K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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空蝉は靡ける萱にがつしりとすがりて残る 青蝉よ翔べ・・・・木村草弥
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    空(うつ)蝉は靡ける萱(かや)にがつしりと
        すがりて残る 青蝉よ翔べ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


先日のBLOGの中で、蝉の抜け殻(うつせみ)について少し触れたので、今日は空蝉を詠った私の歌を載せる。
写真の蝉はアブラゼミかと思う。
二番目の写真から三枚つづけてアブラゼミの羽化の様子を載せる。
ll0021.kuma羽化①

二番目の写真は地中から這い出てきて、羽化するために足場をがっしりと固めた様子。
地中から這い出て来るのは目撃者によると夜8時頃からという。
羽化の途中は蝉の肌も弱く、敵に襲われたら一発でアウトなので慎重らしい。
羽化に失敗するのが、いくつもあるらしい。
一番目の写真のように葉っぱにすがって羽化するのもあり、地中から出て来た環境なりに羽化する足場を探すらしい。
いよいよ羽化がはじまり、幼虫の背中が割れて蝉が外に半身を乗り出した様子。
ll0031.kuma羽化②

この姿勢から下の方にのけぞり、全身が外に出た後、足で殻に捕まって、のけぞり姿勢を正し、ゆっくりと時間をかけて羽や全身を伸ばす。
羽にも血液が流れ、蝉の成虫の羽の大きさと色になってゆく。
この姿勢の時間は一晩をかけて、ゆっくりと行われる。
こうしてアブラゼミならアブラゼミなりの大きさと色に変わってゆくのである。
昆虫の場合には「変態」という用語を使うこともあるが、蝶や蝉など羽が生えて空を飛ぶものには「羽化」という言葉がふさわしい。
ll0011.kuma羽化③

四番目の写真では、羽化が終った蝉が抜け殻から離れたところに静止しており、右側に抜け殻が見えている。
写真で見るかぎり、まだ体の色はアブラゼミにはなり切ってはいない。
朝になれば羽化した蝉は餌(樹液など)や配偶者を求めて飛び立たなければならないから、それまでに全身を成虫の体にしておかなければならない。
蝉の成虫の命はせいぜい10日か2週間と言われている。
地中で木の根から樹液を吸って生きる数年の期間のことを考えると、誠にはかない命と言うべきだろう。
その故に日本人は古来から多くの詩歌に詠んできたのである。
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以下、私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載る一連の歌を引用する。
これらはWeb上のHPでもご覧いただける。

    青蝉よ翔べ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   別離とは白き紙かも夏逝くといのちの影をうつしてゐたり

   かるかやにすがりて羽化を遂げし蝶あしたの露にいのち萌え初む

   空蝉は靡ける萱(かや)にがつしりとすがりて残る 青蝉よ翔べ

   青蝉は野仏の耳をピアスとし脱皮の殻を残しゆきけり

   野仏の遠まなざしのはたてなる笠置山系に雲の峰たつ

   <汗匂ふゆゑにわれ在り>夏草を刈りゐたるとき不意に想ひぬ

   ひたすらに地に生くるもの陽炎(かぎろ)ひて蟻の行列どこまでつづく

   罪いくつ作り来しとは思はねど差しいだす掌(て)に蟻這はせをり

   蟻の列孜々(しし)と励みし一日は日の昏れたれば巣穴に戻る

   呵責とも慰藉(いしゃ)ともならむ漂白の水に漉かれて真白き紙は

   翔べるものわが身になくて哀しめば蜻蛉(あきつ)は岸の水草を発つ

   身も影もみどりとなりて畦(あぜ)渉る草陽炎の青田つづける

   法師蝉去(い)んぬる夏を啼きゆくははかなきいのちこそ一途なれ


睡蓮の咲くも閉づるも夢寐のうち和上の言ひし朱き蓮よ・・・・木村草弥
a0019858_2277睡蓮②

    睡蓮の咲くも閉づるも夢寐(むび)のうち
       和上の言ひし朱き蓮(はちす)よ・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。しかし自選の中には収録していないのでWeb上ではご覧いただけない。
掲出した写真の一番目、二番目のものは、いずれも「睡蓮」であり、素朴な可憐な蓮である。フランス人画家・モネの絵も、この蓮である。
a0019858_22541睡蓮

蓮には多くの種類があり、花を観賞するだけでなく、食用の「蓮根」として地下茎の部分を極端に太らせる品種改良したものなど、さまざまである。
鑑賞用の蓮にも古代の蓮「大賀蓮」のように古代の古墳から出た蓮の種から発芽させたものなど色々ある。
私の住む辺りは昔から地下水が豊富に「自噴」する地域として、その水を利用した「花卉」(かき)栽培が盛んで、
海芋(かいう)──カラーや、花菖蒲などが栽培されるが、これからのお盆のシーズンの花として「花蓮」が水田で栽培され、
夏の強い日差しの中にピンクの鮮やかな花を咲かせる。
a0019858_194529花蓮②

a0019858_191621花蓮

もちろん商品として出荷するものは「つぼみ」のうちに切り取り、葉っぱも添えて花市場に出荷される。
摘採は太陽のあがる前の早朝の作業である。月遅れ盆の8月上旬が出荷のピークであり、この時期には臨時に多くの人を雇って、早朝から作業する。

私の歌に戻る。
作歌の場面は、奈良の唐招提寺である。説明する必要もなく一連の歌の中に詠み込んであるので、歌を見てもらえば判ることである。
唐招提寺の一連の歌は「夢寐」と題して詠んでいる。
「夢寐」は、漢和辞典にも載るれっきとした熟語で「寐」=「寝」の字に同じである。
その後に引続いて「西湖」と題する一連から蓮に関するものを引用しておく。
いずれも『嬬恋』(角川書店)に載るもの。

    夢寐・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥 

   睡蓮の咲くも閉づるも夢寐(むび)のうち和上の言ひし朱き蓮(はちす)よ

   くれなゐの蓮は鑑真のために咲き朝日さしたり安心(あんじん)の池

   結跏趺坐和上のおはす堂の辺の蓮に朝(あした)の日照雨(そばへ)ふるなり

   <蓮叢を出て亀のゆく苦界あり>さわさわと開花の呼吸整ふ
           *丸山海道

   くれなゐの蓮群れ戯(そば)ふ真昼間の風はそよろと池を包みぬ

   睡蓮は小さき羽音をみごもれり蜂たちの影いくたび過(よ)ぎる

      西湖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   <睡蓮の中に西施が舫(もや)ひ舟>西湖の蓮にわれ逢ひ得たり
               *堀古蝶

   睡蓮の花閉ぢむとして水曇る金色の夕べ波立ちゆらぐ

   睡蓮にぴりぴり雷の駆けゆけり花弁をゆらし騒だつ水面

   声明(しやうみやう)に湖の明けゆく水面には岸にむかひて日照雨ふるなり

   てのひらに蓮の紅玉包みたし他郷の湖を風わたりゆく

   湖に真昼の風の匂ふなり約せしごとく蓮と向きあふ

   手にすくふ水に空あり菖蒲田の柵に病後の妻と凭(よ)りゐつ

   戻り来しいのち虔(つつ)しみ菖蒲田を妻と歩めば潦(にはたづみ)照る
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「日照雨」(そばえ)とは、陽が差しているのに小雨がはらはらと降ること。別名「きつねの嫁入り」などという。
「潦」(にわたずみ)とは俄か雨などで一時的に出来た水溜りのこと。




百日を咲きつぐ草に想ふなり離れゆきたる友ありしこと・・・・木村草弥
hyakun3百日草②

    百日を咲きつぐ草に想ふなり
        離れゆきたる友ありしこと・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

「百日草」は名前の通り夏の間、百日間も秋まで咲きつづける草花である。病気などにも罹らず極めて強い花である。
この歌は「花言葉」をネタに歌の連作を作っていた時のものであり、百日草の花言葉は「不在の友を想う」である。
花言葉のことだが、私の歌の「離れゆきたる友」というのは正確ではなく、私の方から何となく離れていった、というべきだろうか。
私の性癖として、友人、知人の何らかが鼻につくと身を引くところがあるのである。
一種の潔癖主義というか、包容力のなさ、ということであろうか。

hyakun2百日草③

百日草に戻ると、この草は私の子供の頃からある草で日本の草のように思っていたが、外来種らしい。外国では「薬用」として栽培されていたという。
地味な花で、今では余り盛んに植えられては居ないようだ。

nichin6日日草

今では、これも秋まで百日以上も咲きつづける写真③の「日日草」が、これに取って代わるだろう。
極めて安価な草で、病気にも強く、広く植えられている。私の方でも植えている。
いま調べたところ「百日草」はメキシコ原産でキク科の一年草で、「日日草」は西インド原産でキョウチクトウ科の一年草という。
歳時記にも、両方とも載っているので、それらを引いて終わりたい。

 百日草ごうごう海は鳴るばかり・・・・・・・・三橋鷹女

 蝶歩く百日草の花の上・・・・・・・・高野素十

 これよりの百日草の花一つ・・・・・・・・松本たかし

 一つ咲き百日草のはじめかな・・・・・・・・瀬野直堂

 病みて日々百日草の盛りかな・・・・・・・・村山古郷

 心濁りて何もせぬ日の百日草・・・・・・・・草間時彦

 朝の職人きびきびうごき百日草・・・・・・・・上村通草

 毎日の百日草と揚羽かな・・・・・・・・三輪一壺

 母子年金受く日日草の中を来て・・・・・・・・紀芳子

 働かねば喰えぬ日々草咲けり・・・・・・・・佐伯月女

 日日草なほざりにせし病日記・・・・・・・・角川源義

 紅さしてはぢらふ花の日日草・・・・・・・・渡辺桂子

 日日草バタ屋はバタ屋どち睦び・・・・・・・・小池一寛

 嫁せば嫁して仕ふ母あり日日草・・・・・・・・白川京子

 些事多し日日草の咲けるさへ・・・・・・・・・増島野花

 出勤の靴結ふ日ざし日日草・・・・・・・・鶴間まさし





昼顔のあれは途方に暮るる色・・・・飯島晴子
hamahiru021浜昼がお

    昼顔のあれは途方に暮るる色・・・・・・・・・・・・・飯島晴子

「昼顔」は、およそ野生のもので、よく目にするものとしては「浜昼顔」であろうか。
ヒルガオ科の蔓性多年草で、各地の海岸の砂地に自生する。
砂の中に地下茎が横に走り、地上茎も長く伸びて砂の上を這い、丸くて厚く、光沢のある葉を互生する。
旺盛な繁殖力で、ときに広い面積に群生しているのを見かけることがある。
地域によって異なるが5、6月ごろ葉腋に長い柄を出し、淡い紅色の花を上向きに開く。

この飯島晴子の句は、他の「存在感」を誇示するような花ではなく、地味に生きているヒルガオを「途方に暮れる色」と表現したのが秀逸である。

飯島晴子については ← いろいろ書いたので、ここを見てもらいたい。

私には昼顔や浜昼顔を詠んだ歌はないので、歳時記から句を引いて終わる。

 きらきらと浜昼顔が先んじぬ・・・・・・・・中村汀女

 浜昼顔咲き揃ひみな揺れちがふ・・・・・・・・山口草堂

 浜昼顔風に囁きやすく咲く・・・・・・・・野見山朱鳥

 はまひるがほ空が帽子におりてきて・・・・・・・・川崎展宏

 浜昼顔タンカー白く過ぎゆける・・・・・・・・滝春一

 浜ひるがほ砂が捧ぐる頂きに・・・・・・・・沢木欣一

 つつつつと浜昼顔の吹かるるよ・・・・・・・・清崎敏郎

 海高し浜昼顔に跼む吾に・・・・・・・・森田峠

 浜昼顔鳶が落とせし魚光り・・・・・・・宮下翠舟

 浜昼顔廃舟錨錆び果てぬ・・・・・・・・小林康治

 潮泡の音なく崩れ浜昼顔・・・・・・・・稲垣法城子

 天日は浜昼顔に鬱(ふさ)ぎつつ・・・・・・・・中村苑子

 浜昼顔島の空港影もたず・・・・・・・・古賀まり子

 風筋は浜昼顔を駈け去りし・・・・・・・・加藤三七子

 這ひながら根の消えてをり浜昼顔・・・・・・・・高橋沐石

 海鳴りや浜昼顔の引けば寄り・・・・・・・・下鉢清子

 浜昼顔に坐すやさしさの何処より・・・・・・・・向笠和子


「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」デビュー作が『鼻』であったことを思い出してくれたまえ・・・・木村草弥
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     「水洟(みずばな)や鼻の先だけ暮れ残る」
      デビュー作が『鼻』であったことを思い出してくれたまえ・・・・・・・・・木村草弥


昭和2年7月24日午後1時すぎ、芥川龍之介は伯母の枕元に来て、明日の朝下島さんに渡して下さいと言って、この句<水洟や鼻の先だけ暮れ残る>を書いた短冊を渡した、という。
彼の辞世の句である。

短冊には「自嘲」と前書きしてあったことから、芥川の文業の終末を象徴せしめる凄絶な辞世の句となって了った。

この歌は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)にコラージュ風の作品「辞世②」に載せたものである。この歌は「口語、自由律、現代かなづかい」を採っている。

chirashi芥川ポスター
二番目の写真は2004年4.24~6.6神奈川近代文学館で開かれた「芥川龍之介展」のポスターである。彼の生涯は1892年から1927年の35年間であった。

三番目の写真は『侏儒の言葉』の復刻版の函である。
931akutagawa1しゅじゅの言葉(函)

芥川龍之介は1892年に東京市京橋区入船町で出生、辰年辰月辰日辰の刻に生まれたというので「龍之介」と命名されたという。東大在学中に同人雑誌「新思潮」に大正5年に発表した『鼻』を漱石が激賞し、文壇で活躍するようになる。王朝もの、近世初期のキリシタン文学、江戸時代の人物、事件、明治の文明開化期など、さまざまな時代の歴史的文献に題材を採り、スタイルや文体を使い分けた、たくさんの短編小説を書いた。
体力の衰えと「ぼんやりした不安」から自殺。その死は大正時代文学の終焉と重なると言える。
彼の死の8年後、親友で文芸春秋社主の菊地寛が、新人文学賞「芥川賞」を設けた。

931akutagawa5羅生門
四番目の写真は『羅生門』だが、先に書いたようにいろいろの時代を題材にした中でも、これは有名な作品。後年、映画化などの際のネタ本となった。
芥川は、晩年『文芸的、余りに文芸的』という評論で「新思潮」の先輩・谷崎潤一郎と対決し「物語の面白さ」を主張する谷崎に対して、「物語の面白さ」が小説の質を決めないと反論し、
これがずっと後の戦後の物語批判的な文壇のメインストリームを予想させる、と言われている。
芥川は「長編」が書けなかった、などと言われるが、それは結果論であって、短編小説作家として、「賞」と相まって新しい新進作家を誕生させる記念碑的な存在である。


akutagawa-tokyo30w我鬼先生
五番目の写真は「樹下の我鬼先生」という自画像である。彼は俳号を「我鬼」と称し、多くの俳句を残している。
 
 人去ってむなしき菊や白き咲く

これは夏目漱石死後一周忌の追慕の句。同じ頃、池崎忠孝あての書簡には

 たそがるる菊の白さや遠き人

 見かえるや麓の村は菊日和


の句が見られるが、これも漱石追慕の句。 以下、すこし龍之介の句を引く。

 稲妻にあやかし舟の帆や見えし

「あやかし」は海に現れる妖怪をいう。謡曲「船弁慶」や西鶴の「武家義理物語」に登場する。俳句にも、こういう昔の物語に因むものが詠まれるのも芥川らしい。

 青蛙おのれもペンキぬりたてか

大正8年3月の「ホトトギス」雑詠のもの。友人がルナール『博物誌』に「とかげ、ペンキ塗りたてにご用心」があると指摘したら即座に、だから「おのれも」としてあると答えたという。

掲出の句 <水洟や鼻の先だけ暮れ残る> は『澄江堂句集』所載。そのイキサツは先に書いた。

 唐棕櫚の下葉にのれる雀かな

大正15年7月の「ホトトギス」に芥川は「発句私見」を書き、「季題」について「発句は必ずしも季題を要しない」としている。こうした論は芭蕉の「発句も四季のみならず、恋、旅、離別等無季の句有たきものなり」に影響されたものと言えよう。

先に掲げた『侏儒の言葉』の中には

 人生はマッチに似てゐる。重大に扱ふには莫迦々々しい。重大に扱はなければ危険である。

という「箴言」が載っている。これは芥川らしい「箴言」で、正と負の両方に1本のマッチを擦ってみせている。彼の説明によれば「論理の核としての思想のきらめく稜線だけを取り出してみせる」という技法に傾倒していた。
ということは、芥川にはもともと箴言的なるものがあり、この箴言の振動力を、どのように小説的技法となじませるかを工夫し続けてきたのだった。こうした箴言だけをアフォリズムとして書き連ねたのが、この本だと言える。

931akutagawa8全集
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私の掲出の歌で「デビュー作」としているのは正確ではない。
処女作は、この3年前に「新思潮」に出ているが、有名になったのは、この『鼻』であるので、ご了承願いたい。
今日7月24日が芥川の「忌日」であるので、日付にこだわって載せた。


聖女ベルナデッタゆかりのサン・ジルダール修道院教会・・・・木村草弥
110521-lourdes7601サン・ジルダール修道院
↑ サン・ジルダール修道院教会
110521-lourdes7261ベルナデッタの棺が安置されている聖堂
 ↑ 聖女ベルナデッタの棺が安置されている聖堂
110521-lourdes6631サン・ジル 水の聖母
 ↑ 「水の聖母」像

──巡礼の旅──(15)─再掲載・初出2013/07/28

     聖女ベルナデッタゆかりのサン・ジルダール修道院教会・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この修道院は、奇跡の水で有名なルルドの聖女ベルナデッタが後半生の身を寄せたところであり、彼女は、ここで亡くなった。
ここ、ブルゴーニュ地方ニエーヴル県の県庁所在地ヌヴェールは、パリ南方約200キロのロワール川とヌヴェール川の交わるところにある。
ここには現在は、ルルドと同じように奇跡の洞窟が再現され、そこに湧く水もルルドから運ばれてきているという。
詳しくは、→ 「ベルナデッタの奇跡」のページに詳しい。

私は何も「奇跡」を信じているわけではないが、先に「ルルド」のことを書いたので、その延長線上のものと理解されたい。
「病を癒す奇跡の泉「聖地ルルド」への旅」については ← を参照されたい。

110521-lourdes7711聖ベルナデッタの遺体
 ↑ 聖ベルナデッタの遺体

ここでは聖女ベルナデッタの遺体も拝めるようになっているが、まるで生きて眠っているかのようだが、これはミイラ化した遺体の顔と指先を「蝋細工」加工したものである。

蛇足だが、
教会という単語は、カトリック教会といった意味の大きな概念から、個別の聖堂共同体(小教区)という意味まで、
かなり使い方に幅があると思われるが、後者の地元教会的な意味としては、

教会とは、多くの一般信者からなる信仰共同体で、司祭(神父)が奉仕職として司牧するところ、ミサに一般信者が集う。
他方、修道院とは、修道者による共同体で、それぞれの修道会の目的による修道生活を行なうところ。
一般信者の共同体である小教区(教会)を委託されている場合、教会への司牧も行なうが、 本質的には、修道生活を行なうことが本分だといえる。
修道会は多数あるが、大きく分類すると観想修道会と活動修道会の二種類があり、 前者は基本的に祈りを中心とした修道生活を行なう。
後者は教育など修道会それぞれの社会活動を通して、神の愛を告げ知らせる活動をする。

勉強に例えると、
教会とは皆が集まる教室のようなところ、修道院とは研究者による研究室のようなところ...といえるかも知れない。
「修道院も教会みたいにミサや冠婚葬祭などの儀式を行」なうが、それは修道活動の中で行なうものである。

修道会は修道者による会であり、男性の修道会と女性の修道会がある。
修道者とは「貞潔」「清貧」「従順」という誓願を立て、奉献生活を行なう人を言う。
家族を持たず、私有財産を放棄し、長上の指導に従い、徹底的にイエスに倣って生きる。
男性の修道者には、司祭(神父)に叙階された修道司祭と、司祭以外の形で修道生活を生きる修道士がいる。
女性の修道者(修道女)の場合、司祭叙階はない。
別の切り口からいうと、司祭には、教区司祭(一般の司祭)と修道司祭(上記の修道者である司祭)の二種類があることになる。

カトリックの場合は僧職者は、昔の仏教のように「妻帯禁止」である。
聖母マリアは大工である夫が居たが、処女懐胎によってキリストを産んだことになっている。
つまりキリスト教にとっては肉欲は「罪」なのであり、童貞、処女が清らかなものとされる。
修道者は、その理想を体現しているものとされるわけである。

そんなキリスト教にあっても、世の中、せちがらくなって、修道院入りをめざす人はめっきり減ってしまった。
入り手が無くなって閉鎖される修道院も珍しくない昨今である。


烈日に緑蔭つくる高槻の垂るる細枝のこともなげなる・・・・窪田章一郎
img39141b0azik6zjケヤキ

   烈日に緑蔭つくる高槻の
      垂るる細枝(え)のこともなげなる・・・・・・・・・・・・・・窪田章一郎


「槻」の木とはケヤキの高木のことであるらしい。
写真にケヤキ並木を出してみたが、このくらいの樹木になれば「緑蔭」も豊かであろうし、この歌のように「細枝」も何ということもない「こともなげ」な光景だろう。
今しも「烈日」の容赦ない暑い日々である。
父の窪田空穂の短歌結社の名が「槻の木」だった。この歌は歌集『定型の土俵』(94年刊)所載。

窪田 章一郎(くぼた しょういちろう、1908年8月1日 ~ 2001年4月15日)は、歌人。窪田空穂の長男として長野県東筑摩郡島立村に生まれる。旧制豊山中学校(四年修了)を経て早稲田大学文学部国文科卒。1943年、武川忠一らが創設した早稲田大学短歌会に指導役として参加。そこから発展した歌誌『まひる野』を創刊主宰した。早稲田大学講師、教授、名誉教授を歴任。国文学者としては西行研究の第一人者であった。

1980年、「素心臘梅」で第14回迢空賞受賞。1988年、「窪田章一郎全歌集」で第11回現代短歌大賞受賞。1995年、「定型の土俵」で第2回短歌新聞社賞および第10回詩歌文学館賞受賞。

門下に馬場あき子、岩田正、篠弘、島田修三などが居る。

掲出歌の「烈日」に因んで、次のような歌を選んでみた。

  透きとほる枝さき宙を射す白日(まひる) 一途に山毛欅(ぶな)の木の芽炎え立つ・・・・・・・・鈴木実

  にほひたつ舗装道路の炎昼を戸籍抄本いつぽん取りぬ・・・・・・・・・・・・・・・前川佐重郎

  入り日にもなほ落日の瞬間がありてたまきはる内に沈みぬ・・・・・・・・・・・・・・岡井隆

  素はだかの入り日砂漠に見届けて城去る時を尖る三日月・・・・・・・・・・・・・・田中成彦

  こんなにも赤いものかと昇る日を両手に受けて嗅いでみた・・・・・・・・・・・・・・山崎方代

  落日は一天四海の光吸ひかく燿ふや炎と燃えて・・・・・・・・・・・・・・・・比嘉美智子

  むらさきに砂を焦がして炎上すメソポタミヤの大き落日・・・・・・・・・・・・・篠 弘

  焔立ち大き日輪のゆるぎ出づるたまゆら地球自転を速む・・・・・・・・・・・・植松寿樹

  アナトリアに今沈みゆく太陽の器となりて湖輝きぬ・・・・・・・・・・・・・大原輝子

  けさ首里の太陽(テイダ)はおぼろ顔のない女のように日傘をひろげ・・・・・・・・・佐野豊子

  太陽も滅びに向かふと読みて知り心ふるへき少年の日に・・・・・・・・・・・・宮地伸一

  ビルのうへの雲輝けり彼方にはあらむ太陽の灼熱の球・・・・・・・・・・・・浜田棟人

  没つ陽の大きたゆたひにめくるめくにんげんといふこの身もてあます・・・・・・・・・成瀬有


(転載) 京都新聞2017/07/21夕刊「現代のことば」白井聡執筆『私物化』
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    (転載) 京都新聞2017/07/21夕刊「現代のことば」白井聡執筆『私物化』

本日付けの記事だが、私の言いたいことが、ここには全部書かれているので、そのまま転載しておく。
読んでみてください。 草弥・記
一文字に引き結びたる唇の地蔵よ雷雨の野づらをゆくか・・・・木村草弥
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    一文字に引き結びたる唇の
       地蔵よ雷雨の野づらをゆくか・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

「地蔵菩薩」は五十六億七千万年先に弥勒下生、という仏教説話に基づいて衆生を救いにやって来るという。
特に、子供の守り神として古くから庶民に信仰されている親しみのある仏様である。
だから路傍や墓地の入り口に鎮座する「六体地蔵」などで目にするものである。
掲出した歌の一つ前に

風化の貌(かほ)晒せる石が記憶する蜜蜂の羽音と遠雷の響きと

という歌があるが、これも一体のものとして鑑賞してもらいたい。
時まさに「雷雨」の季節であるから、ふさわしいと思う。
私の歌のイメージは、雷雨の中もいとわずに子供たちを引き連れて地蔵が野づらを渡ってゆく、という空想である。
thumb_1085912032稲妻

「雷」を「いかづち」と言うが、これは元は「いかつち」で、「いか(厳)」「つ(の)」「ち(霊)」の意味であり、「いかめしく、おそろしい神」の意であった。
だから古くから「いみじう恐ろしきもの」(枕草子)とされてきた。そんな恐ろしい雷雨でも、地蔵には何ら支障はないのである。
そんなことを考えながら、以下の雷雨の句を見てもらいたい。雷は「はたた神」とも言う。

 はたた神過ぎし匂ひの朴に満つ・・・・・・・・川端茅舎

 夜の雲のみづみづしさや雷のあと・・・・・・・原石鼎

 はたた神下りきて屋根の草さわぐ・・・・・・・・山口青邨

 赤ん坊の蹠(あなうら)あつし雷の下・・・・・・・・加藤楸邨

 遠雷や睡ればいまだいとけなく・・・・・・・・中村汀女

 遠雷のいとかすかなるたしかさよ・・・・・・・・細見綾子

 激雷に剃りて女の頚(えり)つめたし・・・・・・・・石川桂郎

 遠雷やはづしてひかる耳かざり・・・・・・・・木下夕爾

 真夜の雷傲然とわれ書を去らず・・・・・・・・加藤楸邨

 鳴神や暗くなりつつ能最中(さなか)・・・・・・・・松本たかし

 睡る子の手足ひらきて雷の風・・・・・・・・飯田龍太

 大雷雨国引の嶺々発光す・・・・・・・・鬼村破骨






かがなべて生あるものに死は一度白桃の彫りふかきゆふぐれ・・・・木村草弥
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      かがなべて生あるものに死は一度
          白桃の彫りふかきゆふぐれ・・・・・・・・・・・・木村草弥

  
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
白桃と言っても早生から晩生までいろいろ種類があるので一概には言えないが、そろそろ桃が出回る季節になってきた。
いま私の座っている座敷机の前の床の間に、この歌を吉川美恵子さんが書いていただいた軸が掛かっている。
吉川美恵子さんについては、ここで詳しく書いたので参照されたい。

この歌は、私の最近の「死生観」を濃密に反映したものと言えるだろう。
人間だれでも一度は死ぬものである。一世を風靡する権力者も市井の凡人も、すべて等しく「死」は免れない。
われわれは、そのことを忘れて過ごしがちである。特に、若い時や健康に恵まれて順調な時には「死」は意識の中にないのが普通であろう。
だが、古来、賢人たちは、このことに何度もメッセージを発してきた。ヨーロッパにおけるキリスト教にいう「メメント・モリ」然りである。

一方の「白桃」というのは文学的なイメージの世界では「女性の臀部」を象徴するものとして知られている。
桃のもつ特有のなだらかな丸い形。それに胴に入るくびれの線から、そのように概念づけされて来た。
「シンボル・イメージ小事典」などにも書かれている。
私の歌は、そういうことを踏まえて「メタファー」を含んでいると理解いただきたい。
白桃という「生」に対応する「死」ということである。

字句の解説をしておくと「かがなべて」というのは、「かが」=日々である。
この言葉には歴史があって「古事記」の倭建命と御火焼の老人との会話

 新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる・・・・・
 日日なべて夜には九夜 日には十日を

というくだりに出てくるフレーズを踏まえている。「なべて」=並べて、であり、「かがなべて」=日々をかさねて、という意味になろうか。
意識して古代の文学的な伝統に連なりたい、というところから、こういう古語を使うことになる。

以下に歌集に載る当該の私の歌8首を引用する。

      かがなべて

  臥す妻に紅ほのかにも合歓の花のこよひ咲き初む つぎねふ山城

  白桃に触れたる指をいとしみてしばらく宙にかざしゐる宵

  唇(くち)を吸ふかたちにも似て水蜜桃(すいみつ)をすする夕べはほのあかりせり

  かがなべて生あるものに死は一度 白桃の彫り深きゆふぐれ

  わが味蕾すこやかなるか茱茰(ぐみ)ひとつ舌に載すれば身に夏の満つ

  執着を離れ得ざればかたつむり寝ても覚めても殻の中なる

  この夏の去りゆくものを追ひたてて炎となりて夾竹桃もゆ

  夕つかた虹の脆さを哀しめばわが痩身をよぎるものあり

一番はじめの歌の終りの部分「つぎねふ」というのは「山城」にかかる「枕詞」である。ここに引用した歌の小見出しの全体の章名を「つぎねふ山城」としてある。

歳時記から「桃」の句を引いて終わる。
なお俳句では「桃」は秋の季語である。今日では季節感とズレがある。

 さえざえと水蜜桃の夜明けかな・・・・・・・・加藤楸邨

 白桃を洗ふ誕生の子のごとく・・・・・・・・大野林火

 中年や遠くみのれる夜の桃・・・・・・・・西東三鬼

 朝市の雨沛然と桃洗ふ・・・・・・・・中島斌雄

 白桃に触れたる指を愛しみをり・・・・・・・・斎藤空華

 白桃に入れし刃先の種を割る・・・・・・・・橋本多佳子

 水蜜や足を清しく婚を待て・・・・・・・・秋元不死男

 白桃をすするや時も豊満に・・・・・・・・能村登四郎

 白桃や満月はやや曇りをり・・・・・・・・森澄雄

 白桃の浮きしが一つづつ沈む・・・・・・・・小松一人静

 桃冷す水しろがねにうごきけり・・・・・・・・百合山羽公

 乳房ある故のさびしさ桃すすり・・・・・・・・菖蒲あや

 と見かう見白桃薄紙出てあそぶ・・・・・・・・赤尾兜子

 白桃に触れてはがねの薄曇る・・・・・・・・松本秀子

 桃の実のほのぼのと子を生まざりし・・・・・・・・きくちつねこ


ランス「フジタ礼拝堂」Chapelle Foujita à Reims・・・・・木村草弥
800px-ChapelleFoujitaフジタ礼拝堂
↑ フジタ礼拝堂
p9251915フジタ礼拝堂①
 ↑ フジタ礼拝堂・聖母子
fujita_maria_lフジタ礼拝堂・祭壇画の聖母子
↑ フジタ礼拝堂・祭壇画の聖母子 拡大図
p1011138フジタ礼拝堂④ゴルゴダの丘への道行き
 ↑ キリスト・ゴルゴダの丘への道行き
f0095128_235273フジタ礼拝堂
 ↑ ステンドグラスが少し見える

──巡礼の旅──(14)─再掲載初出2013/07/23

      ランス「フジタ礼拝堂」Chapelle Foujita à Reims・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この礼拝堂については田中久美子さんが書いた → 「フジタ礼拝堂」というページがあるので、先ず、それを読んでもらいたい。 ↓
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     シャンパンの財が育んだランスのアートスポット
            フジタ礼拝堂
      ──平和を望んだ藤田嗣治晩年の傑作──


1913年、27歳の時に画家になることを夢見てフランスにやってきた藤田嗣治(Tsuguharu Fujita/Léonard Foujita)は、エコール・ド・パリのひとり としてパリのモンパルナス(Montparnasse)で大輪の花を咲かせます。
フジタは2度の大戦の後の1959年、ランスの大聖堂で君代夫人とともに洗礼を受けました。
そのときの代父はシャンパン・メーカー、マムの社長であるルネ・ラルー(René Lalou)。
そしてフジタは、マムの敷地内に平和の聖母に捧げる礼拝堂を作ることを思い立ったのです。

1966年初夏、80歳の画家は礼拝堂内部のフレスコ画に着手しました。
フレスコ画は漆喰を塗った壁が乾ききらないうちに素早く描かなければならないため、失敗が許されません。
大変な集中力を必要としますが、フジタは毎日12時間、壁と向かい合い、全部で200m²にもおよぶ空間をわずか90日間で仕上げました。
こうして秋に完成した礼拝堂は、ランス市に寄贈されることになりました。
正面の壁画にはキリストを抱いた聖母が描かれ、その右側のサインの部分に君代夫人が描かれています。
f0095128_23563772フジタ礼拝堂・君代夫人
 ↑ 君代夫人
君代夫人は2009年4月に逝去され、最愛の夫が眠る礼拝堂右側、≪最後の晩餐≫の絵の下に葬られました。

f0095128_23585717フジタ礼拝堂・最後の晩餐⑥
 ↑ 「最後の晩餐」 藤田夫妻は、この絵の下に眠る。

f0095128_23385616フジタ礼拝堂・磔刑図
 ↑ キリスト磔刑図

入り口上のキリスト磔刑図の右側には、ひざまずくラルーとフジタの自画像が描かれています。
f0095128_23523023フジタ礼拝堂・藤田の顔
 ↑ メガネの人が藤田。その左がマム社の社長ルネ・ラルー

ステンドグラスがある出窓の部分の壁には、この土地にふさわしくシャンパンの樽に腰掛ける聖母とキリスト、その向こうにはぶどう畑や大聖堂が見えます。
聖母を樽の上に腰掛けさせるという斬新な図像を描くにあたって、フジタは法王に許可を取ったと伝えられています。
ステンドグラスはフジタの下絵を、ランスの名匠シャルル・マルク(Charles Marq)の手によって仕上げられました。
その主題は、洗礼を受けたフジタの想いを表すかのように、「天地創造」や「アダムとイヴ」、「ノアの箱船」など『旧約聖書』からとられました。

f0095128_191295フジタ礼拝堂・七つの大罪
 ↑ 「七つの大罪」をテーマにした画は、傲慢、嫉妬、暴食、色欲、怠惰、貪欲、憤怒 が描かれている。

また聖具室の扉にも注目してください。
16枚の小さな絵がありますが、イタリア・ルネサンスのボッティチェリ(Sandro Botticelli)、ドイツ・ルネサンスのクラナハ(Lucas Cranach)やデューラー(Albrecht Dürer)など、美術史を飾る巨匠にフジタが捧げたオマージュになっています。

このように礼拝堂には、見るべきたくさんのディテールがありますが、礼拝堂奥の左右にあるステンドグラスは、故国日本に対するフジタのまなざしを感じ取ることができる作品です。
テーマは広島――。ヨーロッパとアジアで大戦を経験したフジタは、戦争の悲惨さを身にしみて痛感していたのでしょう。
この礼拝堂を平和の聖母に捧げたのも、穏やかな世界を希求してのことです。小さい空間のなかには、画家の強いメッセージがあふれています。

田中久美子(Kumiko Tanaka/文)
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彼については → Wikipedia 藤田嗣治 に詳しい。

こういう壁画の絵の中に作者やパトロンなどを描き込むのは画家の特権であって、古来いくつかの作例がある。
藤田は、それに倣ったのである。
田中さんも書いているように、シャンパン・メーカーとして功なったマム社の社長もパトロンとして金を出した代りに、絵の中に顔を永遠に残すことになった。

田中久美子さんの文章の途中に挿入した写真は、田中さんのものではない。私が、田中さんの文章に合わせて挟んだもので了承されたい。
なお、堂内は撮影禁止であり、写真は撮れないから、掲出の堂内の写真はネット上から引いたものである。


少し文章を付け加えておきたい。
このフレスコ画制作中から藤田は下腹部痛を訴えていたが、「冷え」によるものと見られていたが、絵の完成後、病院で診察の結果「膀胱がん」が見つかる。
あちこち手を尽くしたが治療の見込みのつかないほど進行していて、パリの病院を転々としたあと、スイスのチューリッヒ州立病院に転院した。
チューリッヒ湖のほとりにある病院は静かで、窓辺にはよくカモメがやってきた。激しい痛みの伴う治療の中、カモメに餌を与えるときだけ心をなごませた。
1968年1月29日、凍てつくような寒さが続く日に、藤田は八十一歳の生涯を閉じた。
遺体はフランスへ運ばれ、かつて洗礼をうけたランスの大聖堂で葬儀が行われ、藤田が絵を描いたランスの「礼拝堂」に安置された後、
終の棲家となったヴィリエ・ル・バルクに葬られたが、今では礼拝堂の≪最後の晩餐≫の絵の下に夫婦ともに眠っている。
二か月後、日本政府は藤田の功績を称え、勲一等瑞宝章を授与する決定を下した。

DSC_2102フジタ礼拝堂
 ↑ フジタ礼拝堂への入口のアーチ・奥にチャペルが見える

フランスはカトリック信仰の強い国で、文化人なども若い頃にはカトリシスムに反抗したりしていても、死ぬときには、カトリックに和解を求めて死ぬという。
藤田も晩年には夫婦でカトリックの洗礼を受けて、聖母マリアに抱かれて安息に入ったということである。
田中さんの言うように、シャンパンで儲けた財力によって、このチャペルが成ったことは喜ばしいことである。

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──新・読書ノート──として、下記に追記する。

フジタ①
 ↑ 「藤田嗣治エッセイ選─腕一本 巴里の横顔」近藤史人・編─講談社文芸文庫2008/12/01第八刷刊
フジタ②
 ↑ 近藤史人「藤田嗣治─異邦人の生涯」講談社文庫2008/01/15刊

この記事の関連で、ここに挙げた二冊の本を読んだ。
編者の近藤史人という人は

1956年愛媛県生まれ。1979年東京大学文学部独文科卒。同年NHKにディレクターとして入局。
教養番組部、スペシャル番組部などを経て現在NHKエデュケーショナル統括部長。
制作した主な番組は、NHKスペシャル「革命に消えた絵画──追跡ムソルグスキー『展覧会の絵』」。同「故宮」。
同「空白の自伝・藤田嗣治」など。

藤田夫人・君代さんなどにも信頼されて色々のエピソードなどを聴かせてもらうなど、貴重な裏付けに満ちている。
詳しくは引かないが、広く読まれるべき本である。


山椒の葉かげに卵を生みゐたる黒揚羽蝶わらわらと去る・・・・木村草弥
kuroageha-omoteクロアゲハ雌

    山椒の葉かげに卵(らん)を生みゐたる
        黒揚羽蝶わらわらと去る・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

掲出の写真①は黒揚羽蝶の雌の羽の表の様子である。裏側の模様は少し違うが省略する。写真映りは白っぽいが、色は真っ黒である。

ageha032クロアゲハ

黒揚羽蝶の成虫は葉っぱを食べているわけではない。写真②のように花の蜜を吸って生きているのである。
揚羽蝶には色々の種類があるが、概して卵を生む植物は「香り」の強い草木に限定されているが、その中でも黒揚羽蝶は山椒、金柑などの柑橘類の木、パセリなどのハーブ類に卵を生む。
ハーブと言っても種類は多いので、その中でもパセリ類に限定される。
揚羽蝶の種類も色々あり、羽の模様もみな違うように取り付く草木も、それぞれ違う。黒揚羽と並揚羽とは取り付く木も共通するものが多い。
ここでは要点を絞って黒揚羽蝶と、その幼虫に限定する。
kuroageha-youchu01クロアゲハ威嚇

気持が悪いかも知れないが、写真③は幼虫の蛹になる直前の終齢の頃のもので、頭の先に赤い角状のものを出して「威嚇」しているところ。
独特の臭気も発する。これも威嚇のためである。
この写真の一日後には、この幼虫は「蛹」(さなぎ)になった。
写真④に、その蛹の様子を載せる。
kuroageha4クロアゲハ蛹

糸を一本吐いて柑橘類の木の茎に体を固定して蛹の様態に入ったもの。
この段階で捕食者から襲われないように、周囲の木と同じ色になって保護色を採るというから、その知恵には恐れ入る。
幼虫は夏の間に何度も孵るが、晩秋に蛹になったものは、この蛹の状態で「越冬」して、翌年の春に「羽化」して黒揚羽蝶の成虫になり、
雄、雌が交尾して、雌が産卵して新しい年度の命が発生する。
卵は纏めては生まない。ちょうど鰊の「かずのこ」の一粒のような大きさの卵を木の葉っぱのあちこちに、ポツンポツンと産み付ける。
色は葉っぱに似せて緑色をしている。この卵の段階でつまんで取り去ることも出来る。
この卵から孵ったものは黒っぽいが、黒揚羽も普通の揚羽も、とてもよく似ている。
この段階では緑と黒の保護色なので、葉っぱに紛れて見つけにくい。
写真⑤は蛹になる直前の終齢の幼虫を角度を変えて撮ったもの。
kuroageha3クロアゲハ幼虫終齢

黒揚羽の幼虫は、ここまで来ると、写真③も同様だが、いかにも気味の悪い毒々しい姿になったところである。

「蝶」は春の季語だが、春以外の季節にも居るので、その時は季をつける。
夏の蝶の代表は揚羽蝶である。これには十種類ほど居るという。一番よく目に止まるのは黒と黄色の縦じまの普通の(並)揚羽蝶ということになる。
黒揚羽蝶は夏らしい強さ、激しさを持っていると言われている。
以下、それらを詠んだ句を少し引いて終わりたい。

 黒揚羽花魁草にかけり来る・・・・・・・・高浜虚子

 渓下る大揚羽蝶どこまでも・・・・・・・・飯田蛇笏

 夏の蝶仰いで空に搏たれけり・・・・・・・・日野草城

 碧揚羽通るを時の驕りとす・・・・・・・・山口誓子

 乱心のごとき真夏の蝶を見よ・・・・・・・・阿波野青畝

 山の子に翅きしきしと夏の蝶・・・・・・・・秋元不死男

 夏の蝶一族絶えし墓どころ・・・・・・・・柴田白葉女

 日蝕のはげしきときに揚羽とぶ・・・・・・・・百合山羽公

 賛美歌や揚羽の吻を蜜のぼる・・・・・・・・中島斌雄

 夏蝶の風なき刻を飛べりけり・・・・・・・・池上浩山人

 黒揚羽舞ひ来て樹下に風起す・・・・・・・・茂恵一郎

 好色の揚羽を湧かす西行墓・・・・・・・・安井浩司

 黒揚羽黒と交わる神の前・・・・・・・・出口善子

 熟睡なすまれびととあり黒揚羽・・・・・・・・久保純夫

 魔女めくは島に生まれし黒揚羽・・・・・・・・大竹朝子

 摩周湖の隅まで晴れて夏の蝶・・・・・・・・星野椿

 乱心のごとき真夏の蝶を見よ・・・・・・・・阿波野青畝

 磨崖仏おほむらさきを放ちけり・・・・・・・・黒田杏子

白炎天鉾の切尖深く許し・・・・・橋本多佳子
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  白炎天鉾の切尖深く許し・・・・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

京都の「祇園祭」は7月17日の今日、三十数基の山鉾が巡幸する。
数年前からは旧例に戻して今日の「前祭」23基と、7月24日の「後祭」10基に分けて巡行されることになった。
この頃は梅雨末期で激しい雨が降ることもあり蒸し暑いが、京都では祇園祭が過ぎると梅雨が明けると言われているが、今年はどうだろうか。

「貞観大地震・大津波」についての朝廷による公式記録『日本三代実録』のことは歌集『昭和』にも載せたが、
町衆の祭である「祇園祭」も、同年は御霊鎮(みたましずめ)として催行されたと言われている


掲出の橋本多佳子の句は、スケールの大きい祇園祭を、思念ふかく描いて秀逸である。
丁度そのときは雨が上って夏の太陽が──つまり「白炎天」が照り付けていたのだろう。
だから炎帝が高い長刀鉾の切っ先が空に突き刺さるのを許している、と並の詠み方ではなく、描いているのである。

写真①は鉾の行列の先頭を切る長刀鉾である。

03s祇園祭外人

祇園祭も国際化して、写真②の「くじ改め」の塗り箱を指し出すのは外人である。
外人は、こういうイベントに参加できるのが大好きなので、選ばれたことに大感激である。
裃(かみしも)姿で正装して張り切っている。
お断りしておくが、写真は、いずれもネット上から拝借した過年度のものである。

ここで「祇園祭」のことを少し振り返ってみよう。
02s稚児

写真③は巡幸にあたり道路に張られた注連縄を太刀で切る「稚児」である。
この稚児の役は資産家の子供が選ばれ、約1ケ月間、家族と離れて精進潔斎して奉仕するが、家からの持ち出しは大変な金額にのぼるので、誰でもがなれるものではない。

祇園祭は「町衆」の祭と言われる。
この祭は八坂神社の祭礼の一環だが、貞観11年、陸奥では大地震・大津波が襲来し、各地で疫病が流行し都も荒れ果てていた時に町衆が中心になって催行したという。

詳しいことはネット上で検索してみてもらいたい。
IMG_1333-01s胴がけ

写真④は鉾や山の胴体を飾る「胴掛け」と呼ばれるタペストリーなどである。掲出した胴掛けは尾形光琳の有名な「かきつばた」図を忠実に織物にしたもので、これは最近の新作である。古いものではヨーロッパから渡来したタペストリーなども幾つかある。この辺にも当時の町衆の財力のすごさを示している。
祇園祭方向転換

写真⑤は四つ角に差し掛かった時に鉾の方向転換の引き綱の様子を上から見たものである。「辻まわし」という。
昔と比べると、巡幸のルートも大きく変わった。昔は四条通よりも南の松原通などを通っていたが、道が狭いので、道路の広い御池通(戦争末期に防火帯として道路を使用する目的で沿道の建物を強制的に引き倒した、いわゆる疎開道路で拡幅されたもの)を通るように、当時の高山義三市長が強引に替えたものだが、今では、これが正解だったと判るのである。

ここで「宵山」と当日の大きな写真を載せておく。
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終りに歳時記に載る句を少し引く。

 月鉾や児(ちご)の額の薄粧(けはひ)・・・・・・・・曾良

 祇園会や二階に顔のうづ高き・・・・・・・・正岡子規

 人形に倣ふといへど鉾の稚児・・・・・・・・後藤夜半

 鉾の灯のつくより囃子競ひぬる・・・・・・・・岸風三楼

 神妙に汗も拭はず鉾の児(ちご)・・・・・・・・・伊藤松宇

 大車輪ぎくりととまり鉾とまる・・・・・・・・山口波津女

 水打つてまだ日の高き鉾の街・・・・・・・・飯尾雅昭

 鉾の上の空も祭の星飾る・・・・・・・・樋口久兵

 鉾を見る肌美しき人と坐し・・・・・・・・緒方まさ子



桔梗や男も汚れてはならず・・・・石田波郷
yun_448桔梗本命

  桔梗や男も汚れてはならず・・・・・・・・・・・・・石田波郷

桔梗(ききょう)あるいは漢字の音読みにして「きちこう」とも発音される。
この波郷の句ではキチコウの読みである。

キキョウ科の多年草で「秋の七草」の一つであるから、俳句では秋の季語となるが、実際には六月中旬には咲きだすところが多い。
青みがかった紫のものが多いが、栽培種も多く、白、紫白色、二重咲きなどいろいろである。
矮性の小さな種類もあるが、在来の50センチくらいの高さで、紫色のものが一番ふさわしい。
kikyou4キキョウ白

この波郷の句の「男も汚れてはならず」というフレーズに、老いの境地に居る私としては、ピシリと鞭うたれるような気がして、とっさに頂いた。
老いても男は身ぎれいにして、シャキッとして居なければならぬ。
「万葉集」にいう「あさがお」は桔梗のこととされている。

小林一茶の句に

 きりきりしやんとしてさく桔梗かな

というのがあるが、きっぱりと、すがすがしい野性味のある花と言えるだろう。
私の歌にも桔梗を詠んだものがあるが、昨年に採り上げたので遠慮して、歳時記に載る句を引いて終わる。
yado33kikyouキキョウ矮性

 桔梗の紫さめし思ひかな・・・・・・・・高浜虚子

 仏性は白き桔梗にこそあらめ・・・・・・・・夏目漱石

 かたまりて咲きし桔梗のさびしさよ・・・・・・・・久保田万太郎

 桔梗の花の中よりくもの糸・・・・・・・・高野素十

 桔梗やまた雨かへす峠口・・・・・・・・飯田蛇笏

 桔梗には鳴る莟あり皇子の墓・・・・・・・・平畑静塔

 桔梗いまするどき露となりゐたり・・・・・・・・加藤楸邨

 桔梗一輪死なばゆく手の道通る・・・・・・・・飯田龍太

 桔梗挿す壺の暗さをのぞいてから・・・・・・・・桂信子

 桔梗やおのれ惜しめといふことぞ・・・・・・・・森澄雄

 おもかげをさだかにしたり白桔梗・・・・・・・・細見綾子

 技芸天桔梗花びら露むすび・・・・・・・・沢木欣一

 誰やらの死をたとふれば桔梗かな・・・・・・・・石原八束

 桔梗やきりりと辛き飛騨の酒・・・・・・・・草間時彦

 百本の桔梗束ねしゆめうつつ・・・・・・・・藤田湘子

 桔梗の色を見てゐる麻酔の前・・・・・・・・宮岡計次

 桔梗咲く母のいのちのあるかぎり・・・・・・・・小桧山繁子
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写真③は矮性のキキョウである。


むらさきにけぶる園生の遥けくてアガパンサスに恋の訪れ・・・・木村草弥
yagapanアガパンサス

──季節の歌鑑賞──夏の「花」三題──

   ■むらさきにけぶる園生の遥けくて
       アガパンサスに恋の訪れ・・・・・・・・・・・・木村草弥


今日は夏の花三題を採り上げることにする。
掲出する歌は、いずれも私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
「花言葉」の連作を作っていたときの作品だ。
写真①は「アガパンサス」で、このごろではあちこちに見られるようになった。
花言葉は「恋の訪れ」であるから、この言葉を元にして歌を作ってある。
ユリ科の多年草で、南アフリカ原産。強い性質で日本の風土にもよく合うらしく、各地の花壇や切花用に盛んに栽培されるようになった。
君子蘭に似ているのでムラサキクンシランの和名もある。

gabera4ガーベラ①

    ■ガーベラに照り翳(かげ)る日の神秘あり
      鷗外に若き日の恋ひとつ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


写真②のガーベラも花色はいくつもある。花言葉は「神秘」。
この花はキク科の多年草で、この花も南アフリカ・トランスバールが原産地。野生ではなく、はじめから園芸植物として開発されたらしい。
明治末にわが国に紹介されたが、今では公園などに広く植栽され、色とりどりの彩りを見せている。
花期は長く秋まで咲く。

yun_942ルピナス

    ■藤房の逆立つさまのルピナスは
       花のいのちを貪りゐたり・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「ルピナス」は、マメ科ハウチワマメ属の総称。ルーピンとも言う。
世界各地に300種類もあるという。原産地は南ヨーロッパ。
藤の花を立てたようなので和名は立藤草。
私の歌は藤色の花を詠んでいるが、ルピナスは2008年、北海道の富良野でたくさん見かけた。
ただし写真は私のものではなく、yun氏の撮ったものを拝借した。
生命力旺盛な草で、花言葉は「貪欲、空想」。私の歌は、その「貪欲」を詠み込んである。

俳句に詠まれるものは、横文字の花の名で字数も多く、詠みにくいのか作品数も多くないので、省略する。


高階杞一詩集『夜とぼくとベンジャミン』・・・・・木村草弥
高階_NEW

──高階杞一の詩──(10)

     高階杞一詩集『夜とぼくとベンジャミン』・・・・・・・・・・・・木村草弥
                   ・・・・・澪標2017/07/20刊・・・・・・・

高階さんの最新詩集である。 
初出は2012年から2017年にかけて、先生の主宰誌「ガーネット」をはじめ「交野が原」などに発表されたもの40篇ほどである。
この本への収録作品数は30篇で、40篇ほどの候補作の中から最終的に30篇に絞り込んだという。

題名になった詩「夜とぼくとベンジャミン」は2016年8月に「つばさ」14号に発表されたものらしい。
ここで雑学を披露しておくと、「ベンジャミン」という人名は英語の男子名。 ユダヤ人名(ヘブライ語)の「ベンヤミン」に由来する。
旧約聖書に登場する「ヤコブ」の末息子。「右手(ヤミン)の息子(ベン)」の意味。「右手」には力・栄光・権力・正義・勝利、といったプラスの概念があるようである。
イギリスの国会議事堂の時計塔を作ったビッグベンの本名がベンジャミン・ホール。
「ビッグ・ベン」(Big Ben) という名称は、工事責任者で国会議員のベンジャミン・ホール卿(Sir Benjamin Hall, 1802年 - 1867年)の名にちなんで命名されたという説である。
ドイツ語、オランダ語では「ベンヤミン」。 イスラエル首相ネタニヤフ(私は嫌いだが)もベンヤミンである。  (閑話休題)

高階さんの詩にはメルヘンがあった。 
だが、この本に載る詩は難しい。語彙は易しいが、描いてあることが不気味である。 怖い。 
私は詩を読み解く評論家ではない。 無力な鑑賞者に過ぎないから「感覚」で物を言っている。

Ⅰ 土下座の後で   に載る一連は「武士」で貫かれているようだ。
「野にも山にも若葉がしげり」とか「実のひとつだになきぞかなしき」とか「爺、急ぐぞ」とか、歌曲や和歌やテレビ・ドラマの台詞の一節とかが巧みにコラージュされている。
この辺のところが現代詩の自由なところで、現代短歌の世界では、こういう自由は許されない。「剽窃」などとうるさい。
こういうコラージュを見て「にやり」とするところなどは私の好きな分野だが、現代短歌の世界は何とも窮屈なことであるのだ。
昔の俳諧、連歌、連句、和歌の世界では、そうではなかった。 いろんな「由来」「来歴」に、いかに通じているかが教養だったのだが・・・・。

この本の「あとがき」の中で、こう書かれている。  ↓

<今回ほどバラツキの多い詩集はない。
 それは見方を変えれば、前詩集以降、さまざまな表現法を模索してきた結果であるとも言えるのだが。
 詩の内容と形式は連動している。
 ラーメンにはどんぶり鉢が適しているが、京風の会席料理にどんぶりは似合わない。
 料理にはそれぞれ適した器がある。
 それを無視したら、せっかくの料理も台無しになる。
 それと同様、詩にも内容に合わせた器が必要になる。
 本書が多様な形式の混在となったのは、それだけたくさんの器を必要とする料理(思い)がこの五、六年、自分の中に少しずつ堆積してきていたからだろう。>

と書かれている。
私が、この本を読んで、今までの高階さんの「メルヘン」とは違った印象を持ったのは、そういうことなのだろう。

        浴室の歌

   ゴミ箱に牛が捨てられていた
   あふれそうなティッシュの上で
   牛は
   ぽつんと
   横を向いて立っていた

   夏の終わり
   高原でたくさんの牛を見た
   どこまでも続く牧場で 牛は
   草を食んでいた
   いつか不意打ちのように訪れる死のことなんか
   (たぶん)
   考えもせず
   牛は無心に草を食んでいた
   その横で
   ぼくはソフトクリームを食べていた
   おいしかった

   そんなことを 思い出しながら
   歯を磨いていたら
   浴室から歌が聞こえてきた
   さっきまでぼくの隣ですやすや寝ていた女の子
   (湯船の中だろうか)
   気持よさそうに歌っている

     《 花の香り おちちの泡だち
      牛乳石鹸 よい石鹸*

   ぼくが教えた歌だった

       *三木鶏郎作詞「牛乳石鹸のうた」より
---------------------------------------------------------------------
この詩などは、今までのメルヘンぽい高階さんの作品の流れと言えるだろうか。
今でもあると思うが「牛乳石鹸」の赤い箱を思い出してみてもらいたい。
この詩は、その外箱を見ながら作られたものである。 上手いものである。

Ⅳ 歌のアルバムは9月に始まって8月に終わる一年間の12の作品がある。
月の行事などに関連する作品が作られている。 
よく知られた流行歌の歌詞の一部が埋め込まれている。 章末には、原曲名と歌手名が列挙されているが、これは著作権をおもんばかってのことであろう。

Ⅴ 雨、みっつよつは、新しい表現を採っている。
高階さんにしては、かなり長い一連で、「〇」を付けて連詩のように詩を連ねてゆく形式である。

例えば、高階さんは犬が好きなので「犬と歩けば」という作品がある。

        犬と歩けば

   目の前を歩いている犬を見ていると
   まるで死などないように思える
   ただ歩いて
   しっぽをふって
   ときには走って
   全身まるごと 生きていることだけで
   できている

   そこが
   ニンゲンと ちょっと
   ちがうところかな

       〇

   犬の生涯
   人の生涯
   ノミの生涯
   どれも遠い所から見たら
   きっと同じに見える
   一瞬のうちに
   始まって 終わる
   悩んだり苦しんだりしていたことも
   一瞬のわたしとともに
   消えていく

   口笛を吹くように
   犬と歩けば

       〇

   棒に当たる
   この棒はどこから落ちてきたんだろう
   見上げれば
   ふかく青い空
   あの向こうから
   あやまって落としたひとのことを
   考える

       この棒 何に使っていたのかなあ

          (中略)

        〇

   犬は草むらが好き
   そこにはいっぱいステキなものがあるようだ

        〇

   春が来て
   木々の芽もふくらんできた
    
   まだ風は冷たいけれど
   犬は
   先へ先へと進む
---------------------------------------------------------------------------------
こうして書き抜いてみると、最初に書いた「不気味」とか「怖い」という感じは、しなくなった。
いつものメルヘンチックな「高階ぶし」のような気がしてきたから不思議である。

久しぶりに高階さんの詩に浸って「連想ゲーム」のように、「連詩」のように思考の繋がりを体感させてもらった。
長い詩が多いので多くは引けなかったのを、お詫びする。
有難うございました。




昏梅雨をつきて盛れる火の祭たいまつの男は汗みどろなる・・・・木村草弥
img_1288966_38644592_0那智の火祭り

    昏(くれ)梅雨をつきて盛れる火の祭
       たいまつの男(を)は汗みどろなる・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載る「み熊野」と題する一連の中のものである。
毎年7月14日に行なわれる「那智の火祭」は熊野那智大社の例大祭である。
この祭は12体の熊野の神々が大滝の前の飛滝神社に年に一度の里帰りの様子を表したものである。12体の大松明の迫力と熱気に、みんな我を忘れての歓声である。
2004年に「熊野三山の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されて、観光客も大幅に増えて来たという。
参詣道として世界で二例目ということでスペインの「サンチアゴ巡礼の道」からの視察団も表敬訪問してくれたという。

himatsuri2那智大社

写真②が熊野三山のひとつ熊野那智大社だが、社殿の前に熊野三山の守り神、三本足の神鳥「八咫烏(やたがらす)」の像が建っている。
熊野三山というのは、この熊野那智大社のほかに熊野本宮大社、熊野速玉大社をいう。
熊野那智大社は、ご神体は那智の滝であり、自然信仰の原点のように考えられるところである。
この大社に隣接して青岸渡寺があるが、明治初期の廃仏棄釈までは、両社一体の神仏混交のものであった。
前に書いたが、この青岸渡寺は「西国三十三ケ所霊場」巡りの一番札所である。
himatsuri5那智火祭②

写真④は、この火祭で松明をかつぐ役を奉仕した男たちが勢ぞろいして役目の報告をするところである。
himatsuri7那智火祭③

中世には「熊野詣で」と称して天皇や法皇などが行列をしつらえて京の都から遥々と参詣したのである。
今それらの道程が日の目を浴びて復活してきたのであるが、「歴史遺産」というのは古いままで保存されているのが原則であるのに、
道を整備し直して批判を浴びているという笑えぬ事態も出てきているらしい。

写真⑤は、この祭の一環として、火祭の前に奉納される「稚児の舞」である。和歌山県の無形文化財に指定されている。
himatsuri1火祭稚児の舞

いま歳時記を調べてみたが、那智の火祭ないしは火祭という項目は出て来るが、例句は無い。
今でこそ「熊野那智」の地は脚光を浴びているが1980年代あるいは90年代は、ローカルな行事として採録されなかったものと考えられる。
私の持っているようなものではなく、もっと大部の歳時記であれば載っているかも知れないが、お許し願いたい。
そんなことで、この辺で終りにしたい。



木の椀に白粥さくと掬ひをり朝粥会の法話終りて・・・・・木村草弥
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    木の椀に白粥さくと掬(すく)ひをり
        朝粥会の法話終りて・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

京都の夏は、盆地性の気候のため、とても暑い。
この夏の間を利用して各地の寺院などで暁天座禅会や緑蔭講座などが催される。
掲出の私の歌は、もう十数年も前のものであり、どこの寺のものか、などの詮索は止めて、一般的なものと受け取ってもらいたい。
掲出の「白粥」も、その場で写せるものではないので、あくまでもイメージであることを了承されたい。

hodo法堂

写真②は建仁寺の法堂(はっとう)であるが、ここ建仁寺でも毎年7月初・中旬に「暁天坐禅会と緑蔭講座」が催される。
もともと昔からの行事として「夏安居」という90日間の僧の修行の行事があったが、それを庶民にも開放したのが、暁天行事として定着したと言えるだろう。
建仁寺の場合に触れると、本年7月7日(金)~7月9日(日)の3日間に亘り開催された。

坐禅開始は6:30~、緑陰講座は7:10~。(終了 8:00前後)

※最終日7月9日の講座後には粥座(しゅくざ)[朝食]の接待があった。

◎各日程の緑陰講座の講師は下記の通り。

7月7日(金)

講  師  坂村真民先生 ご息女   西澤 真美子 先生

演  題 『坂村真民の詩魂』

7月8日(土)

講  師  花園大学仏教学科教授    佐々木 閑(しずか) 先生

演  題 『ブッダが教えたこの世の真実 ー諸行無常と諸法無我ー』

7月9日(日)

建仁寺派管長  小堀泰巖老大師

提  唱   碧巌録第七十九則
      『投子一切仏声』(とうすいっさいぶっしょう)』
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このような催しはあちこちで盛んであり、京都でもたくさんあるが、朝粥の接待のあるところは、後始末が面倒なので減ってきたらしく、
朝粥の出るのは、西本願寺の法話・朝粥、智積院の法話・朝粥などである。後は「おにぎり」「点心」「そーめん」などの接待が見える。
全国各地で朝粥会は行なわれ、毎週おこなわれるところも見られる。

ここでは「夏安居」を詠んだ句を引いて終りたい。

 まつさをな雨が降るなり雨安居・・・・・・・・藤後左右

 夏行とも又ただ日々の日課とも・・・・・・・・高浜虚子

 杉深くいかづちの居る夏行かな・・・・・・・・富安風生

 食堂(じきどう)も炷きこめられし安居かな・・・・・・・・皆吉爽雨

 夏に籠る山六月の椿かな・・・・・・・・・喜谷六花

 山門に山羊の仔あそぶ夏の始め・・・・・・・・中川宋淵

 夏行僧白粥に塩落しけり・・・・・・・・土居伸哉

 土性骨敲かれて居る安居僧・・・・・・・・河野静雲

 黒揚羽絶えず飛びゐる安居かな・・・・・・・・川上一郎



七月や雨脚を見て門司にあり・・・・藤田湘子
P2020052門司港夜景

   七月や雨脚を見て門司にあり・・・・・・・・・・・・・・・・藤田湘子

一読して何のあいまいさもなく納得される句である。
しかし、句の背景をなす情緒の中身については、読者の側で、さまざまに空想できるふくらみがある。
たとえば、作者名を消し、人物を女性だとしたら、急な夕立の雨脚を見ている情感には別な映像が結びつくだろう。
出会い、別れ、若い人、老いた人、あるいは、ごく日常的なすれ違いなど、さまざまな人生模様が想像できそうである。
短詩型では、常に「何を詠むか」と同時に「何を詠まないか」の選択が決め手となる。
この句は明瞭な事実だけを詠んで、あとは読者の想像に任せている。思い切りよく「捨てて」広がりを採ったのである。
昭和51年刊『狩人』所載。
掲出画像は「門司港夜景」である。七月の雨脚の写真を出したかったが、いい写真がない。

いまや七月半ばである。陰暦の七月は文月で秋に入るが、陽暦の七月は、最も夏らしい月である。
七月を詠んだ句を少し引いてみる。

 七月のつめたきスウプ澄み透り・・・・・・・・・・日野草城

 七月の鶏の筒ごゑ朝の杉・・・・・・・・・・森澄雄

 夕月に七月の蝶のぼりけり・・・・・・・・・・原石鼎

 七月の夕闇ちちもははもなし・・・・・・・・・・平井照敏

 七月の蝌蚪が居りけり山の池・・・・・・・・・・高浜虚子

 七月の青嶺まぢかく溶鉱炉・・・・・・・・・・山口誓子

 七月や銀のキリスト石の壁・・・・・・・・・・大野林火

 少年のつばさなす耳七月へ・・・・・・・・・・林邦彦

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藤田湘子の今の季節の句を引いて、終わりにする。

 柿若葉多忙を口実となすな

 口笛ひゆうとゴッホ死にたるは夏か

 蝿叩此処になければ何処にもなし

 干蒲団男の子がなくてふくらめり

 わが裸草木虫魚幽くあり

 真青な中より実梅落ちにけり

 朝顔の双葉に甲も乙もなし

 水草生ふ後朝(きぬぎぬ)のうた昔より

 巣立鳥明眸すでに岳を得つ

 山国のけぢめの色の青葡萄



己が花粉浴びまみれてや立葵・・・・三橋敏雄
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     己(し)が花粉浴びまみれてや立葵・・・・・・・・・・・・・・・三橋敏雄

アオイ科の越年草で人間の背丈よりも高くまで伸びる。単にアオイという植物はなく、一般にタチアオイのことを葵という。
原産地は中国、小アジアで、日本には室町時代に渡来し、鑑賞用に、また薬用に植えられたという。

葵の名が日本で最初に現れるのは「万葉集」だが、これはフユアオイまたはフタバアオイ(写真②)であるらしい。
futaba-aoiフタバアオイ本命

京都の「葵祭」に用いられるのもフタバアオイで、花ではなく葉を「挿頭」(かざし)にされるのである。
この植物は葵の名はついていても全く別のものでウマノスズクサ科のものである。
徳川家の家紋に使われたのが、これで、葉を三枚組み合わせて使われた。
先に5/15付けの「葵祭」の記事を書いた時に牛車の脇に吊るされるのが「藤の花」かと書いたのは正解で、葵祭は挿頭にフタバアオイの葉をかざしたので、この名がついたことが判明した。
写真③にフタバアオイの花をお見せする。
futaba-aoi3フタバアオイ花

話は変わるが、ネアンデルタール人の埋葬骨と一緒にタチアオイの花粉が発見されているという。
中国の唐代に牡丹が台頭するまではタチアオイが花の代表選手だったという。
花言葉は「平安」「単純」。花の色には白、赤、紫などがある。中国美女の立ち姿に似ており、古い中国で花の代表だったのも頷ける。

俳句にもたくさん詠まれており、それを引いて終わる。

 ひともとの葵咲きつぎたのしけれ・・・・・・・・日野草城

 門に待つ母立葵より小さし・・・・・・・・岸風三楼

 峡深し暮をいろどる立葵・・・・・・・・沢木欣一

 立葵のぞき棚経僧来たる・・・・・・・・石原八束

 咲きのぼるばかり葵の咲きのぼる・・・・・・・・見学玄

 蜀葵人の世を過ぎしごとく過ぐ・・・・・・・・森澄雄

 呼鈴を押してしばらく立葵・・・・・・・・鷹羽狩行

 雨はゆめなり雨の夜は白蜀葵・・・・・・・・阿部完市

 立葵まつすぐに来て破顔せり・・・・・・・・金谷信夫

 呼ぶ子帰る子十二時の立葵・・・・・・・・広瀬直人

 立葵大きな雨が三日ほど・・・・・・・・矢島渚男




中沢新一『鳥の仏教』・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

      中沢新一『鳥の仏教』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・・・新潮文庫2011/06/26刊・・・・・・・・・・・

鸚鵡が尋ねる。 カッコウが答える。 鳥たちの言葉から、ブッダの教えを伝える名著。 カラー挿絵多数収録。

カッコウに姿を変えた観音菩薩がブッダの最も貴い知恵について語り、鶴、セキレイ、ライチョウ、鳩、フクロウなどの鳥たちが、幸福へと続く言葉を紡ぐ。
20世紀初頭に存在が知られるようになったこの経典は、チベットで古くから読み継がれてきた、農民や牧畜民など一般の信者に向けられた書物。
はじめてチベット語から翻訳される、仏教思想のエッセンスに満ち溢れた貴重な一冊。

この文庫版は 2008/11/28に発売された単行本の文庫化である。
最初に出た際に新潮社の読書誌「波」2008年12月号に載る書評を引いておく。
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            『鳥の仏教』・・・・・・・・・・・・中沢新一

    「苦しみから私たちを解き放つ、正しい方法を教えてください」、鸚鵡は問いかける。
     カッコウに姿を変えた観音菩薩は答える、最も重要なブッダの知恵を。
     やがて森に集まった鶴、セキレイ、ライチョウ、鳩、フクロウ、
     様々な鳥たちが真の幸福へ続く言葉を歌い出す。
     チベットの仏典を訳し、仏教の核心にある教えを優しく伝える、貴重な一冊。
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        鳥たちが伝える仏教・・・・・・・・・・・・・・養老孟司

 鳥の仏教。
 表題がいいじゃないですか。『鳥の仏教』って。
中沢新一さんがこういうとっても「わかりやすい」ものを訳すようになるってことは、もう歳だっていうことじゃないですか。
まだまだ若いと思っていたのに。

 私自身の体験のなかにも、ネズミの仏教がある。
 東大医学部で解剖学教室の助手をしているときだった。
編集者に頼まれて、岩波書店の雑誌「科学」に、当時調べていたトガリネズミについて、自分の仕事の総説を書いたことがある。
 なんでわざわざ、そんな変なネズミを調べるのか。理屈をいえば、いくらだってある。
もう古稀を越えた現在の年齢になれば、なにをいおうと、要するにそんなものは理屈、後知恵だとわかっている。
でも当時は若かったから、マジメに書いた。でも最後のところでどうしても書きたくなった。
ヒトが本当に動物を「理解する」としたら、それはどういうことになるのか。むろん理屈にはならないはずである。
いくら素朴な科学主義者でも、どこまでも「理」でネズミがわかるとはいうまい。
 じつはそう考えたわけではない。ひとりでに筆が走った。
もし私が本当にトガリネズミを理解するとしたら、それはどういうことになるのか。最終的には「共鳴」というしかないであろう、と。
 出来上がった原稿は、恩師の中井準之助先生に目を通していただいた。なにしろ学術論文ではない、はじめての文章である。
こんなこと、発表していいのか。それもあって、読んでいただくつもりだった。
やがて帰ってきた原稿には、ただ「共鳴」の部分から線が引き出してあって、その線の先に、先生の字で「合掌」と赤字で書かれていた。
思えばこれが、私の最初の信仰告白だった。中井先生もそれをちゃんと「理解」しておられたことになる。
最後まで私にとっては頭が上がらない方だった。
 先生は若いときに両親を亡くされ、親戚の家で育てられたという。
家は建物自体も二百五十年続いた近江商人の旧家である。小さいときにはお題目をあげさせられて、閉口した思い出を語っておられた記憶がある。
 私も歳だから、自分が結局は仏教で育てられていることを、しばしば認識する。現代では大方の若者がそれに気づいていないであろう。
でもこういうものは、文化の根に入ってしまって、無意識になっているから、どちらにしても仕方がないのである。本音を語ればどこかで仏教が出てくるに違いない。
「鳥の仏教」は現代チベット仏教を一般人に親しみやすいように語ったものだという。
成立はたぶん十九世紀、でもその背景には古くからのチベット民話がある。
いろいろな種類の鳥が出てきて、それぞれの鳴き声で仏教の教えを語る。
こういう本って、いいですよね。あんまり説教臭くなく、説教をするからである。
 ダライ・ラマ14世がそうである。今年ダージリンのチベット難民センターに行った。
そうしたら壁にダライ・ラマの言葉の抜粋が貼ってある。
英語だけれど、韻を踏んで面白かったから、池田清彦との共著『正義で地球は救えない』(新潮社)の「あとがき」に盗用しておいた。
 チベット仏教は殺生戒が厳しいので、虫が採りにくい。タバコもダメ。そういうことについては、もっとだらしない宗派がいい。
でもまあ、私はお坊さんではないし、要は仏教のことだから、そうやかましいことはいわないだろう。
そう思いながら、欧米の病院で書類を書かされると、宗教の欄には「仏教」と胸を張って書くのである。  (ようろう・たけし 解剖学者)

中沢新一/ナカザワ・シンイチ
1950(昭和25)年山梨県生まれ。人類学者。
妻は翻訳家の川口恵子。日本史学者網野善彦は義理の叔父(叔母の夫)。作家の芹沢光治良は親戚。林真理子は小中学校の後輩。
2006年(平成18年)から多摩美術大学美術学部芸術学科教授・芸術人類学研究所所長。
著書に『チベットのモーツァルト』『森のバロック』『フィロソフィア・ヤポニカ』『カイエ・ソバージュ』シリーズ(全五巻)『精霊の王』『僕の叔父さん 網野善彦』『アースダイバー』『芸術人類学』『ミクロコスモスI~II』など多数。
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中沢新一の本は難解で読みづらいものだが、この本はイラストなども多く、読みやすい。


アルル「サン・トロフィーム教会」・・・・木村草弥
800px-Arles_Eglise_Saint_Trophimeサントロフィーム
↑ サン・トロフィーム教会
450px-Arles_-_Trophime_8サントロアフィーム
 ↑ 回廊中庭から鐘楼を望む
 
──巡礼の旅──(13)─再掲載・初出2013/07/12

     アルル「サン・トロフィーム教会」・・・・・・・・・・・・木村草弥

サン=トロフィーム教会 (Cathédrale Saint-Trophime d'Arles)は、南フランスの都市アルルに存在するロマネスク様式の教会堂。
教会そのものもさることながら、美しい彫刻が刻まれた柱の並ぶ回廊も高く評価されており、「アルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物群」の一つとして世界遺産に登録されている。

もともとはこの教会の敷地に存在していたのは、聖ステファノ(サン=テチエンヌ)に献堂されたバシリカ式教会堂であった。
11世紀から、当時アリスカンに眠っていた聖トロフィムス(3世紀のアルルの聖人)の聖遺物(遺体)を、この教会に安置しなおそうという動きが持ち上がり、ロマネスク様式の現在の教会堂の原型が形成された。そして、1152年に聖トロフィムスの聖遺物が移されると、彼にちなんで「サン=トロフィーム大聖堂」となった。
15世紀にはゴシック様式の内陣が加えられた。
かつてこの教会は大聖堂(司教座聖堂)であったが、1801年に小教区教会に格下げされた。
この司教座教会はサンティアゴ・デ・コンポステーラへの4つの巡礼路の始点の一つにあたる。
この巡礼路は、現在のこの教会がつくられた11世紀頃からローマ(カトリック)教会が奨励したものであり、建物の建て直しと関連があるものと推察される。

この教会堂は、古代ローマ建築との共通性が特徴とされている。
確かに、アーキトレーヴ(開口部の回りに付けられる装飾用の枠組み)を埋める浮彫りとそれを支える円柱、その中に立つ彫像の組み合わせも古代ローマ神殿を思わせる。
特に見どころとされているのは、西正面(ファサード)と回廊である。

800px-Arles_St_Trophime_Kreuzgang_20040828-240サントロフィーム回廊
 ↑ 回廊

入り口のティンパヌムには、最後の審判をイメージした彫刻がある。
そこでは、イエスが中心に配され、マタイ、ルカ、マルコ、ヨハネらが黙示録の四つの獣に対応させられる形で描かれている。
またその周囲の壁面などにも、十二使徒、受胎告知、ステファノの石打ち等の聖書にゆかりのある諸情景、および諸聖人が刻まれている。
回廊の柱も様々な美しい彫刻に彩られている。ここには、イエスの生涯などのほか、地元プロヴァンスにゆかりのある聖トロフィムスや怪物タラスクなども描かれている。

この教会については → 「南仏ロマネスク訪問記」に詳しい写真などがある。アクセスされよ。(注・目下は見られない、ということである)
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ここで、先日来、「巡礼の旅」として書いてきたことだが、「プロヴァンス」という地名の由来について書いておきたい。
この「プロヴァンス」という名前は、古代ローマでの「属州」(プロヴィンキア)という普通名詞に由来する。
しかも、この地方は五世紀の蛮族侵入のあともローマに最後まで忠実であった「ゴール」の州だからである。そして、その中心がアルルであった。
後年、ローマ教皇庁がローマに居られなくなったときに、かなりの期間、ここアルルはアヴィニョンにローマ教皇庁が置かれたのも、そういう理由によるのである。
ここではローマの古代都市の俤が、闘技場、劇場、広場(フォラム)などに、もっとも典型として残っており、社会教育制度も八世紀までローマ風に維持されていたのである。
アルルは当時ローヌ川を遡ってくる港であり、地中海の貿易が盛んであったから、古代文明は衰退したとはいえ、それは人々の心性に残り、
それが一般民家や教会、修道院建築にまで大きな影響を及ぼした。その一つが、ここに採り上げたアルルのサン・トロフィーム教会なのである。
ここはギリシア出身のペテロの弟子で、46年、当地、プロヴァンス地方に布教した聖トロフィームを祀ったところであり、
一時は「司教座教会」としてプロヴァンス地方に重きをなしていたのもその故である。
詳しくは、リンクに貼ってある「南仏ロマネスク訪問記」を参照されたい。見事な写真や記事が見られる。(注・目下は見られない、ということである)

ここで、蛇足かも知れないが「カテドラル」という呼称の教会のことについて書いておく。
これはカトリックに限ることだが、「カテドラル」=「司教座教会」に限って呼ばれるのであって、建物の大きさとは関係がないから念のため。
よくガイドなんかも、でたらめな説明をする人が居るが、これは厳密な約束事であるから、よく覚えておいてもらいたい。
その地域を管轄する「司教」さんが駐在する教会ということである。


梅雨空へ天道虫が七ほしの背中を割りて翔びたつ朝・・・・・木村草弥
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    梅雨空へ天道虫が七ほしの
       背中を割りて翔びたつ朝(あした)・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、制作時期は、もう20年以上も前になるが、大阪、京都、奈良の30数人が出席した合同歌会が、奈良の談山神社で開かれたときの出詠歌で、
出席者の大半の票を獲得した、思い出ふかい歌である。
自選50首にも選んでいるので、Web上でも、ご覧いただける。

この談山神社は藤原鎌足を祀るが、蘇我氏の横暴を抑えようと、中大兄皇子と鎌足が蹴鞠をしながら談合したという故事のある所である。
ここに務める神官で、かつ歌人でもある二人の友人がいるところでもある。

「テントウムシ」には、益虫と害虫の二種類があって、この「ナナホシテントウムシ」は作物にたかるアブラムシなどを食べてくれる「益虫」である。
朱色の背中に黒い●が7個あることから、この名前になっている。
テントウムシには、ほかに「二星」などの種類があるが、これらはすべて「害虫」とされている。
つまり、作物の汁を吸ったり、食害を与えたりする、ということである。

今日、農業の世界でも農薬、除草剤などの薬害の影響が叫ばれ、できるだけ農薬を使用しないように、ということになっている。
こういう化学合成による農薬ではなく、この「七ほし天道虫」のように「天敵」を利用するとか、害虫の習性を利用して、
雌雄の引きあうホルモン(フェロモン)を突き止めて、それを発散する簡単な器具を作り、雄を誘引して一網打尽に捕える、などが実用化されている。

ここで歌集に載せた一連の歌を引いておきたい。

     天道虫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   菖蒲湯の一たば抱けばああ若き男のにほひ放つならずや

   梅雨空へ天道虫が七ほしの背中を割りて翔びたつ朝(あした)

   濡るるほど濃き緑陰にたたずめば風さわさわと松の芯にほふ

   夏草の被さる小川は目に見えず水音ばかり韻(ひび)かせゐたり

   散るよりは咲くをひそかに沙羅の木は一期の夢に昏るる寺庭

   野良びとが家路を辿る夕まぐれ野の刻しんとみどりに昏るる

   土鈴ふる響きおもはせ驟雨きて梅雨あけ近しと知らすこのごろ

   茄子の花うす紫に咲きいでて農夫の肌にひかりあふ夕

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談山神社に関していうと、私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に、次のような歌がある。

   談山の社に佇てば鞠を蹴る音のまぼろし「蘇我氏を討たむ」・・・・・・・・・木村草弥

この歌は、もちろん上に書いた鎌足と中大兄皇子の故事に因むものである。

天道虫は童謡にも登場する虫で、どこか人なつっこいところがある。
俳句にも、よく詠まれているので、それを引いて終わる。

 のぼりゆく草細りゆく天道虫・・・・・・・・・中村草田男

 旅づかれ天道虫の手にとまる・・・・・・・・阿波野青畝

 ほぐるる芽てんたう虫の朱をとどむ・・・・・・・・篠田悌二郎

 翅わつててんたう虫の飛びいづる・・・・・・・・高野素十

 天道虫だましの中の天道虫・・・・・・・・高野素十

 老松の下に天道虫と在り・・・・・・・・川端茅舎

 天道虫天の密書を翅裏に・・・・・・・・三橋鷹女

 てんと虫一兵われの死なざりし・・・・・・・・安住敦

 愛しきれぬ間に天道虫掌より翔つ・・・・・・・・加倉井秋を

 砂こぼし砂こぼし天道虫生る・・・・・・・・小林恵子

 天道虫羽をひらけばすでに無し・・・・・・・・立木いち子

 天道虫バイブルに来て珠となりぬ・・・・・・・・酒井鱒吉

 天道虫玻璃を登れり裏より見る・・・・・・・・津村貝刀


荒梅雨のその荒星が祭らるる・・・・相生垣瓜人
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    荒梅雨のその荒星が祭らるる・・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人

七夕(たなばた、しちせき)は、日本、台湾、中国、韓国、ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。五節句の一つにも数えられる。
旧暦の7月7日の夜のことであるが、日本では明治改暦以降、お盆が7月か8月に分かれるように、7月7日又は月遅れの8月7日に分かれて七夕祭りが行われる。
しかし今では、おおよそ新暦で行われることが多い。 だから掲出句のような詠み方がなされる。
新暦では、まだ梅雨の末期であり、大雨が降ることが多いからである。
しかし歳時記では「七夕」は「秋」の季語であるから注意が必要である。

古句には

   秋来ぬと妻恋ふ星や鹿の革・・・・・・・・芭蕉

   彦星やげにも今夜は七ひかり・・・・・・・・西鶴

   うき草のうかれありくや女七夕・・・・・・・・才麿

   かささぎやけふ久かたのあまの川・・・・・・・・守武

   七夕や野にもねがひの糸すすき・・・・・・・・一茶

などがある。

古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や「棚幡」と表記した。
これは、そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。
元来、中国での行事であったものが奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた言葉である。

そのほか今では、「牽牛織女の二星」の物語として行事が行われる。
もともとは、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある。

起源としては、日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆)に、中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)や佛教の盂蘭盆会(お盆)などが習合したものと考えられている。そもそも七夕は棚幡とも書いたが、現在でもお盆行事の一部でもあり、笹は精霊(祖先の霊)が宿る依代である。

七夕を特別な日とすることがいつから起こったかは定かではない。
この日の行事について書かれた最も古い文献は後漢時代の崔寔が書いた『四民月令』に書物を虫干しにしたことが記されているが、七夕の風俗を記したものとしては東晋時代の作と考えられる『西京雑記』に「漢彩女常以七月七日穿七孔針于襟褸、人倶習之」と記録されたものが初見である。

織女と牽牛の伝説は『文選』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出とされているが、まだ7月7日との関わりは明らかではない。
その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。
また六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている。

日本語「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。また、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。

日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲の節会)、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた。その後平城天皇が7月7日に亡くなると、826年(天長3年)相撲御覧が別の日に移され、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった。

乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは『荊楚歳時記』に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた。二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。

沖縄では、旧暦で行われ、盂蘭盆会の一環として位置づけられている。墓を掃除し、先祖に盂蘭盆会が近付いたことを報告する。また往時は洗骨をこの日に行った。

来歴にこだわり過ぎたので、七夕などを詠んだ句を引いて終る。

 月蝕の話などして星の妻・・・・・・・・正岡子規 

 七夕の女竹を伐るや裏の藪・・・・・・・・夏目漱石

 秘めごとのなき歳となり星祭る・・・・・・・・阿部みどり女

 七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ・・・・・・・・橋本多佳子

 七夕の竹となれずにやぶにゐる・・・・・・・・辻田克己

 シャガールの空翔ぶ二人星祭・・・・・・・・土肥典子

 大涛のとどろと星の契りかな・・・・・・・・飯田蛇笏

 星合の波の音する新羅の壺・・・・・・・・飯島晴子

 昧爽(まいさう)といふべき星の別れかな・・・・・・・・山田みずえ

 星合の雨の函館泊りかな・・・・・・・・富田郁子

 彦星を恋ふに憚りなかりけり・・・・・・・・渡辺恭子

 婚約やひときは光る織女星・・・・・・・・佐々木かつの

 七夕や大和をみなの翔ぶ宇宙・・・・・・・・荻田いさほ





蛸飯とコロッケで済ます昼ごはん乾電池が梅雨の湿気を帯びる・・・・・木村草弥
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8100107_01L乾電池

      蛸飯とコロッケで済ます昼ごはん
           乾電池が梅雨の湿気を帯びる・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の最新刊の第六歌集『無冠の馬』(KADOKAWA刊)に載せたものである。
梅雨入りした今の時期の歌として出しておく。
この一連は「湿気」という項目名で載せたもので、この歌の前に、こんな歌がある。

  軽薄な明るさをいつか蔑んだ張りついた汗が乾かない午後

  些細な嘘が限りなく増殖する午後ぶあつい湿気にどつぷり巻かれ
・・・・・・・木村草弥

今となっては、いつの制作かは、はっきりしないが、さぞ湿気が多い憂鬱な梅雨どきだったのだろう。
「蛸飯」は、自分で作ったものではなく、誰かの瀬戸内の旅のみやげにもらったものだろう。
瀬戸内では明石のタコが有名で、それを干して作った蛸飯が美味で、よく売られている。

    章魚食つて路通はその忌知れずなり・・・・・・・・安住敦

という句が歳時記に載っている。

今回、この歌集を進呈した人の引用歌に、これらの作品が引かれていることがあった。
<軽薄な明るさをいつか蔑んだ>という個所を指摘する人もあったし、<些細な嘘が限りなく増殖する>というところを批評してもらったのもあった。
歌集を出して、こういう風に、よく読みこんで手紙をもらう、のが一番うれしいし、参考になる。
それらについては批評欄に引いておいた。

今度の歌集では、考えるところがあって「あとがき」を書かなかった。
歌集は通常「あとがき」が付いていることが多いが、詩集などでは「あさがき」が無い場合がある。
私は、いつも「あとがき」で喋り過ぎる、きらいがあるので、今回は敢えて、書かなかった。
来信には、そのことに触れて、訝る人もあったが、私が意図的にしたことである。

以下、「梅雨」または「梅雨湿り」に因む句を引いて終わりたい。

  大梅雨の茫茫と沼らしきもの・・・・・・・・高野素十

  家一つ沈むばかりや梅雨の沼・・・・・・・・田村木国

  梅雨ふかし戦没の子や恋もせで・・・・・・・・及川貞

  梅雨の崖富者は高きに住めりけり・・・・・・・・西島麦南

  ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき・・・・・・・・桂信子

  梅雨霧を見てゐていつか包まるる・・・・・・・稲畑汀子

  梅雨の星齢といふも茫々と・・・・・・・・広瀬直人

  かく降りて男梅雨とはいさぎよし・・・・・・・・沢村芳翆

  梅雨の底打ちのめされてより力・・・・・・・・毛塚静枝


藤原光顕の歌「巫山戯てる場合やないで」10首・・・・木村草弥
たかまる_NEW

──藤原光顕の歌──(33)

     藤原光顕の歌「巫山戯てる場合やないで」10首・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・「たかまる通信」No.107 2017/07/01所載・・・・・・・

       巫山戯てる場合やないで      藤原光顕

  通訳不能の「忖度」 語彙豊かな日本のパソコンは一発で出る

  「忖度」の活字もめっきり見なくなってやっぱり萎縮するか新聞も

  これからはオレファーストでいけばいい どこもかしこもファースト流行り

  「おまえ何をぬかしとんねん!」うすら笑いの面へいっぺん言うてみたいな

  トランプとジョンウン、アベの三人が団結すれば・・・夢でよかった

  読まないでスルーする見出し そこから怖い時代が始まる

  雷の夜をエレベーターが上がったという句で逮捕された。 ホントの話だ

  反戦歌誌発送係Mさんを案じながら読む「共謀法」案

  歌人とか俳人は厳重注意せよ どうでもこじつけられる「結社」は

  株価動向に一喜一憂するのか地球滅亡の危機という日も 人間は
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お馴染みの光顕ぶし、であるが、最近の亡妻を詠んだ歌ではなく、痛烈な時局風刺である。 痛快である。
はじめに、見出しの題名の「巫山戯てる場合やないで」の「巫山戯てる」の部分は「ふざけてる」と訓(よ)む。
今どきの人では、これは読めないかと思うが、国語辞典にも載るレッキとした日本語である。
こういうところに藤原さんの教養がキラリと光っている。
この一連は太平洋戦争の頃に歌人や俳人たちが「治安維持法」で逮捕された歴史的事実を取り上げている。 不当逮捕や拷問などが横行して、善意の人たちが、ひどい仕打ちに遭った。
今の「共謀罪」が拡大適用されて、そんな被害に遭う危険性がある、ということである。
この一連は、「時宜を得た」作品であると申し上げておく。藤原さんの「気力」が戻ってきた、と言えるだろう。
藤原さん、有難うございました。 


シトー会修道院教会堂「プロヴァンスの三姉妹」・・・・木村草弥
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↑ セナンク修道院
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 ↑ ル・トロネ修道院
800px-Church_of_Silvacane_Abbeyシルヴァカンヌ修道院
 ↑ シルヴァカンヌ修道院

──巡礼の旅──(12)─再掲載・初出2013/07/08

    シトー会修道院教会堂「プロヴァンスの三姉妹」・・・・・・・・・・・木村草弥

アヴィニョンから東へ50キロほど行くとセナンク修道院に着く。
途中、別荘の多いなだらかな丘にのぼり、ゴルドの町を通る。まるでイタリアの丘の上の町のような印象だ。
春には曲がりくねった露地の向こうに杏の花が咲き、夏には修道院を前にしてラヴェンダーの畑が広がり、谷一帯が匂い、強いプロヴァンスの光によって溢れている。
まるで「幸福の谷」とでも呼びたいほどである。
14世紀、アヴィニョンに教皇庁が出来たとき、教皇ベネディクトゥス十二世がシトー修道会出身であったため、この修道院の保護は厚かったという。

プロヴァンスの三姉妹(Trois sœurs provençales)とは、フランス南部のプロヴァンス地方にある三つのシトー会修道院教会堂の呼び名である。

12世紀から13世紀初頭にかけてほぼ同時期 に建設された、マザン修道院の娘修道院としての二つの修道院、ル・トロネ修道院、セナンク修道院そしてシルヴァカンヌ修道院の三つをさしてプロヴァンスの三姉妹と呼ぶ。
この呼び名は一般的に、これら三つの修道院が「よく似ている」という説明として使用され 、賛辞としてのニュアンスも含まれる。

1098年、ロベール・ド・モレーヌがブルゴーニュのシトーに創建したシトー修道院は12世紀以降急速に発展し、ヨーロッパ各地に支院(支部のこと)が創建されてゆく。
この支院のことを娘修道院と呼ぶ。
800px-Mazan_l_Abbayeマザン修道院の廃墟
 ↑ マザン修道院の廃墟
1120年、ヴィヴァレ地方にマザン修道院が創建され、そのさらに娘修道院として「三姉妹」のル・トロネ修道院とセナンク修道院が創建されることになるが、
13世紀を頂点として、以降はヴァルド派の異端勢力やフランス革命の影響により衰退してゆくことになる。
シルヴァカンヌにいたっては革命後には農場になっているという有様であった。 再発見されるのは19世紀中ごろになってからのことである。
セナンクにはこの時期に一旦は修道士たちが戻ってきたが長続きはせず、現在のような現役の修道院となるのは20世紀に入ってからであった。

なお、2002年現在でも、母修道院であるマザン修道院だけは廃墟のままであり 、2013年現在で修道院として使用されているのはセナンク修道院だけである。
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↑ セナンク修道院 俯瞰
Abbaye-senanque-diableセナンク
↑ セナンク修道院内部

三姉妹という呼び名
最初にこれらの修道院に対して「三姉妹」という語が使われた時期は判明していないが、「研究対象として」最初に「三姉妹」の呼称を用いたのは再発見の時期、1852年である。
これは当時、ヴァール県の記念物監査官であったルイ・ロスタンがその報告書の中で使用した時が「三姉妹」の初出であり、
現在でも一般的に使用されるようにその外見の類似性に力点を置いた記述であった。
この呼び名であるが、観光ガイドや一般の解説書向けの「非専門家」用語として使われるケースが主であり、逆に現在の研究書や専門書ではあまり用いられないと指摘される。
まず「三姉妹」はそれぞれの大体の外見や寸法は確かに似ているものの、細部においてはむしろ差異のほうが多いからである。
とはいえ、シトー会修道院の建築には一定の様式的な統一性があることも確かである。
母修道院のマザン修道院からル・トロネ、セナンクに受けつがれた側廊の傾斜尖頭トンネルヴォールトなど 、 たしかに類似性・影響はある。
あくまでもこの「プロヴァンスの三姉妹」という呼び名は「学術分野ではあまり使われない」、ということである。

 → 「女一人旅」 というサイトに写真などがある。


怒涛もて満ち来る潮や夾竹桃・・・・岡田貞峰
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      怒涛もて満ち来る潮や夾竹桃・・・・・・・・・・・・・・・岡田貞峰

夾竹桃はインド原産という極めて強い、繁殖力旺盛で排気ガスなどにも強い木である。根や樹液に有毒な成分を含んでいるという。
インド原産というだけあって北国の寒いところには生育しないらしい。信州人に聞くと長野県には夾竹桃はない、という。

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改良されたのか色々の色があり、赤、白のほかにピンク色の種類もあるようである。
私の住む京都では、冬も常緑のミドリがあざやかな木である。
夾竹桃は花期の長いことでも、花の少ない真夏には重宝するのではないか。単調な高速道路などでは、夏の景観を賑わすものとして貴重である。

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三番目の写真は、夾竹桃の「実」というものである。
これは冬も加温する植物園のもので、私の家にも生垣に夾竹桃をたくさん植えていたが、こんな実は生ったことがない。
文字どおり熱帯的な環境ならば、実が生る、ということであろうか。

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四番目の写真は、その実が熟して「種子」が綿毛に包まれて、そよいでいるところ。もちろん植物園の環境下でのもの。

ここまでが夾竹桃の説明であり、本題の掲出した句に戻りたい。

掲出した岡田貞峰の句は、夾竹桃という極めて強い樹木と、怒涛という「荒い」現象とを対比させて非凡である。

以下、歳時記に載る夾竹桃の秀句を少し引く。

 画廊出て夾竹桃に磁榻(じたふ)濡る・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 夾竹桃荒れて台風圏なりけり・・・・・・・・・・山口誓子

 夾竹桃花なき墓を洗ひをり・・・・・・・・・・石田波郷

 白夾竹桃のたそがれながし予後の旅・・・・・・・・・・角川源義

 病人に夾竹桃の赤きこと・・・・・・・・・・高浜虚子

 夾竹桃戦車は青き油こぼす・・・・・・・・・・中村草田男

 夾竹桃しんかんたるに人をにくむ・・・・・・・・・・加藤楸邨

 しどけなく月下夾竹桃みだる・・・・・・・・・・篠田悌二郎

 火を焚くや夾竹桃の花の裏・・・・・・・・・・波多野爽波

 夾竹桃垣に潮の香があげて来る・・・・・・・・・・道部臥牛

 夾竹桃かかる真昼もひとうまる・・・・・・・・・・篠田悌二郎
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一番はじめの飯田蛇笏句の「磁榻」(じとう)とは磁器製の長椅子のことである。雨に濡れてもいいように、庭園などに置かれるのであろう。



絹糸腺からだのうちに満ちみちて夏蚕は己をくるむ糸はく・・・・・木村草弥
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    絹糸腺からだのうちに満ちみちて
       夏蚕(なつご)は己をくるむ糸はく・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

「養蚕」(ようさん)という蚕を桑の葉で育てる仕事は、最近では急速に廃れ、見られなくなった。
一応、説明しておくと、蚕蛾(かいこが)という虫の幼虫が吐く糸から「絹糸」が出来る。
この「蚕(かいこ)」には春蚕(はるご)と夏蚕(なつご)とがあり、春蚕は四月中、下旬に掃き立てをし、五月下旬か六月上旬に繭になる。
夏蚕は夏秋蚕のことで、二番蚕とも言い、飼う時期が暑いので成長も速く七月には上簇するが、量も多くなく、収量も品質も劣るという。

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写真②は蚕蛾の幼虫──俗に「蚕」と言う──の選り分け作業の様子。

写真③は蚕の口である。口は二つあり、下の小さな口が「吐き口」といって繭を作るとき糸を吐く口。上の大きな口には、アゴが一対あって桑の葉を噛み切る。
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蚕の幼虫の体は細長く13の体節からなり、体長は5齢盛食期で6、7センチ。頭部、胸部(第1~3節)、腹部(第4~13節)に分けられる。
蚕の雌は幼虫、蛹、蛾とも雄より大きい。
「上簇」(じょうぞく)というのは、いよいよ繭を作る段階に達した蚕を集めて繭を作るために専用の蚕簿に移す作業をいう。
蚕は四回眠り四回脱皮して、そのあと繭を作るが、その際、体が半透明になる。これが私の歌に詠んだ「絹糸腺」が肥大して体中に満たされるためである。
「蚕簿」というのは藁を加工して三角錐の空間が集合したようなもの。ここに蚕を移してゆく手間のかかる労働である。後は蚕が絹糸腺から糸を吐き「繭」を作る。
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この繭から絹糸を引き出すのだが、これは蚕が吐いた糸であるから、一つの繭から引き出した糸は一本である。
大きな釜に湯を沸かし、その中に繭を入れて中の蛹を茹で殺して糸を探り出して引き出す。
独特の臭気がして慣れないと不快なものである。
糸を取った後の蛹の死体は栄養豊富なので、ウナギの餌などに使われた。

繭をそのままに放置しておくと、繭の中の蛹が蚕蛾になり繭を溶かして孔を開けて出てくる。
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写真⑤が蚕蛾である。繭の中で蛹は十日で羽化する。だから養蚕というのは、繭が完成したら、すばやく熱湯にひたして羽化を阻止しなければならない。
日数の計算も厳密な作業であり、忙しい。
羽化した雌は腹に卵を一杯もっており、雄と交尾すると産卵し、雄雌ともにすぐに死んでしまう。
この交尾の際に雌が特有の「フェロモン」を出し雄を誘引するのである。
ものの本によると、これを感知すると雄は狂ったように全身を震わせて匂いの元に寄ってくるという。
だから実験として蚕の雌が居なくても、このフェロモンを放射すれば雄は群がるように寄ってきて交尾しようとするらしい。
養蚕用には優秀な蚕に黒い紙の上に生ませた「蚕卵紙」というのが養蚕試験場などから交付され、それを養蚕家は買って蚕の幼虫を孵化させて桑の葉に移す。
これを「掃き立て」という。

昔は桑の葉を摘んで蚕に与えていた。これを桑摘みという。
この労働を簡素化するために桑の枝を切ってきて与える、というのが戦後に開発され、今日では桑の葉を含むペレット状の粒剤を与えているようであるが、
それよりも中国などから安価な絹糸が入ってくるようになり、今では絹布にした加工品が中国で最終製品として作られるようになり、
日本国内の養蚕業は壊滅したと言える。養蚕器具は資料館でしか見られず、養蚕の様子も学習のためか、デモンストレーションとして行なわれるに過ぎない。
私の子供の頃は、近所でも養蚕や糸の引き出し作業などもやられていたし、繭の集荷に小学校の講堂が使われていたものである。

掲出の歌の前後に載る歌を引いて終わりたい。

くちびるを紫に染め桑の実を食みしも昔いま過疎の村・・・・・・・・・・木村草弥

よき繭を産する村でありしゆゑ桑摘まずなりて喬木猛る

桑実る恋のほめきの夜に似て上簇の蚕の透きとほりゆく

桑の実を食みしもむかし兄妹(きやうだい)はみんなちりぢり都会に沈む


この歌の一連は、もちろん創作であるから舞台設定や兄妹というのも、事実そのものではない。文学作品中における「虚構」ということである。

もともと蛾類は自然環境で「繭」を作ることが知られて(その中でサナギになるためである)、人間は、これに着目して幼虫を捕らえて飼い、繭を作らせることを考案した。
そして立派な繭を作らせるために品種改良を加えて、今日の養蚕業となったのである。
今でも「天蚕てんさん」「山繭やままゆ」といって、自然環境で作られた「繭」を採取して布にしたものがあるが、極めて希少価値の高いもので高価であり、めったに手には入らない。

「養蚕」については、このWikipediaの記事に詳しい。参照してみられたい。
また越智 伸二「カイコの一生」養蚕、お蚕さま、カイコの生態、形態には蚕の飼育全般について判りやすく詳しく書いてある。
過程ごとの詳しい写真があるので、よく判る。未知の方には、目からウロコである。



卓上日記いま真二つ半夏生・・・・鈴木栄子
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      卓上日記いま真二つ半夏生・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木栄子

今日7月2日は半夏生である。
半夏生(はんげしょう)は雑節の一つで、半夏(烏柄杓)という薬草が生えるころ(ハンゲショウ=カタシログサ)という草の葉が名前の通り半分白くなって化粧しているようになるころとも。

七十二候の一つ「半夏生」(はんげしょうず)から作られた暦日で、かつては夏至から数えて11日目としていたが、
現在では天球上の黄経100度の点を太陽が通過する日となっている。毎年7月2日頃にあたる。

農家にとっては大事な節目の日で、この日までに農作業を終え、この日から5日間は休みとする地方もある。
この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたりした。
また地方によってはハンゲという妖怪が徘徊するとされ、この時期に農作業を行う事に対する戒めともなっている。

関西ではこの日に蛸を、讃岐では饂飩を、福井県では大野市などで焼き鯖を食べる習慣がある。

この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)といい、大雨になることが多い。
この頃に咲く花を半夏生または半夏生草という。掲出した写真が、それである。
この花が咲くときに、花序に近い葉の数葉は下半部が白くなる。花穂は白い小さな花をたくさん付ける。
「片白草」とも呼ばれるが、この名前は開花の時期と、葉の様子を表している。
本格的に梅雨の時期に入って咲く印象的な草と花である。

以下、季節としての「半夏生」と、草としての「半夏生」(片白草)を詠んだ句を引く。

 汲まぬ井を娘のぞくな半夏生・・・・・・・・・・言水

 田から田へ水の伝言半夏生・・・・・・・・・・鈴木喜美子

 平凡な雨の一日半夏生・・・・・・・・・・宇多喜代子

 貝の砂噛んでむなしき半夏生・・・・・・・・・・羽田岳水

 笹山を虻と越えけり半夏生・・・・・・・・・・岡井省二

 半夏生点せば仔牛おどろきぬ・・・・・・・・・・宮田正和

 半夏生北は漁火あかりして・・・・・・・・・・千田一路

 塩入れて湯の立ち上がる半夏生・・・・・・・・・・正木ゆう子

 高原の風身に添へる半夏かな・・・・・・・・・・恩田秀子

 塔の空より半夏の雨の三粒ほど・・・・・・・・・・斉藤美規 

 生涯を素顔で通し半夏生・・・・・・・・・・出口善子

 朝の虹消えて一ト雨半夏生・・・・・・・・酒井黙禅

 夕虹に心洗はれ半夏生・・・・・・・・・・八島英子

 降りぬきし空のうつろや半夏生・・・・・・・・・・渡部杜羊子

 地球儀のどこが正面半夏生・・・・・・・・・・田中太津子

 木の揺れが魚に移れり半夏生・・・・・・・・・・大木あまり

 朝の戸に死者の音声半夏生・・・・・・・・・・山口都茂女

 水攻の野に咲くものに半夏生・・・・・・・・・・細川子生

 片白の何をたくらむ半夏生草・・・・・・・・・・松岡心実

 半夏生の白は化粧の白ならめ・・・・・・・・・・酒井土子

 一樹下にしののめ明り半夏生・・・・・・・・・・西坂三穂子






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