K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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たちまちにあられ過ぎゆく風邪ごもり・・・・・桂信子
16328790霰

    たちまちにあられ過ぎゆく風邪ごもり・・・・・・・・・・・・・・桂信子

「霰」あられには「雪あられ」と「氷あられ」の二つがあるという。一般には「雪あられ」のことを霰という。
「氷あられ」は雹の小型のもので、雪あられを芯にして、付着した水滴が凍りついたもので、積乱雲から降るので、夏なんかに農作物に穴をあけたりして大被害を与えたりする。
桂信子の句は「あられ」の吹き過ぎる寒々とした景色ながら、佳女が風邪で伏して籠っているという何となく色っぽい光景を連想させる。

霰を詠んだものとしては源実朝の『金槐集』の歌

   武士(もののふ)の矢なみつくろふ籠手(こて)の上に霰たばしる那須の篠原

というのが、よく知られていて、ここでは「霰」が勇壮さを演出する小道具になっている。「玉霰」という表現もあるが、これは美称である。

 いかめしき音や霰の桧木笠・・・・・・・・芭蕉

 霰聞くやこの身はもとの古柏・・・・・・・・芭蕉

 石山の石にたばしる霰かな・・・・・・・・芭蕉

 いざ子ども走り歩かん玉霰・・・・・・・・芭蕉

 傘さして女のはしる霰かな・・・・・・・・炭太祇

 玉霰漂母が鍋をみだれうつ・・・・・・・・蕪村

 玉あられ鍛冶が飛火にまじりけり・・・・・・・・暁台

 匂ひなき冬木が原の夕あられ・・・・・・・・白雄

 呼びかへす鮒売見えぬ霰かな・・・・・・・・凡兆

などの古句は、霰のいろいろの姿態を巧みに捉えている。
以下、明治以後の句を引いて終わる。

 雲といふ雲奔りくるあられかな・・・・・・・・久保田万太郎

 藁屑のほのぼのとして夕霰・・・・・・・・原石鼎

 降り止んでひつそり並ぶ霰かな・・・・・・・・川端茅舎

 灯火の色変りけり霰打つ・・・・・・・・内田百閒

 玉霰雪ゆるやかに二三片・・・・・・・・中村汀女

 人等来るうつくしき霰もちて来る・・・・・・・・山口青邨

 この度は音のしてふる霰かな・・・・・・・高野素十

 畦立ちの仏に霰たまりける・・・・・・・・水原秋桜子

 霰やみし静けさに月さいてをり・・・・・・・・内藤吐天

 霰打つ暗き海より獲れし蟹・・・・・・・・松本たかし

 鉄鉢の中へも霰・・・・・・・・・・・・・・種田山頭火

 玉霰人の恋聞く聞き流す・・・・・・・・清水基吉



大原女の足投出してゐろりかな・・・・黒柳召波
800px-Japanese_Traditional_Hearth_L4817囲炉裏

      大原女(おはらめ)の足投出してゐろりかな・・・・・・・・・・・・・・・・・黒柳召波

床の一部を大きな炉にして、薪や榾(ほた)を燃やして、暖をとるとともに、煮たきもする。
「居る」の延音が囲炉裏だと言い、囲炉裏は当て字ながら、団欒の雰囲気をよく表している。
主人の座のほかに横座、嬶(かか)座、向座、木尻と、座るところが決まっているという。
一年中の団欒の場だが、厨や居間に解体してゆくのが現状だという。

この句の作者である黒柳召波は、与謝蕪村の高弟で、本来は漢詩人で、俳句は余技というが、色彩感覚に秀でた句を作ったという。
明和8年(1771)12月7日に45歳で没したという。それ以外には、私にはわからない。
「朝日日本歴史人物事典」には、下記のように載っている。 ↓

生年: 享保12 (1727)
没年: 明和8.12.7 (1772.1.11)
江戸中期の俳人。名は清兵衛。別号,春泥,春泥舎。京都中立売猪熊に店を構えた町衆の子孫。壮年期に服部南郭に学び,竜草廬の幽蘭社に属したりし,漢詩人として活躍。俳諧は与謝蕪村に師事し,蕪村が炭太祇と提携して三菓社句会を催した折には,最も熱心な門人として参加。明和5(1768)年以降は讃岐から蕪村が帰京し,召波亭で何回となく句会が催された。蕪村門の俊秀で,その他界を蕪村が「我俳諧西せり」と嘆じたことは有名。句集に,維駒編『春泥句集』(1777)がある。<参考文献>潁原退蔵『蕪村と門人』(『潁原退蔵著作集』13巻)
(楠元六男)

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「大原女」(おはらめ)というのは、京都の洛北の大原の土地の女で、京の市内へ花、薪などを売りに来るので、よく知られている。
字の通りに読むと「おおはらめ」となるが、京都では、このように約(つづ)めて発音する。
この写真は「大原女まつり」というのが近年催されていて、そのときのものである。
この行事は行列に参加する人を一般から募集して行われ外人たちも喜んで参加するという。
「白川女」(しらかわめ)というのもあり、白川女は野菜などの食べ物を主として売りに来るので、扱う品物に違いがある。
「白川女」は今でも京都市内には見られる。
だが「大原女」というのは「薪」「柴」などを扱っていたので、今の時代には廃れてしまって、一般的には見かけない。

「榾」という字は「ほた」または「ほだ」と訓む。
囲炉裏にくべる燃料で、木の枝や木の根などで、特に木の根をよく乾燥させたものは火力が強く火持ちがよいので、榾の中心的なものになる。
根の部分を特に根榾と呼ぶ。「かくい」という言葉があるが、それは「切株」を指すものである。

      おとろへや榾折りかねる膝頭・・・・・・・・小林一茶

という句があるが、木の根が中心であることを、よく表している。
「囲炉裏」または「榾」を詠んだ句を引いて終わる。

 火の色の夕間暮来る囲炉裏かな・・・・・・・・小杉余子

 松笠の真赤にもゆる囲炉裏かな・・・・・・・・村上鬼城

 とどまらぬ齢のなかの炉のあかり・・・・・・・・木附沢麦青

 囲炉裏の農夫一度だまれば黙深し・・・・・・・・福田紀伊

 いろいろのものに躓き炉火明り・・・・・・・・高野素十

 主の声炉辺へ出てくる戸の重さ・・・・・・・・中村草田男

 叱られてゐる猫ゆゑに炉辺をかし・・・・・・・・中村汀女

 炉火いよよ美しければ言もなし・・・・・・・・松本たかし

 榾尻に細き焔のすいと出で・・・・・・・・・高野素十

 大榾をかへせば裏は一面火・・・・・・・・高野素十

 そのなかに芽の吹く榾のまじりけり・・・・・・・・室生犀星

 黙々と榾火明りに物食ふ顔・・・・・・・・加藤楸邨

 大榾のおのが覆りて燃えつづく・・・・・・・・皆吉爽雨

 大榾の骨ものこさず焚かれけり・・・・・・・・斎藤空華

 炉の榾のやせ脛ほどになりて燃ゆ・・・・・・・・下村梅子

 榾足すや馬屋に馬の顔うるみ・・・・・・・・村上しゆら

 榾明り触れては消ゆる梁高き・・・・・・・・水原秋桜子

 榾の火にとろりと酔ひし眼かな・・・・・・・・日野草城

 時化海女の榾の香染みし腰ぶとん・・・・・・・長谷川せつ子

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大原というと「猫のしっぽ カエルの手」 ← というベニシア・スタンリー・スミスさんの「京都大原 ベニシアの手づくり暮らし」というNHK─BS3の番組があった。
私の好きな、いつも見る番組であった。



霙るるや鶴と大地を共にして・・・・・藤田直子
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──冬三態──

    ■霙るるや鶴と大地を共にして・・・・・・・・・・・・・・・・藤田直子

「霙」ミゾレとは、雨と雪が同時にまざり降るのをいう。冬のはじめや春のはじめに降ることが多い。
ちょっとした気温の変化で、雨になったり、雪になったりするし、同じ町の山手は雪なのに、下町ではミゾレのこともある。
掲出の句は北海道・釧路の阿寒辺りの冬の間の鶴への給餌場の風景だろうか。
「鶴と大地を共にして」という把握の仕方が秀逸である。
「霙」という名詞に対して、この句では「みぞるる」という「動詞」になっている。

 おもひ見るや我屍にふるみぞれ・・・・・・・・原石鼎

 霙るるや灯(ともし)華やかなればなほ・・・・・・・・臼田亜浪

 霙るると告ぐる下足を貰ひ出づ・・・・・・・・中村汀女

 みぞれ雪涙にかぎりありにけり・・・・・・・・橋本多佳子

 霙るるや小蟹の味のこまかさに・・・・・・・・松本たかし

 夕霙みんな焦土をかへるなり・・・・・・・・下山槐太

 みちのくの上田下田のみぞれけり・・・・・・・・角川源義

 みぞるるとたちまち暗し恐山・・・・・・・・五所平之助

 てのひらの未来読まるる夜の霙・・・・・・・・福永耕二

 沢蟹を伏せたる籠もみぞれゐる・・・・・・・・飯田龍太

 霙るるもレーニン廟に長き列・・・・・・・・寺島初巳

 腹裂きし猪を吊せば霙くる・・・・・・・・茂里正治

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  ■樹には樹の哀しみのありもがり笛・・・・・・・・・・・・・・木下夕爾

冬、風が吹いて、垣根の竹や竿竹などに当たるとき発するひゅーひゅーという音のことを「虎落笛」(もがりぶえ)という。
「もがる」というのは「反抗する」「さからう」「我を張る」「だだをこねる」などの意味を表す言葉で、竿や棒にあたる風が笛のように立てる音である。

 虎落笛子供遊べる声消えて・・・・・・・・高浜虚子

 日輪の月より白し虎落笛・・・・・・・・川端茅舎

 胸郭の裡を想へば虎落笛・・・・・・・・日野草城

 みちのべの豌豆の手も虎落笛・・・・・・・・阿波野青畝

 虎落笛吉祥天女離れざる・・・・・・・・橋本多佳子

 余生のみ永かりし人よ虎落笛・・・・・・・・中村草田男

 虎落笛叫びて海に出で去れり・・・・・・・・山口誓子

 虎落笛ひとふしはわが肺鳴れり・・・・・・・・大野林火

 虎落笛こぼるるばかり星乾き・・・・・・・・鷹羽狩行

 灯火の揺れとどまらず虎落笛・・・・・・・・松本たかし

 来ずなりしは去りゆく友か虎落笛・・・・・・・・大野林火

 牛が仔を生みしゆふべの虎落笛・・・・・・・・百合山羽公

 今日と明日の折り目にふかきもがり笛・・・・・・・・永作火童

001冬景色本命

   ■北風やイエスの言葉つきまとふ・・・・・・・・・・・・・・野見山朱鳥

冬の季節風は北風で、強く、かつ寒い。
シベリア高気圧が発達して、アリューシャン大低気圧に向かって吹く風だと今までは言われてきたが、今では地球規模の気圧変動が北半球では「偏西風」に乗ってやって来るのだという。
昨年の冬のはじめにヨーロッパに寒波をもたらしたものが、どれだけかの日時を経て、日本に到達したのが、昨年暮からの寒波になるという。
とは言え、日本海側は吹雪、太平洋側は空っ風というのは変わりないことである。
「北風」と書いて、単に「きた」と読むこともある。

 北風(きた)寒しだまつて歩くばかりなり・・・・・・・・高浜虚子

 北風にあらがふことを敢へてせじ・・・・・・・・富安風生

 くらがりやくらがり越ゆる北つむじ・・・・・・・・加藤楸邨

 北風(きた)の丘坂なりにわが庭となる・・・・・・・・加藤楸邨

 北風や青空ながら暮れはてて・・・・・・・・芝不器男

 耳傾く北風より遠き物音に・・・・・・・・大野林火

 北風荒るる夜のそら耳に子泣くこゑ・・・・・・・・森川暁水

 北風鳴れり虚しき闇につきあたり・・・・・・・・油布五線

 北風の砂丘を指す馬ならば嘶かむ・・・・・・・・金子無患子



ともしびが音もなく凍る冬の夜は書架こそわれの黄金郷たれ・・・・・木村草弥
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     ともしびが音(ね)もなく凍る冬の夜は
        書架こそわれの黄金郷(エルドラド)たれ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌集については春日真木子さんが角川書店「短歌」誌上で批評文を書いていただいたが、その中で、この歌を抽出して下さった。この批評文もWebのHPでご覧いただける。
黄金郷エルドラドなどと大きく出たものであるが、これも読書人としての私の自恃を示すものとして大目に見てもらいたい。

黄金郷エルドラドというのはスペインのアメリカ新大陸発見にともなう時から使われるようになった言葉である。
そのいきさつは、こうである。
「なんでも、アンデスの奥地のインディオの部族は、不思議な儀式をやっていたそうだ。そのインディオの首長は裸の全身に金粉を塗りつけて<黄金の男>に変身すると、金細工できらびやかに装った従者たちを連れて筏で湖へ漕ぎ出す。筏には黄金やエメラルドが山積みにされていて、湖水の真ん中に捧げ物の財宝が投げ込まれ<黄金の男>はやおら水に体を浸すと、金粉をゆっくり洗い落す。金粉はキラキラと輝きながら湖底へ沈んでゆく・・・」。
これこそ15世紀に新大陸を征服したスペインのコンキスタドール(征服者)が耳にした噂だった。そして、遂に、この湖を見つけた。黄金郷エルドラドは本当にあったのだ。
この湖グァタビタ湖に近い盆地に都市を築いた。それが今日のコロンビアの首都ボゴタである。
写真①は、そんな「筏」を黄金で作った現地の金細工である。
黄金郷エルドラドの説明に長くかかってしまったが、私の書架を書くのが本当なのだ。
私は少年の頃は腺病質な子供で、ひ弱な体で、季節の変わり目には腹をこわすような子だったので、戸外を活発に駆け回るというのではなく、
家に居て本を読むなどの内向的な性質だった。
祖父・庄之助から毎月「少年倶楽部」や「幼年倶楽部」という雑誌が送り届けられ、兄たちと夢中に貪り読んだものである。
そのうちに長兄・庄助が集めた小説などを読むようになった。こんな環境が私を文学、文芸の道に親しむ素地を作ったと言えるだろう。
今では庄助の蔵書などは兄・重信の方に行っているから、私の書斎の書架にあるものは、私が今までに読んだもの、私が買ったものであり、その数は万の桁になるだろう。
特に、私は現代詩から入ったので、「詩」関係の本が多くを占める。
私が死んだら、それらは埋もれてしまうので、出来れば「詩」関係の本だけでも「日本詩歌文学館」にでも寄贈したいと思っている。
出来れば「木村草弥文庫」というコーナーでも作ってもらえば有難いと思うが、もっと有名人もおられるので、果たしてどうなるやら。

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写真②は日夏耿之介『明治大正新詩選』という本である。
また講談社から発行されていて今でもある雑誌「群像」の創刊号から10年間くらいのものが欠本なく揃っている。
これらは資料的な価値もあると思われるので、図書館、記念館などに保存してもらうのには最適であろうと考えるのである。


亡き友は男ばかりや霜柱・・・・・秋元不死男
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        亡き友は男ばかりや霜柱・・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男

私くらいの歳になると、友人たちが、バタバタと死んでゆく。 この句は、そんな心情を詠んだようである。

「霜柱」は、寒さがきびしい冬でないと見られない。
土の中に含まれる水分が凍って、毛細管現象によって、その下にある水分が次々と供給されて氷の柱が成長し、厚さ数センチから10センチ以上にもなるのである。
霜柱は、土があるところなら、どこでも発生するものではない。
私の子供の頃には、今よりも寒さが厳しかったので、学校へ行く道すがらの脇の畑などでも、よく見かけて、わき道に逸れてザクザクと踏んでみたものである。
総体として「暖冬化」の傾向が進んでいるので、霜柱は段々見られなくなってきた。

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写真②は発生した霜柱がカール(反った)したものである。
関東ローム層の土粒の大きさが、霜柱の発生に丁度よいそうである。
岩波書店刊の「中谷宇吉郎全集」第2巻に、自由学園で行われた「霜柱の研究」について書かれたものが載っている。
それによると紅殻の粉や、澱粉類、ガラスを砕いた粉などを用いた霜柱の発生実験をしているが、赤土だけから霜柱が発生したそうである。
その赤土も、粒の粗いもの、細かいものに分けてやったところ、粒が粗くても、細かくても霜柱は発生しなかったという。
なお、中谷宇吉郎は、世界で初めて雪の人工結晶を作った学者で、これらの文章は戦前に書かれたものである。文筆上では夏目漱石に私淑した。
雪のエッセイなどは私の子供の頃に読んだ記憶がある。

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写真③は「シモバシラ」という名の植物である。
この草はしそ科の植物で学名を keiskea japonica という。これは明治時代の日本の本草学者の伊藤圭介氏に因むものである。
秋10月頃に枝の上部の葉の脇に片側だけにズラッと白い花を咲かせる。
冬になると、枯れた茎の根元に霜柱のような氷の結晶が出来ることから、この名になったという。
冬に枯れてもなお水を吸い上げるが、茎がその圧力に耐えきれずに破裂してしまい、水が外にブワッと出て凍る、という。

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植物のシモバシラの凍結した写真を見つけたので④に載せておく。
写真はリンク ↑ に貼ったサイトから拝借したものである。気象条件によって「氷」の形も、いろいろあるらしい。

以下、霜柱を詠んだ句を引いて終る。

 掃きすてし今朝のほこりや霜柱・・・・・・・・高浜虚子

 霜柱ここ櫛の歯の欠けにけり・・・・・・・・川端茅舎

 落残る赤き木の実や霜柱・・・・・・・・永井荷風

 霜柱しらさぎ空に群るるなり・・・・・・・・久保田万太郎

 飛石の高さになりぬ霜柱・・・・・・・・上川井梨葉

 霜柱枕辺ちかく立ちて覚む・・・・・・・・山口誓子

 霜柱俳句は切字響きけり・・・・・・・・石田波郷

 霜柱倒れつつあり幽かなり・・・・・・・・松本たかし

 霜柱顔ふるるまで見て佳しや・・・・・・・・橋本多佳子

 霜柱傷つきしもの青が冴え・・・・・・・・加藤楸邨

 霜柱兄の欠けたる地に光る・・・・・・・・西東三鬼

 霜柱歓喜のごとく倒れゆく・・・・・・・・野見山朱鳥

 霜柱深き嘆きの声に溶け・・・・・・・・野見山朱鳥

 霜柱踏めばくづるる犯したり・・・・・・・・油布五線

 霜柱踏み火口湖の深さ問ふ・・・・・・・・横山房子




一塊の軒の雪より長つらら・・・・高野素十
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       一塊の軒の雪より長つらら・・・・・・・・・・・・・・・高野素十

目下は「大寒」の期間中であり、一年中で一番寒い時期である。
京都も連日、日中の最高気温も4度、5度という冷たさで、冷蔵庫、冷凍庫の中にいるような日がつづく。
今日は、そんな寒さに因んで、「氷」「氷柱つらら」「氷湖」などについて書きたい。

われわれ暖地に住むものは、雪が何メートルも積もる映像を見ては、「こんなところに住んでみたい」などと簡単に言うが、
そんな豪雪地帯に毎日居住する人にとっては、雪との格闘の毎日であり、深刻な「気が休まらない」「鬱陶しい」ことなのである。
話は飛ぶが、台湾の人は亜熱帯であるから、平生に雪は知らないわけで、台湾からの観光客には北海道の冬は人気があるらしい。
というのは、先に私が書いたことと同じ心理状態ということになる。地元の悩みも知らずに、珍しいもの見たさ、ということである。

 櫓の声波を打つて腸(はらわた)氷る夜や涙・・・・・・・・松尾芭蕉

 氷上や雲茜して暮れまどふ・・・・・・・・原石鼎

 蝶墜ちて大音響の結氷期・・・・・・・・富沢赤黄男

これらの句は「凍てる」風物を単に写生するのではなく、鋭く「心象」に迫るものがある。
三番目の赤黄男の句は「前衛」俳句と呼ばれるものである。
以下、「つらら」を詠んだ句を引いて終る。

 遠き家の氷柱落ちたる光かな・・・・・・・・高浜年尾

 楯をなす大き氷柱も飛騨山家・・・・・・・・鈴鹿野風呂

 絶壁につららは淵の色をなす・・・・・・・・松本たかし

 夕焼けてなほそだつなる氷柱かな・・・・・・・・中村汀女

 月光のつらら折り持ち生き延びる・・・・・・・・西東三鬼

 胃が痛むきりきり垂れて崖の氷柱・・・・・・・・秋元不死男

 みちのくの星入り氷柱吾に呉れよ・・・・・・・・鷹羽狩行

 嫁ぐ日来て涙もろきは母氷柱・・・・・・・・・中尾寿美子

 ロシア見ゆ洋酒につらら折り入れて・・・・・・・・平井さち子

 みちのくの町はいぶせき氷柱かな・・・・・・・・山口青邨



木村弥生の俳句・・・・・・木村草弥
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 ↑ 合同句集「南東俳塵帳」平成九年七月吉日刊
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──新・読書ノート──

     木村弥生の俳句・・・・・・・・・・・・木村草弥
          ・・・・「南東俳塵帳」平成九年七月吉日刊・所載・・・・・・

亡妻・弥生は生前、南部コミセン(コミュニティ・センターの略)で開かれていた中島巴旦を講師とする「あらみ句会」で俳句を詠んでいた。
この合同句集は発行されたときに見せてもらったので、その存在は知っていた。
弥生が亡くなっても、彼女の遺品整理などは一切していない。
クローゼットが手狭になったので少し衣類を捨てただけである。
この本はダイニングのアイロンをかけたりするテーブルの前の本棚に収められていたのを引っ張り出してみたのである。
中島巴旦は他に「巴句会」の講師もしていて、この句集は「あらみ句会」と「巴句会」の合同句集ということである。
掲出した画像に見られるように中島巴旦が毛筆で書いたものを転写したものである。
「序」に、当時の城陽市文化協会理事長・奥田敏晴の文章があるが、彼こそ今の市長ということになる。
講師の中島巴旦も数年前に亡くなっており、その孫・中島有佳里さんが司法書士になっており、先年、私方のアパート─メゾン・ド・マルスの保存登記の際にお世話になった。
現在はお婿さんを迎えられ、お婿さんは中島姓を名乗っておられるとのこと。これも奇しき因縁というべきであろう。

この本には弥生と親しかった島本順子さん、私と一緒に短歌会に居た甲田啓子さんや神内周子さんの名前も見える。島本さんも亡くなって早や数年が経つ。
会員一人に十二句づつ収録されている。講師の中島巴旦だけは十八句である。

弥生の句を全部、書き抜いてみる。

        畦道       木村弥生

     万歩計四角に歩く春の畦

     菖蒲田に小さき角芽押し合ひす

     畦に沿ひ早苗の列も曲りゆく

     幾重にも茶畑のうねり迫り来る

     亀甲の竹に五月の光り触れ

     松の芽の千本立ちに風少し

     梅雨明けのクレーン動いて空狭め

     水桶にゆらぐ白さの豆腐切る

     風の道探して葱の苗掃除

     踊りの手下向き加減風の盆

     きらきらと穂の上泳ぐ金銀糸

     息白し一人走れば皆走り

当然、講師である中島巴旦の添削がされていると思うが、素直だった弥生らしい俳句である。
弥生は都会生まれだったが、田舎に嫁いできて、私の母から農作業の手ほどきを受けて、菜園の仕事を楽しんでやっていた。
力の要る土の掘り起こしなどには、どしどし私をこき使っていた。
農作業というのは植物が日々に成長して成果を生むので面白いもので、弥生も、その魅力に執り付かれていたようである。

<万歩計四角に歩く春の畦> の句は面白い。万歩計とあるから散歩の情景だろう。
万歩計に歩数を拾われるので、歩くときも四角く歩くように努めるという微笑ましい情景が詠まれている。

<風の道探して葱の苗掃除>の句について少し解説してみよう。
ネギは梅雨の頃に掘りあげて日陰に吊るしておく。
この句の季節は九月はじめである。当然まだ残暑が厳しいから、風の通る涼しいところを選んでネギ苗の枯れた部分を削いで掃除をする。
その苗を畑に定植して秋のネギが育ってゆくという算段である。 この句には、そういう経緯が詠まれているのである。

島本順子さんの句を少し。

     子の婚をまず書き入れて初暦

     春うらら行きも帰りも歩きます

     地下道を出てコスモスの風に遇う

     嫁がせて娶らせて年終りけり

甲田啓子さんの句を少し。

     初明りちょっと開けおく厨窓

     太陽が大好きですと苗木札

     甘南備の緑蔭 記紀の話など

     母が来る柿一杯の旅鞄

弥生は2006年に亡くなったので、今年はちょうど十年である。
たまたま手にした句集から亡妻を偲ぶよすがにしたい。


傘さして女のはしる霰かな・・・・・炭太祇
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     傘さして女のはしる霰(あられ)かな・・・・・・・・・・・・・・・・炭太祇

「霰」あられには「雪あられ」と「氷あられ」の二つがあるという。一般には「雪あられ」のことを霰という。
「氷あられ」は雹の小型のもので、雪あられを芯にして、付着した水滴が凍りついたもので、積乱雲から降るので、夏なんかに農作物に穴をあけたりして大被害を与えたりする。
太祇の句は、にわかな霰の襲来に、あわてて佳人が傘をさして走り逃げてゆく様を臨場感に満ちて描いている好句である。浮世絵の一場面にありそうな光景である。

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写真③は山茶花の落花の上に積もった霰である。この写真の方が風情がある。
霰を詠んだものとしては源実朝の『金槐集』の歌

 武士(もののふ)の矢なみつくろふ籠手(こて)の上に霰たばしる那須の篠原

というのが、よく知られていて、ここでは「霰」が勇壮さを演出する小道具になっている。「玉霰」という表現もあるが、これは美称である。

 いかめしき音や霰の桧木笠・・・・・・・・芭蕉

 霰聞くやこの身はもとの古柏・・・・・・・・芭蕉

 石山の石にたばしる霰かな・・・・・・・・芭蕉

 いざ子ども走り歩かん玉霰・・・・・・・・芭蕉

 玉霰漂母が鍋をみだれうつ・・・・・・・・蕪村

 玉あられ鍛冶が飛火にまじりけり・・・・・・・・暁台

 匂ひなき冬木が原の夕あられ・・・・・・・・白雄

 呼びかへす鮒売見えぬ霰かな・・・・・・・・凡兆

などの古句は、霰のいろいろの姿態を巧みに捉えている。
以下、明治以後の句を引いて終わる。

 雲といふ雲奔りくるあられかな・・・・・・・・久保田万太郎

 藁屑のほのぼのとして夕霰・・・・・・・・原石鼎

 降り止んでひつそり並ぶ霰かな・・・・・・・・川端茅舎

 灯火の色変りけり霰打つ・・・・・・・・内田百

 玉霰雪ゆるやかに二三片・・・・・・・・中村汀女

 人等来るうつくしき霰もちて来る・・・・・・・・山口青邨

 たちまちにあられ過ぎゆく風邪ごもり・・・・・・・・桂信子

 この度は音のしてふる霰かな・・・・・・・高野素十

 畦立ちの仏に霰たまりける・・・・・・・・水原秋桜子

 霰やみし静けさに月さいてをり・・・・・・・・内藤吐天

 霰打つ暗き海より獲れし蟹・・・・・・・・松本たかし

 鉄鉢の中へも霰・・・・・・・・・・・・・・種田山頭火

 玉霰人の恋聞く聞き流す・・・・・・・・清水基吉


鰤敷や隣鰤場も指呼の中・・・・鈴鹿野風呂
352鰤網漁

    鰤敷や隣鰤場も指呼の中・・・・・・・・・・・・・・鈴鹿野風呂

鰤(ぶり)のおいしい季節になってきた。
鰤の産地としては「富山」湾が有名である。「鰤網」という大きな定置網で捕えるのである。
鰤は「出世」魚と言われて、関西ではツバス→ハマチ→メジロと大きくなってブリとなる。
念のために書いておくが、関東では呼び名が異なり、同じ時期のものが、ワカシ→イナダ→ワラサからブリとなるという。
掲出写真は「鰤網漁」の体験催しのものである。玄人の漁師は救命胴衣などはつけない。

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ブリは、ぶり科の魚で、紡錘形の体形、青緑の体色で、体の中央に黄色い線が走っている。
秋から春にかけて、産卵のために陸地沿いに回遊する。
先に書いたように成長して「出世」し、90センチ以上になって、はじめてブリと呼ぶのである。
寒中に獲るので「寒鰤」と称する。漁期にあたる12月、1月に鳴る雷を「鰤起し」と呼ぶ。
『本朝食鑑』に「およそ冬より春に至るまで、これを賞す。夏時たまたまこれあるといへども、用ふるに足らず。かつて聞く、鰤連行して東北の洋より西南の海をめぐりて、丹後の海上に至るころ、魚肥え脂多くして味はなはだ甘美なり。ゆゑに丹後の産をもつて上品となす」とある。
当時は都が京都であったから、最寄りの海というと丹後ということになるので、ここの産が珍重されたのであろう。

鰤の料理としては、刺身のほかに照り焼き、ブリ大根、鰤の「沖すき」鍋なども季節の味覚である。

20080224_434337鰤大根

鰤ないしは鰤網を詠んだ句は多くはないが、それを引いて終る。

 鰤網を越す大浪の見えにけり・・・・・・・・前田普羅

 鰤網を敷く海くらし石蕗(つは)の花・・・・・・・・水原秋桜子
 
 血潮濃き水にしなほも鰤洗ふ・・・・・・・・山口誓子

 鰤が人より美しかりき暮の町・・・・・・・・加藤楸邨

 二三言言ひて寒鰤置いてゆく・・・・・・・・能村登四郎

 大き手もて鰤つかみ佇つ老いし漁婦・・・・・・・・柴田白葉女

 青潮のもまれ躍れり鰤と見ゆ・・・・・・・・出羽里石

 鰤と蜜柑夕日どやどや店に入る・・・・・・・・小原俊一

 虹の脚怒涛にささり鰤湧く湾・・・・・・・・楠美葩緒

 鰤来るや大雪止まぬ越の岬・・・・・・・・羽田岳水

 鰤網に月夜の汐のながる見ゆ・・・・・・・・原柯城

 鰤敷や海荒れぬ日は山荒るる・・・・・・・・西本一都

 
茶圃の施肥はじめむとする頃ほひは三寒四温北風さむし・・・・・木村草弥
茶園

    茶圃の施肥はじめむとする頃ほひは
       三寒四温北風さむし・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集「嬬恋」(角川書店)に載るものである。
「寒」に入った寒さも、一本調子ではなく、強弱のリズムを刻んで進んでゆくものである。こういうのを中国の古人は「三寒四温」と呼んだ。
今しも暦の上でも「大寒」に入って、一年の中でも一番寒い時期になっているが、「三寒四温」のリズムを刻むのが普通である。

木津川堤 003

写真②が私たちの「木津川」沿いの「冬」の茶園の集団である。朝なので霜が降りている。
この茶園は玉露、抹茶原料の碾茶用の高級茶の茶園で「手摘み」である。

茶の芽が動き出す前の冬季に「寒肥」という油粕などの有機質の肥料を与える。
大半の肥料は晩秋から初冬にかけての「秋肥」の時期に与えてしまうが、その補助的な施肥である。茶の樹の場合には化学肥料は殆ど与えない。
特に最近は「有機栽培」ということが、やかましく言われるが、茶に関しては昔から魚粕や油粕などを与えてきた。これらの肥料は茶の樹を養うためのものである。
お茶は他の農作物と違って、茶の葉を摘み取るものであるから、茶の樹をしっかり生育させなければならない。

「三寒四温」を詠んだ句は多くはないが、それらを引いて終る。

 凍てつぎて四温たまたま石蕗の濡れ・・・・・・・・飯田蛇笏

 軒しづく頻りに落つる四温かな・・・・・・・・・・白 樹

 三寒の心小さく炭をつぐ・・・・・・・・・・洲 風

 藁かごに乳のみ児あそぶ四温かな・・・・・・・・・・青水草

 三寒の日は蒼かりし山おもて・・・・・・・・・・三宅一鳴

 白珠の四温の星のうるむなり・・・・・・・・・・白葉女

 胎中の胎児三寒四温越ゆ・・・・・・・・清水基吉

 三寒四温ゆゑ人の世の面白し・・・・・・・・大橋越央子

 三寒の四温を待てる机かな・・・・・・・・石川桂郎

 雪原の三寒四温浅間噴く・・・・・・・・相馬遷子

 四温の日低き歓語の碁石たち・・・・・・・・吉田銀葉

 三寒のくらがりを負ふ臼一つ・・・・・・・・八重津苳二

 父の日の花買ひに出し四温かな・・・・・・・・細田寿郎



一人退き二人よりくる焚火かな・・・・・久保田万太郎
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    一人退(の)き二人よりくる焚火かな・・・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

この頃では「焚火」も簡単には出来なくなってしまった。
条例で「野焼き」が規制されているのに表れているように、ダイオキシン規制の影響でもあろうし、「火」を焚くことに世の中が神経質になっているからである。

「たきび」という童謡の風景は、今や死語と化してしまった。

00376巽聖歌
 ↑ 巽聖歌

この歌は、作詞は巽聖歌、作曲は渡辺茂。(今風の表記になっているので了承を)

     <かきねの かきねの まがりかど
      たきびだ たきびだ おちばたき
      「あたろうか」「あたろうよ」
      きたかぜぴいぷう ふいている>

     <さざんか さざんか さいたみち
      たきびだ たきびだ おちばたき
      「あたろうか」「あたろうよ」
      しもやけ おててが もうかゆい>

     <こがらし こがらし さむいみち
      たきびだ たきびだ おちばたき
      「あたろうか」「あたろうよ」
      そうだん しながら あるいてく>

という唄などは、もはや郷愁の中の一風物となってしまったのである。
作詞、作曲とも著作権が有効なので、You Tube なども違法なものはすぐに削除されるので、このサイトで「試聴」」されたい。 

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この童謡「焚き火」の作詞者・巽聖歌に因む土地として伝えられるのが ↑ ここである。
中野区上高田にある『たきび』の歌発祥の地。一般人の住居であるが、中野区による説明板がここの傍にある。
歌詞冒頭の垣根の風情が現在も見ることができる。

当時、巽は東京都中野区上高田に在住していたが、自宅の近辺には樹齢300年を越す大きなケヤキが6本ある「ケヤキ屋敷」と呼ばれる家があった。
その家にはケヤキの他にもカシやムクノキなどがあり、住人はその枯葉を畑の肥料にしたり、焚き火に使ったりしていた。
「ケヤキ屋敷」の付近をよく散歩していた巽は、その風景をもとに詞を完成させた。
同年の9月に、「幼児の時間」のコーナーの「歌のおけいこ」12月分で放送するために巽の詞に曲を付けて欲しいと、NHK東京放送局から渡辺のもとに依頼があった。
詞を見て「ずっと捜し求めていた詞」だと感じた渡辺は、「かきねのかきねの」「たきびだたきびだ」などの繰り返す言葉を気に入り、
詞を口ずさんでいるうちに自然にメロディが浮かび、10分ほどで五線譜に音符を書き込み完成させた。

今でも「行事」としての「どんど」「とんど」という大掛かりな焚火もあるが、これらは予め届け出て許可をもらったものである。
この唄にもある通り、「落葉焚き」というのは自然現象とは言え、降り積もる落葉という厄介ものを処分する良い方法だったのである。
この燃えた灰の中にサツマイモを入れて「焼き芋」にして、ほかほかの熱いのを食べるのは、冬の子供の楽しみのひとつだったのに。。。
古来、洋の東西を問わず、「火」というものは「穢れ」を浄化するものとして崇められてきた。

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 ↑ 写真に掲げる「那智の火祭り」などは、その一例である。
ヒンズー教や仏教における「火葬」の風習なども「穢れ」を浄化する意味以外の何ものでもない。
京都の夏を彩る「大文字の送り火」なども、そういう意味であり、それに「鎮魂」「魂送り」の意味も含まれる。
「火」はあたたかい。万物を焼き尽くすものでありながら、「冷たく」はない。
輪廻し転生する思想が「火」には含まれているのである。

「焚火」を詠んだ句も、古来たくさんある。それらを引いて終る。

 焚火かなし消えんとすれば育てられ・・・・・・・・高浜虚子

 燃えたけてほむらはなるる焚火かな・・・・・・・・飯田蛇笏

 離れとぶ焔や霧の夕焚火・・・・・・・・原石鼎

 夜焚火に金色の崖峙(そばた)てり・・・・・・・・水原秋桜子

 道暮れぬ焚火明りにあひしより・・・・・・・・中村汀女

 紙屑のピカソも燃ゆるわが焚火・・・・・・・・山口青邨

 とつぷりと後ろ暮れゐし焚火かな・・・・・・・・松本たかし

 ねむれねば真夜の焚火をとりかこむ・・・・・・・・長谷川素逝

 焚火火の粉吾の青春永きかな・・・・・・・・中村草田男

 隆々と一流木の焚火かな・・・・・・・・西東三鬼

 安達太郎の瑠璃襖なす焚火かな・・・・・・・・加藤楸邨

 若ものとみれば飛びつく焚火の秀・・・・・・・・能村登四郎

 夕焚火あな雪ぞ舞ひ初めにけり・・・・・・・・石塚友二

 わめきつつ海女は焚火に駈け寄りぬ・・・・・・・・稲垣雪村

 焚火中身を爆ぜ終るもののあり・・・・・・・・野沢節子

 ひりひりと膚にし響かふ焚火かな・・・・・・・・青木敏彦



鼻眼鏡ずり落ちさうにかけゐつつ母はこくりと日向ぼこする・・・・・木村草弥
bde6043338658086a8b9e786e6dea216ひなたぼこ

     鼻眼鏡ずり落ちさうにかけゐつつ
         母はこくりと日向ぼこする・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
「人」のひなたぼっこの写真がないので、猫のもので代用した。
冬の日、風の当たらない南側の日向で「ひなたぼっこ」をするのは気分のいいものである。
掲出した私の歌は、93歳で亡くなった母の往時の姿を偲んで歌にしたものである。

aegean_l戸口老夫婦

写真②はギリシアの「エーゲ海」クルーズを旅したときのもので、戸口に座る老夫婦で、これも基本的には「ひなたぼっこ」と言ってもよいだろう。
この写真には

  歩く我に気づきて「やあ」といふごとく片手を挙ぐる戸口の老は・・・・・・・・・木村草弥

  戸口の椅子二つに坐る老夫婦その顔の皺が語る年輪

  愛よ恋よといふ齢こえて枯淡の境地青い戸口の椅子に坐る二人


の歌が、私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載っている。
なお私のWebのHP「エーゲ海の午睡」の紀行文にも収録してあるので、ご覧いただきたい。

以下、「ひなたぼっこ」を詠んだ句を引いて終わりたい。

 日に酔ひて死にたる如し日向ぼこ・・・・・・・・高浜虚子

 うとうとと生死の外や日向ぼこ・・・・・・・・村上鬼城

 冬日掬ふ如き両掌や日向ぼこ・・・・・・・・池内友次郎

 日向ぼこ笑ひくづれて散りにけり・・・・・・・・富安風生

 つかのまのきづなをたちてひなたぼこ・・・・・・・・飯田蛇笏

 日向ぼつこ日向がいやになりにけり・・・・・・・・久保田万太郎

 日向ぼこ神の集ひも日向ならむ・・・・・・・・大野林火

 ふるさとにたよりおこたり日向ぼこ・・・・・・・・中村汀女

 日向ぼこ父の血母の血ここに睦め・・・・・・・・中村草田男

 かへる山ありて猿たち日向ぼこ・・・・・・・・山口波津女

 けふの日の燃え極まりし日向ぼこ・・・・・・・・松本たかし

 胸もとを鏡のごとく日向ぼこ・・・・・・・・大野林火

 手に足に青空染むとは日向ぼこ・・・・・・・・篠原鳳作

 犬がものを言つてきさうな日向ぼこ・・・・・・・・京極杞陽

 デスマスクある壁を背に日向ぼこ・・・・・・・・石原八束

 太陽の手をいただいて日向ぼこ・・・・・・・・堀内薫

 太陽に吾も埃や日向ぼこ・・・・・・・・平赤絵

 日向ぼこ身のうちそとに母のゐて・・・・・・・・長谷川せつ子




水底を見て来た顔の小鴨かな・・・・内藤丈草
magamoマガモ雄

──季節の一句鑑賞──「水鳥」3態──

  ■水底を見て来た顔の小鴨かな・・・・・・・・・・・・・・・内藤丈草

今日は「水鳥」を詠んだ句三題をオムニバス風に採り上げる。
丈草は芭蕉の高弟で、禅に学ぶところ深く、芭蕉とはとりわけ心の通じあう門弟だったと言われている。尾張犬山藩士だったが、病弱のため「遁世」した。
この句は、鴨が水に潜っては、ついと浮かぶ。そのけろりと澄ました表情に「水底を見て来た顔」を見てとったところが面白い。
丈草の俳諧作者としての天分は、芭蕉一門の数ある作者の中でも抜群だったという。
彼は芭蕉の「さび」の精神を最もよく伝えた弟子と言われるが「飄逸な俳味」においても抜きん出ていた。
その笑いには品格の高さと洒脱さがあるという。『丈草発句集』所載。
写真①は、マガモ雄の成鳥である。

magamo5マガモ雌

  ■海暮れて鴨の声ほのかに白し・・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

気鋭の俳人として江戸で名を挙げつつあった芭蕉は、貞享元年41歳の時、門人千里を連れて『野ざらし紀行』の旅に出発した。
蕉風確立の基礎をなす撰集『冬の日』を尾張で生んだ記念碑的な旅であった。
上の句は、その滞在中のものである。海辺で一日を過ごした時の作と自注している。
とっぷりと暮れた海づらを、鴨の声が渡ってくる。「白し」は「顕(しる)し」を内に含んでおり、感覚の鋭さが、このような用語法に表れている。
その白く顕きものが、「ほのかに」海を渡って来るから余情が広がったのである。
中七は「鴨の声ほの」「かに白し」と句跨りになるが、これを5、5、7の破調と読むのもよいが、私は句跨りと捉えたい。『野ざらし紀行』所載。
写真②は、マガモの雌である。

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  ■水鳥やむかふの岸へつういつい・・・・・・・・・・・・・・・広瀬惟然

放浪の俳人惟然は美濃の酒造業の家に生れたが、妻子を捨てて家出し、剃髪して芭蕉晩年の弟子となる。惟然坊と通称された。
天真爛漫に行動する風狂な人となりは、句作にもそのまま表れ、口語の擬声、擬態語を多用して、対象を活写する技法を開発した。
これは、つと口を出る心の動きをとらえる上で優れた技法だった。
「梅の花赤いは赤いは赤いはな」のような句が、よく知られている。
上の句でも水鳥の生態を「つういつい」に活写したが、常にこれが成功する訳ではない。
擬音語や擬態語は印象が強いだけに、惰性的に用いると、たちまち陳腐なものになってしまうからである。『惟然坊句集』所載。

私の住む辺りに一番近いところというと「琵琶湖」が水鳥の大棲息地だが、ここは、かなり前から「禁猟区」になっているので野鳥にとっては天国である。
ここは鴨肉の生産地でもあるが、養殖したり、他所からの移入鳥で仕事をこなしている。

「鴨」「水鳥」というのは冬の季語で、歳時記に載る例句も大変多い。少し引いて終る。

 水鳥や氷の上の足紅く・・・・・・・・・・・・・野村喜舟

 水鳥の沼が曇りて吾くもる・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

 水鳥のしづかに己が身を流す・・・・・・・・・・・・柴田白葉女

 寝るときはひたすら眠れ浮寝鳥・・・・・・・・・・・・吉田やまめ

 小閑充実鴨くさきまで鴨の群・・・・・・・・・・・・中村草田男

 幻の母来て 屈む 鴨の岸・・・・・・・・・・・・伊丹三樹彦

 さみしさのいま声出さば鴨のこゑ・・・・・・・・・・・・岡本眸

 抜け目なささうな鴨の目目目目目目・・・・・・・・・・・・川崎展宏

 うたかたとなるまで鴨の漂へり・・・・・・・・・・・・小沢克己

 寝化粧を長しと思ふ鴨の声・・・・・・・・・・・・星野石雀

 見事なる腹が頭上を鴨返す・・・・・・・・・・・・市村究一郎


「交配中」のビラを掲げてマルハナバチがトマトの黄花の花粉にもぐる・・・・木村草弥
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07セイヨウオオマルハナバチ
  
      「交配中」のビラを掲げてマルハナバチが
            トマトの黄花の花粉にもぐる・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、自選60首にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いたたげる。

「マルハナバチ」は温室やビニールハウスでの野菜、果実などの交配に導入されたもので、園芸先進国オランダで実用化され、
今も写真①のような段ボール箱に入って空輸されて来る。段ボールには「精密機械」「チェック貨物」などのステッカーが貼られている。
箱の中には女王蜂1匹を筆頭に、オス蜂、働き蜂の計50匹くらいの一家族が入っている。ただし巨大なコロニーは作らず家族に近い。
値段は何と1箱19635円(税、送料込み)もする。
写真②に、その「セイヨウオオマルハナバチ」学名・Bombus terrestris の写真を出しておく。
日本産の「クロマルハナバチ」もオランダで飼育され輸入されるが、これになると21945円もする。

日本では平成2年に国内に導入されたばかりだが、ヨーロッパではすでに早くから実用化され、一般的な技術として普及しているという。
彼らを有効にトマトの花を訪れさせる最大のコツは「学習飛行」だという。マルハナバチは、ある一定種の花をつづけて訪花する習性があるのである。
このため、はるばるオランダからやって来たマルハナバチは最初、ネットで囲った1棟のハウス内で学習飛行した後、開け放たれたハウスの中をトマトの花を求めて移動するという。
通常、1棟のハウスの中に1匹のマルハナバチが活動していれば充分という。
とは言っても、先年、NHKの「クローズアップ現代」で取り上げられたように、ヨーロッパから移入した「セイヨウオオマルハナバチ」が生命力旺盛であるため、日本の野外に出てしまったら、在来の「ニホンマルハナバチ」を駆逐してしまう恐れがある、という。
移入したトマト農家などの厳重な管理が必要になってきた。

写真③は「ミディトマト」である。ここで「トマト」について書いて置こう。
12003-01ミディトマト①

トマトは17世紀にポルトガル人によって伝えられ、最初は鑑賞用に栽培されていたという。「蕃茄」と呼ばれた。
今日では、最もポピュラーな果実として広く食べられている。
露地ものもあるにはあるが、通年作物として「ハウス栽培」されるのが普通である。
元来トマトは夏の果物だが、今ではハウス栽培のおかげで一年中食べられるようになった。
後でも書くが、マルハナバチに花粉の媒介をしてもらうということは、「農薬」を使えないということでもあり、食べる上でもトマトは安全な果物と言えよう。

photo-02トマトの種床

写真④がハウスに植えつけるトマトの苗床である。スポンジ様のものに一粒づつ種を蒔いて発芽させる。
これをハウスに定植し液肥を入れた水を循環させる「水耕栽培」が普通である。
その間、余計な葉や枝を取り去ったり、枝を吊り上げるなど人手のいる作業が要る。
日本の夏は暑いので、この期間中はハウスの中が高温になり過ぎるので栽培は休んで、ハウスの消毒や秋からの定植に備えて苗などの準備をする。
私の知人も大規模なトマト栽培家がいるので、よく見せてもらった。

掲出の歌を含む一連8首を読んでもらえば、よく判っていただけると思うので、それを引いておきたい。

  マルハナバチ・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

 外は寒い北風が吹く温室の中はぽかぽか春の暖かさ

 「交配中」のビラを掲げてマルハナバチがトマトの黄花の花粉にもぐる

 温室は液肥の流れる礫耕栽培トマトには農薬は使はぬ

 虫を殺す農薬が人間に良い筈がない「自然の知恵」に戻れよ

 葡萄のやうな房生(な)りでミディトマトが鈴なりに垂れる壮観

 園芸先進国オランダ開発のミディトマト「レンブラント」と名づけられた

 この列はイタリア品種の料理用「サンマルツァーノ」トマトが真つ赤だ

 次々と温室トマトの直売所に車が来て採りたての果実が買はれてゆく

240px-Fleurtomateトマト花

「トマトの黄花」といっても判らないので写真⑤に出しておく。

トマトの効用を、このように言っても「露地」栽培で「旬」のトマトなら、昔の風味も味わえるだろうが、今は消費者が一年中トマトが食べられるという生活に狎れてしまい、このような旬の味を求めるというのは「ないものねだり」の感がある。
それともうひとつ、大量生産、大量消費の時代になると、生産者から末端の消費者の手に渡るまでの日数を考えると「品傷み」のしない品種がタキイ種苗などの大手の育種メーカーで開発され、今の主流をなす「桃太郎」などの品種が市場を占める事態となるのである。したがって味も画一的になってしまう。
今の主流の「桃太郎」というトマトも完熟したものを、その場で食べれば、とてもおいしい品種なのだが、今では流通過程で日数がかかってしまい、かつ家庭でも野菜室に入れておいて、すぐに食べるというものでもないから「味」が劣化する。
昔のトマトには適当な「酸味」があったが、今のトマトには、それがない。
これは消費者が「甘い」トマトを求めるからだという。確かに「桃太郎」などは酸味は殆ど感じられない。
このようなことを知ると、今のトマトの風味については、消費者にも、その責任の一端がありそうであるが、いかがだろうか。
昔わたしたちの子供の頃は(農村だったから)学校から帰ると、冷たい水にトマトが冷してあり、それを皮もむかずに、そのままかじりついたものである。
適当な酸味もあり自然の風味というものがあった。
しかし、いまでは、そんなことを言ってみても「詮ない」ことである。

P1030584ミニトマト

写真⑥に「ミニトマト」を出しておく。
最近の学者の研究で、トマトに癌予防の著効があるということが判ったという。そんなことで亡妻にはせっせとトマトを食べさせていた。
少なくとも「免疫力」を高める作用はあるのではないかと思う。
病院では皮をむくのが面倒なので、専ら「ミニトマト」を愛用していた。皮ごと食べるので、しっかりした歯ごたえもあり、おいしいものである。
なお夏季には私の家では菜園にトマト、ミニトマトを栽培しているがミニトマトは実が鈴なりにわんさとついて、おびただしく生るものである。


かなしみのきわまるときしさまざまの物象顕ちて寒の虹ある・・・・坪野哲久
990930a虹
  
      かなしみのきわまるときしさまざまの
             物象顕(た)ちて寒の虹ある・・・・・・・・・・・・・・・・・坪野哲久


俳句の場合の季語としては「虹」は夏季のものとされる。
日本での気象条件からすると、高温多湿の夏に虹が多いのは当然である。
冬に虹を詠む場合には、季節の言葉をつけて「寒の虹」のようにして季語とする。

この坪野哲久の「寒の虹」の歌は、そういう点から見ても面白い。
雨と太陽光線とがあって虹が立つのが普通だが、哲久は「物象顕ちて寒の虹」が立つと詠っている。
これは上の句に「かなしみのきわまるとき」と書いているように、作者の心が空に立たせた幻の虹かとさえ思わせる。
「きわまるときし」の「し」は強調の助詞である。
このように上の句と下の句とが相まって、歌に独特の孤高性と浪漫性をもたらしている。『碧巌』所載。

加藤楸邨の句に

 Thou too Brutus ! 今も冬虹消えやすく

というのがあるのを思いだした。冬の虹というのは、そういう消えやすい「はかない」ものである。
坪野哲久の歌の「かなしみのきわまるとき」という把握の仕方と相通じるものがあるかと思う。
坪野哲久については前にも一度採り上げたことがあるが、昭和初期にプロレタリア短歌運動で活躍、昭和5年、第一歌集『九月一日』を刊行したが発禁処分を受ける。
昭和46年『碧巌』で読売文学賞受賞。石川県生まれ。昭和63年没。
哲久の歌は心象を詠いあげたものが多い。叙景だけの歌というものはない。
「物象」などという「漢語」の使い方が独特である。仏教用語も多用する。
以下、少し哲久の季節の歌を引いて終わりにする。

 母のくににかへり来しかなや炎々と冬涛圧(お)して太陽没(しづ)む

 母よ母よ息ふとぶととはきたまへ夜天は炎えて雪零(ふら)すなり

 天地(あめつち)にしまける雪かあはれかもははのほそ息絶えだえつづく

 牡丹雪ふりいでしかば母のいのち絶えなむとして燃えつぎにけり

 寒潮にひそめる巌(いはほ)生きをりとせぼねを彎(ま)げてわが見飽かなく

 死にゆくは醜悪(しうを)を超えてきびしけれ百花(びやくげ)を撒かん人の子われは

 もろもろのなげきわかつと子を生みき子の貌(かほ)いたしふる霜の花

 冬星のとがり青める光もてひとりうたげすいのちとげしめ

 冬なればあぐらのなかに子を入れて灰書きすなり灰の仮名書き

 曇天の海荒るるさまをゆめにみき没細部なる曇天あはれ
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はじめから8首までの歌は、ふるさと石川県に臨終の母を看取った時の歌であろうか。
時あたかも冬の時期であったようで、能登の怒涛の寄せる海の景物と相まって、母に寄せる心象を盛った歌群である。
歌集『百花』『桜』『留花門』から引いた。
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今日は、阪神大震災が起きてから二十二年である。
朝から追悼一色である。 打撃から、未だに立ち直れない人も多い。

その朝、私は京都南部の自宅で激しい揺れに見舞われたが、震源から外れていたので建物が壊れるなどの被害はなかった。
丁度、私はイタリアのシチリア島の旅に出かけていて、その前日に帰ったばかりで、厳しい「時差ボケ」で明け方まで眠れず、ようやくウトウトとしたところだった。
妻や子供たちは、友人、知人たちの救援にリュックをかついで出かけるなど大騒動だった。
交通機関も、阪急電鉄で言うと、「西宮北口」までしか行けなかった。 後はみな徒歩である。
「ボランティア」という言葉が日本に定着したのも、この時からである。
私は多くの「紀行文」を書いてきたが、この時の旅は、出鼻をくじかれて、今に至るまで執筆できていない。書く気になれなかったのである。

記念日に当り、一筆書き添えるものである。 合掌。





かきくらし雪ふりしきり降りしづみ我は真実を生きたかりけり・・・・・高安国世
高安
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無題リルケ詩集

(再録)──Doblog 旧記事──初出2005/01/16

     かきくらし雪ふりしきり降りしづみ
             我は真実を生きたかりけり・・・・・・・・・・・・高安国世


この歌は高安国世の初期の作品で「真実」と題されている。昭和26年刊の第一歌集『Vorfruhling』に載るもの。(お断り・u の上にはウムラウト(・・)が付いている)
高安先生は大阪の開業医の家に生れたが、母・やす子がアララギの歌人だった影響で少年期から短歌に親しみ、またドイツ文学を専攻することになったが、父親は医者にしたかったらしい。
家庭の中で何らの葛藤があったと思われ、そのことが、この歌によく表れている。それは「我は真実を生きたかりけり」という詩句になっている。
この歌は、そういうドイツ文学者として生きてゆくという高安氏の決意表明みたいなもので、先生にとっては、極めて愛着のあった歌らしく、自選歌集でも巻頭に載せられている。
作品としても有名なもので高安国世といえば、まず、この歌が引用される。

先生について詳しくは → Wikipedia─高安国世を参照されたし。

私事になるが、私は大学で第二外国語にドイツ語を選び、その関係から高安先生の授業も受けた。その頃、先生は京都大学助教授になったばかりであった。
その頃から先生は「歌人」としても有名であったらしいが、私はその頃短歌には無関心であったから、そんなことは知らなかった。
先生も教室では短歌のことは一切お話しにはならなかった。
先生は旧制高校の頃は第三高等学校の教授であり、新制大学になって三高は京都大学吉田分校になり、教養課程を担当していた。
三高出身の連中に聞くと、教室では短歌の話を、よくされたという。
先生はアララギ出身らしく「リアリズム」を基礎に置いておられるが、後に短歌結社「塔」を創立されるなど「主知的リアリズム」という主張を確立された。

この歌の出だしの「かきくらし雪ふりしきり降りしづみ」という「たたみかける」ようなリズムが秀逸である。
歌のはじめの「かきくらし」というところは、学者として生活できるようになるまでの「生きる苦しみ」のような生活観を想像させる。
高安先生の私生活について、私は多少のことを知っているが、ここでは書くべきことではないと思うので、触れない。
同じ歌集に載る歌ひとつと、晩年の歌集『光の春』から4首を引いて終りにしたい。

   二人ゐて何にさびしき湖(うみ)の奥にかいつぶり鳴くと言ひいづるはや

   ゆるくゆるく過ぐる病院の一日よ忘れいし生命の速度と思う ──『光の春』より4首──

   わが父のあやぶみしごと何一つ世の表うら知らず過ぎ来し

   われ亡くとも変らぬ世ざま思いおり忘れられつつドイツに在りし日のごと

   焼き棄ててくればよかりしもろもろも恐らくは単純に火にくべられん

-------------------------------------------------------------------------
ここに引用した歌を子細に見てみると、はじめのものは旧カナで、後の四首は新カナになっていることが判る。
これは先生が途中から新カナ表記に変わられたからである。
この頃は、そういうのが流行っていた。「未来」の近藤芳美が、そうだった。高安国世は「未来」創刊同人だった。
だが後に旧カナ(歴史的かなづかい)に復帰するのが流行り岡井隆など多くの歌人が復帰したが、近藤芳美は頑固に新カナを押し通した。
永田和宏なども新カナ→ 旧カナに数年前から復帰した。
ついでに書いておくと、アララギ系から出発した高安国世、岡井隆、永田和宏、みなリアリズムである。
先に書いたように高安先生は「主知的リアリズム」を唱えられたし、岡井隆の歌も「比喩」のオブラートにくるまれているので騙されるが、基本的にリアリズムである。
だから彼らは自分や家族のことを詠う。
だが、同じ「前衛歌人」と呼ばれても、塚本邦雄は自分や家族は詠わない。「われ」の把握の仕方が全く違う、と言える。
余り採り上げられないことだが、敢えて言っておく。
また天皇家とのかかわりでも、「歌会始」などを通じて岡井隆や永田和宏は「擦り寄って」行ったが、塚本邦雄は擦り寄らなかった。
歌壇に絶大な支配力を有する岡井隆などが存命中だから今は触れられることが全くないが、これらは塚本、岡井の決定的な違いであることを言っておく。

図版として掲出した『光沁む雲』(短歌新聞社昭和50年刊)は歌集『朝から朝』までの歌を収録したもので解説を永田和宏が書いている。
それとドイツ文学者としてのリルケ詩集の文庫本の表紙を二つ出しておく。
先生はリルケ研究の第一人者だった。
この旧記事にも、もちろん画像があった。しかし、Doblogが不調になったとき今のfc2にデータを移すとき画像は移せなかった。

母親の高安やす子さんの記事をある筈だが、高安病院のことも書いたので、旧記事を少し調べてみる。お待ちあれ。


新年の色あざやけき青竹を結界として茶の湯点てけり・・・・木村草弥
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       新年(にひどし)の色あざやけき青竹を
               結界として茶の湯点(た)てけり・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
この歌は自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
この歌のつづきに

 をろがみて三啜り半に服したる新年の茶のこのほろにがさ・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っている。この一連は「結界」という小項目の13首からなるが、この項目の一番終わりの歌は

 黒光る帳場格子の結界に大福帖吊りき創業の祖(おや)・・・・・・・・・・木村草弥

このように「結界」という言葉は、さまざまに使われているので、少し説明したい。

k-13kihon結界

写真②は茶道で使う「結界」である。形は色々あるが、私のはじめの歌の場合は、これを「青竹」で作ってあるということである。
この写真のものは茶道具屋が売っているものだが、茶道の原初的な意味から言うと、どんなものでもよいのである。
そもそも「結界」とは、Simabandhaという言葉の訳語とされ、仏教教団に属する僧尼の秩序を保つため一定地域を区画すること、に発する。いわば聖と俗との境界である。
それが茶道その他にも取り入れられたもの。「女人結界」というのも宗教界にはある。また神社などの「注連縄」(しめなわ)も結界の一つである。
先に書いた聖と俗との境界を示すものである。
私の三番目の歌に則して言うと、昔の商家の、いわゆる「帳場」の一角を区切る「格子」(こうし)も一つの結界なのであった。店頭とは違った空間を作るものだからである。
こういう風に「結界」という言葉は便利なもので、さまざまに変形して使われている。

kazuho茶筅

写真③には茶道で使う「茶筅」を掲げてみたが、新年に使うものは「青竹」で作られ、緑色あざやかなものである。
もっとも茶道具というのは三千家でも少しづつ変化しているので、ここではあくまでも一般論として読んでもらいたい。茶筅の穂先の形からして変わる。

私の二番目の歌の「をろがみて」というのは「おしいただいて」ということで、茶道で茶を呑む時に茶碗を両手で持って顔のあたりにもってきて「おしいただく」動作のこと。
「拝む」というのが「をろがむ」である。
「三啜り半」というのが、茶碗に入った抹茶の湯を呑む時の作法とされる。一番最後の茶は音をたてて「啜る」のである。
このことを誤解して、音をたてずに服する人があるが、それは「勘違い」というものである。ズルズルと音をたてて啜るのが正解である。
なお、この「啜る」という口の動きが、外国人には出来ない。西洋人には、先ず無理である。
英語の「drink」(飲む)という言葉は、たとえばスープを飲む時にスプーンの先を唇にあてて、舐めるように、あるいは、注ぎ込むように飲むのが「ドリンク」なのである。
日本人は「啜る」ことが出来るので、スプーンの横から「啜り」がちである。
文化あるいは風習というものは、このように変わっていて、一つの言葉の「翻訳」されたものの中だけでは、表現し切れないものが含まれているのである。
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今日、1月15日は古来「小正月」と言って、正月の行事があった。一般的には、この日には「小豆かゆ」を食べる風習があった。今でも我が家などでも、この行事を守っている。
この日をもって一応、正月行事は終ることになる。
祝日の「成人の日」は、今は移動休日になってしまったが、前は先に述べたような理由から「小正月」に因んで1月15日に決めて制定されたのであった。
そんな日にちなんで、今日は「新年」「茶道」ないしは「結界」のことを書いてみた。



あだし野に日の一すぢの霰かな・・・・徳永山冬子
2701ac241df72953e782a5738387d041化野念仏寺

    あだし野に日の一すぢの霰かな・・・・・・・・・・・・・・・徳永山冬子

嵯峨野の化野(あだしの)念仏寺の辺りは千年前には「風葬」の地であった。
風葬とは、今でもチベットなどで行われる死体を野っぱらに放置して、獣や鳥に肉を食わせ、あるいは腐るに任せる葬送の方法である。
この寺は現在は浄土宗に属する寺だが、およそ1000年前、空海が、ここに五智山如来寺を開創し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したことにはじまるという。
「あだし野」というと『徒然草』にも「あだし野の露消える時なく、鳥辺野の烟立さらでのみ住み果る習なれば、如何に物の哀もなからん世は定めなきこそいみじけれ」と書かれている、
かつての葬送の地に建ち、境内に集められたおびただしい数の石仏が、葬送地としての過去を彷彿とさせる。
寺の本尊は阿弥陀如来で、湛慶の作。本堂は江戸時代に再興されたもの。
夏の8月23~24日の地蔵盆のときの「千灯供養」は有名である。
この寺の地番は 京都市右京区嵯峨鳥居本化野町 という。

写真②に夏の「千灯供養」の様子を出しておく。

PN2010082301000790_-_-_CI0003千灯供養

掲出句は、夏の千灯供養が、凄絶ではありながら、火の力によって温もりを感じるのに対して、きびしく凍てる京都の冬の名も無き石仏のみじめな姿を、
よく活写しているというべきだろう。

 石くれ仏ひしめく限り冬茜・・・・・・・・文挟夫佐恵

 凍仏(いてほとけ)小にしてなお地にうもれ・・・・・・・鈴木六林男

 石仏の首から首へ虎落笛(もがりぶえ)・・・・・・・・鷹羽狩行

 冬ざれの片寄せ小さき仏たち・・・・・・・・二橋満璃

 化野のひとつづつ消ゆ冬灯・・・・・・・・間中恵美子
 
 鼻寒きわれに鼻なき餓死仏・・・・・・・・秋元不死男

 風葬の明るさの原ひかりは凍(し)み・・・・・・・・榎本冬一郎

のような句も、同じく冬の季節のあだし野の石仏を描いて秀逸である。
他の季節の、あだし野を詠んだ句は、また後日。
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20101209234354d3aお土居①
145b5676お土居②
img_6お土居③
7hptih_bお土居④
 ↑ 「お土居」─現在の写真四枚

長い間、都の置かれてきた京都の地には土塁をめぐらせた「街区」が仕切られていた。そのなごりが、豊臣秀吉によって再整備された「お土居」である。
つまり、この「お土居」の内側が「洛中」であり、外側は「洛外」ということである。
この区域より外は人間の住む場所ではなく、その「お土居」の外は「葬送」の地であった。
庶民の死者は、この「お土居」の外に置かれ、いわゆる「隠亡」(おんぼう)と呼ばれる葬送の専門職の人間が、
ここ、あだし野や、東山の鳥辺野、洛北の蓮台野などに死体を放置(風葬)したのであった。
今では京都市北区に「蓮台野町」という地番があり、住宅地になっていて、人々は何も知ることもなく平気に暮らしているが、
もともとは葬送地であったから、地名にそれが残っているのである。




ごまめ噛む歯のみ健やか幸とせむ・・・・細川加賀
recipe54ごまめ

──季節の一句鑑賞──おせち「ごまめ」「数の子」

  ■ごまめ噛む歯のみ健やか幸とせむ・・・・・・・・・・・・・・・細川加賀

今ごろになると、もう正月の「お節料理」もなくなったと思うが、お節(せち)料理の代表選手である「ごまめ」を採り上げたい。
これは「カタクチイワシ」の稚魚を天火乾燥させたもので、「五万米」とも「田作り」とも呼ばれる。
このカタクチイワシを焦がさぬように煎り、あめ煮にしたもの。
小さいながら、ゴマメには「尾かしら」もついており、安価でありながら縁起物として重宝されたのである。
カタクチイワシの体全体が食べられるので、栄養的にも優れている。私も大好きである。
私は「入れ歯」が一本もない。全部、自分の歯であるが、虫歯などで修復はしてある。
ゴマメなどの固いものも支障なく噛めるので快調である。
私の歯は掲出句そのものである。

ゴマメを詠んだ句を少し引く。

 自嘲して五万米の歯ぎしりといふ言葉・・・・・・・・富安風生

 噛み噛むや歯切れこまかにごまめの香・・・・・・・・松根東洋城

 田作や河童に入歯なかるべし・・・・・・・・秋元不死男

 口ばつかり達者になりしごまめかな・・・・・・・・橋場もとき

 田作や箸に触れ合ふ海の色・・・・・・・・柴田清風居

 齢重ねなほ田作のほろ苦き・・・・・・・・鷹野映

 孫の顔ひとりふえたるごまめかな・・・・・・・・三宅応人

 こしかたの正直すぎしごまめかな・・・・・・・・川上梨屋

 田作の秤りこぼるる光かな・・・・・・・・永井暁江

つぎに、もう一つの代表として「数の子」を採り上げよう。

img10131191068数の子

  ■ひとり飲む酒数の子の粒々も・・・・・・・・・・・・・・佐野良太

「数の子」は、アイヌ語で「かど」というのが「にしん」のことで、その卵巣を「かどの子」というのが語源だと言われている。
粒々の数が多くて「多産」の卵であるところから、子孫繁栄の意味もこめてある。
ニシンの漁期は4、5月だと言われ、乾燥したり塩蔵にしたりして保存する。
日本近海では獲れなくなったが、本来は食べる習慣がなかったカナダや北欧から大量に輸入されるようになり、今では一年中出回っている。
このぷりぷりとした歯ごたえが私は好きである。
数の子を詠んだ句を引いて終りにしたい。

 数の子を好む子は皆母似にて・・・・・・・・大谷句仏

 数の子にいとけなき歯を鳴らしけり・・・・・・・・田村木国

 今は亡き子よ噛めば数の子の音のして・・・・・・・・加藤楸邨

 数の子をかみかみひとりなるを思ひ・・・・・・・・龍岡晋

 数の子の妻のこめかみめでたけれ・・・・・・・・石田波郷

 数の子を噛む音子より起りけり・・・・・・・・浦野芳南

 数の子や一男一女大切に・・・・・・・・安住敦


かるた切る心はずみてとびし札・・・・・高橋淡路女
matsuitengudou百人一首
 ↑ ↓ 百人一首の札
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82A2-1いろはカルタ
 ↑ いろはカルタ
unsun02うんすんカルタ
 ↑ うんすんカルタ

    かるた切る心はずみてとびし札・・・・・・・・・・・・・・・・高橋淡路女

正月の遊びとして「カルタ」は必須のものであった。カルタの語源はポルトガル語であるらしい。
カルタ遊びには「歌かるた」という小倉百人一首、「花かるた」、「いろはかるた」、「ウンスンかるた」、「トランプ」などがある。今ではトランプが主流であろうか。
掲出の写真は「歌かるた」の小倉百人一首のもの。競技用のものは「読み札」と「取り札」とに分れているが、掲出のものは歌を全部書いてあるもの。
今では、こういう古典かるたをやるのは、お正月と言えども珍しいのではないか。
「うんすんカルタ」の札や点棒なども出しておいた。 詳しくは後の方で。

「百人一首」には「恋」の札があって、昔は男女混ざって佳き恋の鞘当だったのだが、掲出句は、その情景を描いている。

「いろはかるた」は、たとえば「犬も歩けば棒にあたる」のようなもの。もっとも、これは江戸の文句で、京では「一寸先は闇」、大阪では「一を聞いて十を知る」などと変化していたという。

 ↓ 写真は、「ウンスンかるた」の内の絵札(スン唐人)である。
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詳しくは下記の ↓ リンクを見てもらいたい。絵札、数札などカラーで綺麗に載っている。
「ウンスンかるた」 は、南蛮かるたを元に日本で作られた「天正かるた」から作られたと思われる日本独自のカルタ。
元禄年間の成立と言われる。75枚1組。滅亡したと思われていたが、熊本県人吉市で遊び継がれているのが発見された無形文化財という。
ヨーロッパのカードの影響を大きく受けており、歴史的にも貴重なものという。
スーツ(マーク)は、いす(棒)、ぱお(剣)、こつ(聖盃)、おうる(貨幣)、ぐる(巴)の5種類。数札は1-9まで。絵札はスン(唐人)、ウン(七福神)、レイ(王)、カバ(従士)、ソウタ(女王)、ロバイ(龍)の6種類。代表的な遊び方に「8人メリ」がある。8人が4人づつ2組に分かれて行なうゲームで、敵味方が交互に座ってトリックテイキングゲームを行なうという遊び方をする。
詳しくはリンクに貼ったところを参照されたい。

01001093_Unsunkarutanoyuugihou-2ウンスンかるた
写真 ↑ は、その遊びの写真。この写真では老人ばかりだが、検索した他のものには若い人がプレイするものもあったことを付記しておく。
九州国立博物館のサイトにも関連記事が載っているので参照されたい。

「ウンスンかるた」の名前の由来ついて次のように書かれているものがあるので紹介しておく。

<ポルトガル語で1を意味する「ウン」、最高を意味する「スン」が名前の由来とされています。また、カルタ遊びの禁止令で、昨日まで盛んに遊んでいた人が「うんともすんとも言わなくなった」ということからこの名前が付いたともいわれています。 
ウンスンカルタは、江戸時代に全国で流行しましたが、賭博(とばく)に使われたため寛政(かんせい)の改革(1787年~93年)で禁制になりほとんど廃れてしまいました。
しかし、人吉にだけは残り、今日まで伝えられてきました。> 
(「うんともすんとも」という慣用句の語源でもある)

なぜ私が、ここに「ウンスンかるた」のことを、長々と書くかというと、
私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に

  沙羅の花ひそかに朝の地(つち)に還りつぶやく言葉はウンスンかるた・・・・・・・・・・木村草弥

という歌があるからである。この歌は「ウンスンかるた」なるものが、いかなるものか知らない人がほとんどなので、判りにくいと評判は良くなかったが、私には愛着のあるものなので、ここに引用してみた。

以下、歳時記に載る「歌留多」の句を少し引いて終る。

 歌留多とる皆美しく負けまじく・・・・・・・・高浜虚子

 かれがれの日々を歌歌留多そらんじぬ・・・・・・・・滝井孝作

 歌留多読む恋はをみなのいのちにて・・・・・・・・野見山朱鳥

 歌かるたよみつぎゆく読み減らしゆく・・・・・・・・橋本多佳子

 刀自の読む咳まじりなり歌留多とる・・・・・・・・皆吉爽雨

 法師出て嫌はるるなり歌がるた・・・・・・・・阿波野青畝

 掌に歌留多の硬さ歌留多切る・・・・・・・・後藤比奈夫


竹馬の高さとなりし子の世界・・・・宮地玲子
KX2F1133竹馬
 
       竹馬の高さとなりし子の世界・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮地玲子

竹馬はかつて子供の遊び、特に冬の遊びだった。
幼な友達を「チクバの友」というのも、ここから出ているが、長ずれば皆それぞれに散ってゆくのが世の定めである。
「いろはにほへと」を一緒に習った仲間が、「色はにほへど散りぬる」さまに散ってゆく。

googleなどで「竹馬」と検索すると、「竹馬の作り方」というのがいくつか載っているが、私たち農村の子供たちが、手づくりで作っていた頃と違って、この写真のようにもアルミのパイプにプラスチックの「足置き」がついている。
私たちが子供の頃の竹馬は、本体の竹にカマボコの板を縦に半分に割って、二本の板棒を荒縄で軸にくくりつけただけの簡単なものだった。
竹馬に乗る時は、わら草履履きか、はだしで乗って足の指の股で軸の竹を挟んでいたものである。
今の子供は、みな靴履きのままだから、どうしても乗るのが安定しないから、頑丈な「支え」が必要なのだろう。
だから竹馬に乗っての「騎馬戦」などというものは、先ず不可能である。

先にも書いたが「竹馬」は冬の季語である。竹馬の句を少し引いて終りにする。

topimg竹馬


 竹馬や青きにほひを子等知れる・・・・・・・・中村草田男

 わが竹馬ひくきを母になげきけり・・・・・・・・大野林火

 竹馬のめり込む砂地にて遊ぶ・・・・・・・・山口波津女

 竹馬の雪蹴散らして上手かな・・・・・・・・星野立子

 竹馬に土ほこほこと応へけり・・・・・・・・山田みづえ

 戞々と来しは竹馬女の子なり・・・・・・・・井沢正江

 竹馬の濶歩行先なけれども・・・・・・・・橋本美代子

 竹馬の土まだつかず匂ふなり・・・・・・・・林翔
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981646a132682ace8e9dd64dad1edaaa鏡開き①
m_f0216148_11284139鏡開き②

今日1月11日は「鏡開き」の日と言って、正月の間、神棚や仏壇などにお供えしてあった「お鏡餅」を割って、お雑煮などにする「正月行事」の日である。
関西では「松の内」──1月7日が過ぎると飾ってあった餅を下げ、寒い寒気で餅がひび割れるのを避けるために、釜や大鍋などの中に入れて置いた鏡餅を木槌などで割って食べられる大きさにするのである。
正式には、包丁を使うのは忌む、とされるので、木槌などで割るのが、いい。
もっとも、私の家では、包丁を使って薄く切り、「かきもち」にしていた。
昔は大きい鏡餅をお供えしたから、こういう行事も必要だったが、今ではスーパーなどに、プラスチックで成形した鏡餅があるので、それで済ませてしまう。
これなどは、重ね餅が一体化したもので、およそ趣はないが、独り暮しでは、それも致し方ない始末である。
なお、京都では神棚など神事のところは二段重ねの餅を、仏壇など仏事のところには三段重ねの鏡餅を供えるのが普通である。
だからスーパーなどでも三段重ね鏡餅が、ちゃんと売られている。
この鏡開きで割った餅を大釜で炊いて「ぜんざい」をふるまったりしたものである。
関西では、奈良の天理教本部での、この行事が今でも盛大に催される。

参考までに「鏡開き」の句を引いて終わりにする。

 可も不可もなく生きて割る鏡餅・・・・・・・・福田甲子雄

 パック裂く鏡開と云うべきや・・・・・・・・武村文一

 鏡餅開く木槌の音高く・・・・・・・・谷口佳寿

 神妙な鏡開の豆剣士・・・・・・・・丸茂ひろ子





大阪を好きも嫌ひも宵戎・・・・吉田すばる
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       大阪を好きも嫌ひも宵戎・・・・・・・・・・・・・・吉田すばる

「十日戎」は大阪の今宮戎神社の祭礼である。
一年はじめの1月10日は「初戎」として何十万の人が、一説では百万人が、さほど広くはない境内に押すな押すなの様相を見せる。
 ↑ 今宮戎のホームページを見てもらいたい。
前日の9日夜は「宵えびす」、11日は「残り福」と称して、わざと、この日に参詣する人もある。
社殿の裏に廻って、羽目板をどんどん叩いて「えべっさん、頼んまっせ」と大声で言うのが上方風である。
掲出した写真が当日の神社の境内の様子である。
参拝のあと、「福笹」という笹の枝に小判やらをぶらさげたものを買い求めて、肩にかついで帰る。
笹は笹だけで売られ、それにつける小判などは、別途金を払って追加するのである。
東京の「熊手」に福面をつけたりするのと同様のことである。

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 ↑ 写真③が公募された福娘が売る福笹。

『年浪草』という本に「諺にいふ、この神は聾にましますとて、参詣の諸人、社の後の板羽目を敲く。その音、昼夜にかまびすし。これ、今日参詣して諸願を訴ふる謂ひなり。」とある。
近年は「福娘」と称して公募して福笹の売り子を募っているが、応募者が多いので、なるべく美人を選ぶという。今年は45人採用したという。
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1月10日前後には南地の花柳界の芸妓の綺麗どころを「宝恵かご」と称する駕籠に乗せて近在を練り歩く行事がある。これも神社の宣伝のためとは言え、人気がある。
この「宝恵かご」については今年は1月10日に練り歩かれるが、画像としては「たまぞう」氏のサイトなどが詳しい。

ネット上では、他にも動画などがたくさん見られる。お試しあれ。

以下、十日戎を詠んだ句を引いて終る。

 福笹をかつぎ淋しき顔なりし・・・・・・・・高浜年尾

 地下道を華やぎ通る福笹持ち・・・・・・・・橋詰沙尋

 初戎ねがひのうなじうつくしく・・・・・・・・牧野多太士

 十日戎所詮われらは食ひ倒れ・・・・・・・・中本圭岳

 小火騒ぎありて今宮宵戎・・・・・・・・後藤鬼橋

 福笹にきりきり舞の小判かな・・・・・・・・倉西抱夢

 きらきらと賽銭舞へり初戎・・・・・・・・金田初子

 福笹の大判小判重からず・・・・・・・・嶋杏林子

 凶くれて残り福とは面白し・・・・・・・・細見しゆこう

 雑踏を夫にかばはれ初戎・・・・・・・・上野美代子

 残り福疲れし声をあげて売る・・・・・・・・大戸貞子

 吉兆や佳人に足を踏まるるも・・・・・・・・大野素郎

 商ひも恋もたのみて宵戎・・・・・・・島谷征良

 初戎笹の葉一枚づつの福・・・・・・・・三島敏恵

 残り福得んと人出に押されけり・・・・・・・・吉川一竿




怖いもんって/そら嫁はんにきまってますがな/なにがしとやかな京おんなですか/芯はきついですわ・・・・根来真知子
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     怖い・・・・・・・・・・・・・・・根来真知子

     怖いもんって
     そら嫁はんにきまってますがな
     なにがやさしいですか
     なにがしとやかな京おんなですか
     芯はきついですわ
     こないだもな・・・・・・・
     <Nさんの眼がここでマジになった>

     ついこのあいだも
     捨てたつもりの電話番号のメモ
     見つけられましたんや
     へぇ ちょっとかわいらしい子ぉどしたんや
     嫁はん そのメモをつきつけてひと言
     「家(うち)にあるもんは買わんかてよろしい」

     それだけで終わりますかいな
     翌月 えらい金額の請求書がきましたわ
     へぇ わしあてに
     恐る恐る聞いたら
      なんたらちゅう名ぁのハンドバッグらしいですわ

     そんなん家(うち)にたんとあるのに・・・・・・

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この愉快な詩も『滋賀・京都 詩歌紀行』に載るものである。
京都人の見かけでは判らない、芯は冷徹な人柄の一端を、巧みに捉えている。
掲出した写真は、私が勝手に載せたものであるが、このバッグも十数万円余りの値段がついている。
初めてパリに行ったとき、娘に頼まれてポシェットを買いにルイ・ヴィトンの本店に行ったことがある。
今まではシャンゼリゼを入った横丁にあったが、2005年にシャンゼリゼの大通りに面したところに「新」本店が出来たらしい。
もう、ん十年前の話である。


辰巳美績・自分史『「運」「鈍」「根」~なにくその精神~』・・・・木村草弥
辰巳_NEW

──新・読書ノート──

     辰巳美績・自分史『「運」「鈍」「根」~なにくその精神~』・・・・木村草弥
             ・・・・・2016/05刊 非売品・・・・・・・・

こうして掲出してみると表紙の色が微妙に違う。現物は鮮やかな濃緑である。表紙の布は辰巳織布の製品である。
著者の説明をしておく。
辰巳美績(たつみ・よしつぐ)氏は大正13年(1924)10月10日生まれ。今の三重県名張市に出生した。
大阪府岸和田市に、辰巳織布株式会社を設立し、現在は会長を務める。:今年で満92歳となる。

辰巳美績氏とは縁戚ということになる。私の長女の女の子─孫の結婚相手の祖父ということである。
一昨年の結婚式でお目にかかり、今年の年賀状に、この本の上梓のことが書かれていたので、一月三日の私の一族の新年宴会に来た孫に言って贈ってもらったという次第。
孫などのプライバシーもあるので人名などは遠慮しておくので、ご了承ねがいたい。

この本は、文字通り、辰巳美績氏の一代記である。今もなお矍鑠として会社内外に目を光らせておられる様子が手に取るように、よく分かる。
記憶力も旺盛で幼い頃からの写真もたくさん収録されている。
辰巳美績氏の夫人は鈴子さんというが、この本を読むと、鈴子さんの内助の功が絶大であったことが判る。
この本を贈呈されたときに本に添えてある手紙も鈴子さんの代筆である。因みに、鈴子さんの生年月日が書いてないので不明だが美績氏とは二歳違いのようである。

辰巳美績氏は地元の小学校から松阪市の松阪商業学校に進学。1942年に横浜専門学校に入学する。1944年徴兵繰り上げにより仙台陸軍予備士官学校に「特甲幹」伍長として入学。
因みに、私の兄・木村重信も、この制度により豊橋予備士官学校に入学しているので親近感を抱いたことを書いておく。ポツダム少尉である。

この本には辰巳美績氏の「年譜」「家系図」、辰巳織布株式会社「年譜」など微に入り細をうがつ詳細なものである。
私は全編を詳しく読んでみたが、ここにすべてを引くことは出来ない。
今の時代は、とにかく物騒な世の中であり、どこから攻撃されるか分からないから、プライバシーの露出には気を付けたい。

戦後は物が不足していて、物さえあれば商いになる時代があったが、徐々に生産、流通が体制が整うようになり、そういう時代の趨勢をみて辰巳織布という会社設立に進まれた。
会社は1960年4月5日に誕生するが辰巳美績氏は池田繊維の専務をされていたので鈴子夫人が社長となられて発足した。
この本には鈴子夫人の昼夜を分かたぬ尽力のことが書かれている。

<家内は、朝は暗い内に起き、寮生の朝食の準備をし、日中は工場に入り、検反、管巻、筬通し、織り以外のことは全てした。
 また手の薄い所に手伝いに行き、午後は女の子に洋裁を教え、三度の食事の買い出しをし、一刻も休む時がなかった。
 夏場はクーラーがないため、しばしば食堂のデコラの食卓の下にくたびれ果てて寝ていたことを覚えている。
 急に出荷をいわれた日には、家内は徹夜で検反をすることもしばしばであった。>

私は繊維関係には無知なので、この本に書かれている当該部分について語ることは止めたい。
昭和36年(1961)9月16日、第二室戸台風により当時の工場が全壊したことが書かれている。復旧のために名張で瓦を買い占めたことなどである。
この台風では、私の方の会社の荒茶製造工場70坪余が全壊し建物と機械設備が全滅したことを思い出した。
そういう同時代だったのである。

立志伝中の人物として、自宅を立派なものに新築されたエピソードが載っている。写真を見ても豪壮なものである。
さぞや立派なものであろう。

1980年に長男の雅美氏が専務として入社された。当時の習慣として同業他社で武者修行させるのが常道であった。雅美氏も一年間、他社で「奉公」された。そして今は社長である。
雅美氏は京都大学出身ということだが、学部などは判らない。

繊維製品の製造過程で「糊つけ」という工程(サイジング)があるらしいが、それらは外注にしていたが2009年に関空対岸の地に「のりつけや」というサイジング工場を建築した。
この工場は24時間操業だという。
巻末には「人生訓集」というのが書いてある。「大欲せよ」「記録を残せ」「常に背伸びせよ」など、長年の人生を生きた知恵が述べられている。

私は繊維には門外漢であるから、とりとめもない紹介になったことをお詫びする。
これからもお元気で活躍されるようお祈りして、紹介を終わる。
本のご恵贈有難うございました。



都の外れには/底なしの池があって/坊主や女の骨が沈んでいる/それを拾ってきて/部屋の中で生き返らせて遊ぶ・・・・冨上芳秀
hs08-s広沢池朝霧

        骨遊び・・・・・・・・・・・・・・・・・・・冨上芳秀

       都の外れには

       底なしの池があって

       坊主や女の骨が沈んでいる

       それを拾ってきて

       部屋の中で生き返らせて遊ぶ

       坊主は木魚を叩くが

       音感はまるでないので苛める

        女は酒を飲ませて

       算盤で計算させて間違えると

       足の裏をくすぐって

       死ぬほど笑わせる

       冬枯れの池に漁師は凍えながら

       網を投げ入れて

       遊ぶための骨を引き上げている。

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この詩も『滋賀・京都 詩歌紀行』に載るものである。
ここにいう「池」とは、作者によると嵯峨野の「広沢池」のことである。
この池は周囲1.3キロほどの割合に広い池で、989年に宇多天皇の孫・寛朝僧正が池の北西に遍照寺を建立した際に造らせたとされる。
今はもう寺はないが、昔は釣殿や月見堂があったとされ、月見の名所として大宮人や歌人が訪れ、歌を詠んだという。
この詩は、一見すると何となく不気味な感じがするが、幻想を含んだ現代詩であって、面白い。
この辺りも幾多の戦乱に巻き込まれたので、この池にも屍などが放り込まれたらしい、という設定で、この詩は成り立っている。



蜜蜂のうなりのやうにまとひつく耳鳴りあはれ蠟梅かをる・・・・木村草弥
sosin-roubai蝋梅本命

    蜜蜂のうなりのやうにまとひつく
      耳鳴りあはれ蠟梅かをる・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
私の家の庭にある「蠟梅」は近年12月末から新年にかけて咲いている。

『滑稽雑談』という本に「蠟梅、一名黄梅花。この物、もと、梅の類にあらず。臘月に小黄花を開く。蘭の香に似たり。葉は柿葉に似て、小にして長し。大坂にて<唐梅>といふ。この名、臘月の義にあらず。その花、黄蠟色に似たり。ゆゑにこれを名とするなり」とある。
簡にして要を得た文章である。梅に似て、梅でない、黄蠟色の、極めて香りのよい花である。

sosin-roubai3蝋梅

sosin-roubai2蝋梅の実

写真③は蠟梅の実である。
夏のはじめに実り、地面に落ちると発芽して新しい木になるが、条件さえ良ければ、やたらに増えるので始末が悪いので、見つけたらこまめに引っこ抜く。
枝も徒長枝が伸び放題に伸びるので、取り除かないと、庭の他の木を日陰にするので始末が悪い。
樹木には新しい徒長枝に花芽がつくものと、古い枝に花芽がつくのと二種類あるが、蠟梅は梅と一緒で徒長枝には花芽はつかないので、どしどし切ってよいのである。

以下、蠟梅を詠んだ句を引いて終る。

 蠟梅や雪うち透かす枝のたけ・・・・・・・・芥川龍之介

 蠟梅や枝まばらなる時雨ぞら・・・・・・・・芥川龍之介

 蠟梅のかをりやひとの家につかれ・・・・・・・・橋本多佳子

 蠟梅の咲いてゐるなり煤の宿・・・・・・・・百合山羽公

 蠟梅の花にある日のありとのみ・・・・・・・・長谷川素逝

 蠟梅の咲きうつむくを勢ひとす・・・・・・・・皆吉爽雨

 蠟梅のこぼれ日障子透きとほす・・・・・・・・菅裸馬

 蠟梅に日の美しき初箒・・・・・・・・遠藤梧逸

 蠟梅や時計にとほき炬燵の間・・・・・・・・室生とみ子

 蠟梅のこぼれやすきを享けにけり・・・・・・・・林登志子
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「臘」という字と「蠟」という字は区別される。
偏が「虫」と「月」と違っているように、ロウソクの字の場合は虫偏の「蠟」であり、
暦の十二月の異称の「臘月」の場合は月偏の「臘」である。
これらは、いずれも常用漢字の表外漢字であるが、画数の多い字で略字で表記される場合が多いが、ここでは「正字」で出しておいた。

なお蛇足だが、私の歌にあるように、「香る」という言葉の歴史的かなづかいは「かをる」が正しい。
「香り」ならば「かをり」である。
布施明が歌って大ヒットした歌「シクラメンのかほり」というのがあるが、なまじ大ヒットしたが故に、この仮名づかいが正しいように誤解されているが、
これは作者の小椋佳の勘違いによる間違いであり、いつまでも恥を曝しているようなものである。
知ったかぶりをして、歴史的かなづかい(旧かな)にしたために間違ったのである。
ここは素直に「新」かなづかいにしておいたら、恥をかかずに済んだのである。
今や「新かなづかい」が制定されてから60年以上が経ち、「旧かなづかい」なんて全く縁のない人々が殆どであるから、
「旧かなづかい」で詩歌を作ったり、書いたりするには、それ相応の「覚悟」と「勉強」が要る。
安易な気持でやられては困るのである。「国語辞典」「古語辞典」には載っているので参照する癖をつけたい。
このブログ上でも、これにつられて「かほり」と書いてあるのを時々見かける。念のために申し上げておく。




 くの字くの字に/折れ曲がった路地/紫の煙が這う/ここは東山のふもと石塀小路・・・・松山妙子
24013PAAK019_03_02石塀小路

         石塀小路・・・・・・・・・・・・・・・松山妙子

     くの字くの字に
     折れ曲がった路地
     石畳を囲むようにそびえる石の塀の上を
     紫の煙が這う
     忍者がひょっこり
     とびだしてきてもおかしくない
     ここは東山のふもと石塀小路

     路地のさきにぽつり
     狭い路地 どんつき折れると またぽつり
     狐火のように門灯がともる
     ゆれるあかりのあいまに
     しずかにきこえる三味線の音

     海底深く 船底深く
     乙姫さまに案内された 龍宮城
     鯛や平目に杯を傾け 杯をかさね
     ゆれるこころ
     ゆれるゆどうふ
     ゆれるゆげ

     酔いがまわった足取りで
     石畳のように角張った
     とうふのかどなぞりながら
     本当のかえりみちさがしている
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この詩は、日本詩歌紀行2.『滋賀・京都 詩歌紀行』という本(著者・日本詩歌句協会、発売・北溟社)に載るものである。
名前の通り、詩・歌・句の地名によるアンソロジーである。
私も要請があって3首の歌が載っている。

「石塀小路」というのは、京都の東山山麓の「路地」のことである。「路地」を京都では、長く伸ばして「ろーじ」と発音する。
写真①は、この路地の入り口に掲げられる路地の門灯である。
 
↓ 写真②は石塀小路入り口。 写真③は石塀小路の一部。 写真④は明りの入った夜景。
04石塀小路入り口
02石塀小路
03石塀小路

近くには「高台寺」などもあり、「清水寺」にも近い。
「三年坂」(産寧坂と書かれることもある)「二年坂」など清水寺かいわいの土産物屋の多い通りは、すぐそこである。
三年坂の辺りの、「売らんかな」の雰囲気とは違って、写真③に見るような昔の趣を伝える、落ち着いた通りである。
石塀小路が出来たのは比較的最近のことで、大正時代の初期の頃だ。
石塀小路の土地は、当初は圓徳院のの所有地だったが、明治時代になって税金を納める必要が出てきたため、
圓徳院庭園の一部を取り崩して、通り抜けの道を造った。
↓ 写真⑤は圓徳院の外壁だが、この赤レンガは外国から輸入して築いた壁で、レンガが珍しい当時としてはモダンな雰囲気を作った。
ishibekoji_2.jpg

石塀小路に入る路地には、はじめに掲出したガス燈のような電灯が掲げられていて、すぐにわかる。

ここが、 現在のような姿に完成したのは、昭和になって、しかも戦後になって京都から市電が廃止されるようになり、市電に使われていた石畳をここに敷いたことからのようである。
石塀小路が出来た頃には現在のように旅館や飲み屋さんはなかったが、東山を舞台とした映画ロケが盛んにされた頃から、
映画関係者を目当てとした旅館や飲食店などが建ち並び、現在のような姿になった。
今でもここの旅館を愛する映画関係者も多く、ここから夜には祇園に繰り出す事も多いようだ。
地元の方も町並みを大切に保存されている。

八坂神社から南に歩き、石塀小路を目指して歩くと、大きな建物があるわけではないので、探し出すのに少し時間がかかる。
しかし、小路に入ると石畳の道が続き、町の雰囲気はガラッと変わる。
自動車の乗り入れ制限があるので、閑静な雰囲気があり、ゆったりとしてそぞろ歩きが出来る。
石畳なので夏場の照り返しがきつくなく、アスファルトの道を歩いているときの、うだるような感じがない。

それぞれのお店を覗いてみると、一見料金が高そうなところが多そうなのだが、意外とリーズナブルなところもあるが、
人気の観光スポットなので、早くから予約を入れないとなかなか泊まったりすることは難しそう。
しかし一見さんお断りが無いので、早い時期から予約すれば、宿泊できるらしい。
この通りは特別な許可がないと、自動車の通行が出来ないこともあり、町の情緒を楽しむのにゆっくりと歩くことが出来る。
通りの雰囲気もさることながら、少し足を伸ばすだけで、高台寺や八坂の五重塔に行くことが出来るので、京都東山観光をするにははずせまないところ。

料亭などの、しっとりした商売もあるし、旅館なども風情がある。
私は、別にお金をもらったわけではないので、個々の紹介はしない。ネット上で検索されたい。
「詩」にも書かれているが、「湯豆腐」は京都の冬の食べ物として、絶好のものではないかと思う。京都は「水」がいいので、おいしい豆腐がある。

この詩は、さほど巧い作品ではないが、最終連の

      石畳のように角張った
      とうふのかどなぞりながら

というくだりは、秀逸である。
この「松山妙子」という作者のことは、私は何も知らない。

ネット上では「石塀小路」と検索すると多くの記事が出ているので各自調べられよ。




冬つばき世をしのぶとにあらねども・・・・・久保田万太郎
c0007122_7415486寒椿

   冬つばき世をしのぶとにあらねども・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

久保田万太郎の句は私も大好きなので何度も採り上げてきた。
万太郎は夫人を亡くされてから「隠棲」された。
身辺には或る女の人が寄り添っていたが、その人にも先立たれて沈潜した生活をしていた時期があるが、この句はその頃のものであろうか。

「寒椿」または「冬椿」とも書かれるが、この花はツバキ科で、山茶花や茶とは同じカメリア属である。
椿は、なかでも「薮椿」と呼ばれるものは、学名をCamellia japonica と言うように、日本の固有種である。
日本では、初冬から晩冬にかけて寒中に咲くものを「寒椿」と称している。
寒椿の学名はCamellia sasanqua cv. Fujikoana と言うが、ラテン語の学名の付けかたの世界では「cv」とは「園芸品種」とされている。
藪椿が、日本固有の椿の原種ということであろうか。詳しいことは学名のページを見てもらいたい。

写真①は、「獅子頭」(ししがしら)という品種の寒椿で、物の本によっては「山茶花」に分類されているのもあるとのことで、まことに紛らわしい。
椿や山茶花については先に詳しく書いたが、椿と山茶花との区別の仕方として、ツバキは花が散るときに萼(がく)のところから、花がポロッと全体が落ちるのに対して、
サザンカは花びらが一枚づつばらばらと落ちる、という違いがあるとされている。
しかし、寒椿の花は、サザンカと同じように花びらがばらばらに散るものもある、というから、余計にややこしい。
一般的にツバキは、いま書いたように花全体がポロッと落ちるので、昔の武士は縁起が悪いと嫌がったという。
先に書いたように、学名でもCamellia sasanqua までならサザンカなのである。
なお、Camellia というのは17世紀のチェコの宣教師Kamell氏の名に因んでいることも、椿のところで書いたと思う。

123450987245516312944寒椿・白

写真②は白の寒椿である。山茶花か寒椿か、紛らわしいと追求されても私には判定は出来ない。
歳時記を見ると、一重咲きの早咲きには白に紅の絞りの「秋の山」、桃色の「太郎冠者」があり、
八重のものには白の牡丹咲きの「白太神楽」、紅絞りの「白露錦」というような品種があると書いてあるが、
それらの写真がないのは残念である。

寒椿を詠んだ句を引いて終わりたい。

 竹薮に散りて仕舞ひぬ冬椿・・・・・・・・前田普羅

 冬椿落ちてそこより畦となる・・・・・・・・水原秋桜子

 寒椿つひに一日の懐手・・・・・・・・石田波郷

 寒椿落ちたるほかに塵もなし・・・・・・・・篠田浩一郎

 山の雨やみ冬椿濃かりけり・・・・・・・・柴田白葉女

 寒椿朝の乙女等かたまりて・・・・・・・・沢木欣一

 白と云ふ艶なる色や寒椿・・・・・・・・池上浩山人

 妻の名にはじまる墓碑や寒椿・・・・・・・・宮下翠舟

 海女解けば丈なす髪や冬椿・・・・・・・・松下匠村

 寒椿嘘を言ふなら美しく・・・・・・・・渡辺八重子

 花咲いておのれをてらす寒椿・・・・・・・・飯田龍太

 寒椿月の照る夜は葉に隠る・・・・・・・・及川貞



山田兼士『詩の翼』・・・・・木村草弥
山田_NEW

──山田兼士の詩と詩論──(13)

      山田兼士『詩の翼』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・響文社2017/01/13刊・・・・・・

山田先生の詩集を除く十一番目の本である。
これまでの二十数年間に書かれたものをまとめられたもので、「あとがき」によると、全36篇は内容的に三つに分けられる。
第一章「現代詩の百年」には、荻原朔太郎から現代までの日本現代詩を。
第二章「フランス詩の百年」には、ボードレールから二十世紀半ばまでのフランス詩について。
第三章「詩の翼」には比較文学的な、あるいは自儘な文章といくつかの追悼エッセイを収められている。

「帯」の裏には

<「詩の翼」は、島田陽子追悼文中に引用した、小野十三郎のフレーズ「軽く翼を泳がせて/重い荷物を運べ」から着想を得たものです。
 「詩」という重い荷物をどこまでこのささやかな「翼」で運べるのか分かりませんが、
 もともと「詩」そのものが「翼」なのではないかとの思いもあります。>

と書かれている。 これこそ本書の意図を簡潔に要約したものと言えるだろう。

なにぶん大部の本なので、ここで簡単には説明できないので、上記の要約で察していただきたい。
詳しくは本文を読んでもらいたい。  以上、不十分ながら紹介する次第です。


オモシロク狂ツテ舞ヘバ/身ハ幽谷ニ浮ク鶴ノ/声ハ大気ヲツン裂イテ/スガタハ空ノ青ニ染ム・・・・大岡信
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       閑・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

     ハツ春ノ
     空ニタチマチ湧キイデテ
     羽音モタテズ狂ヒタツ
     雪サナガラノ思ヒカナ

     オモシロク狂ツテ舞ヘバ
     身ハ幽谷ニ浮ク鶴ノ
     声ハ大気ヲツン裂イテ
     スガタハ空ノ青ニ染ム

     閑閑タリ
     ヒトリ遊ビノ
     小宇宙

     巌ニ星モ エイ
     咲カシテミシヨウ
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この詩は学習研究社1985年12月刊の「うたの歳時記」─冬のうた、に載るものである。
5、7という日本の伝統的な音数律に則った詩作りになっている。
日本の現代詩作家も、こういう日本古来の韻律に時には立ち返ることもあるのである。

掲出した写真は北海道の鶴居村で舞う鶴の姿である。
鶴は春の繁殖期を前にして、もう番いの間で愛を確かめる愛技ともいえる「舞い」をはじめるのである。
涙ぐましい自然の摂理とも言えようか。
「鶴」はメデタイものの縁起物として引かれるので、新年を迎えた今の時期のものとして出しておく。
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昨日一月三日は私の子供たち、孫たち、ひ孫一人を含めて十一人が集まって新年宴会を行った。
孫の配偶者の妻は急性の耳の病気にかかり腫れあがったので欠席した。 お大事に。
みんなが持ち寄った材料で、高級肉のしゃぶしゃぶや、大粒の生ガキのレモン搾り、口にいれるととろけるようなブルーチーズなど。
何よりも今の家族の身めぐりの出来事や話題など話に盛り上がった。
長女がfacebookに載せていた画像だけかと思っていたら現物の日本酒の「薦かぶり」を呉れた。後日ぼつぼつ賞味したい。
小学校三年の男孫は父親からプレゼントされたおもちゃのヘリコプタを飛ばしに、少し離れた公園に親たちと行った。うまく飛んだらしい。
昨年初夏には思わぬ発病に見舞われたが何とか回復できて幸運だった。
こうして一族が無事再会できたことを記して、今年も新年を迎えることが出来たことに感謝したい。







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