いたのだった。
その間、ほぼ二旬の日時が経過したことになる。
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中尊寺については、中尊寺執事長を勤められた、中尊寺仏教文化研究所所長の佐々木邦世『中尊寺千二百年の真実』(祥伝社黄金文庫)、
『平泉の文化遺産を語る』(大正大学出版会)の本に詳しい。


高島屋史料館『与謝野晶子と百選会─作品と資料』・・・・・・木村草弥
高島屋

──新・読書ノート──(再掲載・初出2015/05/10)

     高島屋史料館『与謝野晶子と百選会─作品と資料』・・・・・・・・・・木村草弥
                     ・・・・・・・・高島屋史料館2015年4月刊・・・・・・・・・

戦前「百選会」は「上品会」を生み、戦後は「ヌーベルモード」「シャンブル・シャルマント展」など、洋装や家具、インテリア分野の高島屋オリジナル催事の基になった。
海外ブランドのカルダンなど他店に先駆けて取り入れている。
このような、高島屋における進取の気性やチャレンジ精神は、生活に美や潤いをもたらそうとする呉服店時代から培われていたが、
大正デモクラシーやモダニズムの進展を背景に、百貨店草創期の「百選会」によって育まれた伝統である。
百選会の趣意・テーマづくりや染織業界との協調などの新しいシステムは、高島屋独自の企業文化を生んだ。
百選会はまさに高島屋の「ものづくり」の原点と言えよう。
与謝野晶子招聘(1917年)の役割を果たした宣伝部員・川勝堅一は、のちに取締役就任(1936年)に際し晶子から
   <人に過ぎ抱く心の深ければ世を幸ひす行はんこと>
をはじめ、祝いの歌15首を贈られている。
百選会が一企業の流行催しという枠を超えて美学者、美術家、文学者、詩人・歌人、著名文化人らを集め、文化サロンのような広がりを見せて文化事業と評価されたのには、
与謝野晶子と川勝堅一のベスト・コンビによる二十年余の活動が大きく働いている。
百選会を舞台にした彼女の「きもの賛歌」は、その象徴にほかならない。しかもそれは、ものづくりに精進した人たちへの応援歌であり、人間賛歌でもある。
百選会で、晶子が最後に詠った
  <今ののち世を美しく包むべき朝霧いろと思はるるかな>(1940年)の歌から七五年が経過した。そして彼女の詩歌の全容が初めてまとめられた。

この本には、解説として
「前衛的な百選会と与謝野晶子の貢献・・・・・・・木村重信(大阪大学・京都市立芸術大学名誉教授)」
という13ページに及ぶ文章が載せられているが、この本は同氏から贈られたものである。

この百選会に出品された呉服に寄せて、晶子が詠んだ歌、あるいは晶子の発想によって呉服が製作された、など、百選会と晶子の歌とは、切り離せない関係にある。
詠まれた歌も、みな優れた、芸術性高いもので、与謝野晶子作品集にも未採録と思われるので、関係者によって全集に加えられるよう要望したい。

ここで、百選会に晶子が寄せた歌のいくつかを引いておきたい。

  わたつみのうしほの色を上に着て風流男(みやびを)達へものいひてまし

この歌は百選会に初めて賛歌を所望されたときの冒頭の歌。1921年大正10年、第17回春の回に寄せたものである。

  銀糸もて倭模様を衣におく楊家の女さへしらぬことかな

「楊」とは玄宗皇帝に寵愛された楊貴妃のことである。

  あなめでた秋のものとて少女子(をとめご)もマロンの色を許されにけん

  いにしへの清女も書きぬわれも言ふ春は曙むらさきの佳し


「清女」とは、枕草子の清少納言のことである。

  鹿の子刺繍(ぬひ)しぼり摺箔古代をばひとり忘れぬ高島屋かな

  うぐひすは霧の金紗の手ざはりに胸の迫ると暁に鳴く

  高円の蔦も立田のもみぢ葉もまたたをやめに添ふ日となりぬ

  いつまでも流行の衣が心ひくおのれを保ち行くよしもがな

  新しくルイ王朝のロココをばとりなす色の臙脂と鬱金

  友染も籠も紫雲英(げんげ)と蒲公英(たんぽぽ)を盛りぞ集むる少女子のため


  金糸をば間道とするすさびなど心憎かる機少女かな

  追ひ風の源氏の君の身に沁みし桂の色を衣に着なまし

  この店に購ひがたきものも無し一世紀をば守りこし故


この歌は1932年春のもので、高島屋の創業百年に祝意を表したものである。

  羽の色を人に許してうたふなり鳥の中なるかなりやの貴女

  海越えて来し南国の木の実をば銀の地に織るくれなゐの糸


百選会に寄せた晶子の歌は総数470 に達するという。 ここに引いたのは、ほんのささやかなものに過ぎないが、ご了承を得たい。 
なお、ここに書いた文章は、本誌に載る表田治郎「あとがき」と「きもの賛歌」の記述と、晶子の短歌の引用に多くを頼ったことを明記し、ご了承と、お許しを願いたい。
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この記事を「再掲載」したのには理由がある。
私の兄・木村重信が今年の一月末に亡くなり、表田治郎氏から電話をいただいた。
此処に載せた冊子の出版にあたって表田治郎氏は何度も重信宅を訪問されたらしい。
兄が死んで、何度か連絡を取ろうとされたが繫がらないので私のところに電話して来られたようだ。
しばらく時期を置くように申し上げたが、死の前後というのは仕方のないものである。
そんな経緯があったので、時期的にも二年目となるので敢えて「再掲載」させてもらった。





 


清水あすか詩集『二本足捧げる。』・・・・・木村草弥
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 ↑ 第三詩集『二本足捧げる。』

──新・読書ノート──(再掲載)初出2013/05/11

     清水あすか詩集『二本足捧げる。』・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・・南海タイムス社2012/05/30刊・・・・・・・・

清水あすかさんは、この詩集によって第三回「萩原朔太郎記念とをるもう賞」を受賞された。
第一詩集から、すでに優れた詩人として注目され、「ユリイカ」や「現代詩手帖」などに作品を発表されている。

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↑ 第一詩集『頭を残して放られる。』 南海タイムス社2007/06/16刊

第一詩集『頭を残して放られる。』に、こんな詩がある。先ず、それを引いておく。

    そのふくふくとしてやらかいもの。・・・・・・・・・・清水あすか

   子どもはふくふくとやらかいものをくばるので
   ママはわたしをとしょうりのところに連れて行く。

   子どもはてぇげぇはんけなので
   ぼけたみかんを大わらいして
   二つたべて、三つたべて、四つめを半分こしてたべられる。
   子どもはこたつの角にさす西日を
   きれいと思い、
   たいくつを転がして
   しかし笑いながら、
   指先でその影をなぞってあそぶことができる。

   子どもはしわしわの千円札の、
   価値がわからなくても、意味を見ることができる。

   今日会ったとしょうりが近いうちまるぶのは、
   とてもよくあるおはなしなので、わたしは名前をおぼえたりしない。
   ママはわたしを色んなとしょうりのところへ連れて行くので、
   初めて会うとしょうりに、ぼうくなって、と言われると
   その人が知ってるわらいがおになれる気がする。
   最後にわたしに会えてうれぇしかったろうあの人は、とママがゆうので
   わたしはママの、ありがとうねぇ、ということばだけおぼえて
   その人がまるぼことはわすれる。

   ふくふくとやらかいものを置いて帰る道で
   ママは、としょうりは子どもを見るとうれぇしけだら、とゆうので
   ふくふくとやらかいとはわたしのうれしけことと知る。

   ママは少し小さくなったので
   わたしは左右にゆれながらちぃと大またに歩いて
   だからふだんもまっすぐに歩かない。
  わたしはママのもってる千円札も
   きっとしわしわなんだろうとおもっている。

   しかしてぇげぇとしょうりは先にまるばぁんて
   時々おもう。ふりかえったら
   だれもいない。しかし
   だれもいないところから来て、
   だれもいないところにわたしは帰ってしまうから
   だれもいないのは始めからかと
   おもい出して、ママとふたり
   左右にゆれて、歩いて帰る。
   
   右手にさっき半分にわったみかんを持っている。
   西日のときの影は、長くてあたまはねぇこくて
   わたしは影の、あたまの先を
   手をのばしてなでてみる。


   そのふくふくとしてやらかいもの。

第一詩集『頭を残して放られる。』についての阿部嘉昭の評が見られる。いい批評である。アクセスされよ。
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清水あすか 略歴

1981年八丈島生まれ。文化学院創造表現科卒。
在学中から絵、詩、エッセイなどの創作に取り組み、個展「やわらかな世界」(05年7月)、二人展「満ちて行く。」(06年7月)を開く。
卒業制作として詩集を編み、それをベースに、17編の詩を収めた「頭を残して放られる。」(南海タイムス社刊)を自費出版した。
収録作品の多くは八丈島が土台になっている。「そのふくふくとしてやらかいもの。」はその中の1編。
「島は本土との間に海という絶対的な距離があり、誰かが亡くなるような大事な時でも、帰れないことがある。
 自分の力だけではどうにもならないことがあるのだと教えてくれたのが、島」だという。 
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 ↑ 第二詩集『毎日夜を産む。』 南海タイムス社2009/06/25刊

この詩集に載る詩を引いておく。

     ここから今にいらっしゃい。・・・・・・・・・清水あすか

   わたしは子どものほほに指をつけ
   一つを噛み、口うつし、またことばを噛み、言って聞かせる。
    「まるで今まで生まれた子のように、わたしはおまえがかわいらしい」

   水海山とはまるで海のがん、水の湧こ山と言おじゃ。
   耳元に言われたとき、くすぐった息が出て
   わたしはそこへ建つという、一般廃棄物管理型最終処分場を身ごもったのです。

   この体の毛穴にぶったつ木を伐採し
   口から腕を刺し、中を掻いて工事する。
   男衆が土を掘り道具を洗い、女衆が土を固め道具を研ぐ。わたしはそして
   十月十日を守り、ふくらびた腹からのうたに応える。
    「洋洋、周りはみんな、おまえを女の子だと知っていますよ」

   雨が透明にふくらむ水場、いもりの腹は手に付いてぬぐう程赤い太陽の沈む色。
   さびた背中は青寒く、ここで卵を産む。水が
   からだをまあるく指なぞり、金の目がほそい声で方方にうたう。
    「知っていたことでありましょうが、
     子どもがこがんいとおしく生まれました」

   プレハブのお堂で、となりととなりとも手を持ってじゅずでつなぎ、
   なむあみだぶつ。詠唱をする。なむあみだぶつ。終わったら
   としょうりは急いでゴザを寄らせて、子どもに駆けつけ
   又はこしらえたばかりのよだれかけを、早くしたかったと、地蔵の首にかける。
    「わかってあることではありましたが、 
     子どもが生まれるとはうれしけことでございます」

   としょうりが足で水をはね
   その音にいもりは固まって、右を見る、左見る。
   4tトラックがアスファルトの上、土を運ぶ、石を運ぶ、木を運ぶ
   和讃を運ぶ、昔も運ぶ、女を運ぶ、山びこを運ぶ、手拍子を運ぶ
   あの搬入道路こそ、わたしの産道でございます。

   旧水海山地区一般廃棄物管理型最終処分場
   それからわたしを産んで下さい。

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書評

「起きたことを、起きたままの重さに見る」

 末吉・清水あすかさん(26)(注・2008年時点での年齢)の詩「ここから今にいらっしゃい。」が、現代詩手帖6月号に掲載された。
同誌からの執筆依頼を受けて書き下ろした作品で、特集「新鋭詩集2008」の一編として紹介された。
 清水さんは第1詩集「頭を残して放られる。」が中原中也賞の最終選考に残るなど、注目を集めている。
今回は詩とともに、「今詩を書くということ」のテーマで、400字のエッセイも掲載された。
その中で清水さんは、「詩を書くのに必要なことの一つは、当事者であることだと思います。
自分の前の物事を、それによって発生する全ても含めて、そのものを引き受けること。評価するのでなく常に、真っ只中に立つこと、そして見ること。
考えのでかくなりすぎた頭から、一つの体そのものに帰ってきて、起きたことを、起きたままの重さに見ようとするとき、そこには本当の実感があり、それは私の詩のことばになります。道に一つ落ちた石からも、新聞を覆う事件からも、そこにある途方もない責任によって、私は詩を書いていきます。」と、自らの詩作へのスタンスを表明している。
(08年6月13日付 南海タイムス)
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清水さんについては詩誌「びーぐる」18号から連載詩「詩は種なす」と題して、第一回、第二回が発表されているので紹介する。

     紙に点滅する。・・・・・・・・・・・清水あすか

   声でなく
   まだか、と言った時間も追悼として染んだ紙は
   もう水気を失って固く波打つ。

   浮浪者が積み上げた荷車は
   自分の納まるところを知っているか。紙は重く
   彼は道を寄り、片寄り
   車輪がよじれた線になり、信号を
   赤にならないで渡りきれるか。

   めくるのはくりかえした昔ではなく、それを得た身体である。
   思われるを書き重ねられた皮フはずいぶんと
   乾きバリつく紙のよう。この手はこれからも
   どれ程の束を積み
   荷車を押す
   まだか、と言い、まだか、と言われるところ。
   目を赤らませてこらえる息を。 
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      息による地層。・・・・・・・・・・清水あすか

   わたしはひれ伏したまま手をのばし
   その上に土がかぶさり、石が吹いて
   アスファルトはなめされ
   葉は落ちて積もり、積もる。

   三千年たったわたしをわたしが掘り出して
   顔の泥をすり、まるで涙の線になる。
   「おぼえているよ」
   ああ、おまえが生まれた、初めてやさしくしようとしたときを思い出す。

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清水さんのタイトルなどは特異で、必ず「。」が打たれる。詩集の題名だけでなく、詩の題名にも、打たれる。
彼女については「びーぐる」17号に「対論・この詩集を読め」第三詩集『二本足 捧げる。』が細見和之、山田兼士によって採り上げられ、
7ページにわたって詳しく論証されている。長いので、ここには引ききれないので省略するが、期待されてきた人であった。
とても良い批評なので、ぜひ覗いてみてもらいたい。
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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ2012/08/13に「清水あすか個展」と題した記事がある。 引いてみる。  ↓ 
 
先週金曜日には廿楽順治さんと六本木でひらかれていた清水あすかさんの個展に行った。
画廊の白壁にクロッキー用の太い鉛筆でみずから書かれた清水さんの詩篇と、これまた清水さんみずからの手になる絵画がしずかなスパークを発している。

清水さんの絵画は清水さんの詩集の自装からイメージできるかもしれない。全体は暗い色調。クレヨンで色彩分布的な重ね塗りをおこなったあとで、細針で細密模様の「傷」をつけてゆき、原初エネルギー的かつ装飾的な抽象画が迫力をともなってうかびあがっている。清水さんの島の詩篇とおなじく、それは第一観的には森の様相に近づいているが、同時に海底光景にも、着物の布地(八丈島は名前のとおり「八丈」の産地だ)にもみえ、描かれたものが何かは決定できない。その意味で絵画の立ち位置が詩篇と通底している。

問題は「削ること」だろう。詩を「書く」ではなく、「紙面に削りを入れて傷つけること」だとする詩作者の系譜がある。ツェランがそうで、現在なら杉本真維子がそうだ。書くことは手首をひねることではなく、筆圧を絶望的にぶつけること。清水さんの字は角張って稲妻のように荒れて強いが、その筆圧が白壁に書かれた詩篇の書体に、同時に、重ね塗りしたクレヨンを削った針の痕跡に共有されている。つまりその画廊に入ることは、筆圧の森に侵入して、侵入したからだを刺されることだった。

画廊に清水さんご本人がいらして、いろいろと話をする。なぜ「清水あすか論」が書きにくいか。八丈島方言と古語と異言の問題はクリアできるとして、地縁を基盤としたサーガ形成的、土地交歓的な詩篇では、地縁成員における自他の弁別がなくなる。結果、たとえば子供のいる主体が描かれた詩で、その主体が清水さん自身なのか、他の地縁者なのか、判断ができなくなる(カマをかけてみたが、清水さん自身、既婚・子持ちかの想像はご自由に、というスタンスだった)。

もうひとつ、清水さんの詩行は「。」「、」を繰り込み、長くなるときに独特のうねり、リズムが生ずる(それが文法破壊と相まって、異言性となる)。都市的でない、強靭なリズム。その詩法を文法的に要約すれば「冗語法」となるのだろうが、となると彼女の推敲も、通常のように圧縮ではなく、増殖に向けられた推敲なのではないだろうか。そう言うと、自分は増殖と圧縮を交互させるような推敲をするタイプだとおもう、と語っていらした。

いずれにせよ、「土地の力」を身に装填し、高い筆圧で削りの詩を書く清水さんは、「土地」の域的微差に繊細で、そのかぎりで彼女の詩業は、松岡政則さんと並行しているように見える。しかも最新詩集『二本足捧げる。』では形容詞の名詞化、という松岡的文法が駆使されだした。それで松岡さんからの影響を問うと、清水さんは「読んだことがないんです」という意外な返答をなさった。そうか、それでも「土地」に立脚することで、「書く」がおなじ場所にながれこんでくるのだと、なにか納得した気になった。ところがこの「納得」が、たぶん「清水あすか論」を書きにくくさせているものの正体なのだ。
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 ↑ 清水あすかの絵(『二本足捧げる。』のカバー絵)
清水さんの絵が、どんな絵かは他にもmoleskinerieというサイトに少し載っているので覗いてみられよ。

さて、いよいよ本題の第三詩集『二本足捧げる。』である。
この本の巻頭に載る、標題詩を引いてみる。

    二本足捧げる。・・・・・・・・・・清水あすか

  人間が、もうとっくに人間のかたちをとっておけない。
  約束の仕組みをとっておけない。
  最初は火で燃やせばあとも残らない簡単な骨組みであったのに
  今では村ごとダムに沈めるも時代遅れで
  声が死ぬのを待って
  土地からも蒸発してしまうのを、待って。でも本当は
  カレンダー裏食い込むだぶついた短歌や
  廃校になる小学校の壁を叩きつけた何文字か
  その、手で退ければすぐ
  書類と書類の間に挟まる声こそが
  水にも染む
  何百年、何百年でも風景に飲まれ脈になるを
  一番古いおびえとして覚えてて背骨震わす。

  時間のかかるよう複雑な手続きは組み上げたくせに
  身体はもう何万年と進化をしないでいて
  言わないけれど、まだ暗闇がこわい。
  通りすがりそっと渡される呪いがこわい。
  水にひたった風景が覚えている風景がこわい。
  こんなにたくさん見たことない青白い光を我れ先に覗き込んでも
  なにが映ってる。
  約束を交わす、さもなくばと
  ふりあげる土器の重さ
  いくら燃やしても骨が弾けるにおいは消えなくて
  それでも頭わ上に乗せて生きていかなければいけない
  そのすべての始まりの仕組みがこわい。
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     我が無く、ふるえ。・・・・・・・・・清水あすか

  おまえの「と、思った」は
  農協の跡地にあるよ。
  今資材置き場になつてるとこだよ。

  そこに、この世でない、があるよ。
  木材下、西日から伸びるどくだみの花の白さ
  ぶっちゃられた、足が短い引き出しの見とれる木目
  そんな余白におまえ
  立っていたを、知っているよ。
  アスファルトの突起でできた影や
  としょうりがくわえて歩いてった煙っ端に
  おそろしい、になる前のおそろしいや
  うつくしい、になる前のうつくしいがある。

  ね、そこらへんの石一つを
  おまえの墓石にしたって、いいんだよ。
  だいじょうぶ。

  あぁたしかに、さびしい、はあるねぇ!
  あのふくらみにふくらんだ、
  空き缶いっぱいのビニル袋を二つもしばりつけてゆらつく自転車。
  あそこに入っているのは、さびしい、になる前のさびしいだ。
  花の白さにも、木目にも
  影にも煙のきわにもあったものだ。そして
  そこへ立っていたおまえにも。
  資材置き場を見つけたね。余白を
  そこらへんの石一つに
  託したって、
  いいよ。

この詩集は大項目として、第一章 二本足捧げる。 第二章 我が無く、ふるえ。 の二つから成っている。
その題名になっている詩を引いた。
先ず言っておくが、題名になっている「二本足捧げる」というフレーズが何を意味するのか、まだ私には判らない、と謝っておく。
彼女の詩は、意味を辿っては、いけない。
詩の一連に意味の繋がりは、ない。 フレーズはオブジェのように、ぽつんと置かれていると思ったら、いい。

前の詩に「だぶついた短歌」というフレーズがあるが、彼女の詩は、そういう、ずらずらした抒情を拒否する。
しかし、それでも彼女の発想が全くの空想から発していると思うのは間違いである。
「農協の資材置き場」とか「空き缶いっぱいのビニル袋を二つもしばりつけてゆらつく自転車」とかは、彼女の見た実景だろう。
それは恐らく浮浪者か、定職のない生活困窮者の「空き缶」「ゴミ集め」の行動を子細に見つめた上での「さびしい」だろう。
引用しないが、他の作品に「石の言う。」というのがあり、そこにも同じような情景がある。
彼女の視線は、彼らに対しても軽蔑ではなく、暖かい。そこが救いである。

かつて「八丈島」は流人の地だった。「配流」の地だった。そこには流人たちの深い深い「怨念」が籠っているだろう。一つだけ引いてみよう。

     問いも食らう。・・・・・・・・清水あすか

  ここにある木との距離は
  わたしと島の距離
  わたしとわたしの死との距離。等しく
  いつも等しく離れている。手を取る。抱きとめる距離。
  伐採する木は、私の死の基礎となる工事で積む。何の
  痛みにもならない、臓器への痣。
  木に通る雨水を
  体では血といって
  山では水脈という。ならばわたしは、疑わず満ち満ちる。
  積んでいく一日の死、それを作る血のために必要な血管。木の幹、
  山鳴りという
  うなり。髪一本一本の葉脈、行き渡る
  行き渡る水路。体わ伏せて、背中に水を注ぎ貯めるべく反らし、
  背骨という稜線。枝で枝でくりかえす
  木の肌に書く
  昔語り。声とは
  雨にふる。
  島は水に貯めたおびただしい死を
  集めてすぼませ、ちぎり生んだわたしの
  死をまた口に含んで育つ。

  呼ぶ時には
  呼ばれて振り向き・・・・・・・・・(後略)

ここには明らかに、この島の抱える「歴史」が綴られているのは自明である。だが、先に述べたように、その視線は暖かい。
ここには八丈島の抱える土俗性に根ざす「土臭さ」と、方言を多用するレトリックの有効さ、がある。
彼女の詩は、都会の垢抜けた表現では成功しない。
八丈島在住という特性を生かした、彼女独特の詩作方法を身に付けられたと言えるだろう。

萩原朔太郎も独特の表現と語法で燦然と光っている。
そんな「萩原朔太郎記念・とをるもう賞」という栄誉を得られたのを、祝福したい。
なお贈呈式は、7月6日(土)午後2時から八尾市プリズムホールで行われる。  

「チルチンびと広場」というサイトに彼女の紹介と絵画展などの予定が出ている。参照されたい。

ネット上では同名の女格闘家が有名らしく、たくさん出てきて紛らわしいが仕方がないので、取捨されたい。
なお、清水あすかホームページがあるが殆ど更新されていない。
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その「萩原朔太郎記念・とをるもう賞」だが、2015年度からは催行されないことになったらしい。
もともと、この賞は、萩原朔太郎の出身地が八尾であることを記念して、八尾市教育委員長などを歴任した三井葉子さんの「政治力」で実現したものだが、
三井さんが亡くなると、とたんに廃止されることになった。現在の地方都市の「文化」度なんていうものは、この程度のものである。
「子供の詩」を募集するのを残すだけで、お茶を濁すこととなったらしい。
特に、ここに記しておく次第である。





  
真向ひて恵那山は観るべしつつじ原・・・・松本たかし
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   真向ひて恵那山は観るべしつつじ原・・・・・・・・・・・・・松本たかし

躑躅(つつじ)は桜のシーズンが終ったあとで一斉に訪れる。
ツツジは、このように難しい字を書くが、それは、中国で毒性のあるツツジを羊が食べて、足踏みしてもがき、うずくまってしまったというので、
この字を宛てたという。発音としては「テキチョク」と読む。

ツツジと総称されるが数十種類あると言われている。一般に植えられているツツジの他に、山つつじなどがある。
数年前に奈良県の葛城山のツツジを見に行ったことがあるが五月の連休の前後だったが、すごい人出で頂上に昇るケーブルカーの順番待ちで二時間も待った。
仕方ないので下で昼食を済ませた。
ここのツツジは山頂から少し下がった斜面に数万株がピンク色に密集して咲いている。

写真②のような白いツツジも趣のあるものだ。
tutuji6つつじ③

ツツジの花には蜜があるが、この山には猿が生息しており、花の時期には、この花を摘まんで食べるという。
私も子供の頃、ツツジの花の蜜を吸ったことがあるがおいしいものである。
九州にゆくと雲仙のツツジも有名であり、長野県の須坂市の奥にある五味池破風高原は100万株を超えるツツジで名高いらしい。
226226つつじ④

満天星(どうだん)つつじというのがあるが、普通のツツジとは別のものであり、花には白、ピンクがあるが、馬酔木の花のような形をしている。
秋になると葉が紅葉して美しい。
写真④が、それ。
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ツツジというと、京都市水道局の蹴上浄水場にはたくさんのツツジが植えられており、
この花のシーズンだけ一般に開放されて市民が見物に押しかけるので有名である。
桜では大阪造幣局の桜の通り抜けが有名だが、浄水場は背の高い木は落葉などの関係で植えられないので、
背の低いツツジが斜面の芝生に植えられているのだ。

rengetutuji2レンゲツツジ

写真⑤には、毒性があるというレンゲツツジをお見せする。山つつじの一種であろうか。

「ツツジ」は、古来さまざまの形で句に詠まれてきた。それを引いて終る。

 盛りなる花曼陀羅の躑躅かな・・・・・・・・高浜虚子

 山の娘のすこやかにゆく躑躅かな・・・・・・・・日野草城

 死ぬものは死にゆく躑躅燃えてをり・・・・・・・・臼田亞浪

 吾子の瞳に緋躑躅宿るむらさきに・・・・・・・・中村草田男

 花終へしつつじ野けふの虹立たす・・・・・・・・大野林火

 夕つつじ美しくしてひとり病む・・・・・・・・加藤霞村

 日の昏れてこの家の躑躅いやあな色・・・・・・・・三橋鷹女

 白つつじこころのいたむことばかり・・・・・・・・安住敦

 山つつじ照る只中に田を墾く・・・・・・・・飯田龍太

 躑躅より地に着いて蜘蛛走り出す・・・・・・・・川崎展宏

 人に会はん気遅れ少し躑躅かな・・・・・・・・榑沼清子

 つつじ山暗きところにけものの眼・・・・・・・・田村一翠

 仏性の火炎となりし白つつじ・・・・・・・・椎橋清翠



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